「む……まだ透けているな。もっと気合を入れねば……」
シラベは一人、アパートの玄関で靴を履いていた。
背後の六畳一間からはレヴェローズの独り言と、鏡の前でポージングを変える衣擦れの音が聞こえてくる。
レヴェローズは昨日の実体化の感覚を取り戻すべく、姿見の前で特訓中らしい。放っておけば一日中やっていそうなので、シラベはその隙に外出することにした。
「出かけてくる。大人しくしてろよ」
「夕食の買い出しか? 今日は肉が良い」
「アホ抜かせ、もやし炒めだよ」
総督閣下の法外な要求を聞き流し、シラベは錆びついたドアを閉めた。人の食い物の味を覚えた途端、熊のように図々しくなる一方だ。
向かう先は『ボトムレスピット』。昨晩ネットで検索した情報を元に、レヴェローズ救済デッキのパーツを揃えるつもりだった。
十分ほど歩き、見慣れた古びた看板をくぐる。
平日の昼過ぎということもあり、狭い店内には客の姿はない。シラベは慣れた手つきでストレージを漁り始めた。
「あった、『仕様変更』。『威風忍具』もあるな……よしよし」
目当てのカードはすぐに見つかった。見向きもされないカードを掘り出す作業は、社会の底辺を這う今の自分と重なって少し自嘲的な気分になるが、同時に宝探しのような高揚感もあるにはある。
数枚のカードを手に取り、レジに向かおうとした時だった。
入り口のガラス戸、その隅に貼られた一枚の紙が目に入った。
『アルバイト募集。時給:要相談。条件:忍耐力のある人間』
黄ばんだ紙に、殴り書きのような文字。
シラベは足を止め、その張り紙を凝視した。
(……バイト、か)
本来なら目を逸らすべき現実だ。
前の会社での忌まわしい記憶、横領の濡れ衣を着せられ、居場所を失った絶望感が脳裏をよぎる。もう二度と組織という名の理不尽なシステムには組み込まれたくないと思っていた。
だが、現実は忖度してくれない。家には飯を食うだけの美少女精霊が居座り、所持金は底をつきかけている。
何より。あの精霊がいる限り、自分はもうカードゲームという呪縛からは逃れられないのだ。
(どうせ逃げられないなら……いっそ、毒を食らわば皿までか?)
おもちゃ屋の店員。今のシラベにとっては、スーツを着て頭を下げる仕事よりは幾分かマシに思えた。知識ならある。接客も、おもちゃ屋に来るような奴となら適当に流せる自信がある。
シラベは意を決して、カードの束をレジカウンターに置いた。
カウンターの奥では、いつもの白髪混じりの店員が、老眼鏡をかけて伝票を整理していた。
シラベは代金をトレーに置きつつ、咳払いをして切り出した。
「あの、すいません。そこに貼ってある求人のことなんですけど」
「ん? ああ、バイト募集のことですか」
「俺……いや、私でよければ、使ってもらえませんか。カードの知識には自信がありますし、シフトも融通が利きます」
自分でも驚くほどスラスラと売り文句が出てきた。やはり、金欠の危機感は人を動かすらしい。
しかし、白髪の店員は困ったように眉を下げた。
「ああ、いや、申し訳ない。私は店長じゃないんですよ」
「はい?」
シラベの思考が止まる。ここに通っていた頃から常にレジに立っていたこの初老の男性こそが店長だと、今の今まで信じて疑わなかったのだ。
「私はただの雇われ店員でしてね。採用の権限はオーナーにあるんです」
「そ、そうだったんですか……。じゃあ、オーナーさんはどちらに?」
「奥にいますよ。……店長ー! バイトの志願者さんが来ましたよー!」
店員がバックヤードに向かって声を張り上げる。
ガタガタと奥から物音がして、重そうな遮光カーテンが開かれた。
「……うるさい。声がでかい」
不機嫌そうな声と共に現れたのは、小柄な人影だった。
黒いパーカー、黒いスパッツ、色素の薄い少女。
先日、シラベにキモいと言い放った、あの陰気な小学生だった。
「……あ?」
「……ん」
シラベと少女の視線が交差する。
数秒の沈黙の後、シラベは店員の方を向いた。
「あの、店長を呼んでほしいんですけど。お孫さんじゃなくて」
「いえ、この方がオーナーの佐野ミトラさんです」
「は?」
シラベは少女──佐野ミトラを二度見した。
どう見ても未成年だ。身長は百四十センチあるかないか。肌は病的に白いし、手足も細い。ランドセルを背負っていても違和感がない。
「え、いや、でも……この店、俺が高校の頃……十年以上前からありますよね? いつから……」
「先代の親父が死んで、私が継いだのが十五年前」
「じゅ、十五年前?」
ミトラは気だるげに欠伸をしながら、カウンターの椅子によじ登った。
その動作は子供っぽいが、言葉の端々には年季の入った倦怠感が滲んでいる。
「お前、いくつだ?」
「店長に向かってお前とはいい度胸ね」
ミトラはシラベを睨みつけると、カウンターの下からコンビニのおにぎりを取り出し、もそもそと食べ始めた。
「三十五よ。悪い?」
「さ……さんじゅう、ご……!?」
シラベは絶句した。なんなら精霊を見た時よりも驚いているかもしれない。自分より十歳も年上だ。アラフォーじゃないか。嬉しくない合法ロリだ。
「何か文句ある? 童顔と低身長は家系なの。これでも苦労してるんだから、ジロジロ見ないで」
「あ、いや、すいません……」
シラベは思わず敬語になり、頭を下げた。
先日は小学生にドン引きされたと思って落ち込んでいたが、事実は年上の女性経営者に、真っ当な社会的視点からゴミを見る目で見下されていたらしい。ダメージの質が変わっただけで、致命傷であることに変わりはないが。
「で? アンタがバイト志望?」
ミトラはおにぎりを飲み込むと、値踏みするような視線を向けてきた。
「名前は」
「押江シラベです……」
「無職?」
「……現在は、求職中です」
「前の仕事は?」
「事務職を少々……一身上の都合で辞めました」
「ふーん」
ミトラは興味なさそうに鼻を鳴らすと、この間の出来事を思い出したように目を細めた。
「ああ、思い出した。こないだのおっぱいデッカーね。性能より性欲を優先する変態」
「その二つ名はやめてください。あとこないだのは俺のデッキじゃないです」
ミトラは手をおしぼりで拭いて突き出す。
「じゃあ、あんたの本当のデッキ見せてみなさいよ。レヴェローズは入ってないんでしょ」
「ぐっ」
シラベは言葉を詰まらせた。シラベのデッキには忌々しいことに全てレヴェローズが捩じ込まれている。それをまさかレヴェローズの呪いであるとは説明できない。
シラベの沈黙を、ミトラは肯定と受け取ったらしい。彼女は呆れたように長々と溜め息を吐いた。
「イラストで目を焼かれて下半身で構築歪める奴は信用ならないのよね。店の在庫に勝手にエロスリ入荷させそうだし」
「誰がするかそんなこと! 俺は無地のマットスリーブ派だ!」
「どうだか」
ミトラは完全に興味を失ったようで、シラベから視線を外し、手元のスマホをいじり始めた。
「帰って。うちは真面目な店だから」
その取り付く島もない態度に、シラベの中で何かがカチンと鳴る。
気が付けば、シラベはカウンターをバンと叩いていた。
「大体、レヴェローズが使い物にならないと決めつけてる奴こそ、カードショップの店長としてどうなんだ?」
店内の空気が凍りついた。横にいた白髪の店員がひっと息を呑む。
ミトラの手が止まった。彼女はスマホから顔を上げ、これまでとは違う、獲物を見つけた猛禽類のような鋭い眼光でシラベを見据えた。
「今、なんて言った?」
「カードに絶対の正解なんてないはずだ。どんなカードにも使い道はあるし、それを探すのがプレイヤーであり、それを手伝うのが店側の仕事だろ。あんたは客に向かって『このカード弱いからやめな』って言うのか?」
――まぁ、その。こないだ言ってきやがってたわけだが。
家に置いてきたあの騒がしい居候の顔が脳裏をよぎる。
あいつは弱いかもしれないが、無価値じゃない。そのはずだ。
そうでなければ救われない。
ミトラは数秒間、シラベを睨みつけていたが、不意に口の端を歪めた。
その笑みは、三十五歳の大人のものではなく、好戦的な悪ガキそのものだった。
「口だけは達者みたいね」
彼女はカウンターの下から、使い込まれたデッキケースを取り出し、ゴトリと置いた。
「なら証明してみなさい」
「……証明?」
「面接よ。私とデュエルして勝ったら採用してあげる。その代わり、負けたら二度とこの店の敷居は跨がせない。出入り禁止」
「なっ!?」
極端すぎる条件に、シラベがたじろぐ。
だが、ミトラは挑発的に指を鳴らした。
「『どんなカードにも使い道はある』んでしょう? なら、あんたのその『性癖構築』で、私のデッキに勝てるはずよね?」
「……上等だ」
ここまで言われて引き下がれるか。
シラベは受けて立とうと一歩踏み出し──そして、気まずそうに足を止めた。
「と、言いたいところだが。今はデッキを持ってない。今日はパーツを買いに来ただけだからな」
作りかけの新デッキはまだ紙束の状態だし、いつもの『純水量産』もアパートに置いてきてしまっている。
ミトラは舌打ちすると、デッキケースをしまった。
「いいわ、後日で。来週の夜やってる店舗大会が終わった後、相手してあげる。逃げたら不採用、負けても出禁。覚悟しておきなさいよ、おっぱいデッカー」
「だからその名を定着させようとすんな!」