三杯目に頼んだ梅酒に口を付ける頃には、カルメリエルはすっかり出来上がっていた。
「しらべしゃまぁ……おふとんの上でぇ……待ってましゅって、言ったのにぃ……」
糸目がとろんと蕩け、白い頬は桜色に染まっている。箸を持てば行き場に迷い、グラスを持つとしきりに指が宥めるように這う。口元には揚げ物の衣かすが付いておりどこかふにゃふにゃした様子で呂律が回っておらず、普段の聖女然とした佇まいは影も形もない。
レヴェローズは呆れていた。計画の相談をしている時には酒なんて人間が嗜むものにドゥブランコ王家のものがどうこうなることなどないと高を括っていたのがこのザマだ。
「姉様、飲めないのなら無理に飲まなくても良いのだぞ」
「むりなんてぇ、してませんわぁ。わたくしはまだまだぁ……」
カルメリエルは梅酒のグラスをぐいっと傾けた。半分ほど残っていた液体が一気に艷を湛えた唇の隙間に落ちていき、直後にカルメリエルの上半身がゆらりと揺れた。
そしてそのまま、くたりと横に倒れた。
掘りごたつの座席に横倒しになったカルメリエルは、ピンク色の髪を座布団に散らし、穏やかな寝息を立て始めた。微笑みすら浮かべている。
「……ねぇ、大丈夫なのこれ」
ミトラがジョッキを片手に、倒れたカルメリエルを覗き込んだ。
「放っておけ。どうせ寝れば治る」
根拠はないが、自分や姉がこの程度で壊れる器ではないことをレヴェローズは知っている。少なくとも酒に負けて死ぬようなヤワな造りはしていない。
哀れな姉のことよりも、レヴェローズは気にするべき点があった。本来ならここからが姉の出番だったはずだというのに。
カルメリエルは計画の段階で言っていた。ミトラの本音を引き出すには、言葉巧みに誘導する必要がある。私が話の流れを作り、自然とミトラ様が胸の内を語り出すよう持っていきますわ、と。自信に満ちた口調でレヴェローズとシラベに言っていた。
それが今、座布団を枕にして寝ている。
姉の不始末は、妹が責任を取らねばなるまい。
レヴェローズは内心で使命感に火を入れた。カルメリエルのような繊細な話術は持ち合わせていない。だが、言うべきことを言う勇気なら誰にも負けない自負がある。
問題は、言うべきことが何なのかが今ひとつ分からないことだが、それは走りながら考えることにした。
横たわる姉を無視して、レヴェローズとミトラは向き合った。
テーブルの上には鶏の丸揚げの残骸と空のグラスが並んでいる。ミトラは四杯目のジョッキを既に空にしており、五杯目に取り掛かっていた。ビールの泡が唇についているのを袖口で拭う姿は見た目に反して貫禄を感じさせる。
だがその目は、ジョッキを空にするごとに段々と据わっていた。酔いが回っているのか、あるいは酔いとは別の何かが溜まっているのか。
「……そういえば、契約者のことだが」
レヴェローズは蜂蜜酒を一口舐めながら、軽い調子で切り出した。走りながら考えるとは言ったが、本題に触れないことには始まらない。
ミトラの目が、ジロリとレヴェローズを射抜いた。
「シラベがなによ」
声が低い。酔いのせいで平坦になった声には、刃物のような鋭さが残っていた。
「どうせあいつは、私がいない間にヒナタと会ってるんでしょ」
「契約者はそんなことしていないぞ」
レヴェローズは断言した。事実だ。この一週間、シラベはヒナタと会っていない。ボトムレスピットへのヒナタの来訪もなかった。レヴェローズが常にシラベの傍にいるのだから間違いない。
だがミトラは、ふんと鼻で笑った。
「いいじゃん別に。女社長と付き合えば逆玉の輿になるでしょ。あいつ給料安いし、ヒナタならもっと良い条件で雇ってくれるんじゃない」
捨鉢で投げやりな声には自嘲が滲んでおり、本心からそう思っているわけではないことはレヴェローズにも分かる。分かるが、面倒くさい。
レヴェローズは言葉を選ぶことを放棄した。カルメリエルならば頭を抱えるだろうが、あの女は今寝ている。寝ている者に発言権はない。
レヴェローズは蜂蜜酒のグラスをテーブルに置いた。
「なぜそんなことを言うのだ。店長は契約者が好きなのだから、もっと繋ぎ止めようとするべきだろう」
直球ど真ん中ストレートをレヴェローズが放ると、ミトラは黙り込んだ。
ジョッキを持つ手が止まり、据わった目がテーブルの上の一点に固定される。唇が引き結ばれ、眉間に皺が寄っていく。
いかん。まだ早かったか。レヴェローズは内心で焦る。カルメリエルならここで巧みな緩衝材を挟み、ミトラが自ら語り出すような空気を作るのだろう。だがレヴェローズにはそんな芸当は出来ないのだから仕方がない。
沈黙が伸びていき、カルメリエルの寝息だけが個室に響いている。掘りごたつの中でレヴェローズの足が落ち着きなく動いた。
ミトラが、ぽつりと口を開いた。
「……最初は便利なバイトが来たなくらいに思ってた」
声のトーンが変わっていた。先ほどまでの投げやりな調子が消え、言葉を一つずつ口の中で転がしてから出しているような、慎重な声だった。
「まぁどうせ、私がいつもの調子してるとすぐ辞めちゃうんだろうなって。でも意外と長続きしてるし」
ミトラの指がジョッキの縁をなぞった。円を描く指先が、記憶を辿るように動いている。
「どんだけワガママしても文句言いながらやってくれるし。じゃあどれくらいまでやってくれるのかなと思ったら、全部応じてくれるし」
声が少しずつ熱を帯びていく。
「膝に乗ってものしかかっても許してくれて、ぎゅってしてくれて。でも乱暴なことはしなくて」
レヴェローズは黙って聞いていた。口を挟む余地はなかったし、挟む必要もなかった。ミトラの言葉は一度流れ出すと、堰を切った水のように止まらなくなっていた。
「そんな若い男が一つ屋根の下にいたら、好きになるに決まってるじゃん」
ミトラの声が一段上がった。ジョッキをテーブルに置く音が、個室の壁に反響する。
「だいたいこっちはもう35歳で後が無いし。っていうか独り身で死んでくんだと思ってたし。そこにあんな都合のいい男が出てきてさ」
ミトラは片手で髪を掻き上げた。乱れた黒髪の下から紅潮した顔が晒される。据わっていた目には怒りと恥ずかしさが混ざっている。
「普段は普通に接してるっていうか、ガキみたいな扱いしてる時すらあるのにこっちが膝に乗ったり抱きついたりしてると、あ、ドキドキしてるって。女として意識してくれてるってなんとなく分かるのに、変に手を出してきたりしないし」
ミトラの手が自分の胸元を掴んだ。
「でもちょっと抱きしめてくれたり頭撫でてくれて。こいつ絶対女に慣れてるじゃんって思うけど、でもそんな奴が自分のとこで働いてくれてて」
声が震え始めていた。泣いているのではなく、感情の出力がうまく利かないらしい。
「ゲームに誘えば付き合ってくれて、遊びにも連れてってくれるし、甘やかしてくれるし。こいつ私をダメにするために派遣されてきたのかよ。ダメにされるじゃん」
ミトラはジョッキを掴み直し、残っていたビールを一気に煽った。喉が上下する。空になったジョッキがテーブルに叩きつけられた。
「ダメになっていいかなって思うでしょ!」
レヴェローズは思わず頷いた。ミトラの目がレヴェローズを捉える。酔いと激情で赤く染まった顔は普段の店長とは別人だった。
「で、そんな奴が同級生のデカパイ女に言い寄られてるの見せられたら──」
ミトラの声が、個室の壁を震わせた。
「正気でいられるわけないじゃん! そうでしょ!」
レヴェローズは気圧されていた。
「……うむ。そうだな」
レヴェローズにはそれしか返せなかった。言葉の弾幕に圧倒されて、戦場での判断力が役に立たない。
ボトムレスピットの店長は、普段は怠惰で気だるげで、必要最低限の言葉しか発しない小さな女だ。その女が今アルコールの勢いで感情の全てを吐き出している。
「それほど思っているのなら、そう伝えればいいではないか。契約者に」
レヴェローズは自分の蜂蜜酒を一口含み、そうしてくれれば話が早いとばかりに指摘した。
するとミトラの勢いが一転してしょぼくれる。風船から空気が抜けるように、先ほどまでの気迫が萎んでいく。肩が落ち、視線が下がり、小さな身体がさらに縮こまった。
「……今あいつの金銭面も衣食住握ってるの、私なのに。そんな奴が好きになったとか言ったら、あいつも断れないでしょ」
ぼそりと呟く声は、先ほどまでの怒号とは対照的に、消え入りそうだった。
言い訳だとレヴェローズにも分かった。ミトラ自身にも分かっているだろう。だがその言い訳こそが、ミトラを縛り付けている鎖なのだ。
「……それに」
ミトラはジョッキの空を見つめたまま、声を落とした。
「ヒナタと私じゃ、経済力も胸も全然勝負にならないだろうし。あいつ、おっぱい大きいほうが好きでしょ」
レヴェローズは口を開きかけて、閉じた。
レヴェローズ・ドゥブランコの胸は豊満であった。カルメリエル・ドゥブランコの胸はレヴェローズをやや上回る豊満であった。その二人と日常的に同居しているシラベが巨乳好きであるかどうかについて、レヴェローズは何を言わんやとも言えたが、今この場でそれを口にするのは得策ではない気がした。
代わりに、レヴェローズは別のことを言った。
「店長」
レヴェローズは腕を組み、天井を仰いだ。人間の恋愛事情は複雑すぎて、総督閣下の軍略では処理しきれない。
だが一つ、確信していることがある。
「契約者は、少なくとも胸の大きさで女を選ぶような男ではないと思うぞ」
そう言い切った自分の声に、嘘が混じっていないことをレヴェローズは確認した。シラベがどういう基準で人を評価しているのかレヴェローズは完全には分かっていない。だが、あの男がミトラの膝の上の重みを許し、背中の体温を受け入れ、髪を梳いてやっている時の手つきに嘘がないことだけは傍にいれば分かる。
ミトラは何も言わなかった。ジョッキの縁ををぐるぐると指先でなぞっている。
個室の中に、カルメリエルの寝息と、遠くから聞こえる店内のざわめきだけが満ちていた。
「……もう一杯頼む」
ミトラがぼそりと言った。
「ああ。私もだ」
レヴェローズは店員を呼んだ。
夜はまだ続いている。言い足りないことも、聞き足りないことも、まだたくさんあるだろう。
だが少なくとも、ミトラの口からあの男への想いが溢れ出したことだけは、そしてそれが姉に代わって成し遂げたのであれば、誇るべき手柄として記録しておいてもいいだろうとレヴェローズは思った。