一人での夕食を終えたシラベは、座椅子にもたれかかりながら大穴と過ごしていた。猫じゃらしの棒を振れば黒い影が跳ね、腰をトントンと叩いてやればんぐるるるると満足げな音が響く。
外食組が帰ってくるまでの手持ち無沙汰を、猫とふたりで潰す。それがミトラの機嫌を良くするための計画で、自分の手から離れている不安はあれど、悪くない夜だった。
そう思っていたシラベの横面を叩くようにスマホが鳴った。猫じゃらしを置き、画面を見る。表示されていた名前に、シラベは眉をひそめた。
兼定キリメ。
キリメが『黄道の雌鶏』にバイトとして務めていることは、準備段階の時点でカルメリエルが何故か把握していた。あの女の情報網は隅々にまで張り巡らされているので、驚きはしなかったが薄気味悪くはあった。
とはいえキリメに何か大きな役割を頼んだわけではない。万が一の際にシラベが現場へ突入することになった時の手引き、あるいは不測の事態への保険として事情を軽く伝えておいただけだ。こうして連絡をよこしてくる予定はなかった。
嫌な予感がした。
「もしもし」
『あ、出た出た。悪いんだけどさ、シラベ』
キリメの声には、挨拶を省略する程度の切迫感があった。
『あんたら一行入ってしばらく経つんだけど、カルメリエルさんが酔っぱらって寝ちゃってるし、残った二人はヒートアップして苦情来るほどだしさぁ』
シラベは眉間に揉み解さざるを得なかった。自信満々の様子だったカルメリエルの顔が脳裏に浮かぶ。
やっぱポンコツの姉はポンコツだ。最近は上向いていた評価を、シラベは即座に下方修正させた。
『何企んでんのか知らないけど、回収に来てくんない?』
「迷惑かけてすまん。すぐ行く」
『頼むよマジで。あ、それと』
キリメが付け加えた。
『あの店にいっつもいる小さい子。なんか35歳って書かれた免許証出してきたって聞いたんだけど、マジ?』
「ああ。うちの店長だよ、あいつ」
『えぇー……』
困惑の強い声を聞き流して、シラベは通話を切った。別に秘密にしている事でもないが、それをキリメが受け止められるかは知った事でない。
シラベが立ち上がると、大穴はお出かけと見るや即座にシラベの肩に飛び乗った。ぐりぐりと頭を押し付けてくる。
「酒臭い奴らを回収するだけだから、面白いことはないぞ」
「にゃあ」
大穴は聞いていなかった。シラベは溜め息をつきながら上着を手に取り、ボトムレスピットの裏口から夜の街へと踏み出した。
*
二十分ほど歩き、店が入っている雑居ビルの前に着いた。
入り口には既にレヴェローズが立っていた。金色の髪と軍服めいたコートが街灯の下で浮かび上がっている。その横でミトラがビルの壁にもたれかかりながらしゃがんでいた。パーカーのフードを被り、膝を抱えて縮こまっている。顔は見えない。
そしてカルメリエルが、へにゃんとした様子でレヴェローズに抱きつくようにもたれかかっている。糸目は蕩けきっており、立っているのがやっとという体だ。
シラベを認めた瞬間、カルメリエルがぱっと顔を上げた。
「しらべしゃまぁ……」
レヴェローズから離れたかと思うと、カルメリエルは千鳥足でシラベに駆け寄ってくる。そのまま正面からシラベに抱きつき、豊満な柔らかさが彼女の全体重を伴う形でシラベに押し付けられた。
「お迎えに来てくださったのですねぇ。嬉しいですわぁ……」
「おい」
レヴェローズがカルメリエルの襟首を掴み、ぐいと引き剥がした。
「余計な真似をするな姉様。今は店長が優先だ。そういう協定を結んだのだぞ」
なにやら分からないこと言いつつも、レヴェローズは珍しく手際が良い。言われていることを理解しているのかいないのか、カルメリエルはレヴェローズの腕に回収されてもぶらんと脱力したままにこにこと笑っている。酔っ払いの幸福は底が浅くて羨ましい。
「面倒を掛けたな、契約者。迎えが来ているからとキリメに追い出された」
レヴェローズは不満げに口を尖らせつつ、レシートと封筒をシラベに差し出した。
封筒を受け取る。出発前に渡しておいた金だ。ある程度の覚悟はしていたものの、封筒の薄さが指先から伝わってきた。ヒナタからの謝礼とはいえ、シラベの私費だったはずのものだ。寂しい。
長々と印字されたレシートはカードのシングルを買い込んだ時もかくやとばかりに巻かれており、その金額を直視する勇気は今のシラベにはなかった。
レヴェローズはぐにゃりとしているカルメリエルを、どこで覚えたのか綺麗なファイアーマンズキャリーで肩に担ぎ上げた。カルメリエルの身体がレヴェローズの肩に乗り、ピンク色の髪がさらりと垂れ下がる。
「ふぁ……ゆれますわぁ……」
「大人しくしているがいい。吐くなよ」
さらにレヴェローズは空いた片手でシラベの肩から大穴を掴み取った。
「にゃっ」
大穴が短い抗議の声を上げたが、レヴェローズは構うことなく自分の胸に乗せてやる。大穴はすぐにシラベへ飛び移ろうとしたが、コラとレヴェローズが声を掛ける。
「今はダメだ。お前も少しは協力しろ」
大穴は不愉快そうに尻尾を何度もうねらせたが、珍しくレヴェローズに対して根負けしてレヴェローズの胸元へと潜り込んでいくことを選んだ。
「では、店長のことは頼むぞ契約者」
「おい待て、どういう会話をしたのかくらい──」
シラベが言う事も無視して、そのままカルメリエルを担いだレヴェローズは、何の引き継ぎもなく先に歩き出していった。
あいつに社会人生活は無理だ。シラベは内心で毒づいた。ミトラの前だから詳しい話しは難しいにしろ、どういう話をしたのか、何がどうなったのか、なにかしらの一言の報告もない。上司への報連相という概念がドゥブランコ王家には存在しないらしい。
レヴェローズの背中が夜の街に溶けていく。シラベはビルの壁にもたれてしゃがんだままのミトラに意識を向けるしかない。
シラベは覚悟を決めて、ゆっくりとミトラへ近づいた。
ミトラは逃げない。ここ一週間、シラベの顔を見れば踵を返して逃げていたミトラが、フードの奥から今はじっとシラベの顔を見ている。
シラベはどうしたものか迷った。カルメリエルの分析も、レヴェローズの作戦報告もない。手探りだ。
まず、一言。
「帰るか」
ミトラは、こくりと頷いた。
「おんぶすればいいか?」
いつもの調子で訊いた。ディーヴァ・アリーナの帰りも、疲れたミトラをおんぶして歩いた。あの時と同じ距離感のつもりだった。
ミトラは一瞬固まり、首を横に振った。
「抱っこがいいのか?」
首を横に振る。
ミトラはゆっくりと立ち上がった。しゃがんでいた小さな体は、立ち上がっても尚小さい。背丈はシラベの胸ほどしかなかった。
片手が、シラベの方へ差し出される。
「手、繋いで」
「おう」
短く返したシラベは、ミトラの小さな手を握った。冷えた指先が掌の中に収まる。
数歩進んだところで、ミトラが口を開く。
「やっぱり、酔い覚ましにちょっと歩きたい」
「分かった」
シラベは応じる。このままレヴェローズたちに追いついても面白いことにはなるまいと、シラベも思っていた。
ボトムレスピットへの最短ルートではなく、一本横の通りに折れる。少し遠回りになるが、夜の住宅街は静かで人通りも少ない。夜の散歩には丁度良かった。
無言のまま歩く。
繋いだ手の温度だけが、二人の接点だった。ミトラは何も言わない。シラベも何も言えない。
シラベは内心で考えを巡らせていた。
とりあえず、ミトラから避けられてはいない。一週間続いた逃亡劇は終わったらしい。ガス抜きは出来たのだろう。レヴェローズに感謝するべきかもしれない。カルメリエルは知らん。
だが、いつものワガママで甘えてくる感じとはまた違う。自分の権力でも誇示するかのように、ミトラはシラベに伸し掛かったり顎で使ったりするのを好んでいる、とシラベは認識していた。試し行動としては可愛い部類とシラベは受け入れていたものの、それが今は鳴りを潜め、ただ手を繋ぐことだけを求めている。
慎みを覚えたのか、距離感を測っているのか。どういう心の整理がついたのか、シラベにはまるで分からなかった。
「靴紐」
「ん?」
ミトラがぼそりと言う。
「ほどけてる」
シラベは足元を見た。右足のスニーカーの紐が、確かに緩んでいた。
「ああ、悪い」
手を離し、しゃがんで靴紐を結び直す。冷えたアスファルトに片膝をついて、指先で紐を通していく。
結び終えて、顔を上げようとした時だった。
頭を、抱きしめられた。
ミトラの両腕がシラベの頭に回された。小さな手が後頭部を包み、薄い胸がシラベの額に押し付けられる。服越しに伝わる体温と、かすかな心臓の鼓動。
シラベの手が、靴紐の上で止まった。
ミトラの腕に正面から抱かれている。しゃがんだシラベと立っているミトラでは、丁度ミトラの胸の高さにシラベの頭がある。いつもとは逆の構図だ。いつもはシラベがミトラを抱え上げる側なのに、今はミトラがシラベを包んでいる。
「……私は、さ」
ミトラの声が、頭の上から降ってきた。ぽつり、ぽつりと。言葉を一つずつ確かめるように。
「人付き合いとか全然しないし。どういう段階踏めばいいのかとか、どう伝えればいいのかとか、全然知らないから」
か細い声は震えていた。
「変なこと言うかもだけど、聞いて」
シラベは動かなかった。動けなかった。ミトラの腕の中で、ただ聞いていた。
「今の、うちはさ。シラベがいて、レヴェとカルメリエルがいて、大穴がいて。ヒナタが遊びに来て、他の常連客がいる。……そういう今の店が、居心地良いって、私は思ってる」
ミトラの指が、シラベの後頭部をそっと撫でた。不器用な手つきだった。いつも撫でられる側のミトラが、初めて撫でる側に回っている。
「今の関係がずっと続くなら、それでいいと思ってた」
言葉が途切れた。
数秒の沈黙。シラベの鼓動が、ミトラの胸に伝わっているだろうか。少なくともミトラの鼓動は、シラベを揺らし続けていた。
「最低のことを言うって自覚はあるけど、聞いて」
ミトラの声が小さくなる。
腕の力が、少しだけ強くなった。シラベの頭に縋りつくように。
「私は、ワガママだから」
震えている。声も、腕も。
「自分が一番でいることより、ワガママでいたいから」
シラベはミトラの言葉を、一語も逃さないように聞いていた。
「ヒナタでも、レヴェでも、カルメリエルでも、他の誰と一緒になってもいいから。私を一番にしなくていいから」
声が裏返りかけているが、ミトラはそれを押しとどめている。頭に触れる手の力みが、それをシラベに伝えていた。
「それでもずっと、私のお店にいてください」
ミトラの声が、限界に達していた。
「一緒にいないと、もう、耐えられないから」
言い終えた後、ミトラの腕がわずかに緩んだ。
力が抜けていく。抱きしめていた腕が、ゆっくりと離れようとしている。
それがシラベには、離れていってしまう予兆に思えた。言う為の勇気が枯れた後、言ってしまった事への後悔がミトラを蝕もうとしている。
それを払いのけるように、シラベはミトラの腰に腕を回した。しゃがんだ姿勢のまま、小さな身体を抱き返す。パーカー越しの華奢な腰が、シラベの腕の中に収まった。
ミトラの体が強張った。
シラベは無言のまま立ち上がった。ミトラを抱き上げる。片腕で腰を支え、もう片腕で背中を包む。小さな体が宙に浮き、シラベの胸の高さに収まった。
「ぅ、あっ」
ミトラが短い声を上げるが、暴れはしなかった。シラベの腕に抱かれたまま、大きな目でシラベの顔を見上げている。
街灯の光が、ミトラの顔を照らしていた。涙の跡が頬に光っている。赤らんだ目が、シラベを真っ直ぐに見つめていた。
答えは決まっている。だが、応じるだけではダメだ。
「俺はまだ、ミトラに比べればガキで」
シラベの声は、自分でも驚くほど静かだった。
「社会から蹴り飛ばされた後すぐに復帰できる気概もなくて。腐っていくような人生を送ろうとしたやつだけど」
ミトラの目が揺れ続けている。呼吸が短くなっているのが見て分かる。
「レヴェローズを甘やかしちまうし、カルメリエルをもうそんなに悪い目で見れないし、ヒナタを押し退けられるほど意思は強くないような男だけど」
全部、本当のことだ。偽る言葉はない。ミトラはシラベを、自身から不可分と見てくれていたのは嬉しかったが、それでもシラベの自認では自分はどうしようもない男だった。こうしてミトラから踏み込んでもらえなければ、未だ足踏みをしていたほどに、どうしようもない。
だがそれでも。言われて応じるだけの男にだけはなりたくなかった。
「それで良ければ。俺をずっと、店に置いてください」
ミトラを抱き上げたまま、シラベは正面からその顔を見る。
ミトラの目から、ぽろぽろと涙が溢れた。
声は出ていない。唇が震えて、何かを言おうとして、言葉にならないらしい。代わりにミトラは、何度も何度も頷いた。小さな頭が、シラベの腕の中で揺れる。
ミトラの両手がシラベの頬に触れた。冷たかった筈の指先が、ひどく熱くなってシラベの顔を引き寄せる。
唇が重なった。
柔らかく、ビールの苦みと、涙の塩味と、その奥にあるミトラの温度が、シラベの唇に伝わる。
短い口づけが終わった時。ミトラの顔は涙と赤みでぐしゃぐしゃだったが、その目だけは笑っていた。
*
少し後。ミトラを抱っこしたまま、シラベは歩き出していた。
ミトラはシラベの首筋に顔を埋め、今までシラベに見せたことのないほどの上機嫌だった。両腕をシラベの首に回し、時折ぐりぐりと頬を擦り付けてくる。ここ一週間の鬱屈が嘘のように晴れており、すっかり吹っ切れているようだ。
「ね、今日は一緒に寝よ?」
「本当に寝るだけならいいぞ」
「なにそれ。据え膳食わねばって言うじゃん」
直接的過ぎる誘い文句を受けても、シラベはすげなく躱す。ミトラは少し拗ねたようにシラベの首筋にぐりぐりと身体を押し付けつつ、それでも面白がるような声色を上げていた。
これはきっと、酔いが醒めた後が怖いな。シラベはそう思いつつ、ポンポンとミトラの頭を優しく叩く。
「酔った女を抱く趣味は無いし、ミトラの酔ってる時の思い出になるのも嫌だ」
囁き声を一旦切り、次の一言を特に耳元へと近付ける。
「シラフの時に覚悟しとけ」
ミトラの耳が、シラベの視界の端で燃えるように赤くなった。首筋に埋めた顔からくぐもった声が漏れ、両腕がシラベの首を締め付けるほどに力を込める。羞恥と嬉しさが混ざった身もだえが、シラベの腕の中で暴れていた。じたばたする愛らしい存在を、シラベは背中を撫でてあやしてやる。
しばらくそうして甘やかしていた後。急にミトラは身動きを止める。
「……やっぱあんた、結構女慣れしてるのよね」
ミトラのつぶやきに、シラベはびくりとした。またミトラの嫉妬心が煽られたかと身構えてしまう。
だがミトラは、シラベが何か言う前に続けた。
「別に良いって。さっきも言ったけど、私は別に一番じゃなくていいから」
穏やかな声の後。ミトラの顔が、シラベの首筋から少しだけ離れた。シラベの耳に濡れた感触が押し付けられた後、ミトラの笑うような声が注がれる。
「シラベは、一番じゃない私でも、ぎゅってしてくれるでしょ?」
ミトラの声には責めるような色はない。ただ自分の居場所を確認している。それがひどくいじらしく、シラベの腕の力を抜けさせない。
ミトラの中では、きっと、とシラベは考える。きっとシラベが、彼女の今を守ってくれるのだと、その中で自分が一番でなくてもいいから、夢を見せてくれればいいと思っているのだろう。
卑下しているミトラもまた、シラベの大切な存在だというのに。シラベにとってもボトムレスピットは、大切な夢となっているのに。
シラベはミトラを抱える腕に力を込めた。
「お前こそ、覚悟しとけよ。俺はカスレアだろうと執着したら手放せない男だからな」
ミトラの身体が一瞬だけ固まり、そしてぐんにゃりと腕の中で脱力していく。
「人に向かってカスレアとは何よ」
「合法ロリの行き遅れなんて、現実じゃレアだろうが」
ミトラの声は、明るかった。
シラベの声もまた、優しかった。
ミトラはシラベの首に顔を埋め直す。そこでくぐもって伝えてくる声に、涙の気配はもうない。代わりに、笑いを堪えているような震えが伝わってくる。
店へ向かう長い回り道を、シラベはミトラを抱えたまま、ゆっくりと歩き続けた。