朝起きたら猫耳の美少女になっていたが、肉球が邪魔でスマホのロック解除すらできない 作:灯火011
翌朝。運命の日は、不気味なほど静かに始まった。
いつもなら8時きっかりに届くはずの、佐藤からの「朝の現場報告メール」が来ない。9時になっても、10時になっても、スマホは沈黙したままだ。
「……マズいな」
俺はアパートの壁――昨日、自らの爪で破壊してしまった石膏ボード――を見つめながら、冷や汗を流していた。穴は塞がっていない。とりあえずポスター(昔買った競馬のカレンダー)を貼って隠してあるが、めくればそこには「猛獣が暴れたような痕跡」が口を開けている。
佐藤は昨日のあの音を聞いて、確信したはずだ。この部屋で、尋常ではないトラブルが起きていると。「背中をかいた音」なんていう苦しい言い訳を、あいつが信じるわけがない。
連絡がないということは、佐藤は今、現場で仕事をしているのではない。「行動」を起こそうとしているのだ。
逃げるか?
ベランダから飛び降りて、一時的に身を隠すか?いや、冷静になれ。それはどう考えても悪手だ。
もし佐藤が部屋に入ってきて、誰もいなかったら?あいつは間違いなく警察に通報し、「失踪事件」として捜索願を出すだろう。そうなれば、俺(猫耳美少女)は指名手配犯だ。社会的に詰む。
「……この部屋でなんとか迎撃するしかねぇ」
俺は覚悟を決めた。部屋に鍵はかけた。ドアチェーンもかけた。もし佐藤が来ても、チェーン越しに対応し、「兄貴は救急車で運ばれた」とでも嘘をついて追い返す。
それしかない。
俺はパーカーのフードを深く被り直し、マスクを二重にした。戦闘準備完了。かかってこい、佐藤。俺の口八丁で煙に巻いてやる。
■
正午過ぎ。その時は来た。
ピンポーン、ピンポーン、ピンポーン!
チャイムの連打。遠慮も礼儀もない、焦燥感に満ちた連打音。
佐藤が、来た。
俺は忍び足で玄関へ向かった。モニターを見るまでもない。ドアの向こうから、荒い息遣いが聞こえる。
「犬飼さん! 佐藤です! 開けてください!」
ドンドン!
ドアを叩く音が部屋に響き渡る。……ってかこれ、多分、アパート中に響いてるな。俺は深呼吸をし、喉を調整して「不機嫌な妹」の声を作った。
「……うるさいわね。何なのよ」
俺はドアを開けず、中から声をかけた。
『妹さん!隠さないでください!さっき会社から指示が出ました!鬼瓦部長が「犬飼のやつ、診断書はどうしたんだ! 孤独死してんじゃねぇだろうな、見てこい!」って!』
……しまった。そういえば初日に電話した時、部長に「あとで診断書を持ってこい」と言われていたんだった。「猫になっちゃいました」なんて診断書を書いてくれる医者がいるわけもなく、完全に放置していたツケが回ってきた。
「あー……兄貴、まだ動けなくて病院行けてないのよ。診断書はあとで郵送するから……」
『そんなの言い訳になりません!』
佐藤が叫んだ。その声には、悲痛な響きがあった。
『昨日のあの音、どう考えても普通じゃなかった!それに、近所の人にも聞きました。ここ数日、犬飼先輩の姿を見た人は一人もいない。出入りしてるのは、フードを被った小柄な女性だけだって!妹さん、あなたが何者か知りませんが……先輩に何をしたんですか!?』
バレバレだ。外堀は完全に埋められている。俺は焦った。
「だ、だから!兄貴は寝てるの!帰って!」
『帰りません!生存確認をするまでは動きません!警察も呼びました!もうすぐ来ます!』
「はぁ!?」
警察を呼んだだと!?バカ野郎、普段仕事遅ぇくせにこんな時だけ仕事が早すぎるんだよ!パトカーが来たら終わりだ。この部屋を捜索されたら、俺の正体不明さが露呈する。
『警察が来る前に、僕が確認します。先輩が無事なら、それでいいんです。開けてください!』
「開けないって言ってるでしょ!」
『……なら、強行します』
チャリッ
金属音。鍵だ。佐藤が合鍵を持っていたことを、この土壇場で思い出した。
ガチャリ。鍵が回る音。ノブが回される。
ガツッ!
ドアが開いたが、チェーンが食い止めた。数センチの隙間から、佐藤の血走った目が見えた。
『チェーン……!外してください!』
「やだ!変態!帰れ!」
俺は必死にドアを押し返そうとした。だが、今の俺は非力な美少女(中身はおっさんだが、体重と筋力が激減している)。対する佐藤は、現場で鍛えられた20代の男。力比べで勝てるわけがない。
『すみません……先輩を助けるためなんです!』
佐藤が全体重をかけてドアに体当たりしてきた。
バンッ!バキッ!
古いアパートの貧弱なドアチェーンのビスが、悲鳴を上げて弾け飛んだ。昭和の建具が、令和の若者の情熱に負けた瞬間だった。
「うわっ!?」
俺は弾き飛ばされ、玄関のタタキに尻餅をついた。ベランダ用のクロックス(偽)が片方脱げて転がる。
ドアが全開になった。
逆光を背に、佐藤が肩で息をしながら立っている。その手には、護身用なのか、現場用のパイプレンチが握られていた。
「せ、先輩ッ!!」
佐藤が叫んで踏み込んできた。そして、その場の光景を見て、凍りついた。
そこには、倒れている俺(犬飼)はいなかった。代わりに、玄関でへたり込んでいる、パーカー姿の少女。衝撃でフードが外れ、猫耳が露わになっている。マスクもずり落ち、整いすぎた美少女の素顔が晒されていた。
佐藤の目が点になる。パイプレンチが手から滑り落ち、カランと音を立てた。
「…………え?」
時が止まった。俺は震える手で、頭の上の猫耳を隠そうとしたが、もう遅い。耳が恐怖でペタンと伏せているのが、丸見えだ。
「……あ、あの……」
佐藤が震える声で言った。視線が、俺の顔と、脱げたクロックスと、部屋の奥を彷徨う。
「だ、誰……ですか?い、妹さん……ですよね?その耳……カチューシャ……?」
混乱している。当然だ。上司の部屋に強行突入したら、コスプレ美少女がいたのだから。俺は覚悟を決めた。もう、誤魔化せない。ここで「妹です」と言っても、「じゃあ兄貴はどこだ」と部屋を探され、不在がバレて終わる。
俺はゆっくりと立ち上がった。俺は、明らかに小さい。175センチの佐藤を見上げる形になる。俺は、できるだけ威厳のある声(ただしハスキーボイス)で言った。
「……佐藤。大きな声を出すな。近所迷惑だ」
佐藤がビクリとした。―――その口調。その間の取り方。聞き覚えがありすぎるからだ。
「え……?」
「チェーン壊しやがって。敷金から引かれるだろうが」
「……は?え、いや、あの」
佐藤が後ずさる。目の前の美少女が、あの上司と同じ口調で説教を始めていることに、脳の処理が追いついていない。
「お前、部長への報告はどうした。俺が診断書出さねぇからって、いきなり殴り込みか?『とりあえず様子見てきます』くらいで誤魔化せなかったのか?」
「い、いや、そんな……というか、あなた、誰ですか!?犬飼先輩はどうしたんですか!隠してるんでしょ!」
佐藤が我に返り、俺の肩を掴んだ。強い力だ。痛い。
「どこにやった!先輩を返せ!」
「いーててて!離せバカ!俺だよ!」
俺は佐藤の手を振り払った。そして、真っ直ぐに部下の目を見て言った。
「俺が、犬飼剛だ」
沈黙。
アパートの廊下を吹き抜ける風の音だけが聞こえる。
佐藤は、俺の顔をまじまじと見つめた。そして、顔を真っ赤にして叫んだ。
「ふざけないでくださいッ!!」
うーん、実にごもっとも。
「どんな悪質な冗談ですか!あなたが先輩なわけないでしょ!そんな……そんな小さくて、可愛くて、猫耳生やした女の子が、あの中年太りの先輩なわけがない!」
中年太り言うな。だが、佐藤の正論パンチが痛い。
「先輩をどこにやったんですか!殺したんですか!? 埋めたんですか!?正直に言わないと、僕、本当に警察に……!」
佐藤がスマホを取り出し、110番の通話ボタンを押そうとする。本気だ。こいつは本気で俺を「殺人犯」だと思っている。止めなきゃならない。言葉じゃ信じないなら、「俺しか知らない事実」を突きつけるしかない。
俺は叫んだ。
「待て!警察は呼ぶな!証拠ならある!」
「証拠!?」
「お前、先週の飲み会で、事務の高橋さんのことが好きだって泣き上戸になってただろ!」
ピタリ。佐藤の指が止まった。
「……は?」
「あと、お前のパソコンのパスワード!『satoken0515』だろ!誕生日は5月15日!セキュリティ意識が低すぎるって、俺が先月説教したよな!」
佐藤の顔から血の気が引いていく。
「な、なんでそれを……」
「まだあるぞ!お前が一番ビビってる、現場の失敗!去年の12月、3階の配筋検査の時、鉄筋の本数を間違えて発注して、俺がこっそり他の現場から融通して揉み消した件!―――あれ、まだ部長には報告してねぇよな?」
佐藤がガタガタと震え出した。その秘密を知っているのは、この世で二人だけ。佐藤本人と、尻拭いをした上司の犬飼剛だけだ。
「……嘘だ」
佐藤がへなへなと膝から崩れ落ちた。パイプレンチを見下ろしながら、信じられないものを見る目で俺を見る。
「じゃあ……本当に……?本当に、あなたが犬飼先輩なんですか……?」
俺はため息をつき、ずり落ちた猫耳フードを被り直した。そして、いつものようにポケットに手を突っ込み(萌え袖だが)、不機嫌そうに言い放った。
「だから言っただろ。朝起きたらこうなってたんだよ。……信じられねぇなら、今から図面チェックしてやろうか?そこの壁の穴の補修方法でもレクチャーしてやるよ」
俺は壁のポスターを剥がした。そこに残る、無惨な爪痕。それを見た佐藤は、もはや恐怖よりも、理解を超えた現実に白目を剥きそうになっていた。
遠くで、パトカーのサイレンの音が聞こえた。俺と佐藤は顔を見合わせた。
「……佐藤、パトカー呼んだっつったなお前」
「……はい、その、心配だったので……」
「とりあえず、入れ。鍵閉めろ。警察が来たら『誤報です』って言え」
「……はい」
こうして、俺の孤独な籠城生活は終わった。そして、もっと騒がしい、「部下との秘密の共同生活」が幕を開けようとしていた。