102 良い練習になるんだよ
「にゃあ」
ディーヴァ・アリーナでの一件の翌日。平日午後のボトムレスピットは、客も入らず平和のはずだった。
カルメリエルはレヴェローズを連れて、スーパーの特売をハシゴしてくると意気込んで買い出しに向かっている。レヴェローズは荷物持ちだ。不満げに口を尖らせていたが、帰りにアイスを買ってやるというカルメリエルの一言で速やかに陥落していた。
ミトラは二階で昼寝したまま降りてこない。昨日の疲れが残っているのだろう。一日中遊んで歩き回り、帰りの電車では本当に寝落ちしていた。慣れない靴のせいで靴擦れも起こしていたようだし、あの体格であの運動量は向こう三日の体力まで削り取ったに違いあるまいとシラベは見ていた。
店番はシラベ一人。客はいない。世界は平和だ。
平和のはずだった。
シラベはカウンターの内側の椅子に座り、両腕で抱えた黒い毛の塊に目を落とす。
全てを喰らう大穴である。コンパニオンまがいの業務を終えて猫の姿に戻った彼女は、冬毛から元の毛並みに戻っていた。膨らんでいた体が一回り小さくなり、すっきりとした黒猫の姿を取り戻している。
春が来ているのだと、シラベは納得する。ボトムレスピットの風流はこの猫の毛並みが一手に担っている。
その大穴が、シラベの腕の中でうなうなと甘えた声を出している。
「んにゃう」
前足でシラベの胸元をふにふにと押したかと思えば、頭をぐりぐりと顎の下に擦りつけてくる。目を閉じ、喉の奥からゴロゴロと重低音を響かせながら、全身でシラベに密着していた。
昨夜、シラベのために結界を張ることで月山との対話の場を作り、カルメリエルの介入をスムーズに行えたことは、シラベ達にとって大きなサポートとなった。あの結界の展開が大穴にとってどれほどの消耗だったのかはシラベには分からないが、助けになってくれた大穴の意を汲むことに異論は無い。
つまり彼女が甘えることを望むのならば、甘やかすしかない。シラベは大穴の顎の下を指先でゆっくりと掻きながら、抱擁を強める。自分の指使いが猫相手にどれだけ通用しているのかシラベには分からないが、大穴はうっとりと目を細めてシラベの腕の中で蕩けるように脱力した。
それはいい。大穴の面倒を見るのは平和の一部のようなものだ。
問題は、シラベの左側にあった。
「それで、パンフレットとは別に施設を案内する手引書のようなものを追加で用意したのは良かったんだけど」
椅子に座るシラベの真横に、もう一脚の椅子が引き寄せられている。その椅子に座る長身の女が、シラベの左腕に肩を預けるようにして寄りかかっていた。
亜修利ヒナタ。今日はスーツではなく、薄手のニットにスラックスというオフの装いだった。露出も少ない肩の力が抜けた私服姿は、普段の王子様ぶった佇まいとはまた違う、隣人のような距離感を醸し出している。
「あの小冊子、よりによって私の名前が『亜修理』になっていたんだ。社長の苗字を間違えるなんて、校正担当は何を見ていたのか」
「災難だな」
「災難だよ。初日のパンフレットのステージイベント表記は外部委託でなんとかしてもらったけど、こっちもテープ貼りだと見栄えが悪いからと刷り直しになってしまった」
はぁ、と溜め息を吐くヒナタ。吐息に合わせるようにシラベに掛かる重さが増えたのが何故か気に掛かり、シラベは大穴の毛に埋もれさせた指を忙しなく動かしていた。
「そんな有様で、休みなんて取ってていいのかよ。出しゃばりはやめろって言ったが、施設がオープンしてしばらくはむしろ社長が出るべきところは多いんじゃねえの」
「そうしたいところなんだが、優秀な秘書に今日は休めと言われてしまってね。初日の過密スケジュールの疲れを今日で癒し、明日からは限界まで働くのが最も効率的ということらしいよ」
「疲れを癒すなら癒すなりの態度を取れよ。遊びに来てどうする」
「私なりに癒しているつもりさ」
シラベは敢えて黙った。ヒナタも黙るのを見越していたようで、早々に話題を転換させる。
「それと月山社長だが、今朝方連絡があったよ。やけに清々しい声で再開発計画の見直しを前向きに検討すると言ってきた」
「お、それは良かったじゃねえか」
「良かったんだが、気味が悪い。昨日までの交渉相手とは別人のような物わかりの良さだった。何があったのやら」
カルメリエル式療法の予後は良いらしい。うまくところてん式に悪性部分を押し出せたのだろうと、シラベは勝手に納得した。自分たちがやったことをヒナタに説明する気はシラベにはなかったし、説明したところでカルメリエルのやり方を肯定するのも難しい。恩着せがましくなるのも嫌なので、シラベは外野であるスタンスを心掛ける。
「まぁ、心変わりってやつだろ」
「心変わり、ね。あの手の人間がそう単純な言葉で片付く変化をするとは思えないけれど」
ヒナタが肩を竦める。その動作に合わせて、シラベの左腕に預けられていた体重がまた少し増えた。
どんどんと、シラベに掛かる負荷が増えている。
カードの話をしている最中に、ヒナタとの距離が近くなることは以前からあった。サイドボードの検討をしている時には互いに同じ盤面を覗き込むことで彼女の長いまつ毛を伺える距離になることも珍しくなかったし、カラオケボックスでの練習対戦でも棋譜の検討をする時には自然と隣り合って語ることもあった。戦友の距離感だ。不自然ではない。
だが、今のヒナタの距離感は何か違う。他愛もない事をただ話しているだけだと言うのに、やたらと近い。不自然なまでに近すぎる。隣に座られたその時、指摘せずにいたらたちまち距離を詰められてパーソナルスペースを強奪する間合いになっている。
一方のヒナタは、密着していることを全く意識していないかのように振る舞っている。愚痴を語り、茶を啜り、時折シラベの返事に頷く。その度に、ニットに包まれた形の良く大きく柔らかな胸部がシラベの左腕に押し付けられ、離れ、また押し付けられる。
密着したかと思えば少し緩め、不意を打つように寄りかかり、慣れかけたところで離れて、また押し付けてくる。シラベがレヴェローズをうまくいなしている原因である『慣れ』という自動防御装置をハックするために、意識の端に常に存在を残し続ける巧みな動きがそこにあった。
これが仕事中や対戦している時であるなら、ある程度心構えによって受け流すことが出来た。だが今の様に雑談の最中、こうして密着してくるのは──なんというか、困る。とても。
あまりにも意図的な接触に、シラベは困惑しつつも指摘したら負けかと思い耐え忍んでいた。大穴を甘やかすことに集中すれば耐えられると思っていたが、甘かった。猫の柔らかさと女の柔さでは刺激の質が違う。
「あのさ」
耐えきれず、シラベは声を出した。半音高くなっていたかもしれない。
「なんだい」
いつもの調子でヒナタが応じる。
その瞬間。ヒナタの両腕が、ここぞとばかりにシラベの左腕を抱きしめた。ぎゅう、と。優しく、しかし逃がさない絶妙な力加減。ニット越しに伝わる体温と、腕を包み込むような圧力が一気に襲い掛かってくる。
その情報量に、シラベの思考が二秒ほど停止した。
腕の中で大穴がにゃうと鳴いたお陰で再起動し、現実に引き戻される。柔い。ヤバい。
「こういうのは、ミトラにやればいいだろ。俺じゃなくてさ。今なら二階に行ってもいいから」
声が少し上擦ったのを自覚しつつ、シラベは言う。今この時は上司を売ってでも逃げるしかないと、シラベの理性が叫んでいる。
だがそんな売国根性を、ヒナタは全く取り合わない。
「あれ、言わなかったかな。君にこういうモーションをかけるのは、良い練習になるんだよ」
微笑んでいるのが分かる声色。ヒナタの声が、すぐ近くで聞こえた。顔が近い。視界の端にアッシュグレーの髪が映っている。
「ごまかしているつもりでも、よく反応してくれるからね」
耳元で囁かれた。吐息が鼓膜を撫でる距離。シラベの背筋に電流のようなものが走った。
さらにヒナタの頬が、シラベの耳に触れた。擦り寄るようにして、耳の輪郭に沿って頬ずりしてくる。肌の滑らかさと温もりが、耳の神経を直接刺激していた。
「っ」
「おや」
堪えきれず漏れた呻き声に対して、ヒナタの声が掛かった。心の底からおかしいとでも言いたげで、それがシラベの癇に障る。
「もしかして、耳が弱いのかな」
息混じりの、低く甘い声がシラベの鼓膜を震わせた。同時にヒナタの身体がさらに近づき、腕を抱きしめる力が確かに強まる。距離がゼロに向かって詰められていく。
シラベの脳裏に警報が鳴り響いていた。このままでは不味い。何が不味いのかは具体的に考えたくないが、とにかく不味い。原因を探ろうとする走馬灯を早急に打ち切り、今ある材料でこの難局を如何に潜り抜けるのかだけに脳の運動を期待する。
その願いが通じるかのように、二階から足音が聞こえた。
パタパタと、軽い足音。スリッパが廊下の床を叩く、小さな足の音。
シラベの意識が瞬時に覚醒した。溺れかけていた思考が水面に跳ね上がり、正気が戻る。
「ほら、馬鹿な真似は終わりだ。ミトラが拗ねるから離れろ。早急に」
搾り出した声には切迫感が出ていたが、シラベは構わない。実際必死であった。
だがヒナタは、んーと少し考え込んだ後に顔を離すことしかしない。腕への抱擁は解かず、シラベの左腕はヒナタの両腕に包囲されたまま、彼女が誇る最もソフトな凶器に埋まっている。
やばい。シラベがそう思う間もなく、階段を降りる音が中途で止まる。
振り返ればミトラが立っていた。
パーカーにトレンカと絆創膏。寝起きの顔。乱れた黒髪。死んだ魚のような目が、シラベとヒナタが織りなす光景をしっかりと捉えている。シラベが座って右腕で大穴を抱いている姿も。左腕にはヒナタがしがみついている様子も。ヒナタのニットに包まれた胸が、惜しげもなくシラベの腕に押し付けられている犯行現場も。
「なにやってんの。あんたら」
極めて機嫌の悪い声だった。声だけで室温が三度下がった。
シラベは弁明を試みようとしたが、凍り付いたかのように舌が動かない。左腕がヒナタに拘束されているため身動きが取れず、右腕には大穴が居座っているためヒナタを押し退けられない。詰んでいた。
だがヒナタは、いつもと変わらない調子で微笑んだ。
「やぁ、ミトラ。よく眠れたかい」
その声は爽やかだった。シラベの腕を抱きしめたまま、最愛の姫君に対して一点の曇りもない笑顔を向けている。
狂ってんのかこいつ。シラベは思った。今更か。シラベは思い直した。
最早ごまかしきれないほどの事実として、ミトラは嫉妬深い。それがシラベに向けられた何らかの感情によるものであることは今は良い、重要ではない。問題は、ヒナタとてその性質を良く知るだろうに、何故地雷原でコサックダンスする余裕を見せているのかということだ。
「うちの店員を、すぐさま解放しないと――」
噛み締めるように言葉を紡ぐミトラ。今にも爆風に自分が巻き込まれそうな現実に対してシラベは大穴に縋る。大穴はぷいとそっぽを向くばかりだった。
「これから一週間、私との対戦は無しね」
シラベの心は一旦安心する。ミトラによって切られた札は、シラベにとっては穏当な代物だ。だがヒナタにとってはミトラとの愛の語り合いと言って憚らない対戦の機会を失うことは死刑宣告に等しい。あの偏執的な愛を揺さぶる最終兵器。そのはずだった。
だがヒナタは、シラベから離れない。それどころか、わざとらしくシラベの方に身を寄せていく。腕を抱く力が増し、肩に頬を預ける。
「ああ、聞いたかいシラベ。ミトラが私をいじめるんだ」
甘えたような声色だった。いつもの芝居がかったものとはまた違う、露骨に芝居と分かるような、悪ふざけをするような有り様。しかし如何に芝居と分かれども、ヒナタの怜悧な声が柔らかく甘く変質した事にシラベは恐怖と奇妙なくすぐったさを覚えざるを得なかった。
「私を研鑽するための戦いは、君に代わりを務めてもらうしかないかもね。いつものように、二人きりで、たっぷりと」
止めを刺すかのように、シラベの首筋へとふっと息が吹きかけるヒナタ。シラベはそれを最後に、完全に固まってしまった。右腕の大穴が撫でが止まった事ににゃあと不満げに鳴いたが、身体を動かす余裕が一ミリもない。ヒナタがシラベの肩を枕のように頬を押し付けてもされるがままだ。
かろうじてシラベの視界に捉えていたミトラの顔から、表情が抜け落ちていく。
怒ろうとしていたところに、彼女の35年間培われてきた常識を超えるような状況が流し込まれた結果、その脳は処理落ちを起こしているらしい。自分の脅しというヒナタに特効である筈の札が全く効いていないという事態、そしてそれすらも餌にしてヒナタがシラベに縋りついている光景を、ミトラが受け入れられずにフリーズしている。
あのヒナタが。学生時代、常人には理解出来ない理屈でミトラを姫と見定めたヒナタが。時を経ても尚言い寄り、特級品の面の皮を見せ続けていたヒナタが。自分との交流を差し置いてシラベの腕にしがみついている。その事実は彼女の根幹を災害レベルで揺さぶっていた。
シラベにとって永劫続くかと思われた沈黙の後、ミトラが動いた。小さな足音がぱたぱたと動き回り、カウンター内の空いている椅子を、シラベの隣へ──ヒナタがいない方、右側に運んでくる。
無言のまま椅子に座ったミトラはそして、シラベの腹部に両腕を回して抱きついた。
「ぐぇ」
唐突な締め付けにシラベは空気を口から漏らすが、ミトラにとってどうでもいいことだった。小さな体は全力でシラベの脇腹に密着し、顔がシラベの腹に埋まる。ぐりぐりと額を押し付けながら、両腕でシラベの胴体をきつく抱きしめている。
ミトラは何も言わない。ヒナタに対しても、シラベに対しても何も言わないまま、ただ無言の行動、あるいは主張を続ける。
ヒナタがクスリと笑ったのを、シラベは聞き取った。穏やかな笑い声だ。嘲りや優越感から来るような、悪意が籠ったものではない。
ミトラが必死にシラベにしがみつく姿を見て、ただ純粋に目の前の光景を愛おしんでいるらしい。冗談ではないとシラベは噛みついてやりたかった。
ヒナタが幸せそうに笑うなか、シラベは依然として固まったままだ。右腕に大穴。左腕にヒナタ。腹にミトラ。三方向から体温と質量と柔らかさに包囲され、身動きが取れない。
助けを求めたいが、カルメリエルとレヴェローズは買い出しに行っている。客は一人もいない。通行人は幸か不幸か、店内を一瞥することなく窓の外を素通りしていく。
「んにぃ」
この状況においてなお、大穴は一切を無視してシラベの顎の下にまた頭を擦りつけては満足げにゴロゴロと喉を鳴らす。三者三様の静止している理由を物ともせず、虚無の穴は欲望に忠実なままだ。
猫になりたい。シラベはそう思った。
前話のアンケートでヒナタの苗字を間違えた禊