ボトムレスピットの夜。夕食を終え、歯を磨いた後。シラベは自室のドアを開けた。
布団の上で、カルメリエルが正座していた。
シスター服ではなく、部屋着のパジャマ姿。ピンク色の髪をゆるく一つに束ねた彼女は、シラベの布団の中央にきちんと膝を揃えて座り、背筋を伸ばして糸目の微笑みを向けていた。
「何してんだお前」
「あら。お部屋で待つようにおっしゃったのはシラベ様では?」
確かにそうだ。夕食の片付けの最中に、後で話があるから部屋で待っていてくれと言ったのはシラベだ。だが布団の上で正座するのは違うだろう。文脈が乗る
「急で不躾なお誘いではありましたが、シラベ様であればどのような要求もお応えするのはやぶさかではありませんわ」
「そういう悪ふざけすんな」
わざとらしく目を伏せながら宣うカルメリエルにシラベは取り合わず、こたつ布団が剥ぎ取られて四角いちゃぶ台と化している机に向かって座椅子に腰を下ろした。春になったとはいえ、夜はまだ少し冷える。こたつ布団を片付けたのは早計だったかもしれない。
「ふざけているつもりはありませんのに」
カルメリエルは残念そうな顔をして見せたが、すぐにいつもの穏やかな笑みに戻り、布団から立ち上がってシラベの向かい側に座った。
机を挟んで、二人きりの向かい合わせの中。シラベは何から切り出せばいいのか迷っていた。頭の中では何度も整理したはずの言葉が、いざ口に出そうとすると混濁する。
カルメリエルはそんなシラベの様子を急かさなかった。糸目の向こうでシラベの逡巡を見つめ、微笑んだまま無言で待っている。この女の沈黙には不思議な質量がある。
「ミトラの事なんだが」
カルメリエルの放つプレッシャーに押し出されたかのように、シラベは口を開いた。
「あいつ、最近様子が変だろ」
カルメリエルは穏やかに頷いた。
ここ一週間、ミトラの挙動は明らかにおかしかった。
部屋に籠りきりになるのは普段のミトラでもあることだ。だが今回のそれは度が過ぎていた。二階から一切降りてこない日もあれば、たまに降りてきたかと思えば、カウンターにいるシラベと目が合った瞬間に踵を返して逃げていく。食事も部屋で取るようになり、まともに言葉を交わす隙がない。カルメリエルが世話役として機能していなければ、人としての生活も危ういレベルだとシラベは思っていた。
「お風呂でも何やらぶつぶつと呟いて心ここにあらず、といったご様子ですわ。恋する乙女のようで、大変可愛らしいですわね」
カルメリエルは頬に手を当て、恍惚とした表情を浮かべた。
シラベはこの女が店やシラベを含めた一同に対しては害をなさない益虫であることを、そろそろ理解しつつあった。しかし、こうして恍惚と微笑まれると別種の不安が湧き上がってくる。自分たちはこいつの娯楽の糧になった覚えはない。
「相談できる相手がお前しかいないから仕方なく聞くが。ミトラの様子を回復させるには、どうすればいいと思う」
「ふむ」
カルメリエルは顎に指を当て、少し考え込んだ。
「相談できる相手と言えば。私の他にも、適役がいるのでは?」
「あ?」
「ヒナタ様なら、ミトラ様の回復に全力を尽くしてくださるかと」
シラベは目を逸らした。ヒナタの名前が出た瞬間に、左腕に刻まれた感触の記憶が蘇った。ニット越しの体温、耳元の囁き声、首筋に掛かった吐息。一週間経っても消えないそれらの残滓を、シラベは意識の外に追い出そうとして失敗した。
「あいつには頼れない」
「まぁ」
カルメリエルの糸目が、わずかに弧を描いた。
「もしやシラベ様も、本格的にミトラ様争奪戦に出陣するご予定で? それでしたら敵方に頼れないというのは分かりますわ」
「そうじゃなくて」
シラベは頭を掻いた。
「ミトラがおかしくなったのは、あいつのせいだから」
カルメリエルの表情がいよいよ好奇心で輝きだしていた。これ以上の情報統制は無理と判断したシラベは、一週間前の出来事を話した。
ヒナタがカウンターの中で腕にしがみついてきたこと。ミトラへの練習だと称して耳元で囁いてきたこと。ミトラが降りてきて、脅しが効かなくなったヒナタを見て処理落ちしたこと。そして最終的に、ミトラがシラベの腹に抱きついたこと。
話し終えるまでにカルメリエルは一切口を挟まず、穏やかな顔で最後まで聞いていた。
聞き終えたカルメリエルはしばらく余韻を噛み締め、シラベに向かって言う。
「シラベ様。この相談を私にしたという事は、もうごまかしは効かないとご理解しておりますか?」
黙るシラベの顔をカルメリエルの糸目が逃さないとばかりに見据える。
「まずシラベ様は、ミトラ様から向けられている想いに自覚はおありですわね?」
直球の言葉にシラベの動きが止まる。それから唇を結び、躊躇を噛み潰すようにして、頷いた。
カルメリエルが胸をなでおろした。大きな胸が揺れる。
「よかった。ここで惚けるようでしたら開頭手術を施すところでしたわ」
シラベは闇の中で昏倒していた故・月山氏を思い出して黙祷した。あの時まで存在していたはずの月山氏は目の前の聖女の手によって作り変えられたのは嫌な事件だったが必要な犠牲でもあった。ああはなるまい。
「そして。ヒナタ様から向けられている想いにも、お気づきですわね?」
続くカルメリエルの確認に、シラベは目を閉じた。
「ああ」
一拍の後、認めた。
「でも、あいつについては正直、何でこうなったのか分からん。最初はミトラ一筋のストーカーだっただろ。それがいつの間にか……」
「あら、ミトラ様から想いを向けられるようになった経緯には、ご納得いただいているようですのね」
カルメリエルの混ぜっ返しにシラベは口を噤む。
「ま、今はこちらの追及は置いておきましょうか。ともあれ、一週間前に何が起きたかをまず整理いたしましょう」
カルメリエルは表情を切り替えた。微笑みの質が変わる。面白がる顔から、分析者の顔へ。
カルメリエルの指が、机の上に見えない図を描くように動いた。
「ヒナタ様は、今までミトラ様へ向けていた愛情を、シラベ様にも向けるようになった。正確には、シラベ様への親愛を隠さなくなったと言うべきかもしれません」
頷くシラベに、カルメリエルは続ける。
「そしてヒナタ様は、それを利用してミトラ様の嫉妬を煽り、反応を引き出そうとした。面白がって、と申し上げるのは少々酷ですが──ミトラ様が咄嗟にシラベ様を取られまいと抱きついたこと自体は、ヒナタ様にとって望ましい結果だったはずです」
「あいつタチ悪いなぁ……」
「両側に女を侍らせていた男の言うセリフではありませんわね。ここまではよろしいですか?」
シラベは物言いをつけてやりたいところを我慢して頷いた。こいつに愛だの恋だのを語られるのは癪に触るが、分析としては的確に思える。人心掌握の為に周囲をよく観察しているのだろうか。
「一週間前はここで終わりました。ヒナタ様は満足してお帰りになり、シラベ様も身体的には解放された、と先ほど伺ったのがここまで。ですが、問題はその後です」
カルメリエルの声が、一段低くなった。
「ミトラ様はヒナタ様が帰った後、妙な拗ね方をしてしまったのだと、私は見ています」
「拗ね方?」
「ヒナタ様とミトラ様。同年代の同性のお二人を比べた時。一般的な男性がどちらを選ぶのかを、ミトラ様は考えてしまった」
シラベの眉が寄った。
「女性としての魅力も、所持する資産も、社会的な立場も。あまりにもヒナタ様は高い壁ですわ。収入も、社会的地位も、身長も、胸も、顔立ちも」
「そこまで並べなくていい」
「失礼しました。ですが事実として、ミトラ様がヒナタ様と自分を比較したならば、勝てる要素はほとんどないと感じたのではないでしょうか」
カルメリエルの声は穏やかだが、内容は容赦がなかった。シラベは大いに反論する準備があったものの、今この時にはそれは不要と理解して口を挟まない。シラベの認識ではなく、ミトラの心持ちが重要なのだから。
「そんな相手がシラベ様に言い寄っているところに、ミトラ様は割り込んだ。甘えるように、縋るように、子供のように抱きついてしまった」
あの光景がシラベの脳裏に蘇る。腹に顔を埋めたミトラの、小さな背中。無言でただしがみついていたあの姿。
「ヒナタ様はそれを見て、愛するミトラ様と愛おしいシラベ様の両方を愛でることが出来て幸せだったでしょう。シラベ様もまた、ミトラ様の嫉妬を心地よく思いこそすれ、憎からず思ったはず」
シラベの否定は無い。
「ですがミトラ様は、そのご自身の行動を、後になって彼女なりに客観視してしまったのではないでしょうか。裕福で美しく企業の社長である女性に言い寄られている男に、無様な縋りつき方をした自分。そういう自分を、ミトラ様は──」
言葉を選ぶように、カルメリエルは一拍の間を置いた。
「──みっともないと思ってしまった。シラベ様に情けない奴だと、そう思われたのではないか。ただヒナタ様に取られるだけでなく、侮蔑されてしまったのなら、もうどうすればいいか分からない。合わす顔がない。そう思い込んだまま、一週間が経った。それが私の分析です」
カルメリエルの言葉が終わってから、シラベは頭を抱えた。両手で顔を覆い、指の間から天井を見上げる。
この分析が正確かどうかは分からない。ミトラの内心を正確に言い当てることは、カルメリエルでも不可能だろう。
だが、理解出来る部分はあった。ミトラの自己肯定感の低さは、今に始まったことではない。ヒナタがバニースーツを着て強襲してきた時、戦いを挑まれるかもしれないという話をしたら、相手になると思われているんじゃないという反応をしていた。あれはヒナタを高く見積もっているというより、自身に対しての劣等感というものも強そうだ。
嫉妬深さも、そこに根差すものなのかもしれない。自信が無いからこそ、今の関係性を崩すような行動を相手がしようとすると不安で仕方が無くなって相手を留めおこうとする。そのための手段が不機嫌になるくらいしか無いのがミトラらしいとシラベは受け入れていたが、ミトラ本人はその受け入れる姿勢すらも自罰の一因としてしまいかねない。
だがそうなると。
「そんな調子だと、俺が何か言うのは逆効果かもな」
いつものミトラなら、シラベが胸襟を開いて語ろうとする姿勢を見せればある程度は応じてくれる。だが今回、シラベにそう思われているかもという思考が彼女に取り付いているのであれば、シラベが奉仕しようとすればするほど逆効果になりかねない。
これだけ譲歩してもらっている、これだけ迷惑を掛けてしまっている。そんな自分を許す事が出来ず、自傷するように全てを切り離そうとする。それがミトラの(シラベ本人が認めるのは勇気がいるが)想い人であるシラベが相手なら、悪循環になってしまう。
シラベはカルメリエルに考察の礼を言おうとした、その時。
「話は聞かせてもらった」
部屋の入り口から、思いもしない声が二人に掛けられた。咄嗟にシラベの背筋が伸びて、カルメリエルも驚いて振り返る。
戸口に立っていたのは、寝間着のジャージ姿であるレヴェローズだった。組まれた腕に乗っかり、布地の限界に挑戦するかのような胸部が自己主張している。夜中だからか声は控えめだが、立ち振る舞いには無駄に堂々とした威厳があった。
「聞かせてもらったじゃねえよ。なに盗み聞きしてんだよ」
「うむ。姉様が着替えの準備の折にいそいそと布地の小さい下着を選んでいるのを見たので──」
言葉を遮るように、カルメリエルが投げた枕がレヴェローズの顔面に直撃した。ぼすっという間の抜けた音と共にレヴェローズの顔が一瞬だけ埋没する。枕を投げたカルメリエルをシラベは注視するが、何事もなかったかのように微笑んでいた。
「なにをする姉様」
「急にハエが来たのでつい」
「ハエを俺の枕で潰そうとするな」
カルメリエルはゴホン、ゴホンとそれ以上の追及をやめるようにわざとらしい咳払いまでする。
レヴェローズは姉の防御力の低さを無視しながら部屋に踏み込んだ。
「店長をどうにかする手段なら、私にいい考えがある」
でかい胸を持った女が、でかい胸を張ったまま、でかいことを言った。
シラベとカルメリエルは無言で顔を見合わせる。
不安しかなかった。