「やあ!」
甲高く、軽薄で、かと言って人間的でも機械的でもない。
ありとあらゆる意味で「中性的」な声を耳にし目を覚ます。
冷たく、冬の終わりに出た霧の日のような湿った空気。
途方もなく広く、地平線が無い真っ白な空間。
ここに来るのはだいたい六度目。
そしてその時は、決まって〝自由〟そのもの。
もとい、私が「リヴァ」と名付けた存在が呼び出してくるときだった。
「だいじょぶ?けっこーピンチみたいだったけど」
黒いスーツに真っ白な肌。
真っ白な歯が目立つけれどそれ以外に顔パーツはなく、輪郭もどこかぼやけている。
の割には靴を履いていないのもちぐはぐだ。
その姿はどこか人間的で、マスコットのようで、微かに神々しさすら混ざるよう。
そんな的を射ない外見で、怖がる理由なんて無いはずなのに。
なのに、膝が勝手に笑う。
視界が窄み、呼吸が詰まる。
「仕込まれた」反応だって分かってるのに、また同じように反応してしまう。
「何か言ったかい?」
リヴァは、今までよりも低い声でそう口にした。
それだけなのに全身が総毛立つ。
「今回は何をされるのか」っていう意味のない憶測が脳内を駆け巡る。
「何をされるのか……俺がそんな非道いことをした覚えはないけどなぁ?」
リヴァは軽薄に戻った声色で、まだ私が言葉に出してすらいないことを口にした。
「冗談はよしてくれよ、俺はむしろ寛容だろ? リヴァとかいうふざけた名前で呼ぶのも許してるし」
「……
両の脚に力を込めて震えを抑えながら、そうやって余裕そうに振る舞う。
内心では震えていても、表では毅然とした態度で振る舞わないと。
じゃないと、私の方が保たない。
「いやー、にしても厄介なことに巻き込まれたね」
「……あのタコ男のことかな」
「半分正解だけどもう半分は違うね。俺の言う〝厄介事〟ってのはこの国で執り行われている儀式……」
……ゲーム、だっけ。
ルイから言われた言葉を思い出すと、リヴァは指を鳴らしながら「正解ッ!」と無性に気に障る口調で返してきた。
「そう、あの〝ゲーム〟はなんせ世界の破滅か存亡かが掛かってる。だから厄介極まりない」
ちょ、ちょっと待った。
なんか今すごく大事なこと言わなかった?
世界の破滅か存亡かってどういうこと?
私が浮かべた必死の問いは、リヴァの「そのためにはまずは今を乗り越えないとだろ?」というもっともな言葉に打ち消された。
「出会った中で最も厄介な異能者、激しい損耗……そして終いには高所からの落下……ピンチだよねえ?」
リヴァはわざとらしく口角を上げ、私へそう訊いてきた。
ピンチ……ね。
まあ危ない状況なのは変わりないけど。
「だろう!?君、放っといたら死んじゃうだろうし。ところがどっこい、大チャーンス!」
次の瞬間、どこからともなくファンファーレが鳴り響く。
宙に出てきたクラッカーが爆音と共に紙吹雪を散らし、再び光の粒子となって消えていく。
……ここで大きい音、やめて。
怖い。
「おっとごめんよぉ?けれど君は助かるんだ!俺との契約を〝深めれば〟ね……!」
リヴァはそう言うと、こちらに躙り寄りその手を差し出した。
……掴めってこと?
「うん!それだけで契約成立だ!」
この瞬間を待ちわびていたのか。
含み笑いを浮かべ、今すぐに踊り出したいと言わんばかりに身体を小刻みに動かすリヴァ。
反対に、軽く俯きながら両手をぐっと握る私。
そっか。
私、死なないんだ。
すっごく、魅力的な提案だね。
けどさ。
もう、いいかなって。
「……?」
リヴァは含み笑いをやめ、口の両端をぐっと押し下げた。
……これを口に出すのは、常識的に憚られる気がする。
言葉を選ぼうとするのに、うまく呼吸が入ってこない。
胸の真ん中がずんと重くなって、口を開こうとするたびに喉だけが先にぎゅっと締め付けられた。
「……私はさ、今までいろんな人に迷惑を掛けてきた」
リヴァは表情を変えない。
身体に刻まれていたリズムも止まった。
……けれど、言うって決めたからには逃げちゃいけない。
「それにさ。すっごく久しぶりに香蓮のことを真っ直ぐに見れてね。まるで……あの事件の前に戻れたみたいに。だから私……ここで終わっていいと思うの」
そう告げると同時に、胃の底が冷える。
助けを差し伸べる手を払い、自死を選ぶのとなんら変わらない。
けど……ここで無駄に長生きしても、私が私のままの限り昔には戻れない。
だからここで終わ――
「……おい、大和めぐみ。お前、まさか忘れたわけじゃねえだろうな?」
瞬間、リヴァの頬の緩みが消える。
どこからか風が吹き、冷たく張り詰めた空気が嫌にぬるい空気に代わる。
「っ!?待って、今のは違う!」
咄嗟のことで、声が掠ったように裏返る。
ただちょっと、そう思っちゃっただけで……!
そうだ契約するから、待って、お願い!
そうやってみっともない言い訳をしながら、リヴァの手を取ろうとした。
けれど、手に触れようとした時にはリヴァはその場には居ない。
同時に、真っ白だった空間から「明」が奪われる。
真っ黒なのに、自分の手や身体の輪郭だけがはっきりと見える。
『ねえ、めぐちゃん』
「っ!?」
名前を呼ばれて肩が跳ねると同時に振り返る。
明るい毛色の少女、鈴原香蓮が浮かない顔をしながら私を見つめる。
その
『いつもは言わないけどさ……なんであの時知らない人に乗ってる車言っちゃったの?』
「あの……ごめんね……もう、誰とも関わらないから……ルイも信じないから……!」
手元のおぼつかないまま、彼女へと歩み寄っていく。
もう言い訳もしないから、私が悪いの、だから……!
『ふーん……けど……本当にそれで済むの?』
香蓮の姿が切れかけの電灯のように点滅する。
『こんな風になっちゃったのに?』
次の瞬間目にしたのは、香蓮が立っていたところに横たわった、香蓮の幼い頃の姿。
虚ろな目をし、右脚の関節があらぬ方へと曲がっている。
足が竦み――へたり込む。
立てない。
冷たい、身体の芯が、全部が丸ごと。
手の、足の震えが止まらない。
「ごめんなさい……償うから……ごめんなさ――」
ブレた焦点を合わせなおすと、さっきまで香蓮が居た所に人影を目にする。
「お父さん……?」
私がお爺ちゃんと選んだワイシャツを身に着けたお父さん。
冷ややかな目線でこちらを見下ろしている。
「お父さん……香蓮が、香蓮がね……!」
自分の言葉が自分じゃないみたいで。
捻り出した言葉が……上手く出なくて、そして幼い。
『ハハハ、また喧嘩したのか?けど良いじゃないか、ごめんって言えるだけ』
「え……?」
次の瞬間、お父さんの目から光が失われ、私のほうへ力なく
『お父さんは、最期までごめんって言ってもらえなかったのに』
「……っ!」
暖かい何かが、服越しに私の身体へと染み渡る。
震える右手に着いたもの――真っ赤な、血。
暖かいはずなのに、身体の芯が冷める。
あの時と同じ――
『私のせいでおじいちゃんの一人息子は死んだ』
待って。
誰の声?
いや、違う。
これは、私の声だ。
リヴァが見せてるんじゃない、頭の中から、言葉が勝手に溢れ出る。
お爺ちゃんの家を出ていくきっかけになった「気付き」。
私が私に責められる。
もう、誰も私の味方じゃ――
『けどね、めぐちゃん』
後ろから、香蓮が私を抱える。
気がつけば、倒れ込んでいたお父さんもいなくなっていた。
首に回された腕が、冷え切った私の肩を暖める。
『あの場所から私を救ってくれたことは、本当に感謝してるんだよ?』
「香蓮……」
――こいつは、本物の香蓮じゃない。
リヴァが私の記憶から作った幻影。
それは分かってるはずなのに……彼女へ、体重を預けてしまう。
暖かい。
冷えた身体が、仄かに暖められる。
『でもね……ほら、見て?』
香蓮は、私の右手を持ち上げる。
私の手は気が付かぬ間に小さくなっていて……血に塗れていた。
そこには、真っ赤になった
『めぐちゃんは、私を救ってくれた。けど、その代わりに二人も殺したんだよ?』
「でも……それは……」
『んーん、違うよ?めぐちゃんが、殺したの』
香蓮は、私の耳元でそう囁く。
私が、殺した。
……私が、殺した。
『そう……だから、めぐちゃんが償うのは、私だけじゃない。めぐちゃんが殺した人の命の分も償うの。めぐちゃんなら、分かるでしょ?』
「……うん」
『そう来なくっちゃ。ならめぐちゃんは私を守って……一生をかけて償わないといけないの』
「……うん」
『だから……ほら』
香蓮は私の右手を離すと、その手の平を後ろから私の前へ差しのべた。
……これを掴んだら、
けど……もう、終わらせたい。
「分かった……ごめんね、香蓮……ごめんよ……」
そう口にしながら、左手で差し出された手を取る。
同時に、周りから「闇」が取り払われていく。
そよ風が吹き、またあの張り詰めた空気が戻ってくる。
……その寂しい空間には、香蓮に代わって私のことを後ろから抱擁するリヴァと。
そして、未だに手の震えと、動悸に視線の揺れが収まらない私だけがそこに取り残されていた。
「……分かってくれたかい?鈴原香蓮は、きっと君を許しちゃいない。けど、それと同じぐらい君を必要としているんだ」
リヴァは一見温かみのある、けれどその実何の深さもない軽薄な声で、私へそう語りかけた。
「だから、君は戻って彼女を守らなくちゃいけない。彼女へ償いをしないといけない。これは……他ならない君のためだ」
「……うん」
「君には俺と鈴原香蓮がいれば十分だ。あのルイとかいう男も、鈴原を守れたら捨てればいい」
「で、でもルイはそんな悪い人じゃ――」
そうやって言い返そうとした時、後ろから凄まじい圧を感じ取る。
「言わなくても、分かるよね」
まるでリヴァからそう言われているみたいな、そんな圧。
喉奥からこみ上げてくるものを、ぐっと押し込む。
「……分かった」
「うんっ、よろしいっ! もう力は渡してある、君は明日も君のために生きられる! 素晴らしいことじゃないか?」
私が私のために香蓮を助ける……。
それでいいの?
なんて疑問は、とても言葉にできなかった。
「もう、大丈夫かい?」
「うん……大丈夫」
「よし、それじゃ行ってらっしゃい!」
リヴァがそう口にした瞬間、私がへたり込んでいたところの床が抜ける。
同時に真っ暗な空間へと落とされる。
広くて、虚しい闇。
目線はこちらへ手を振るリヴァを辛うじて捉えている。
……私は、今までの私通り。
映画の世界と違って、何かで一発逆転なんてことは起きない。
そんなのは夢物語。
変わらない
私はゆっくりと目を閉じた。
******
風が耳を切る音。
奪われる体温。
目一杯に映るのは一帯の工業地帯。
「……っ!」
現実に戻ってきた。
けど……落ちてる!
地面のシミになって……死ぬ!
右腕にぐっと意識を集中すると共に熱が籠る。
せめてもの抵抗として全力で腕を
そう身構えた時だった。
「ピエェェェ!」
甲高い声がこだまする。
ああ、これが終わりの合図か。
思っていたよりも苦しくない……。
……いつまで経っても、終わりの時は来ない。
体が何かに吊られるような感覚。
もしかしたら既に死んでて、目を開けたら私の死体が転がっているかもしれない。
指の間から恐る恐る目を開ける。
地面までは残り二メートルも無い。
私の身体は確かにそのままで、手の感覚もある。
私の体はそのままふわふわと数メートルほど移動し、道のど真ん中に腰丈ぐらいの高さから雑に降ろされた。
「っ痛!」
受け身を取りながら落下する。
地べたのまま上がった息を整えようとしたけれど、うまく呼吸できない。
左の腕、肩、肺に握りつぶされた後のような痛みが走る。
「折れてる……」
それだけじゃない、右肩にもずっしりとした重さと針で刺すような痛みが……って、ん?
「な、なにこれ!?」
右肩に何か黒いのが乗ってる……!?
肩に乗っていたものを思わず手で払いのけると、ドテっと地面へ不器用に着地した。
払い落とされたものは何もなかったかのようにぴょんと飛び上がり、私の方へ向き直る。
私の肩のうえに乗っていたのは、真っ黒な羽に発色の良いオレンジのクチバシを持つ一羽の鳥。
凛とした顔つきをしていて……なんていうのかな。
「あなたが助けてくれたの?」
クチバシの下を撫でてやろうと指を近づけたけど、ぴょんぴょんと跳ねて後退りしてしまった。
私のことを助けたとしても、馴れ合うつもりはないみたい。
(……あれ)
けど、よくよく考えたらこれもリヴァの干渉でもたらされたもの。
その可能性がふと頭に過っただけで、この可愛らしい生き物すら気味悪く見える。
すると、なにかに気付いたのか鳥はいきなり別の方を振り返り、私の肩に再び乗ってきた。
鉤爪が刺さって少し痛い。
鳥が向いた方向を見ると、そこには息を切らしながらこちらへ走ってくるルイの姿があった。
その遠くには、おぼつかない走り方で香蓮が続く。
(……ルイ、なんであんなに焦ってるんだろう)
自分にそんな表情を向けられる資格なんてないのに。
ルイの焦燥しきった表情は、近付いてくるにつれ安堵へと変わっていった。
「はあ……はあ……大和。良かった、無事だったんだな」
「……ええ」
せっかくかけてくれた声に、ぶっきらぼうに返す。
喉元で何かがつっかえる。
形だけでも無事そうにしないと。
そうやって口角だけはいつも通り上げようとしたけれど、頬の筋肉がうまく言うことを聞かずに、中途半端な引きつった笑いになる。
「どうした、何かあったのか?」
「……いいや、なんにも。ただちょっと――うっ」
肺の内側から何かに刺されるような激痛が走る。
骨の破片が入っちゃいけないところに入ったか……。
「おい、大丈夫か?」
「待って、触らないで。一分だけ、一分だけ頂戴……」
腕、肩、肺にかけた部位に意識を集中し、深く深呼吸をする。
患部が不自然に熱を持ち、「カチッ」とはまる不快な感覚に背筋を震わせる。
「生物的な治癒」じゃなくて「機械的な治癒」を身体がしようとしているように感じる。
身体の中を何かが蠢く違和感は、この身体になって短くはないけれど未だに慣れない。
「……あれ、終わった?」
意識を集中し始めてからまだ三十秒も経ってないのに、熱を持つ感覚が無くなった。
呼吸の度に起こる痛みも無くなっている。
(治癒が早くなってる……?)
ここまでの傷をそう何度も治癒したことがあるわけじゃないけど……。
「……結構早いね」
「ええ?うん、まあ」
言葉端が乱れる。
自分の身体のことなのに、その突然な変化に驚いている自分がいる。
(もしかして……契約の時に身体にまた何かされた?)
その気付きに、思わず血の気が引く。
また「人じゃない何か」に近付いた。
「めぐちゃん……めぐちゃんっ……!」
香蓮が右脚を半ば引きずるように、必死にこちらへ駆けてきていた。
……バレたら嫌だ。
呼吸を整えて、動悸をぐっと抑え込もうとする。
けれど。
『こんな風になっちゃったのに?』
『二人も殺したんだよ?』
『一生をかけて償わないといけないの』
おかしくなったフィルムビデオみたいに、さっきの香蓮がチラつく。
だめだ、
違う、違う、ちが――
「めぐちゃん、大丈夫?」
「っ香蓮」
いつの間に目の前に。
乱れた呼吸は落ち着くばかりか一層粗く。
そして、香蓮のその表情はどこか私を憂うような。
横にいるルイも、香蓮と同じく私を案じるような……なんなら、香蓮よりも一層深刻そうな表情をしていた。
「どこか痛むの?」
「いや、違う……大丈夫だよ」
「大丈夫なんかじゃないよ!私、ダメって言ったのに……なんで……!」
……香蓮を救い出そうとした時に彼女に言われたことを思い出す。
実際死にかけたわけだし、強く言い返せない。
「ごめんよ」
「ごめんじゃなくてさ……私、いっつも迷惑かけてばっかなのに……」
「香蓮……そんなことないよ」
そんな彼女をぎゅっと抱きしめた。
彼女は、私の腕の中で鼻をすすりながら、涙を隠すように目をこすっていた。
けれど。
純粋に喜べない。
一人で勝手に楽になろうとしたからかな。
香蓮を置いていこうとしていたこと。
それに、あそこの香蓮が偽物だって自分に言い聞かせられないこと。
そんな自分を心底軽蔑すると共に、息の詰まりを覚えた。
「……? なんだ、この音?」
ルイがふとそんなことを口にしたその時。
凄まじい轟音と共に土煙が上がり、辺りを包みこんだ。
まさか。
ある可能性が頭を過った直後。
その中からあの忌まわしき触手が顔を出す。
「っふ……!ロムルス様からは生け捕りのお達しでなぁ、死んだかと思って焦ったぜぇ。けど生きてるなら好都合!」
砂煙の中から舌なめずりをしたジャンが顔を出す。
少しだけ、脚が竦む。
悩みに思考を奪われすぎて、もっと直接的な危機を忘れてたなんて……馬鹿みたい。
香蓮は一歩、二歩と後退りした。
わなわなと震え、視線が定まっていない。
……私もそうしたいけど、残念ながらそうもいかない。
「待って、逃げるなら一緒に」
また香蓮が捕まったら、今までのことが全部水の泡だ。
呼吸を整え直し、
ルイもさっきと同じように空から剣を出し、臨戦態勢に入った。
ジャンの触手は、さっきの戦闘でボロボロになっていた。
けれど、残り十五本。
……こっちが香蓮を抱えながら戦うのは無理。
かなり刺激してしまったし、次香蓮が捕まったら無事で居られるかも分からない。
第一、こっちには戦う理由がない。
なら、取る策は一つだ。
そう考えていたのはルイも同じみたい。
私とちらっと目を合わせると、小さく頷く。
一触即発の空気が場を支配し、ひたすら風切り音と耳鳴りだけがその場に轟く。
そして私とルイ君がほぼ同時に足を後ろへ回した瞬間。
「大和、鈴原を頼む!」
「ええ!」
「きゃっ!」
香蓮を丸太みたいに抱え、廃工場の群れの中を走る。
ルイは、彼の異能の光球のうちの一つを抱えて駆け出した。
「逃がすかぁ!」
逃げに入る私とルイを見て、ジャンは細く、そして素早い触手を数本解き放つ。
私の肩に居たワシは、特に命令したわけでもなくばっとその場を飛び立った。
幸い、人気の少ない場所だったのもあり私たち以外には誰も居ない。
さっと振り返るけど、全力の「逃げ」なら払い切れる。
ルイも光球から出る光線で応戦したものの、焼け石に水。
その事実が、より逃げの択を強くする。
「大和、この角を曲がるぞ!」
「……ええ!」
一分行った後、頭上注意の看板を左手に曲がる。
けれど、それが誤りだった。
「ねえめぐちゃん、まえっ!」
「っ!?」
香蓮の言葉で前を見て絶句する。
追いかけてきていた触手の二、三本が曲がり角を超えても追いかけてきているのはまだ良い。
問題はその曲がった先。
工場の壁が大きく崩れ、小高い行き止まりになっていた。
私もルイも、二人揃ってその行き止まり直前で急ブレーキする。
私とルイなら飛び越えられ――。
いや、香蓮を抱えながらじゃ無理だ。
香蓮を瓦礫の山の上に投げて、私がまた捕まる?
けれど、それだと時間がシビアだ。
私も香蓮もまるごと捕まる。
それだけは避けなきゃいけない。
そう言っている間にも触手はどんどん距離を詰めてくる。
「くそっ!」
ルイは光球から光線を放ったものの、触手を落とし切る前に球の中の光がふっと消えた。
「っ!だから夕方の闘いは嫌いなんだ……!」
どうする、どうす――!?
そのときだった。
「ピエェェェ!」
上空からの甲高い鳴き声と同時に、黒い何かが触手目掛けて落下してきた。
そのまま触手の群れを丸ごと貫き、触手は肉片となって壁やコンクリートのシミとなる。
「……え?」
思わず困惑の声が出る。
触手やその肉片が、光の粒子となって消えていった。
「助かった……の?」
思わず呆気に取られる。
多分「鳩が豆鉄砲を食らった」の典型例みたいな表情をしてると思う。
そしてその「黒い何か」は、大きく宙返りすると私の肩に再び掴まってきた。
クチバシには紫色の血が付いていて、それもしばらくすると光の粒子となって消えていった。
「君が……助けてくれたの?」
そんな言葉に、ワシは我関せずと言わんばかりに聞く耳も持たなかった。
けれど、今はそんなことに胸を撫で下ろしている暇はない。
油断すればまたさっきと同じような状況になりかねない。
香蓮を瓦礫の山の上へと持ち上げ、乗り越える。
触手は追ってこない。
危機は脱した。
けれど。
胸の内には、言いようのないものがどよき続けていた。