朝起きたら猫耳の美少女になっていたが、肉球が邪魔でスマホのロック解除すらできない 作:灯火011
佐藤との「メール業務提携」が始まってから、数日が過ぎた。俺たちの連携は、奇妙なほどスムーズに回っていた。
朝8時、佐藤から「本日の工程と懸念事項」が送られてくる。
俺はそれをチェックし、注意点や指示を(不機嫌な妹のフリをして)返信する。日中も、何かトラブルがあれば即座に写真付きで相談が来る。
俺はそれに即レスする。
六畳一間のアパートに引きこもりながら、俺は完全に現場を掌握していた。体は猫耳美少女だが、頭脳は現場監督。この二重生活にも、少し慣れてきた気がする。
だが、俺には新たな「敵」が立ちはだかっていた。
それは、毛玉だ。
おそらく、猫の習性で、暇さえあれば手足を舐めてグルーミングをしてしまうのだ。そして、そのせいで胃の中に毛が溜まるらしい。
さっきから「ケフッ、ケフッ」とえずいているが、なかなか吐き出せない。人間としての理性と、猫としての生理現象の戦い。地味だが深刻な悩みだ。
■
そんな時、スマホが震えた。佐藤からのメールだ。時刻は14時。現場が一番忙しい時間帯だ。
また職人の揉め事か?
俺は毛玉を飲み下し、画面を見た。そこにあった件名を見て、全身の毛がブワッと逆立った。
件名:【緊急】鬼瓦部長が来ました
鬼瓦(おにがわら)。通称ではない、本名だ。鬼瓦 権造(おにがわら ごんぞう)。ウチの会社の工事部長であり、俺の直属の上司の一人だ。
名前はいかついが、中身はもっと厄介だ。「コスト削減」と「工期短縮」が口癖で、現場の苦労など一ミリも理解しようとしない、典型的な「数字しか見ない管理職」だ。俺はタッチペンを構える。こいつは毛玉どころではない。あいつが現場に来たということは、絶対にロクなことにならない。
『メールどうも。妹です。兄からの言葉を伝えます。あのハゲ(鬼瓦部長)、何しに来た?また「ヘルメットの紐が緩い」とか小言言いに来たのか?』
佐藤からの返信は、予想以上に深刻だった。
『小言レベルじゃないです……。工程の遅れを取り戻すために、「コンクリートの養生(ようじょう)期間を短縮しろ」と言い出しました。
来週打つ予定の2階床スラブについて、「中2日で型枠を外せ」と……。「今のコンクリは性能がいいから大丈夫だ」の一点張りで、僕が何を言っても聞いてくれません。
職人さんたちも「そんな無茶な」と怒っていますが、部長の命令なので逆らえなくて……』
俺の喉から、低い唸り声が漏れた。
中2日だと?
ふざけるな。今は冬だぞ。コンクリートというのは、打設してから固まるまで、型枠で支えてじっくりと強度を出さなきゃいけない。今の時期、平均気温は5度前後だ。コンクリートが固まるのは遅い。建築基準法やJASS5(建築工事標準仕様書)では、強度がしっかり出るまで型枠を外してはいけないと厳密に決まっている。
安全を見るなら、最低でも中5日、いや1週間は置きたいところだ。
それを中2日で外す?強度が足りずにひび割れだらけになるどころか、最悪の場合、上の階の重さに耐えきれずに床が抜けるぞ。大事故になる。
「……あの現場は素人なあほ部長が。コストとスケジュールのことしか頭にねぇのか」
俺がいれば、「責任取れんのかコラ!」と胸ぐらを掴んででも止める案件だ。だが、今の佐藤には、部長に楯突く度胸も、論破する知識もない。このままでは、現場が「欠陥建築」を作ることになる。それだけは、現場監督のプライドにかけて許せない。
俺はタッチペンを握りしめた。佐藤、武器をやる。あの分からず屋を黙らせる、最強の理論武装だ。
『佐藤、落ち着いて聞け。今から送る文章を、そのまま部長に読み上げろ。一言一句間違えるなよ。あと、事務所の棚にある「黄色い厚い本(JASS5)」を持ってこい』
俺は記憶の引き出しを全開にした。俺の頭の中には、建築基準法、JASS5、国交省の標準仕様書、すべて叩き込んである。現場監督の武器は、腕力じゃない。法律と知識だ。俺は猛スピードでフリック入力(タッチペン)を開始した。
『準備はいいか?行くぞ。
部長、お言葉ですがそれは出来ません。
建築基準法施工令第74条及びJASS5第6節に基づき、型枠の存置期間は「圧縮強度が5ニュートン以上」得られるまで、と定められています。現在の平均気温5度において、早強コンクリートを使用したとしても、中2日で5ニュートンが出るというデータはありません。
もし強行するなら、「部長の業務命令書」として書面でください。後々、ひび割れやたわみが発生した際、その書面を持って監理者(設計事務所)と施主様、そして役所に報告させていただきます。現場監督として、会社の信用に関わる「違法建築」に加担することはできません。
……以上だ。
最後の「書面でくれ」がポイントだ。あのハゲは自分の出世に傷がつくのを一番恐れてるから、責任を文書化しろと言えば絶対に引く。ビビらず言ってやれ!』
送信。………頼むぞ、佐藤。お前は俺の部下だ。正しいことを言うのに遠慮はいらない。
■
―――20分後。
俺は祈るような気持ちでスマホを見つめていた。佐藤は言えただろうか。部長の怒鳴り声に萎縮して、「はい」と言ってしまっていないだろうか。アパートの時計の針が進む音が、やけに大きく聞こえる。
メールの着信音がした。さっそく開けば、佐藤からだ。
『お疲れ様です……。勝ちました。部長、帰りました』
俺はガッツポーズをした(猫の手で)。
「よっしゃあ!やるじゃにゃーか佐藤!」
『指示通り、JASS5のページを開いて、あの文章を読み上げました。部長、最初は「生意気言うな!誰に向かって口きいてんだ!」って顔を真っ赤にしてましたけど……「書面でください」「役所に報告します」と言った瞬間、顔色がサァーッと青くなりました。
「……ちっ、分かったよ。好きにしろ!その代わり工期が遅れたら承知しねぇぞ!」
って、捨て台詞を吐いて、車で出て行きました。職人さんたちが後ろで「よく言った!」って拍手してくれました。僕、足が震えて立ってるのがやっとでしたけど……なんとか、現場を守れました』
よくやった。お前がハゲ相手にそこまで言えたなら、立派な一人前だ。俺が戻れなくても、佐藤がいれば現場は回るかもしれない。少し寂しいような、誇らしいような気分だ。
だが、メールには続きがあった。俺の心臓を冷やす一文が。
『でも、部長が去り際にこう言っていました。
「今の言い草、まるで犬飼そのままだな。あいつが入れ知恵したのか?」
……妹さん。実は僕も、読み上げながら思っていました。基準法の条文とか、JASS5のページ数とか……どうして妹さんがそんなに詳しいんですか?お兄さんが口頭で伝えたとしても、あんなに長い条文、素人の方が正確に打てるとは思えません。専門用語の変換ミスも一つもありませんでした。
もしかして、妹さんも建築関係のお仕事をされていたりするんですか?』
……鋭い。
そりゃそうだが。
「圧縮強度が5ニュートン」なんて単語、普通に生きてたら一生使わない。しかも条文番号まで正確に暗記しているとなれば、もはや「代筆」の域を超えている。佐藤の中で、「妹=ただの伝書鳩ではない」という疑惑が、確信に変わりつつある。
俺は冷や汗をかきながら、言い訳を考えた。どうする?「私は建築学科の学生だ」とか言うか?いや、それだと将来的にボロが出る。学生証を見せろと言われたら終わりだ。ここは、あくまで「兄の影響」という一点張りで押し通すしかない。
『メールどうも。
兄貴の部屋には建築の本ばっかりあるから。暇つぶしに読んでたら覚えちゃったのよ。兄貴も「妹に英才教育した甲斐があった」って笑ってるわ』
送信。
正直苦しい。かなり苦しい。「暇つぶしに建築基準法を読んで暗記する妹」なんて、どんな変人だ。六法全書を趣味で読む女子高生みたいなもんだぞ。
■
数分後、佐藤から返信が来た。
『そうなんですか!すごいですね……。さすが犬飼先輩の妹さんだ。才能があるんですね。もしよかったら、今度僕にも勉強教えてください。
……あ、それと。部長への反論、本当に助かりました。妹さんがいなかったら、僕は今日、取り返しのつかないミスをするところでした。ありがとうございます』
文面は穏やかだ。佐藤は「そういうことにしておきます」と飲み込んでくれたようだ。
だが、俺は感じていた。佐藤の心の中に「この妹さん、本当に『妹』なのか?」という小さな種が芽生え始めていることを。
俺はスマホを置いた。現場は守れた。だが、正体バレの包囲網は、確実に狭まっている。
「……ま、バレたらバレた時だ」
俺は開き直って、再び毛玉と戦うために喉を鳴らした。ケフッ、ケフッ。まずはこの毛玉を吐き出さないと、部長より先に俺が死ぬ。