駅前の雑居ビル三階。個室居酒屋『黄道の雌鶏』の受付で、カルメリエルは穏やかな笑みを湛えてミトラの横に立っていた。
来店していたのはミトラ、レヴェローズ、カルメリエルの三名。レヴェローズは店を出てからずっと上機嫌で、金色の髪を無造作に束ねたポニーテールを揺らしながら店内の装飾をキョロキョロと見回している。ミトラは渋々引きずり出された不機嫌を隠すつもりもなく、パーカーのフードを目深に被っている。
店員がカウンターの向こうから三人を確認し、口を開きかけたところでミトラが先手を打った。
パーカーのポケットから免許証を取り出し、無言で差し出す。慣れている所作だった。居酒屋に入るたびに年齢確認を求められることへの、長年の実績に裏打ちされた先制防御だ。
店員は免許証の写真と、フードの奥のミトラの顔を見比べ、一瞬だけ信じられないような表情を浮かべた。写真の生年月日と、目の前に立つ小柄な人間の外見が、脳内で全く結び付いていないのがカルメリエルの観察眼でなくとも見て取れる。
「……確認できました。ありがとうございます」
プロとしての矜持で平静を装った店員が、三人を個室へと案内する。カルメリエルはミトラの背中を見つめながら、己の主の内心を慮る。こういう彼女にとっての日常の些事がいまボヤ騒ぎを起こしている劣等感の小さな養分になっていることを、本人は自覚しているのだろうか。
個室は掘りごたつ式の四人席だった。仕切られた空間は声が漏れにくく、今夜の目的には好都合だ。
三人が席に着く。ミトラは掘りごたつの中に足を投げ入れ、背もたれに体を預けることなく、フードを脱いで不本意そのものという顔を晒す。
「なんでシラベは来ないの」
開口一番がそれだった。カルメリエルは笑い声が溢れるのをどうにか抑える。
「ここ最近、シラベ様のお顔を見て逃げ出していたのはミトラ様ではありませんか」
その指摘にミトラの口が引き結ばれた。反論する余地のない事実だ。それでもプライドの高い死んだ魚のような目がカルメリエルを睨んだが、カルメリエルの余裕には何ら影響を及ぼさない。
「今日は私達だけで酒を酌み交わし、腹を割って話そうではないか」
レヴェローズがミトラの向かいに堂々と腰を据えた。腕を組み、無駄に貫禄ある面持ちでテーブルを見下ろしている。酒を酌み交わすなどと言っているが、この女が酒を嗜む姿をカルメリエルはほとんど見たことがない。
「あんたら酒飲まないじゃん」
ミトラもそれは同様だったようだ。当然に指摘すると、レヴェローズがメニュー冊子を手に取りながら言う。
「飲めないではない。飲まなかったのだ。ここは甘い酒を置いているらしいぞ」
ほれ、と広げるメニューには果実酒や蜂蜜酒の類が並んでいる。
「契約者もミトラもヒナタも、家ではワインだのビールだの変に苦いのばかり飲むではないか。あの味を美味いと言う人間の舌を私は疑っている」
「子供舌ね」
ミトラが鼻で嗤う。久しぶりに彼女の口から出た毒だった。少し調子を見せてきた事に、カルメリエルは密かにホッとする。ミトラはこうでなくてはならない。
「否定はしないが、貴様に言われると釈然としないのだが」
「何よ、飲めないなら飲めないって言えばいいじゃない」
「だから、飲めないのではない。苦いものが嫌いなだけだ」
ボトムレスピットの日常そのものの口論を、カルメリエルは静かに眺めていた。
部屋に籠もっていたミトラを引きずり出したのはレヴェローズの功績だ。あのポンコツの力業がなければ、ミトラは今頃も布団の上で大穴を抱きしめてぶつぶつ呟いていただろう。
そういう真似が出来るのはシラベかレヴェローズで、シラベは今はミトラの前には出せない、カルメリエルがやるのは美意識に欠けるので遠慮したかった。
こんな妹でも役に立つものだと、カルメリエルはレヴェローズへの評価を僅かながら上方へ修正した。
「ともあれ、注文してしまいましょう」
カルメリエルが広げたメニューを指差しながら場を仕切る。個室居酒屋のメニューは品数が多く、写真つきのページをめくるだけでも食欲をそそられた。カルメリエルの目は自然と食材の質と価格のバランスを査定してしまうが、今日は経理の目は閉じておくことにする。
準備の際にシラベが持たせてくれた封筒の中身は、ヒナタからの謝礼の一部だ。経費ではなくシラベの私費から出ている以上、有意義に使わなければならない。
レヴェローズが真っ先に指差したのは、見開き一面に大きく載った写真だった。
「これだ。この店の名物らしいぞ。鶏を一匹丸ごと揚げたものだと」
カルメリエルは内心で苦笑した。
以前にレヴェローズが提案したいい考えとは、シラベのいない場でミトラに愚痴を吐き出させるというものだった。
シラベがいる場ではミトラは萎縮してしまう。ならばシラベを排除した環境で、女だけの場を作り、酒の力も借りて本音を引き出す。理に適っている。ポンコツの脳味噌でよく考えたものだとシラベとカルメリエルもその場で感心していた。
もっとも、レヴェローズがこの店を選んだ真の動機が、この鶏の丸揚げにあった可能性は否めない。カルメリエルはメニューの写真を見つめるレヴェローズの瞳が爛々と輝いている今の状態を見て、九割方そうだろうと確信した。
だがシラベとしても、自分にはどうにもならないとさじを投げざるを得ない状況において、リターンが見込めてリスクの少ない案として採用する判断は妥当だった。カルメリエルも同意見で、少しばかりの手直しを加えた上で計画にゴーを出した。
「鶏丸ごとって何人前あんのこれ」
「残ったら私が食う」
「でしょうねエンゲル係数加速器」
ミトラの突っ込みにも歯切れが出てきている。良い兆候だ。
注文を済ませ、飲み物が運ばれてくる。ミトラはジョッキのビール。レヴェローズは蜂蜜酒。カルメリエルも、レヴェローズに倣って蜂蜜酒を選んだ。
「うむ、それでは……こういうのは最も地位が高い者が音頭を取るのか? よし、なら」
「かんぱーい」
「はい、乾杯ですわ」
「なぁっ!? そ、総督を無視するな店長!! ……かんぱいっ!」
一人で漫才をするレヴェローズを無視して、一同は杯を軽く合わせた。
ミードとも呼ばれるらしい、琥珀色の液体がグラスの中で揺れている。一口含むと、蜂蜜の甘さが舌に広がり、その奥からアルコールの熱がじわりと追いかけてきた。
確かに甘く、飲みやすい。だがカルメリエルの喉の奥を滑り落ちていくそれは、甘さの仮面をかぶった酒であることに変わりはない。
カルメリエルには懸念があった。
ミトラに愚痴を吐き出させるのが今夜の目的だ。だがミトラが本音を漏らすようになるには、この場の雰囲気だけでは足りない。ある程度は酒に酔ってもらわなければ、あの頑なな殻は割れないだろう。
そしてミトラが飲みやすくするためには、周囲の二人──レヴェローズとカルメリエルも酒を飲んでいるのが自然だ。しらふの人間が向かいに座っている状況で、一人だけ酔っ払うのは誰にとっても居心地が悪い。
問題は、カルメリエル自身がアルコールに慣れていないことだった。
ボトムレスピットで不定期に行われる宅飲みで、試しに口にしたことはある。シラベから一口だけもらった缶ビールは、苦みと炭酸の合わせ技がカルメリエルの繊細な舌を直撃し、精霊としての矜持を総動員してようやく飲み下した。
あの時に苦手な味だと判断して以来、自分は酒のツマミを作る方に専念し、飲む側には回っていない。そのせいで、自分の酒量の限界をカルメリエルはよく知らなかった。
「む、店長よ。この温めた奴もうまいぞ。試してみるか」
「あんたペース早すぎじゃない。もっと丁寧に飲みなさいよ。私は財布出さないからね」
愚かな妹はと言えば、甘いから美味いとばかりに蜂蜜酒をかっぱかっぱと飲んでいる。一杯目を空にしたかと思えば、すかさず頼んだ二杯目を味わっている。顔色は変わっておらず、声の調子も同じだ。酔う兆候は一切見られなかった。
カルメリエルは脳の構造と酒の強さの因果関係を探りたくなったが、ともあれレヴェローズは酒に強いらしい。
一方のカルメリエルは、一杯目を飲み終えた時点で酔いと思しき熱が身体の芯に宿り始めていた。
頬が熱く、指先が少しだけ鈍い。思考の輪郭に、霞のようなものが掛かっている。自他ともに認めるはずの明晰な判断力に、ほんの僅かな遅延が生じている。
これは、まずい。
しかし、ここで止めるわけにはいかない。ミトラはまだ一杯目のジョッキを半分しか飲んでいない。本音を引き出すには、もう少し場を温める必要がある。そのためにはカルメリエルも飲み続けなければならない。
これはいわゆるチキンレースなのかもしれない、とカルメリエルは思った。ミトラが酔って本音を漏らすのが先か。カルメリエルが酔い潰れるのが先か。
そこにはシラベとミトラの関係回復の成功以上に、聖女としての矜持が問われている。王女としてこんなところで膝を折るわけにはいかない。妹ですら飲み干している蜂蜜酒ごときに負けてどうする。
カルメリエルは覚悟を決めた。
「店員さん、おかわりをお願いしますわ」
通りがかりの店員に掛けた声は、装ったにしては完璧に穏やかだった。意図した微笑みも崩れていない。だが営業努力の賜物らしい速度で用意されたグラスを受け取る指先に、ほんの僅かなためらいが混じっていたことを、カルメリエルは自覚していた。
ミトラがビールを一口啜りながら、カルメリエルを横目で見た。
「あんた、顔赤くない?」
「気のせいですわ」
「何言ってんの。あんたも飲んでるとこ見たことないけど、弱いんじゃないの」
「私は嘘を申しません」
嘘を吐きながらカルメリエルはごまかすためにグラスに口を付ける。柔らかな口当たりが心地良く、一杯目に鼻を突いたはずの酒精の香りが馴染みつつあるのが逆に恐ろしい。
レヴェローズは三杯目の蜂蜜酒を傾けながら、切り分けられた鶏の丸揚げにかぶりついている。油の滴る黄金色の鶏肉を豪快に頬張る姿は威厳とは程遠いが、心底幸せそうだった。
「どうした姉様、私を見て。独り占めなどしておらんぞ。鶏ならここに分けてある」
「ええ、いただきますわ」
カルメリエルは箸を持ち上げた。手元が揺れないよう意識して力を込めながら、どうにか鶏肉を口に放り込む。
神聖機甲帝国ドゥブランコ第二王女、機械聖教主席大司教、『
目的を見失いつつある意地が、カルメリエルに杯を傾けさせ続けた。