夕食後。狭いアパートの一室には、油ともやしの匂いがまだ薄く残っていた。開け放した窓から夜気が忍び込み、蛍光灯の下に積まれた空の食器をゆっくり冷ましていく。
シラベはあぐらをかいた膝に頬杖をつき、重々しく口を開いた。
「……バイトすることになるかもしれない」
万年床でゴロゴロしていたレヴェローズが、弾かれたように上半身を起こして拍手する。
「ほう! それはめでたい! ようやく貴様も社会の歯車として復帰する気になったか! これで霜降り肉も夢ではないな!」
「気が早いぞ。あと歯車って言うな」
目を輝かせるレヴェローズに、シラベは苦々しい顔を返した。
「まあ、まだ『かも』だけどな」
「かも? 不確定なのか?」
レヴェローズが小首をかしげる。その拍子に豊かな胸がたゆんと揺れるが、今のシラベにそれを目の保養にする余裕はなかった。
「働く場所はボトムレスピットだ。でも採用には条件がある」
「ふむ、カードに囲まれた職場環境というのは悪くない。私も暇をつぶしやすいしな。で、条件とは?」
「お前バイト先に着いてくるつもりかよ……まぁいい。あの店の店長とデュエルして、勝たなきゃいけない」
「なんと野蛮な……。まるで傭兵の入団テストではないか」
レヴェローズは呆れたように肩を竦めたが、すぐに興味深そうに身を乗り出した。
「しかしあの白髪の男、意外と好戦的ではないか。人は見かけによらないな」
「いや、そっちじゃない。店長は別だった。……お前も見た、あのクソ生意気なガキ」
「なに? あの小娘がか?」
レヴェローズが目を丸くした。
「ああ。あいつがオーナーの佐野ミトラ。俺も今日知ったんだが、実は35歳らしい。俺より一回り近く年上だ」
「な、なんと!? あの見た目でか!?」
レヴェローズは驚愕にのけぞり、しげしげと虚空を見つめた。
「人間とは不可思議な生き物だな……。てっきり迷子の児童かと……」
「俺もそう思った。……ともかく」
シラベは溜め息をつき、空になった紙パックを握りつぶした。
「問題は、相手があの性格の悪いババ……いや、店長だってことだ。この間のあの言い草、覚えてるだろ?」
「忘れるものか! 私を鳥以下と断じ、貴様をキモいと言い放ったあの暴言!」
レヴェローズが憤然とこぶしを握りしめる。
「上等ではないか契約者! これは好機だ。あの小娘、いや年増、でもないか。あの者の鼻をへし折り、私の価値を認めさせた上で職も得る。一石三鳥だな!」
「……だといいんだがな」
鼻息の荒いレヴェローズとは対照的に、シラベの表情は暗かった。
その沈鬱な様子に、レヴェローズが怪訝な顔をする。
「なんだ、その辛気臭い顔は。まさか、また面倒くさくなったのか? それとも怖気づいたか?」
「いや、やる気はあるさ。ただなぁ」
シラベはポケットから数枚のメモ用紙を取り出し、ちゃぶ台の上に広げた。
「帰りに、また電気屋で調べてきたんだよ。今度はボトムレスピットの店のブログをな」
シラベが漁っていたのは、ボトムレスピットが細々と運営している店舗ブログだった。おもちゃやパックの入荷情報と大会日程が事務的に並ぶだけの殺風景なサイト。だがそこには、歴代の「店舗大会優勝デッキレシピ」がアーカイブとして律儀に残されていた。
過去記事をスクロールしながら、シラベは思い出していた。高校、大学と足繁く通った、あの大会の光景。折り畳みの長机。スリーブを切る音。密集した大人たちの背中。その隙間に時折、ちょこんと挟まっていた小学生くらいの女の子がいた。誰と喋るでもなく、淡々と紙をしばくだけの小さな黒い姿。
当時は近所のマセたガキだと思っていたが、あれがミトラだったのだ。
十五年前から店のオーナーで、同時に一人のプレイヤーとして、ずっとあの店の卓に着き続けていた。ブログの過去記事には彼女の優勝レシピが何度も残っており、その構築には明確な好みが──もっと言えば、悪癖が滲んでいた。
「これを見ろ。あいつが好んで使っていた優勝デッキのリストだ」
記憶を頼りに書き出したメモを指で叩く。
そこに記されたキーカードの情報に、レヴェローズが眉をひそめた。
『剛金独鈷シルヴァルナ』
コスト:〈6〉
タイプ:機械 ― 唯一
〈4〉,〈T〉,このカードを生け贄に捧げる:プレイヤー1人を対象とする。あなたはそのプレイヤーの次のターンの間、そのプレイヤーをコントロールする。(あなたはそのプレイヤーが見ることのできるすべてのカードを見て、そのプレイヤーのすべての決定を行う)
「『剛金独鈷シルヴァルナ』……プレイヤーのコントロール奪取だと?」
「ああ。相手のターンを乗っ取って、好き勝手に行動させる極悪カードだ。戦術の無駄撃ち、自爆特攻、そもそも一ターン動きを止めるだけでも十分やりたい放題できる」
「凶悪だな。だがコストが重い。設置に6マナ、起動に4マナ……計10マナもかかる上に、使い切りだろう? ロマン砲の域を出ないのではないか?」
「普通ならな。だが、ミトラのデッキには相方がいる」
シラベはメモのもう一枚のカード情報を指差した。
『
コスト:〈4〉
タイプ:機械・生命体 ― 総司令
・伝晶2(この生命体は
・
[0/0]
168cm/76kg/B128(L)/W66/H100
その名を見た瞬間、レヴェローズの顔が引きつった。
「……カルメリエル姉様だと?」
「ああ。『自身の
「……『無限ターン』ならぬ、『無限コントロール』か」
「そうだ。『シルヴァルナ』を起動して相手を支配する。そのターン中にカルメリエルの効果を起動し、墓地に落ちた『シルヴァルナ』をデッキの一番上に戻す。次の自分のターン、ドローするのは当然『シルヴァルナ』だ。マナさえあれば、これを毎ターン繰り返せる」
「えげつない……! 見た目通り陰険な奴だ!」
最悪のロックコンボだ。一度決まれば、相手にターンは回ってきても行動の決定権はずっとミトラの側にある。対戦相手は死ぬまで何一つ選べないまま、盤面を眺めて嬲り殺されるのを待つだけになる。
「性格の悪さが滲み出てやがる。相手が苦しむ顔が見たいだけのサディストだ」
シラベは忌々しげに吐き捨てた。
効率だけを考えれば、こんなコンボは今はもちろん時代遅れで、当時でもロマン構築だ。10マナも出せる状況なら他のフィニッシャーで殴った方が早い。わざわざ相手の心を折るロックを決める必要はどこにもない。
それなのにミトラはこのデッキを好んで使い、優勝を重ねていた。
「姉様らしいと言えばらしいな。死体あさりのカルメリエル、壊れた機械を拾ってきては何度も使い回すなど、あの者が好き好んでやりそうだ」
苦虫を噛み潰したような顔をするレヴェローズ。シラベは頷きながら、新しいパック酒に手を伸ばした。シラベもカルメリエルについては知るところではあるが、レヴェローズの認識と同じとは限らない。探るように口を開く。
「お前、カルメリエルと確執があったっけ」
「確執という程ではないが、とにかく優しさで取り繕った管理欲が鬱陶しい女だ。私がいくら努力していても鼻で笑い、子供扱いしてくる」
「出来損ないの妹に突っかかるのが楽しかったんだろ。手紙であれこれうるさく余計な世話を書いて来るタイプだ」
「どうだかな。私が植民地のデイバーロウへ着任する前に挨拶したきり会っていないし、連絡もなかったはずだ」
「そか。ま、面倒な奴が組んでるってこったな」
二人は顔を見合わせ、深く溜め息をついた。換気扇の回る音だけが、しばらく部屋を満たす。
性格破綻者の相手をするのは疲れる。血縁ならなおさらだろう。
「まあ、あくまで過去の優勝リストだ。今の環境で通用する速度じゃないし、当日にこれを使ってくるとは限らねえ」
シラベはそう言って、重い空気を払拭しようと努めた。
「それに、こっちはコストを踏み倒すリアニメイト戦術だ。ロックが決まる前に殴り倒せば勝機はある」
「う、うむ! そうだ! そもそもまともな性格をしているなら、採用試験であんな性格の悪いデッキ使うはずがない!」
だが。シラベの胸中には、拭いきれない嫌な予感が渦巻いていた。
自分の手元には第三王女レヴェローズ。世間的にカスレアと呼ばれる、不遇なカード。
対する相手が、もしあのデッキを使ってくるとすれば──そこにいるのは第二王女カルメリエル。
精霊の実在を知ってしまった今のシラベには、これが単なるカードの組み合わせではなく、何らかの意図を持った運命の巡り合わせのように思えてならなかった。
(……嫌な予感がする。あの店長なら、俺がレヴェローズを使うと分かった上で、あえて姉をぶつけてきそうな気がするんだよな)
窓の外で、遠くの車の音が流れて消える。シラベは無言のまま、ちゃぶ台の上のメモに書かれた文字を睨みつけた。