季節が変わるということをこの身体で実感するたびに、レヴェローズ・ドゥブランコは少しの高揚を覚えていた。
カードの精霊として顕現してからしばらく経つ以上、四季というものの存在は知識以上に経験してきている。秋が過ぎ冬が来て、冬毛を膨らませた大穴と一緒にこたつの中で溶けかけた記憶もある。
春になるとこたつ布団が無くなるのは不満だったが、冷えた廊下で寝袋に包まることが無くなるのは助かる。今後は定期的にシラベの布団に入れるとはいえ、寒くないに越したことはない。
そういう季節感の一環として、今の光景がある。ボトムレスピットの二階。シラベの部屋と廊下の間に敷かれたブルーシートの上には、いくつかの衣類が広がっていた。シラベが押し入れの奥から引っ張り出してきた冬物の上着やセーターが積み上がり、その横にはゴミ袋が口を開けて待機している。
「衣替えだ。冬物しまって春物出す。手伝え」
シラベの指示でレヴェローズは言われるままにセーターを畳もうとしたが、畳み方が分からない。王族が衣服を自ら畳む必要などないとこういう家事手伝いからは今まで逃げてきたツケが回ってきている。
「こう、半分に折って、袖を内側に。違う、そうじゃない。逆だ」
「ええい、面倒だ! 召使いの仕事だろうこんなものは!」
「うちにそんなもの雇う余裕はありません。ほら、もう一回」
シラベに手取り足取り教わりながら、レヴェローズはどうにかセーターを四角い塊にすることに成功した。不格好ではあるが、収納袋に入るなら何とかなる。
その作業の最中、レヴェローズはふと気づいたことがあった。
山の中から出てくるシラベの服は大半がくたびれた安物だ。首回りが伸びたTシャツ。毛玉だらけのスウェット。膝の抜けたジャージ。その中のいくつかは見覚えがある。と言うか、今まさにレヴェローズが着ているジャージの色違いだ。
「契約者よ。これは捨てるのか」
レヴェローズが手に取ったのは、首元がだるだるに伸びた灰色の長袖Tシャツだった。レヴェローズが普段着ているものと同型だが、こちらはさらに一段階くたびれている。
「ああ、もう限界だろ。お前が着てるのもそろそろ買い替え時だけどな」
シラベの視線がレヴェローズの胸元に向き、すぐに逸れた。レヴェローズが着ている白のTシャツはシラベのお下がりの中でも比較的新しい部類だが、彼女の規格外の胸部によって布地が日々引き伸ばされ続けた結果、原型を失いつつあった。首回りはレヴェローズの鎖骨から先を惜しげもなく露出し、裾は腹が見えるほど引っ張り上げられている。
レヴェローズ本人にその自覚は皆無だった。着られればそれでいい。
「この際だ、お前も新しい服を買ってきたらどうだ」
シラベがそう言って、財布から数枚の紙幣を抜き出した。レヴェローズの手に押し込むように渡す。
「服屋で適当に見繕ってこい。俺のお下がりじゃなくて、自分で選んだ奴を着てみろよ」
レヴェローズは紙幣を見下ろした。金額としては決して多くない。シラベの懐事情を考えれば、これでも相当な出費だろう。
だが、レヴェローズの胸の中に湧き上がったのは金額への不満ではなかった。
この世界に顕現して以来、レヴェローズが纏ってきたのは軍服か、シラベのお下がりか、シラベが買ってきた安物だった。自分の意思で服を選んだことは一度もない。
シラベから自分で選んでみるように言われたことは、彼女にとって自分を認めてもらったように感じられた。
「任せておけ! 総督たる私にふさわしい装いを見つけてきてやろうではないか!」
「いや普段着でいいからな。変なスーツとかやめろよ」
シラベの言葉を無視したまま紙幣を握りしめ、レヴェローズは意気揚々とボトムレスピットを飛び出した。
*
言うまでもないが、衣料品店というものはレヴェローズにとって未知の戦場だった。
まずもって、広い。ボトムレスピットの一階をまるごと三つ繋げたほどの売り場に、ハンガーに吊るされた衣服が壁のように立ち並んでいる。色も形も素材も多種多様で、どこから手をつければいいのか見当もつかなかった。
レヴェローズは衣服の列の間を歩きながら、目に留まったものを片端から手に取っていった。赤い布地のワンピース、金のボタンがついた上着、襟元にフリルのあるブラウス。彼女の審美眼が求めるのは華やかさと威厳だ。総督の名に恥じない堂々たる装いでなければならない。
最初に選んだのは深紅のカットソーだった。胸元に金色のラインが入った、それなりに見栄えのする一着。レヴェローズは意気込んで試着室のカーテンを閉めた。
三十秒後。
「……入らんのだが」
カーテンの中で、レヴェローズは途方に暮れていた。
頭と腕は通った。肩幅もぎりぎり収まった。だが、胸のあたりで布地の進軍が完全に停止した。無理に引き下ろそうとすれば、縫い目から不吉な軋み音が上がる。Mサイズはもちろんのこと、Lサイズですら胸囲が足りないのだ。
やむなくカットソーを脱ぎ──脱ぐのにも苦労した──次の候補に取りかかる。
白いブラウス。Lサイズ。ボタンを留めようとしたところ、胸の正面で三番目と四番目のボタンが無言の抗議を始めた。布地と布地の間に生じた隙間から、下着の存在を主張する肌色が覗いている。ボタンが弾け飛ぶのは時間の問題だった。
ニット地のセーター。XLサイズ。伸縮性のある素材だったので着ること自体は出来たが、胸の膨らみによって布地が引き伸ばされた結果、本来は腰まであるはずの裾が腹の上まで捲り上がり、腹部が盛大に露出した。まるでへそ出しの服を着ているようなものだった。デザインが破綻してしまう。
丈の長いチュニック。これなら、と思ったが、胸部に合わせてサイズを上げた結果、肩幅と腕周りがぶかぶかになり、袖口から腕がずるずると滑り落ちてしまった。
試着室を出たり入ったりすること四回。レヴェローズは、自分の体がこの世界の既製服の規格に収まらないという事実に気付き始めていた。
カードのイラストにおけるレヴェローズ・ドゥブランコは、そもそも人間の衣服を着ることを想定してデザインされた存在ではない。長身に豊満な胸部、それに見合った肩幅と腰回り。このプロポーションに合致する既製品は、一般の衣料品店の棚には存在しなかった。
五着目の候補を手に試着室へ向かおうとしたところで、聞き覚えのある声がレヴェローズの耳に飛び込んできた。
「あれ、レベさん?」
振り返ると、店の入り口付近に二つの姿があった。
金髪のウルフカットにスカジャン。兼定キリメだ。その隣には橋谷クモンが小さな体を並べて立っている。
「おお、キリメにクモンではないか。奇遇だな」
「こっちのセリフだっての。買い物?」
キリメの視線がレヴェローズの手元に移り、ハンガーに掛けられた候補と試着室の方向を見比べた。同じ女としてなのか、状況を理解するのは早かった。
「もしかして、サイズ合わないとかで苦戦してんの」
「うむ。胸が入らん」
レヴェローズは何の衒いもなく事実を述べた。クモンが盛大に咳き込んだが、二人の女は気にしなかった。
「分かる。分かるわそれ」
キリメは深々と頷いた。その共感には実感が籠もっていた。
キリメもまた、ボトムレスピットの女性陣の基準では控えめな方とはいえ、一般的に見れば十分以上の胸部を持っている。スカジャンの前を開け放しているのも、ジッパーを閉めると窮屈だからという実利的な理由が大きいのだろうとレヴェローズは推察した。
「こういう普通の店だと大きいサイズ置いてても肩とか腰に合わせた作りだから、胸だけデカい人間には地獄なんだよ。アタシも中学の頃から制服のブラウス何回も買い直したし」
「そうなのか。では貴様はどこで服を調達しているのだ」
「アタシの行きつけがある。ちょっと歩くけど、行く?」
レヴェローズに否やはなかった。この戦場での敗北は認めよう。しかし別の戦場を示してくれるのであれば意地を張るべきではない。
「頼む」
「おっけ。こっち」
キリメが歩き出し、レヴェローズがその後に続く。クモンは二人の大きな背中を追いかけるようにして小走りについてきた。
*
キリメの行きつけは、雑居ビルに入った小さなセレクトショップだった。
ストリート系のブランドが中心で壁にはグラフィティ調のアートが描かれており、ヒップホップの低音が店内に微かに響いている。ボトムレスピットとは対極にある空気感だが、キリメは慣れた足取りでラックの間を進んでいった。
「ここは作りが大きめだし、胸周りに余裕あるデザインが多いんだよ。ストリート系はシルエット自体がゆったりしてるから、体型で苦労するやつには向いてんの」
「ほう。貴様、存外に詳しいな」
「自分の着れるもの調べてたら自然とね」
キリメはレヴェローズの体格を上から下まで一瞥し、ラックからいくつかのハンガーを素早く抜き取った。
「まずこれ。オーバーサイズのMA-1。スカジャンと似たシルエットだけど、もうちょっとミリタリー寄り。レベさんに似合いそう」
「MA何とかとは何だ」
「着りゃ分かる。ほら、試着室こっち」
有無を言わさず押し込まれた。
カーキ色のボンバージャケットに袖を通す。先ほどの衣料品店での悪戦苦闘が嘘のように、すんなりと着られた。肩幅も胸回りも窮屈ではない。裾がヒップの下あたりまで落ちるオーバーサイズの作りが、レヴェローズの体格をゆったりと包み込んでいる。
カーテンを開けると、キリメが腕を組んで待っていた。
「お、いいじゃん。ミリタリーっぽいのやっぱ似合うわ」
「うむ。悪くはないが」
レヴェローズは鏡の前で体を捻った。動きやすいし、窮屈さもない。だが何か、決定打に欠ける。
「次」
キリメは次の候補を突き出した。
黒のドルマンスリーブカットソー。袖が大きく取られた作りで、腕を上げても布地が突っ張らない。胸部も自然なドレープを作っており、体のラインを拾いすぎない。柄自体はアーティストが自由過ぎる才覚を発揮した派手ものだが、今のレヴェローズにとっては着れる方が重要だ。
「おお、これは良いぞ!」
「だろ。胸のとこがつっかえないでしょ」
そこから先は、キリメの独壇場だった。
ワイドパンツ、ロング丈のパーカー、バンドカラーのシャツ、迷彩柄のカーゴパンツ。次から次へとラックから抜き出される候補を、レヴェローズは着せ替え人形のように試着させられていく。
キリメの選ぶ服は、レヴェローズの体型に対する理解が的確だった。胸周りに余裕を持たせつつ、だらしなく見えないシルエットを保つ。肩のラインを落として窮屈さを逃がしながら、腰周りで緩急をつける。レヴェローズが自力で辿り着けなかった解を、キリメは経験則で瞬時に導き出していた。
「んー、こんな感じか。クモン、どうよ?」
「え、えっと。さっきのカーキのやつが、一番かっこよかった……かな」
クモンはベンチに座り試着室から出てくるレヴェローズを眺めていたが、キリメに声を掛けられると律儀に評価していた。
頬を紅潮させながらも視線を逸らさずに感想を述べる姿は甲斐甲斐しく、レヴェローズは微笑ましく思った。
「次はこれだ。ここに置いてある奴の中では珍しく無地だけど」
白のクロップド丈のスウェット。裾を少し短めに取った丈だが、中にインナーを合わせればレヴェローズの腹が露出することはない。シンプルだが清潔感がある。
「おお」
レヴェローズは鏡を覗き込んだ。白い布地は金色の髪を引き立てているように見える。軍服とはまるで違う印象だが、品の良さは残っていた。
「ふむ。悪くない」
「それ、すごく似合います。しゅっとしてるって言うか……」
語彙を尽くして褒めようとするクモンに胸を張りながら、レヴェローズは気付く。
キリメはどうやら、クモンの反応を観察しているようだった。レヴェローズがそちらに意識を向けた時には、キリメの目はもう棚の方を向いていた。
「へぇ。こういうのが好きなのかよ」
キリメの呟きは独り言のようだった。指先で袖口の素材を確かめるように触れながら、唇の端が僅かに動く。
「じゃあアタシも着てみるかな」
クモンが何か言いかけた。だが言葉にはならず、口を開けたまま固まってしまう。レヴェローズはその二人のやり取りの意味をよく理解出来なかったので、鏡の中の自分のシルエットに意識を戻した。
この服も確かに悪くない。だがレヴェローズの脳裏には、別のものがちらついていた。先ほどから試着を重ねるたびに、頭の片隅に居座り続けている。シラベが毎日のように着ているシルエットだ。
「キリメよ。ジャージはあるか」
「は?」
「ジャージだ。上下のやつで、出来れば少し大きめの」
キリメの眉が釣り上がった。
*
夕暮れ時のボトムレスピット。
シラベはカウンターの中で、帰ってきたレヴェローズの手にぶら下がっている袋を見た。透明なビニール袋の中に畳まれた布地が見える。
「ただいま帰ったぞ、契約者!」
レヴェローズは満面の笑みで袋を掲げた。
「見ろ、新しい服を手に入れてきたぞ! キリメの助力もあって、私にぴったりの一着を見つけることが出来た!」
嬉しそうに広げるレヴェローズ。
上下セットの紺色ジャージ。
シラベはその服をしげしげと眺めた後、レヴェローズの顔を見た。再び服に目を戻し、ゆっくりと口を開く。
「……結局それか」
「結局とはなんだ! 私が選んだのだぞ!」
「いや、まぁ……別にいいけどさ」
シラベはなんとも言いにくそうにするが、レヴェローズは嬉しそうジャージを抱き締める。質としては今着ているシラベのお下がりよりは上等で、生地も新しい。だがジャージはジャージだ。
「キリメにも手伝ってもらって色々試着はしたのだ。だが結局、一番動きやすくて着心地が良いのはこれだったのだ」
レヴェローズはジャージの袖を広げながら、ヒラヒラと見せびらかす。
「それに、考えてもみろ。契約者もよく似たような格好をしているのだから。これはもはやペアルックというやつではないか」
「ジャージってことしか合ってないのはペアルックとは呼ばないだろ」
シラベは額を手で覆い、深い溜め息を吐いた。レヴェローズがどういう服を買ってくるのか楽しみにしていた心はあったものの、よくよく考えてみれば渡した金額的にはそれほど凝ったものは買えないはずだ。シラベは自分の財布の紐の硬さが少し疎ましく思えた。
レヴェローズは新しいジャージを胸に抱き、シラベの傍を離れずに嬉しそうな顔をしている。シラベの肩に乗っていた大穴が首を伸ばしてジャージをくんくんと嗅ぐものの、興味を失ったのかすぐに引っ込んだ。
「まぁ、気に入ったものがあったならいいか。今着てるボロは捨てるぞ」
「むっ、それはならん。契約者からもらった服なのだぞ」
「いいだろ別に、お下がりならまた別なのやるよ」
「言ったな! 言質を取ったからな契約者よ!」
レヴェローズは詰め寄るようにシラベの腕に抱き着く。柔らかさと体温がシラベに染み込むが、彼はもうそれに慣れきっていた。片手で威嚇しかねない猫を撫で、もう片方の手でしがみつく金髪の頭を適当にあしらう。
新しいジャージは、その翌日から早速レヴェローズの定番になった。紺色の布地はシラベの着るとのとは微妙に違うが、並んで立てば確かに揃いに見えなくもない。
見えなくもないだけでどう見てもただのジャージが二人いるだけなのだが、レヴェローズにとっては些末なことだった。