カスレアクロニクル   作:すばみずる

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104 今更……とか言えないし

 ミトラの部屋は、シラベの部屋より少し狭い。彼女が貯め込んでいる私物のカードやゲーム、趣味の品が部屋のスペースを消費しているせいだ。カルメリエルの奉公により、物こそ多いが秩序のある空間が保たれている。

 

 大穴はその一角、布団の上で転がされていた。それはミトラの腕の中でもある。

 

「にゃう」

 

 大穴の鳴き声は、あまり気が乗っていなかった。

 

 風呂上がりのミトラに抱え上げられたのは、もう一時間ほど前のことだ。パジャマ姿の小さな店長は、大穴を抱えたまま布団の上に寝転がり、ごろんごろんと転がっている。

 

 転がるたびに大穴の身体が振り回される。ミトラの細い腕に包まれた猫の体は、仰向けになったりうつ伏せになったりと忙しい。ぬいぐるみのような扱いに大穴は最初こそ短く抗議の声を上げていたものの、もう面倒くさくなってされるがままになっていた。

 

 抵抗しても無駄なのだ。こうなったミトラは長い。大穴はそれを一週間で学んだ。

 

「……今更……とか言えないし……」

 

 ミトラの口から、ぼそぼそと言葉が溢れる。大穴の頭の上に落ちてくる小さな声は、布団に吸われて更にくぐもっている。

 

 転がる。

 

「でもヒナタが……」

 

 転がる。

 

「……職場と財布握ってる状況で言うのは、脅してるようなもんじゃん……」

 

 転がる。大穴の体が持ち上がり、ミトラの顔が大穴の背中に埋まった。ふぅー、と長い息が毛並みを揺らす。人間が猫の毛に顔を埋めて匂いと感触を堪能する行為。いわゆる猫吸いだ。シラベもたまにやるが、ミトラのそれはもっと切実だった。精神安定剤として大穴の存在を消費している。

 

「……もし言って、ヒナタのとこ行くとか言われたら……」

 

「にぃ」

 

 大穴は合いの手のように短く鳴いた。ミトラの呟きの内容は大穴にはあまり理解出来ない。好きとか行くとか、意味自体はぼんやりとは分かるものの、その言葉がどのような感情から引き起こされた連鎖の出力までは追えない。

 

 だが大穴ですら、ミトラがシラベに懸想しているのは分かっていた。

 

 大穴に人間の──あるいは猫の──恋愛事情は知ったことではない。だが今の大穴は生物と同じように感情を持っている以上、好きだとか嫌いだとかいうものがあることは理解しているし、それを基準とした行動が存在することも分かる。

 

 シラベの傍にいることが好きだ。さきいかの味が好きだし、キリメの指が好きだ。レヴェローズの寝袋は息苦しいから好きではない。好悪をカンペキに理解している大穴から見たミトラとシラベの関係は、分かりやすい部類だった。

 

 ミトラは日頃からシラベにべったりと甘えている。膝の上に座り、背中にもたれかかり、腕にしがみつく。その甘え方は大穴のやり方に近いものがあった。

 

 大穴がシラベの肩や頭を占領して縄張りとする一方、ミトラは背中を背もたれにしたり胴体に抱きついたりするのが好きらしく、場所が重なりにくい。競合しない相手である以上、大穴はミトラを許容していた。

 

 これがレヴェローズなら話は別だ。あの金髪の女は勢いよくシラベに体当たりして大穴を落とそうとしたり、キャンキャンと吠えて追い払おうとする。あれは犬だと大穴は確信している。犬とは喧嘩になるものだと、大穴に刻み込まれた呪法が囁いていた。

 

 唯一、膝の上だけは大穴とミトラの取り合いになる場所だった。

 

 だが獲り合いといっても、大体はミトラが先に占領している。大穴が奪取に向かおうとしても、ミトラはそれを甘えに来たと勘違いして自分の膝の上に乗せてしまう。

 

 そして撫でられる。ミトラの撫で方はそれなりに上手い。その指は小さく細く、シラベはもちろんキリメとはまた違った感触を齎してくれた。撫でられると気持ちがいい。気持ちがいいと満足してしまう。満足してしまうと、膝の上の奪還など忘れてしまう。

 

 大穴はミトラを好敵手でもあり、なかなかの策士でもあると認識していた。シラベという共通した相棒を巡る、穏やかな均衡が二者の間にはあると思っている。

 

 その好敵手が、ここ一週間ずっとこうなのだ。

 

「……何であんなことしちゃったんだろ……」

 

 ミトラの顔が、大穴の腹にぐりっと押し付けられた。猫吸いの圧力が増す。毛並みが湿り始めていたが、それが風呂上がりの水分なのか別の液体なのかは判断がつかない。

 

「……もうやだ……」

 

「んんるる」

 

 大穴は低く鳴いた。何に対する相槌なのか、そもそも何のためにこれをやっているのかも分からない。ただ、黙っているよりは何か声を出した方が、ミトラの呟きの間が持つような気がした。

 

 ミトラの指が大穴の背中をゆっくりと撫でた。力は入っていない。撫でているのか縋っているのか、曖昧な手つきだ。

 

 大穴はその手に逆らわず、身を任せた。

 

 たまにはこういうのも悪くはない。シラベの腕の中にいる時とは違う温もりだ。シラベの温もりは大穴にとって幸福の定義そのものだが、ミトラの温もりには別の何かがある。小さくて、弱くて、時々震えている。守るべき何かというよりは、一緒に丸くなっていたい何か。

 

 猫としての大穴が覚えた感覚で言うなら、同じ日向で寝ている同居猫のようなものだ。邪魔をしなければ許す。たまに毛繕いをしてくれるならもっと許す。

 

 ミトラの呟きがだんだんと間遠になっていく。指が大穴の背中で止まり、呼吸が深く規則的になる。

 

 眠りに落ちたのだ。

 

 大穴は抱え込まれたままの姿勢で天井を見上げた。丸い瞳に映るのは古い木造天井の染みだけだ。

 

 今日はシラベのところには行けないだろう。少し残念だった。シラベの布団に潜り込み、彼の心臓の音を聞きながら眠るのが大穴の日課だ。それが出来ないのは不満ではある。

 

 だが小さな人間の温もりが、大穴の不満をゆっくりと溶かしていく。

 

 にゅ、と最後に一つだけ鳴いて、大穴はミトラの胸の上に体を委ねた。ミトラ自身の体温は穏やかで、心臓の鼓動は安定している。眠っている人間の傍にいるのは、猫にとって居心地の良いものだ。

 

 大穴はゆっくりと目を閉じた。喉の奥からゴロゴロと低い音が漏れる。それがミトラの寝息と混じり合い、小さな部屋の中に溶けていく。

 

 

 *

 

 

 そんな日が数日続いていた後。

 

 夕食までの時間を、ミトラの部屋の中でミトラに抱かれて過ごしていた。ミトラはやはりぶつぶつと呟き、時折転がり、大穴に顔を埋め、また呟く。

 

 窓の外は夕暮れの色をしている。いつもなら夕食の支度が始まるはずだが、カルメリエルが台所に立つ気配はまだないようだと大穴は感じ取っていた。

 

 不意に、部屋の扉が開く。

 

「店長よ」

 

 レヴェローズだった。その後ろからは、カルメリエルのピンク色の髪がひょっこりと姿を見せた。

 

 大穴は二人を一瞥して、興味を失った。レヴェローズとカルメリエルが来ること自体は日常の一部だ。

 

 だがミトラはやや警戒する目を向けた。この一週間、ミトラは来客の全てに対して警戒的だ。シラベでなければまだマシだが、精霊たちが揃って来るのは珍しい。

 

「……夕ご飯出来たの?」

 

 レヴェローズは首を横に振った。

 

「今日は外食をするぞ」

 

「はぁ?」

 

 ミトラが困惑した声をあげ、怪訝な顔で金髪の精霊を見上げる。ここ一週間ろくに部屋から出ていない人間に対して外食を提案するのは唐突過ぎるだろうという思いを込めた声だったが、それは黒猫にも金髪の犬にも通じない。

 

「何を急に──」

 

「いいから支度をしろ。ちゃんと良い店を押さえたんだぞ」

 

 レヴェローズは腕を組み、有無を言わさぬ態度で言い切る。いつも以上に強硬的な様子に、ミトラの身体が竦んだのを大穴は感じ取る。

 

 ミトラが言い返そうと口を開いたところで、カルメリエルがミトラの腕の中からひょいと大穴を抱き上げた。

 

 ミトラの腕から引き離される。温もりが遠ざかるが、カルメリエルもまた温かく、そして柔らかい。柔らかさで言えばボトムレスピットの全員の中で最も包容力のある腕と胸だ。

 

「大穴。今日はシラベ様と一緒にいてもらえますか?」

 

「にゃあ」

 

 カルメリエルの胸元に頭を預けている大穴は、その囁きにすぐさま了承の声をあげた。シラベと一緒にいろと言われて断る理由はない。むしろ願ったり叶ったりだ。数日ぶりにシラベの膝に飛び乗れるのだから。

 

 カルメリエルに抱かれて部屋を後にする。廊下に出る間際に、背後からレヴェローズとミトラの声が追いかけてきた。

 

「行かないって言ってるでしょ。面倒くさい」

 

「面倒くさいじゃない! いいから出掛ける支度をしろ! 私がせっかく計画を──」

 

「あんたの計画ってろくなことにならないじゃない」

 

「ええい、いいから黙って私についてくるのだ!」

 

 キャンキャンと言い合う声が階段を降りるにつれて遠ざかっていく。大穴の耳はそれをもう拾わなかった。

 

 カルメリエルの腕に揺られながら、一階に降りる。カウンターの中にはシラベが座っていた。椅子の上で頬杖をつき、スマートフォンの画面を眺めている。

 

 大穴が降りてきたのに気づいて、顔を上げた。

 

「おう。来たか」

 

 カルメリエルの腕から降ろされた大穴は、一直線にシラベの膝に飛び乗った。着地と同時に丸くなり、シラベの腿の上で最も温かい場所を見つける。

 

 シラベの手が大穴の背中に置かれた。不器用で、力加減にむらがあって、猫の急所をまだ完全には理解していない。いつもの手だ。だがこの手が好きだ。大穴は目を閉じて、喉の奥でゴロゴロと鳴らす。

 

「上が騒がしいけど、レヴェローズに任せて大丈夫なのか?」

 

「問題ありませんわ。今のミトラ様には、いくらか強硬に出る方が早いですから」

 

 二階からは、まだレヴェローズとミトラの言い争う声が微かに聞こえている。カルメリエルはシラベと何かを話しながらバックヤードのカーテンの向こうに消え、準備をしている気配があった。

 

 だが、大穴には関係ない。シラベの膝の上は温かく、鼓動は遠いが骨を通じて伝わってくる。どうやらまだ騒がしく動くようだが、今日はそれでもいい。

 

 今日は相棒と共に居られる。それだけで、大穴は満足だった。

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