昼。カルメリエルはまた、シラベの布団で横になっていた。
二日酔いと呼ばれるらしい症状が未だに残っている。頭の芯に鉛が詰まっているような鈍痛と、胃の腑をぐらぐらと揺さぶるような不快感が全身を支配していた。それに加えて、動転した勢いで行った冷水シャワーでの自戒が追い討ちをかけた。春とはいえ朝の冷水を一時間近く浴び続ければ、精霊とて体温が奪われる。体力は既にゼロだった。
その状態で働かせるわけにもいかないため、シラベはカルメリエルをまた布団に寝かせる指示をレヴェローズに出し、こうして営業時間中でありながらもカルメリエルは横になっていた。
少し遠くで働く音が聞こえているのに、自分が横になっているというものは、カルメリエルにとってひどく新鮮で、そして思考を持て余す事態だった。
身じろぎすれば、シラベの布団であることを嫌でも意識してしまう。今朝ここで目覚めた時の自分の醜態を思い出しかけて、カルメリエルは意識の蓋を全力で閉じた。思い出してはいけない。昨夜だけでも恥ずべき記憶だというのに、あの奇声を。あの身悶えを。思い出したらまた浴室に駆け込まなければならなくなる。
カルメリエルが横たわるすぐ隣には、レヴェローズがいた。主不在を良いことにシラベの座椅子を遠慮なく占領し、足を組んで寛いでいる。
その手にはミトラが持っていたエインヘリヤル・クロニクルが原作の古いホビー漫画がある。コミックスの帯には「熱き魂のデュエルストーリー!」と書かれており、レヴェローズは時折ふんふんと頷きながらページをめくっていた。
妹に看病されてしまえば雑なあの手で何をしでかされるか分からないので、適度に放置してくれるのは助かる。カルメリエルの額に濡れタオルを乗せたのはレヴェローズだが、それ以外は何もしていないがそれでいい。余計なことをされるよりかずっとマシだ。
だが、それはそれとして自分の監視を理由にしてサボっているのは少しむかついた。下では一階のシラベが一人でカウンターに立っており、店の案内には誰もいないだろう。ミトラが業務に復帰したのは薄っすらと聞いたが、それでも接客にまでは手が回らない。レヴェローズが掃除その他を放棄して漫画を読んでいるのは、職務怠慢以外の何物でもない。
だが今のカルメリエルにはそれを咎める体力も気力もなかった。声を出すだけで頭が揺れる気がする。
「レヴェローズ」
それでも声を出した。姉としての面目は既に地に堕ちているが、情報収集だけは怠るわけにはいかない。これはもう終生の楽しみのようなものだ。
「昨日、私の意識が混濁していた時。ミトラ様と何を話していたのですか」
酔い潰れていた、とは意地でも言わない。カルメリエル・ドゥブランコは酔い潰れないし蜂蜜酒に負けたのではない。ちょっとしたトラブルで意識が混濁していただけだ。今度酒の席に挑むときは総力を注いで万全を期することを心に誓っている。
レヴェローズはそんな姉の決意など露知らず、漫画から目を離さなかった。ページをめくる指だけが動いている。
「たいしたことは話していないぞ。店長が思ったより早く本音をぶちまけたので、その愚痴に付き合い、契約者の話で意気投合していたくらいか」
カルメリエルが思っていた以上に、店長のガス抜きという目的をレヴェローズが難なくこなしていた事に少しの驚きと悔しさ、そして遅れて納得が胸を満たす。
方針を違えない相手であれば、レヴェローズの善性は毒にはならない。かつて彼女を総督として遠方に追いやったのも、彼女が纏うある種のカリスマを危惧したのが一因だ。
人と接し人を率いると言う分野において、レヴェローズはカルメリエルとは異なる方向で優れた才覚を持っていることは認めざるを得ない。
「ついでに今後の協定も少しまとめたか」
「……協定?」
カルメリエルは布団の中で眉を寄せた。協定などというものは計画には含まれていない。
「あの時点では、あくまで契約者が店長を受け入れた仮定の話だったんだが」
レヴェローズは漫画のページに視線を落としたまま、前置きを置いた。
「店長は契約者を独占しないとか。褥を共にするのは週に一度にするとか。そういうものだ」
カルメリエルは天井を見つめた。額の上の濡れタオルが、微かにずれた。
「こういった協定は重要だからな。交戦規定のあやふやな戦場ほど恐ろしいことは無い」
レヴェローズは誇るように胸を張った。座椅子の上で腕を組み、漫画を閉じて堂々たる面持ちを見せている。交渉事を成し遂げた将校のような顔だ。
カルメリエルはその説明を咀嚼し、自らの主であるミトラに対して少し、呆れた。
ミトラはこの店の主だ。シラベも精霊も、全てはミトラの下にある。雇用者と被雇用者。それがボトムレスピットにおける権力構造の基盤だ。ならばこういう機会にこそ全権を握ればいいものを。
シラベが自分を受け入れたのなら、その関係を独占する権利はミトラにある。
それを独占せずに、週に一度とまでレヴェローズに譲歩させられている。それは臆病ではないだろうか。
カルメリエルの内心の疑問を読み取ったわけではないだろうが、レヴェローズは補足した。
「別に週一でなくてもいいだろうと私も聞いたんだが、店長はそれで良いと言っていたぞ」
漫画を膝の上に置き、レヴェローズは記憶を辿るように顎に手を当てる。
「毎日あいつに甘やかされたらマジでダメになるから、週一くらいにしとかないと無理、だそうだ」
「ああ。なるほど」
ミトラらしい言い分だと、カルメリエルは頷いた。自分の弱さを知っているからこそ、甘えの量を自ら制限する。全力で甘え続けたら、際限なく沈んでしまう。その自覚があるのは良い事なのかもしれない。
シラベにダメにされるという感覚は分からないでもないと、あっさり受け入れている事にカルメリエルは気付いていない。
「それに。こうして日を決めるようにしておけば、後から増えた時に面倒が無いだろう、とも言っていた」
レヴェローズが続ける言葉に、カルメリエルは布団の中で瞬きをした。
後から増える。何が。あるいは誰が? いやそうでなく。何故それを前提とする考えをする?
「私は店長の次の日に契約者のところに押しかけるつもりでいるぞ。契約者が寂しくないようにな。相棒たるもの、そのくらいの気遣いは当然だ」
愚妹の声はこれが最善だろうと言わんばかりの自信に満ち溢れている。これは一体なにを気遣いと思っているのだろうか。
「大穴に週に一回という概念が理解できるかは知らないが……猫だから良しとするか、徹底させるかは悩みどころだな。あれは好きな時にシラベの布団に潜り込む生き物だから、曜日で管理するのは難しいかもしれん」
レヴェローズの指が顎の輪郭をなぞっている。真剣に検討している顔だ。猫のスケジュール管理を軍略の延長として捉えているのかもしれない。カルメリエルは戦乱葦野に住む猫の傭兵団について一瞬思いを馳せるが、すぐレヴェローズの声に引き戻される。
「仮にヒナタが押しかけてきても、ミトラとの日に被らせないようにしなければな。あの女は加減を知らないから、ルールを決めておかないと収拾がつかなくなる」
カルメリエルは額のタオルの下で、事態を整理していた。
つまりレヴェローズはこう言っている。ミトラがシラベを独占しないと宣言した。その上で、シラベの隣で寝る曜日をローテーションで決める。ミトラが一日目とするならば、レヴェローズが二日目。大穴は猫枠として別途管理するのか検討する。ヒナタが来た場合はミトラの日と被らないように調整する。
まとめ終えてから、自問する。何のスケジュールだこれは。
何から指摘するべきか。こんな妄言のツッコミをするのはシラベの役割ではないか。自分が何故これを聞かされているのか。疑問は多々あれど、なんとか口を開く。
「……その話は、シラベ様は承知しているのですか」
「いや、特に言ってないが」
カルメリエルの問いに、レヴェローズは平然と答える。カルメリエルはまた呆れた。当事者であるシラベに何一つ伝えていない協定に、一体何の意味があるというのか。
だがレヴェローズにそれを指摘したところで、言う必要があるのかと真顔で返されるのが目に見えている。この妹は、自分が正しいと思ったことを実行するのに他者の承認を必要としない。
これは愚かな妹に任せるのは危なそうだ。カルメリエルは布団の中で思考を巡らせた。シラベの意向を確認し、ミトラの気持ちとの整合性を取り、レヴェローズの暴走を制御し、大穴の自由行動枠を確保し、ヒナタの介入に備える。調整役は自分がやるしかない。
頭が痛いのは二日酔いのせいだけではない。この頭痛は慣れ親しんだものだ。
いつもこういう役回りになると、カルメリエルは承知していた。ヴェルガラを排除する前でも、細やかな差配や折衝は自分の役回りであった。だが何事もなく日常を巡らせるという裏方の役割に、カルメリエルは不満を抱かない。
「姉様」
レヴェローズが漫画を脇に置いた。紫の瞳がカルメリエルの方を向く。
「姉様はいつにする?」
「……え?」
「だから」
レヴェローズは何でもないことのように言った。
「姉様は契約者と寝るなら何曜日が良い? 今後詰めていく上での参考にさせてもらう」
カルメリエルの思考が停止した。頭痛すら止まるほどに、脳が言葉の処理を拒否した。
「わ、たしが?」
「うむ。姉様もよく契約者のもとに行くではないか。案ずるな、同じ店に住む以上は除け者にはしないぞ」
カルメリエルがシラベをからかう目的で誘うことは、これまでにもあった。布団の上で待っていたり、どのようなプレイでもお応えするとわざとらしく言ってみたり。
そういう台詞を微笑みと共に投げかけることで、シラベの反応を楽しむ。それはカルメリエルにとっての娯楽であり、余裕の表れだった。
だがそれが、定期的に。シラベの隣で。眠るとなると。それはからかいや娯楽ではない意味を孕みかねないものと、この妹は分かっているのか。
考えた途端に、頬が熱くなる。体調不良による悪寒とは明らかに違う。顔の表面を燃やすような、内側から込み上げてくる熱だ。
シラベとの寝所のひと時を想像したというのもある。レヴェローズが意識しているのか分からないが、突発的にトラブルを巻き起こすのではなくこんなローテーションを組むような真似をすれば、それはもう扱いがミトラと同じ枠組みなってしまうのではないか。
だが、なによりも恥ずべき事は。カルメリエルがシラベに想いを寄せているということを前提として、レヴェローズが語っている事だ。
カルメリエルはミトラやレヴェローズほど露骨に好意を向けていないと、少なくともカルメリエル自身はそういう認識をしていた。だというのに、レヴェローズは『それ』があることを当然のこととして組み込んでいる。ミトラの日、レヴェローズの日、そしてカルメリエルの日。それぞれが対等に、シラベの隣で眠る権利を持つ存在として並列されている。
別に、憎からず思っている男ではある。それは否定しない。だがそれを他人から声に出されることはひどく屈辱的で、だがそれ以上に臓腑まで焼くほどの熱をもたらした。
カルメリエルは毛布を顔まで引き上げた。
額のタオルがずり落ちたが、構っていられない。毛布の中に顔を埋め、目を閉じ、唇を噛み締める。呻き声すら漏らさないように気を付けつつ、身もだえする羞恥を抑え込む。
今朝のように奇声を上げたら、またレヴェローズに頭を叩かれる。そのお陰で声だけは我慢出来た。だが毛布の中で、カルメリエルの足はバタバタと動いていたし、両手はシラベの布団を握り締めていたし、顔は耳の先まで赤く染まっていた。
「……姉様?」
レヴェローズの怪訝そうな声が、毛布の外から聞こえた。
「大丈夫か。また気分が悪くなったのか?」
「大丈夫ですわ」
毛布の中から搾り出した声は、カルメリエル自身の耳にも酷い有様だった。震えている上に裏返りかけている。自分の声ではないようだ。
「気のせいですわ」
気のせいではない。だがカルメリエルは嘘をつく。それが今出来る唯一の防衛手段だった。
レヴェローズは数秒の沈黙の後、ふぅんと鼻を鳴らして漫画を読む気配に戻った。追及しないのは妹なりの気遣いなのか、それとも単に興味を失ったのか。どちらでもいい。
カルメリエルは毛布の中で、シラベの匂いに包まれながら、自分の心臓が規格外の速度で打っていることだけを確認していた。
何曜日が良いか、など。
答えられるわけがなかった。