学校終わり。キリメは自宅への最寄り駅の一つ手前の駅で降りると、鞄から取り出したスカジャンを制服の上から羽織った。もはや変装をする意思は無いものの、着ると気合が入る気がするのでカードを触る前には欠かせないルーティーンになっていた。
いつも通りの、クモンとの約束がある放課後だ。ボトムレスピットで落ち合ってデュエルスペースで一戦行うそれは、もはや日課と呼んで差し支えない。
ディーヴァ・アリーナの一件で大衆の前で負けた経験があっても尚、クモンの挑戦意欲は衰えていなかった。最近では休日でもキリメの部屋に乗り込んできかねないほど意欲があり、対戦での戦績もかなり拮抗してきている。
商店街まで行くには大通りを回るのが正規ルートだが、キリメは近道を選んだ。雑居ビルの裏手を抜ける路地裏だ。日当たりの悪い細い道で、ゴミ収集のコンテナと室外機が両側に並んでいる。人通りは少ないが、キリメはこの道を何度も使っていた。
路地の中ほどを歩いている時、視界の端で何かが動いた。暗がりの中に、見慣れた大きさの黒い塊があった。コンテナの影に潜り込むようにしてうずくまっている。
猫だ。この路地には野良猫が何匹かいるのをキリメは知っているが、その塊の大きさには覚えがあった。
黒い塊の中で、星屑のような瞳が瞬く。闇に溶け込んだ漆黒の毛並みの中、金色とも琥珀色ともつかない丸い瞳が二つ、キリメを見上げている。
「……おーちゃん?」
キリメが呼びかけると、黒猫は毛繕いをしていた前脚を止め、するりとコンテナの影から姿を現した。
「うに」
ボトムレスピットの看板猫。冬毛が抜けてすっきりとした体型に戻った黒猫は、キリメの脚にまとわりつくように身体を擦り付けてきた。脛に額を押し付け、くるりと尻尾をキリメのふくらはぎに巻きつける。
「珍しいじゃん、こんなところで」
キリメは鞄を地面に置いてしゃがみ、両手をおーちゃんに差し出す。まっていましたとばかりに 黒猫はキリメの手のひらに頭を預け、ぐりぐりと擦り付けてきた。
キリメの指がおーちゃんの頭を包み込むように弧をつけて耳の付け根に触れると、途端に喉の奥からゴロゴロと重低音が響き始める。首筋から背中に沿って指を滑らせると、おーちゃんはごろんと横に転がり、腹を見せた。
「んんるるぐぐ」
完全に蕩けている。四肢を投げ出し、丸い腹を天に向けた無防備な姿勢。キリメの指が腹の毛並みに沈み込むと、前脚がむにむにと空を掻いた。おーちゃんの扱い方を、キリメの手はもうすっかり覚えていた。
「これからアタシは店に行くけど、おーちゃんはどうする?」
返事を期待せずに呟いた。猫に予定を訊いても仕方がない。
だがおーちゃんは、ピクンとその言葉に反応した。腹を見せていた姿勢から素早く起き上がり、しゃがんでいるキリメの膝にぴょんと飛び乗った。前脚をキリメの胸元に乗せ、スカジャンのジッパーの金具を踏みつけるようにして身を起こす。
「にゃっ」
丸い瞳がキリメの顔を見上げている。主張の強い鳴き声だった。
「……一緒に行くってこと?」
おーちゃんは答えない。だが膝の上から降りる気配もない。前脚がキリメの胸の上に乗ったまま、にゃあともう一度鳴いた。
キリメはおーちゃんを両腕で抱え上げた。黒猫はキリメの腕の中で一瞬だけ身じろぎしたが、すぐに姿勢を決めて静かに丸くなった。スカジャンの生地に爪を引っかけることもなく、キリメの腕にすっぽりと収まる。
くわっと一度、欠伸の様に口を大きく開けた後、おーちゃんはキリメの胸に頭を委ねる。その様子は猫の事ながら満足げと伝わる所作だった。
「ま、いいけどさ」
キリメは立ち上がり、鞄を反対の肩に掛け直して歩き出した。片腕に猫、片肩に鞄。おーちゃんは見た目の割に軽いため、それほど負荷にはなっていない。
路地裏を抜け、商店街に繋がる通りに出た。まばらな通行人の目が、わずかだが己に集中したことをキリメは感じ取る。慣れた空気感だが、今は猫を抱えているという行為が注目をなかなか散らしてくれない。
女子高生が黒猫を腕に抱えた姿は、少しばかり目立ってしまう。自分のような容姿であればなおさらだろうと、キリメは出来る限り周囲を無視するために大穴の背に手を添えた。ぴこり、と動いた耳が愛くるしい。
通り過ぎた商店の中から、少しだけ話し声が聞こえた。
「──ここの再開発の計画、少し変わったらしいよ」
「ああ、聞いた。全面建て替えじゃなくて、一部は残す方向になったとか」
「でもさ、残すっつっても商店街にゃ古い店も多いんだから。いつかは変わっていくんだよなぁ」
店番をしているらしい中年の男二人が、カウンター越しに世間話をしている。諦めと、しかし決して暗いことではないという希望が入り混じった声だった。キリメは足を止めずに通り過ぎたが、その声は耳に残った。
再開発。キリメには縁遠い話だ。商店街の組合にも不動産の事情にも、女子高生が首を突っ込む余地はない。
だがこれから向かう店が、その商店街のすぐ近くにある。
ボトムレスピット。あの狭いおもちゃ屋。ショーケースに並んだカードと、デュエルスペースの長机と、そこに座る弟分とカウンターの奥でだるそうに座っている店員の姿が、キリメの脳裏によぎった。
いつかは変わっていく。その言葉が、少しだけ引っかかった。
店舗というものは、ずっと残るものではない。キリメもその事は知っている。
子供の頃。クモンがまだ産まれたばかりで、ご近所の赤ちゃんとして見せてもらっていた事もあった時期に、キリメには通っていた駄菓子屋があった。
住宅街の角にある小さな店だ。ガラス戸を開けると薄暗い店内に色とりどりの菓子が並んでいて、十円や二十円の値札がつけられていた。木造の棚は年季が入っていて、天井近くには色褪せた玩具がぶら下がっていた。端っこにはずっと故障中の札が付けられた新幹線ゲームなるものが置かれており、どう遊ぶのかと首をひねったこともある。
そこには兄と一緒に少ない小遣いを握りしめ、毎日のように遊びに行っていた。五十円で何を買うかを真剣に悩み、兄と半分ずつ分け合ったり、くじの当たり外れで一喜一憂したりした。
とはいえ、キリメの子供の頃と言ってもせいぜい十年前だ。携帯ゲーム機の全盛期で、キリメのように外で遊び回る子供の方がやや珍しくなっていた。
単なる駄菓子屋というものが生き残るには厳しい時代だったのだろうと、今のキリメなら思うことが出来る。だが当時は駄菓子屋の苦境など知ったことではなく、当たり前にある日常でしかなかった。
ある時から、兄がゲームに傾倒し始めた。公園で遊ぶよりも画面の中の世界が楽しくなったらしい。キリメは一人でも外へ遊びに行き駆け回っていたものの、兄と一緒でなければ駄菓子屋に行く理由が薄れて足が遠のいた。
しばらく経ってから。小学校に上がったばかりのクモンに紹介してやろうと思い立ち、久しぶりに駄菓子屋に向かった。その頃からクモンはキリメの弟分で、よく面倒を見てやっていた。遊び場に連れていくのはキリメの役目だと、そう思っていたものだ。
あのガラス戸の中、色とりどりの菓子を見せてやったら、あいつの顔が輝くところが見れるだろう。五十円から三百円に上がっていた小遣いなら、クモンの好きなものを買ってやってもまだ余る。そう思った。
店舗は、空き家になっていた。
ガラス戸はベニヤ板で塞がれ、看板は外され、雑草が入り口まで伸びていた。いつ閉まったのか、キリメは今も知らない。気づいた時にはもう無かった。
クモンのぽかんとした顔を、キリメは覚えている。何をしているの? と言わんばかりに覗き込んでくる顔がひどく胸をかき乱し、気付いたらクモンの頭に拳骨を落としていた。
そう。悲しいと、残念に思う気持ちはあった。あの時は確かにあった。
だがそこから数年が経った今、その悲しみがだいぶ薄れていることを、キリメは自覚している。
無くなったと知った時から時間はずっと流れていて、流れていくほどに感傷が薄まっていく。あの駄菓子屋の店主の顔も、棚に並んでいた菓子の種類も、もうほとんど思い出せない。思い出せないことに対する罪悪感すら、今では薄い。
腕の中のおーちゃんが、くぅと小さな欠伸をした。
キリメはまた、少し前にディーヴァ・アリーナで見た映像を思い出す。スマートフォン版のタイトルとして発表された、エインヘリヤル・クロニクル・エリューズニル。プロモーション映像で動くカードたちに興奮したのは間違いない。
まだサービス開始は先のようだが、もしあれが始まって、自分がのめり込んでしまったら。スマホで対戦できるなら、わざわざカードショップに行く必要がなくなるかもしれない。デュエルスペースで顔を合わせなくても、画面越しに対戦できる。便利で効率的だ。
そうなった時、ボトムレスピットに行かなくなるかもしれない。
行かなくなって、しばらく経って、ふと思い出して覗いてみたら。
あの店がもう無くなっていたら。自分はいつまで悲しんでいられるのだろう。
あの駄菓子屋の時みたいに数年で感傷が薄れ、思い出せなくなって、それで終わるのだろうか。シラベの声も、店長だと聞かされたあの幼顔も、あの手狭なデュエルスペースの匂いも、全部。
「なーぅ」
キリメの腕の中で、おーちゃんが鳴く。キリメの腕が止まっていたことに対する、抗議の声だった。
「あ、ごめんごめん」
キリメは慌てておーちゃんの背中を撫でてやった。指先が黒い毛並みを梳き、おーちゃんは目を細めて喉を鳴らした。ワガママな姿だが、それが猫の可愛げだとキリメは重々承知している。
ガラにもなく、しめっぽくなりすぎた。キリメは小さく頭を振った。駄菓子屋の記憶も、再開発の話も、スマホゲームも、今考えることじゃない。
まずはクモンと対戦する約束だ。新しいデッキの調整を試したいと昨日の夜にメッセージを送ったら、クモンから即座に楽しみにしているという返事が返ってきた。
今はそれだけ考えればいい。
気づけばキリメは、ボトムレスピットが見えるところまで歩いていた。古い木造の店舗。色褪せた看板。ショーケースのガラスに反射する、午後の日差し。
店の前にクモンが立っている。学校にデッキを持ち込んでいる事をまったく後ろめたく思っていない不良小学生は、キリメの姿に気づいて手を振った。
陽光の中で、クモンの顔が笑っている。
キリメは一瞬だけ足を止め、ディーヴァ・アリーナでの夜を思い出した。ステージから戻ってきたクモンを迎えた時、自分が手を振ったらクモンがなんとも言えない顔をしていたこと。
今度は逆だ。クモンが手を振っていて、キリメがそれを見ている。
何かが胸の中を掠る。いつかと比べ、少し背が伸びたせいだろうか。それでも自分の方がずっと高いが、いつかクモンが追いつき追い越せとなる日が来るのか。
少し考え、諦める。クモンが大きくなった姿など想像出来ない。弟分はいつまで経っても弟分だ。いつまで面倒を見るのか分からないが、クモンの面倒を見るのは別に嫌ではない。
キリメは気を取り直し、おーちゃんを抱えたまま軽く片手を上げてクモンに振り返した。
「よー。待ったか?」
「全然。今来たとこ」
「そっか。ん、汗かいてんじゃん」
「走ってきたから!」
「元気だねお前は。ほら、ちゃんと拭きな」
取り出したハンドタオルでクモンの額を拭ってやる。クモンはくすぐったそうに首をすくめながらも、何かおかしいのか笑顔になる。それにつられて、キリメも笑った。
「キリメ姉、デッキ変えたんだっけ?」
「ああ。バイト代入ったから一気にパーツ揃えて」
「いいなぁ。こないだのでお年玉も大体使っちゃったからなぁ。小学生でも出来るバイトとか無い?」
「バカ言え、親の手伝いでもしてろって。なんか欲しいカードあるのか? 手持ちにあったら交換してやってもいいぞ」
「えー。キリメ姉ってカードの管理雑そうだし」
「んだとコラ」
拭いてやるついでに髪をぐしゃぐしゃと掻き回してやるが、生意気を言う口は変わりはしない。そうこうしていると、おーちゃんがキリメの腕からするりと抜け出して、器用にぺしりとボトムレスピットの戸を叩いた。
「んなう」
開けろ、と言わんばかりの態度に、またキリメは笑ってしまう。賢い猫だ。本当に猫なのだろうか。
キリメはおーちゃんを一撫でした後、ボトムレスピットのガラス戸を開ける。
カラカラと、いつもの音が二人と一匹を出迎えた。