朝起きたら猫耳の美少女になっていたが、肉球が邪魔でスマホのロック解除すらできない 作:灯火011
翌朝。
俺は昨晩コンビニで買ってきたサラダチキン(ハーブ味)を優雅に食しながら、スマホでSNSをチェックしていた。
日課になりつつある「エゴサーチ」だ。
検索ワードは『コンビニ 猫耳』。画面をスクロールする俺の指(タッチペン)が、ピタリと止まる。
「……またかよ」
新しい動画が上がっていた。タイトルは『【速報】コンビニの妖精、再臨! 今度はサンダルで爆走www』。
再生してみる。夜のコンビニの前。サラリーマン(建設会社の高田部長)にお辞儀をした後、脱兎のごとく走り去る俺の姿が映っていた。撮影者は、たまたま駐車場にいた若者だろう。
『うっわ、はえー!』
『忍者かよ』
『足元見ろよ、あれ偽物のクロックスじゃね?』
『妖精なのにドンキで売ってそうなサンダル履いてるの推せる』
『生活感あって草』
コメント欄は「可愛い」と「面白い」で埋め尽くされているが、俺の心境は複雑だ。
偽物のクロックス言うな。現場監督としては、安全靴を履けないのが一番悔しいんだよ。
それにしても、こう何度も撮られるのはマズい。これ以上目立つと、特定班にアパートを突き止められる可能性がある。
「……しばらくコンビニは自重するか」
俺はサラダチキンを飲み込み、ため息をついた。食料とトイレットペーパーは確保した。当分は籠城できる。
その時。スマホのメール着信音が鳴った。『猫の手(nekonote.genba)』のアドレス宛だ。
差出人は、佐藤。件名は【至急】現場が止まりました、だ。
心臓が跳ねた。俺は瞬時に「コンビニの妖精」から「現場監督」へと頭を切り替える。さて、図面の齟齬か、無茶な構造屋や図面屋からの頭悪い修正か、それとも、上からの無茶ぶりか。さっそくメールを開く。
『お疲れ様です、佐藤です。妹さん、朝早くから申し訳ありません。緊急事態です。
塗装屋の源(げん)さんが、作業をボイコットしています。「色が気に入らねぇ」とか「湿気が多いから今日は塗らねぇ」とか言って、足場に登ろうとしません。工期的には今日塗らないと間に合いません。
犬飼先輩ならどうするか、聞いてもらえないでしょうか?』
俺は天を仰いだ。
――源さん。小林塗装のベテラン職人、源田(75歳)。腕は超一流だが、気分屋で頑固なのが玉に瑕(きず)。俺も新人の頃は何度も泣かされたが、最近はようやく酒を酌み交わして扱えるようになったいわいる、現場の「ラスボス」の一人だ。
「あいつ……俺がいないからって、佐藤相手に舐めた真似しやがって」
湿気だ?予報見てみりゃあ今日は湿度40%だぞ。塗装に絶好のコンディションだ。単に「若造の佐藤の指図で動きたくない」だけだろう。俺はタッチペンを握りしめ、返信を打ち込んだ。まずは「妹」として、冷静に。
『メールどうも。妹です。
兄貴に聞いたら、「あのジジイまたか」って笑ってた。とりあえず、自販機で「微糖の缶コーヒー」を買って渡せ。あと、「昔、東京タワーの塗装やった時の話を聞かせてください」っておだてろ。それで機嫌直すはずだって』
送信。源さんの攻略法その1。「微糖コーヒー」と「武勇伝」。あいつは糖尿病を気にして微糖しか飲まないし、東京タワーの現場にいたことが人生最大の自慢だ。これでイチコロのはずだ。
◆
30分後。
佐藤から返信が来た。
『妹さん、ありがとうございます。
指示通りにしましたが……ダメでした。コーヒーは飲んでくれたし、昔話もしてくれましたが、最後にこう言われました。「犬飼がいねぇ現場じゃ、気合が入らねぇな」「今日は帰るわ」……どうしましょう、本当に道具を片付け始めています』
カチン、と音がした。俺の頭の中で、何かが切れる音が。
―――気合が入らねぇ?帰る?
馬鹿がよ。ふざけるな。こっちは納期ギリギリで工程組んで、綿密に打ち合わせして、そして金まで出してるんだ。テメェが今日塗らなかったら、明日の設備取り付けも、明後日のクロス張りも、全部ズレ込むんだよ。
『俺がいないから?』甘えてんじゃえってんだよ。気持ちで仕事してんじゃねえ。プロなら金貰ってる分、きっちり仕事しろ。出来ねぇなら辞めちまえ。俺の目は血走っていたことだろう。もはや「不機嫌な妹」の演技など吹き飛んでいた。俺は獣のような勢いで、タッチペンを画面に叩きつけた。
『佐藤、スマホ持って源さんのとこ行け。で、このメールをそのまま読んで聞かせろ。
―――おい源さん!聞こえてんだぞコラ!「犬飼がいないと出来ない」だ?いつからそんな腑抜けた職人になったんだ?お前の腕は、監督におだてられないと動かねぇ安物か?違うだろ!
湿気がどうとか御託並べてんじゃねぇ!お前の調合なら、湿度90%でも鏡みたいに仕上げられるはずだろ!俺はな、お前の「三度塗りの美学」を信じて、この工程組んだんだよ!
佐藤はまだ半人前かもしれねぇが、俺の代わりにお前に頭下げてんだ。その若造の顔に泥塗って帰るなら、二度とウチの現場跨ぐな!
四の五の言わずにさっさと刷毛(はけ)握れ!
昼までに下塗り終わらせろ!
俺からは以上!仕事しろ!』
ッターン!送信ボタンを強打した。はぁ、はぁ、と荒い息を吐く。言ってやった。これくらい言わないと、あの頑固親父は動かないんだ。
◆
……数秒後。俺はハッと我に返った。
「…………あ」
やってしまった。今のメール、差出人は「妹」だ。設定も何もかも無視して、完全に「ブチ切れた現場監督の犬飼剛」そのものの口調で送ってしまった。一人称が「俺」になってたし、「コラ!」とか言っちゃった。
終わった。佐藤にドン引きされる。
「妹さん、情緒不安定すぎませんか?」
「もしかして元ヤンですか?」
と怪しまれる。いや、それどころか「これ、犬飼先輩本人が打ってますよね?」とバレる決定打になるかもしれない。
俺は頭を抱えて床を転げ回った。食い物の空き袋が宙を舞う。取り消せない。もう送信してしまった。
◆
長い長い1時間が過ぎた。俺は処刑を待つ囚人のような気分で、スマホの画面を見つめていた。
―――ついに、着信音が鳴った。
ビクリと肩(と猫耳)が跳ねる。佐藤からの返信だ。恐る恐るメールを開く。
『お疲れ様です、佐藤です。
……凄かったです。妹さんのメール、指示通り、源さんの前で読み上げました。僕、怖くて声が震えちゃいましたけど、最後まで読みました』
ごめん、佐藤。パワハラの片棒を担がせてごめん。
『読み終わったあと、源さん、しばらく黙ってたんですけど……急に「カッカッカ!」って大笑いし始めました。
「違いねぇ! 犬飼の野郎、病床からでも熱苦しい説教飛ばしてきやがる!」
「妹ちゃんによろしくな! 兄貴の言葉、確かに受け取ったぜ!」
そう言って、すごい勢いで足場に登っていきました。今、猛烈なスピードで塗装が進んでます。昼には下塗りが終わりそうです』
……通じた。そして、誤魔化せた。源さんは『兄貴の言葉を妹が代筆(あるいは伝言)した』と解釈してくれたらしい。佐藤も同様だ。
そして、メールには続きがあった。
『それにしても、妹さん。お兄さんの言葉とはいえ、あの長文の怒号を、一言一句正確に入力するのは大変でしたよね……。まるで、先輩が僕のスマホに憑依したみたいでした。
「お前の腕は安物か」ってところ、源さんの目が変わりました。先輩の熱意を、あそこまで再現して伝えてくれて、ありがとうございます。妹さんも、実は現場のことにお詳しいんですね。「三度塗りの美学」なんて言葉、僕も初めて聞きました』
俺は深く息を吐き出し、ソファに沈み込んだ。……危なかった。「憑依したみたい」というのは、ある意味正解だ。そして「妹さんも詳しいんですね」という一文に、かすかな違和感と、尊敬の念が混じっているのを感じる。
俺はタッチペンを手に取った。今度は慎重に、「妹」の皮を被り直す。
『メールどうも。妹です。
兄貴が横で怒鳴り散らすから、打つの大変だったわ。指疲れた。源さんが動いたならよかった。兄貴も安心していびきかいて寝てる』
送信。これでいい。なんとか乗り切った。
俺はテーブルに置かれたサラダチキンの残りをかじった。ネットでは「クロックスの妖精」として笑われ、現場では「口の悪い妹」として恐れられる。
「……ま、悪くねぇか」
現場は動いた。職人のプライドも守った。俺の仕事は、形を変えても、まだそこにある。
だが、俺はまだ知らなかった。この「猫の手(妹)」の存在が、現場の職人たちの間で『犬飼の代理人は、犬飼以上にドスの効いた極妻みたいな妹らしい』という噂となって広まりつつあることを。