外のお話
レトクリSSです

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第1話

私は目を覚まし、寝台から身を起こした。

窓の外はまだ暗い。夜明け前の色が、部屋の中へ静かに滲んでいた。薄明かりの中、壁の時計に目をやる。針は午前四時を指している。

 

目が完全に冴えてしまった。

 

『はあ……』

 

立ち上がり、寝台に掛けていた上着を取って羽織る。布が肩に落ち、肌の熱が奪われるみたいに冷たさが残った。

 

ドアノブに手をかけ、扉を静かに開けた。

 

『……あら』

 

扉の向こうで、ノブへ手を伸ばしかけたクリスが立っている。指先が止まり、こちらを見る。

 

『どうした』

 

『……なかなか、寝付けなくて』

 

私は小さく息を吐き、そのまま確かめるように続けた。

 

『それで、私の部屋へ来ていたのか』

 

『ええ。少しだけ、あなたの顔が見たくて』

 

『……そうか』

 

『怒らないの?』

 

『迷惑ではない。表へ出るぞ』

 

私たちは鍵を手に取り、職員通路を抜けて外へ出た。

 

途端に潮の匂いと波の音が押し寄せる。冷えた空気が頬を撫で、喉の奥がきゅっと縮こまった。吐いた息は白まず、代わりに胸の内側だけが妙に固い。

 

六月だというのに、夜気はひやりとしている。

 

そのまましばらく歩き、駐車場の手前にある下り階段の前で立ち止まる。

私は金網の施錠を外し、クリスもすぐ後ろから階段へ足をかけた。

 

一段降りるごとに、潮の匂いも波の音も濃くなる。段の端には砂が溜まり、靴底にざらりと触れた。

 

 

私たちは岩と崖に囲まれた狭い砂浜へ降りる。

私は上着を脱ぎ、すぐそばの湿った岩の上へ広げた。

 

クリスの手を引き、その上へ座るよう促す。

 

『ここへ来るのも、もう何度目か分からないわね』

 

クリスが腰を下ろしながら言った。

 

『そうだな』

 

私も続けて、彼女の横へ並ぶように腰を降ろす。

 

『……何度来ても、緊張してしまうわ』

 

『大袈裟だな、お前は』

 

胸の動きを隠すように、私は息を落として笑った。

 

湿った岩に広げた上着の端を指先で少し引き寄せる。布の擦れる音はすぐに闇へ溶け、潮の匂いだけが鼻の奥に残った。隣に座るクリスの体温は近い。それでも夜気がその間に入り込み、肌が触れない距離だけを際立たせる。

 

彼女は海の方を見ている。暗い水面はまだ色を決めきれず、波だけが規則正しく砂を撫でていた。私は同じ方向へ視線を置いたまま、呼吸を整える。

 

『……あなたがここへ戻ってきてくれて。わたくしは、やり直しができている気分なの』

 

吐息に近い柔らかさで言葉が落ちる。言い切ったあと、彼女の肩が小さく上下した。

 

『失ったものは、時間だけではなかったけれど』

 

その一言で喉の奥が乾く。私は口を開きかけ、唇を閉じる。砕けた波の音が、そこへ滑り込んだ。

 

『……それでも、お前がここにいる。今は、それだけでいい』

 

声は低く、短い。最後を強く切らないよう、息をわずかに落とす。私は海を見続け、瞬きを遅らせた。

 

『うふふ。嬉しいわ』

 

小さな笑いが混じる。消え入りそうなほど静かで、喉がかすかに震えた。

 

彼女は膝の上で指を組み直す。ほどけて、また絡む。そのたび白い指先が夜気にさらされ、色を失っていく。

 

『でも、あんまりそう言われてしまうと。あなたがわたくしを求めていると、そう思いたくなってしまうの』

 

言葉が区切れるたび、視線が海へ逃げる。それでも身体は、私から離れようとしない。胸の奥が締まり、息が浅くなる。

 

『……わたくしも、あなたと同じなの』

 

声はさっきより低い。言い終えたあと、唇が小さく結ばれた。

 

『あなたを縛り付けたくない。お互いに、こうして自由になれたのだから』

 

自由という音が砂浜に落ちる。彼女の口元がわずかに歪む。私は足裏に砂の冷たさを覚え、踵へ力が入った。

 

『……すまない』

 

謝罪は短く、息に紛れる。喉の奥が苦くなる。

 

『いいの』

 

返事は即座だった。胸の奥に溜めていた力が、少しだけほどける。

 

『あなたは、生きたいように生きて』

 

その言い方は優しい。けれど、言葉が先に行き、あとから温度が追いかけてくる。私は息を吸い直し、喉を鳴らした。

 

『私は……お前を支えたい』

 

口にした途端、胸の奥が熱くなる。抑えたつもりでも、声がわずかに硬い。

 

クリスは一度だけ瞬きをした。海を向いたまま、視線の焦点が揺れる。

 

『……でもね。わたくしはあなたのことが嫌いなの』

 

嫌いが強く落ちた。私は息を吸う。潮の匂いが喉へ刺さる。

 

『わたくしだけが苦しんでいるのが、少しだけ、寂しくて』

 

少しだけと言いながら、指先が上着の端を掴む。布がきゅっと縮み、すぐに緩んだ。

 

私は横を見られない。視線を動かせば、指先の震えまで見えてしまう気がした。代わりに、上着の上の彼女の手に軽く触れる。

 

『あなたの困った顔が、どうしても見たいの』

 

冗談の形を取ろうとして、途中で息が止まる。

 

『そう思うのに。あなたのことを考えると、気持ちが先走ってしまう』

 

言い終えた瞬間、肩が小さく落ちる。私は咄嗟に手を伸ばしかけ、膝の上で握り直した。指先が、自分の掌に爪を立てる。

 

『これを伝えることで、あなたがどう思うかよく考えたわ』

 

声が整う。波が寄せては返す間隔に合わせるように、言葉の端が揃っていった。

 

『……私を縛ることになると、考えたのか』

 

確かめる声は掠れている。縛るという音が口内で引っかかり、私は奥歯を噛みしめた。吐いた息は波に紛れるほど小さい。

 

『そうね。でもこの言葉は、あなたの責任ではなく、あなたの意思を引き出せる。わたくしはそう考えたの』

 

彼女は「責任ではなく」と言ったところで息を区切る。意思という語が硬く響き、冷たい空気の中でその二語だけが残った。

 

『……あなたがこれ以上、責任としてわたくしを支えるのなら。もう、そばにいないで』

 

言い切った直後、彼女の指が止まる。掴んでいた上着の端が、するりと戻った。

 

私はようやく横を向く。暗さの中でも、口元が強く結ばれているのがわかる。

 

『私は消えたりなどしない』

 

声を落として言う。息を深くすると、言葉が重くなりそうで、私は喉の奥だけで支えた。

 

『お前のそばで、いつまでもお前を支え続けたい』

 

その宣言は砂浜へ沈み、すぐ波音に削られた。私は視線を海へ戻す。闇の輪郭をなぞり、言葉の余熱だけを手放さない。

 

『……ふふ。あなたは、そう言ってくれるのね』

 

笑いは小さく、けれど温度がある。拒まずに受け取る笑いだった。

 

胸の奥の痛みを抱えたまま、言葉を探す。飾ろうとすると、舌が上顎に貼りつく。私はいちばん嫌な事実を選び、喉を開いた。

 

『……私はすべてを救おうとして、最後まで誰も救えなかった。それでも、私は変わらない』

 

言い切った瞬間、喉の奥が熱くなる。息が詰まりそうで、私は一度だけ唾を飲み込んだ。

 

『……ええ。それがあなただもの』

 

その一言は、波が静かに砂を撫でる音よりも軽い。私は返せず、呼吸だけが潮の匂いを繰り返す。

 

『けれど、忘れないで。わたくしは、たしかにあなたに救われているわ』

 

その声は、強くならないように抑えられているのに、芯だけがこちらへ届く。私は横を向けないまま、砂に沈む自分の足裏へ力が入るのを感じた。

 

クリスは唇を開き直し、まるで時間の端を指で確かめるみたいに、言葉を一つずつ置く。波が砕ける音が合間を埋めても、その声だけは消えない。

 

『初めて出会った時から、今この瞬間まで』

 

海の暗さの中で、彼女の横顔がほんのわずかにこちらへ傾く。視線が私を見ようとして、けれど最後のところで止まった。その遠慮が、かえって距離を近く感じさせる。

 

指先が上着の端を軽く押さえる。湿った布が、かすかに音を立てた。冷たいはずの岩の上で、そこだけ熱が残っているように錯覚する。

 

『あなたがずっと、わたくしの存在を感じてくれている。それが、わたくしにとってはなによりの救いなの』

 

言い切った瞬間、クリスの肩が小さく上下する。私は息を飲み、次の呼吸を探した。波の音の中で、胸の奥だけが遅れて脈を打つ。

 

『……そうか。お前は、そう言ってくれるか』

 

掠れた声のまま、深く息を吐いた。肺の底に残っていた空気が静かに抜け、胸の内側の硬さがほどけていく。

 

『だが、救われているのは……お前だけではない』

 

クリスが、ほんの少しだけこちらを向く。

私はその視線を受け止めて、逃げずに言い切った。

 

『ありがとう』

 

私はそう言って、クリスの手に自分の手を重ねる。彼女の冷たさが私の熱を受け、少しずつ和らいでいった。

クリスは私をしばらく見つめ、また海へ視線を戻す。何も言わずに、瞼をゆっくり落とした。それでも重ねた手の温もりが、クリスの指先を通して、彼女の存在を私に伝えている。

 

波が砕ける音だけが、私たちの間を満たしていった。

 


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