ボトムレスピットの朝。シラベはいつも通りカウンターの内側に立ち、入荷したパックを陳列棚に並べる準備をしていた。うっかり癖でパックを剥かないように少しだけ意識しつつ、ショーケースの中で目立つように、なおかつ取り出しやすい配置を目指す。そろそろこのレイアウトも飽きてきたから別案を変えることも検討する。
バックヤードのカーテンの向こうでは、ミトラが静かに作業をしていた。キーボードを叩く音が規則的に聞こえてくる。在庫管理表を更新しているのだろう。
今朝になってミトラがやり始めたのは、ここしばらくカルメリエルに任せきりだった業務だった。発注リストの確認、卸先との連絡等々、それは元を辿ればミトラ自身か、あるいは前任の甲賀サブロウがやっていた仕事で、ミトラがそれを引き受けたところで不足はない。むしろ本来の姿に戻っただけだ。
レヴェローズは店内の掃除をしていた。箒を手に床を掃きながら、時折バックヤードを仕切るカーテンの方に目をやっている。
「意外と自制心が効くのだな、店長は」
レヴェローズがシラベに声を掛けた。箒の柄を肩に乗せ、カーテンの向こうを顎で示す。
「契約者の伴侶となるのなら、今まで以上に甘えっぱなしになると思っていたぞ。私は既に契約者の相棒であるから気にはしないが」
シラベはレヴェローズの予想に内心では同意していた。ミトラの性格から言えば、関係が一歩進んだ途端に依存が加速してもおかしくないと見ていた。
だが蓋を開けてみれば、ミトラは今朝から黙々と仕事に取り組んでいる。時折視線を感じるものの、それは一週間前の挙動不審とは質が異なる。カーテンの隙間から確認するように見て、確認できたら仕事に戻る。それだけだ。
「真面目に働いてるならいいだろ」
シラベがパックの陳列を終えてから、椅子に座って包装その他を畳んでいると、カラカラとガラス戸が鳴った。
平日の朝。まだ客が入る時間帯ではない。珍しい、とシラベが顔を上げる。
「やぁ、シラベ」
入り口に立っていたのは、亜修利ヒナタだった。アッシュグレーのショートヘアが朝の光に透けている。
男装と自称して憚らない胸元を晒したスーツスタイルは朝から情報量が多かった。にこにこと微笑みながら、迷いのない足取りでカウンターに近づいてくる。
「おう」
シラベはそれだけ返して作業を進めていると、ヒナタはカウンターの中に入ってきた。来店客がカウンターの内側に入るのは当然駄目だが、この女に常識を期待してはいけない。勝手知ったるとばかりに椅子を引いてシラベの真横に腰を下ろし、そのまま肩にもたれかかった。
柔らかさと体温がシラベの左腕に押し付けられる。おおよそ一週間前と全く同じ距離感だった。
シラベは押し付けられる柔らかく大きな胸を極力意識の外に追いやりつつ、ミトラがヒナタに対して塩対応だった理由が改めてよく分かるという気分になっていた。これを毎回やられれば、そりゃ不機嫌にもなるし、下手に反応するだけ無駄だと諦観に至るというものだ。
レヴェローズが掃除の手を止めてその様子を見ていた。その視線は呆れた心情を雄弁に語っている。レヴェローズは以前にその場にはいなかったものの、状況自体は説明されていた。これがそれか、と思っているのか、あるいはミトラとのサシ(カルメリエルもいたけど)の飲み会で何か聞いたのか、それはシラベには分からない。
だが、一週間前とは一つだけ違うことがある。シラベは動揺していなかった。心臓は平常運転だ。ヒナタの体温は相変わらず近いし、ワイシャツの下の膨らみの存在感はヒナタのものであるという前提も含めて質も量も認めざるを得ないが、それに流されることはない。
シラベが流されていない様子は当然、ヒナタにも伝わるはずだ。とりあえずこれで興味を失ってくれれば御の字だ、と思いつつ、シラベは段ボールを畳んでいく。
だがヒナタはシラベの期待を裏切るように、シラベの顔を覗き込んだままボソリという。
「昨晩はお楽しみだったかな」
シラベは即座にパックの段ボールを置き、自分の全身をバタバタとはたいた。襟の裏、ポケットの中、ベルトの裏側。指先で縫い目を辿り、異物が仕込まれていないかを確認する。
「おい、カルメリエル!」
二階に向かって声を張り上げた。以前、店内に仕掛けられた監視カメラの電波を傍受していたカルメリエルなら、ヒナタが新たに仕掛けた盗聴器や監視デバイスがあったとしても検知できるはずだ。
だがレヴェローズがシラベを制する。
「姉様ならまだ浴室を占拠しているはずだぞ」
「は?」
「ああ、そうか。契約者は今朝、起きるのが遅かったか」
レヴェローズは若干うんざりした顔で説明した。
「契約者が店長の部屋で寝る代わりに、あれを契約者の部屋で寝かせていたのは覚えているか? 監視として私も隣で寝ていたが」
「そうだな俺に無断でな。帰ってから驚いたぞ」
「店長がそうしろと言ったのだからいいだろう。で、今朝早くに目覚めた姉様は起きるや否や奇声を発して悶え初めてな」
「ああ?」
「昨晩の自分の醜態を完全に覚えていたらしくてな。『わたくしがあんなはしたない』と大穴の腹に顔を埋めて叫んでいた」
シラベはぼんやりと今朝の事を思い出そうとするが、布団の中で小さい身体を抱き抱えていたことしか出てこない。宣言通り猥雑は一切ない単なる添い寝だったが、周囲の雑音など耳に入らないほど良い時間だったことは確かだ。
「うるさいので頭を引っぱたいたら止まって大穴もどこかに逃げ出せたが、今度は急に浴室へ行ったかと思えば冷水を浴びて自戒らしきものをやり始めてな。いくら言っても動こうとしないから放置していた」
シラベは二階を睨んだ。朝朝から水音がするから風呂掃除でもしているのかと思ったら、そんな無駄な事をしているとは。
「レヴェローズ。そろそろ引きずり出して正気に戻させろ」
「はぁ。全く、不出来な姉を持つと苦労する」
レヴェローズは箒を壁に立て掛けると、ぶつぶつ文句を垂れながら二階への階段を上っていった。その背中が消えるのを見送りつつ、シラベはカルメリエルの評価を再び下方修正した。これで通算何度目の修正か数えるのは諦めた。
「安心したまえ。何も店内の様子を覗き見てなどいないさ。盗聴器の類も仕掛けていない」
ヒナタの声が、シラベの耳元で響いた。相変わらずシラベの腕にしがみついたまま、穏やかな声で言う。
「じゃあなんで分かるんだよ。勘か?」
「それは君の領分だろう。私のは推理だよ」
ヒナタの声はひどく楽しげだ。反比例してシラベは黙るしかない。
「私がこうして君に縋りついても、君が動揺しないということは。こうしていてもミトラの機嫌を崩さないという確信があるんだろう?」
一つ一つ、噛み締めるように語るヒナタ。お気に入りの小説の談義をするかのような、同好の士とのひと時を楽しむかのような無邪気さがある。
「我らの麗しきミトラは、ご存じの通りとても愛らしい性格をしている。そんな彼女が、彼女の所有物である君に言い寄る私を許さないのは当然だ。先週の君は、それをきちんと危惧していた」
ヒナタの指がシラベの袖を摘まんだ。
「その心配をしなくなったということは、つまり。ミトラの心はかつてないほどに安定しているということを、君は確信している」
摘まんだ裾を自身の顔の近くまで寄せていくヒナタ。そのまま食べられかねないとシラベは身構えるが、ヒナタは鼻をひくりと動かしただけだ。
「そして君の手に残るこの匂いは、ミトラの使っているシャンプーのものだ。夜通しミトラの頭を撫ででもしなければこうも移らないだろう」
「お前本当に気持ち悪いな」
畏怖と共に出たシラベの言葉をヒナタは無視する。
「ここまでくれば、君とミトラの間で特別に深い絆が結ばれたお陰で、ミトラがもう不安に思うことがなくなったのだと。そう推察するのは自然だろう?」
かんぺきなすいりだ、とでも言いたげにヒナタはドヤ顔を晒した。実際、大体合っている。合っていることがシラベにはムカついた。
シラベの右手が伸び、ヒナタの額に中指を弾いた。
「いたっ」
形だけの悲鳴を上げるヒナタ。赤くなってもいない額を押さえているが、ダメージはほぼゼロだろう。この女の面の皮はデコピン程度では貫通しないし、その程度の配慮はシラベだってする。レヴェローズは除くが。
「そんな推理力は他のことに使え」
「愛する者たちの幸福を推理する以上の知性の使い道があるかい?」
「経営にでも使えよ。働け高額納税者」
尚も崩れないヒナタの余裕をどう突き崩すかシラベが迷っていると、バックヤードを隔てているカーテンがめくられた。
パーカー姿の小さな店長はカウンターの中にいるヒナタとシラベを一瞥し、それからヒナタに視線を据えた。
「あんたマジで暇なの? 遊び歩いてると社長解任でもされるんじゃない」
声に殺気はなかった。一週間前なら凍りつくような温度だったはずの台詞が、今日はただの呆れ声として発せられている。
ヒナタは立ち上がった。シラベの腕を離し、両手を広げてミトラに向かう。
「ミトラ! 会いたかったよ!」
抱きつこうとしたヒナタの腕だが、ミトラの小さな手がヒナタの額に突き出され、その前進を阻止した。掌がヒナタの顔を押さえつけ、長い腕がミトラに届かない。その先端に付いている手は犯罪的な蠢きをしていた。
「視察現場への移動途中で立ち寄っただけだよ。ミトラの顔を見ないと一日が始まらないからね」
「太陽みたいに暑苦しいのに拝みに来る側なのはおかしいでしょうが」
ヒナタを押し退けたミトラがシラベの背後に寄って、ミトラの手がシラベの背中をポンと叩く。軽い一打はシラベも慣れたもので、その意味は明確だった。
シラベは椅子を少し引いて、膝の前に空間を作る。ミトラはその空間に身体を滑り込ませ、シラベの膝によじ登った。
たちまち小さな体がシラベの腿の上に収まり、背中がシラベの胸に預けられる。いつもの座り方だ。背もたれとしてシラベの胴体を利用する、遠慮のない着座。
だが今日のミトラは、そこからヒナタの方を向いた。シラベの膝の上で、ヒナタに勝ち誇っていると言わんばかりの顔を向けている。
ここは私の場所だと。そう宣言するかのように。
ヒナタはその光景を見つめていた。微笑みが深くなっていく。嫉妬や羨望などまるでない、微笑ましいものを見る目。初めて歩き出した子供を見守る親のような──と考えてシラベは即座に打ち切るちょっと悍ましい。
愛する者たちの幸福を、正面から祝福している顔。そういう好意的解釈はしておくのが精神衛生上良いだろう。
「今日のところはこれくらいにしておこうか」
ヒナタは穏やかに言った。それからシラベの傍に歩み寄り、シラベの右頬にキスを落とした。唇が触れたのは一瞬だった。
続けてミトラの左頬にもキスをした。ミトラは身じろぎしたが、避けはしなかった。
「また来るよ。次は私ともゆっくり話しておくれ」
ヒナタは手を振りカウンターから離れた。長い脚がガラス戸に向かう。振り返ることなく、店の外に出ていった。ガラス戸がまたカラカラと音を立て、舞台役者のような後ろ姿を店内の二人と分かつ。
二階からはレヴェローズがカルメリエルを浴室から引きずり出そうとしている騒ぎ声が微かに聞こえているが、今は関係ない。
「仕事するか」
「ん」
シラベが言うと、ミトラは膝の上で頷いた。
だがミトラは降りる前にシラベの膝の上でくるりと向き直り、対面する体勢を取る。それをシラベが反応する前に顔へと手を添えた。
そしてシラベの頬──ヒナタがキスした側とは反対の頬に、顔を近付ける。柔らかい感触はヒナタと同じく、僅かな時間だった。
「あんたの分は、後でちょうだいね」
ミトラはそう言って、シラベの膝から降りた。パーカーの裾を直し、バックヤードのカーテンを潜っていく。
カーテンの向こうに消える直前、ミトラの耳が赤くなっているのがシラベの目に映った。
シラベは頬に残る温もりに手を当て、それからカウンターの上に視線を戻した。陳列途中の商品がまだ残っている。
仕事がある。日常がある。客が来れば接客し、来なければ雑事をこなし、猫が甘えてくれば撫で、店長がワガママを言えば聞いてやる。
何も変わらない。何も変わらないまま、だが全てが変わってた。
シラベは今すぐカーテンの向こうに乗り込んでやりたい気持ちをどうにか抑え込んで、店内への品出しへと向かった。