カスレアクロニクル   作:すばみずる

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113 私の店でしょ。私がやるの

 ボトムレスピット二階の在庫部屋は、埃と段ボールの匂いに満ちていた。

 

 六畳弱の空間に商品の入った段ボール箱が壁際に積み上げられている。おもちゃの箱、パックの補充分、大会用の消耗品。棚にも在庫と伝票のファイルが並び、その隙間にカルメリエルが几帳面に貼ったラベルが秩序を主張していた。

 

 ミトラはその部屋の真ん中で、踏み台の上に立っていた。

 

 棚の上段に手を伸ばし、奥に押し込まれたプラモデルの箱を引っ張り出そうとしている。指先が箱の角に触れる。触れるが、掴めない。あと数センチ。背伸びをすれば届くが、踏み台の上での背伸びはあまりにも心許ない。

 

 ミトラは一度腕を下ろし、肩で息をした。

 

 今朝、この作業を始めると言った時のシラベの顔を思い出す。

 

「それ、レヴェローズが町内会の掃除から帰ってきてからやらせればいいだろ。あいつ背丈もあるし力もある」

 

 心配の色を隠さない声だった。ミトラの非力さと低身長をシラベはよく知っている。膝の上に座った時に掛かる体重も、体の細さも、全部この男が覚えてくれている。

 

 だからこそ、荷物の上げ下ろしなんかの力仕事をミトラにやらせたくないのだろう。その気遣いは嫌いではないが、はい分かりましたと引き下がるのも違う。

 

「私の店でしょ。私がやるの」

 

 ミトラはそう言って、シラベの反対を押し切った。

 

 事務作業の方は既に、カルメリエルに任せきりにしていた部分を少しずつ自分の手でも回すようにし始めていた。接客に関わるのは遠慮したいものの、別の部分ではもう少し動けるようにしておきたい。

 

 シラベが来る前はこの部屋とは別にもう一部屋、シラベがいま使っている部屋も在庫で埋まっていたが、あれは整理する暇と気力がなかったせいだ。暇はともかく気力の方は一人で店を維持することに精一杯で、余計なことに手を回す余裕がミトラに残っていなかった。

 

 シラベ、カルメリエル、レヴェローズ、ついでに大穴。人手が増えた分だけ余裕が生まれ、余裕が生まれた分だけミトラの手から離れた仕事が増えた。分業していくのは正しいし、そうあるべきだと分かっている。

 

 ミトラは踏み台を降り、位置をずらしてからもう一度登った。今度は角度を変えて手を伸ばす。指先がプラモデルの箱の縁を捉えた。慎重に引き寄せ、両手で抱える。重くはない。ただ、この動作を繰り返すのが体力的にきつい。

 

 在庫整理がミトラ以外の人間の担当になってから、棚の使い方は自然と変わった。身長が百七十センチの人間には自然な位置でも、百四十に満たないミトラにとっては踏み台なしには届かない高さに物が置かれるようになっていた。踏み台を上り下りするたびに膝と太腿に負荷がかかり、三往復もすれば息が上がる。

 

 それでも、やる。

 

 シラベに言っていない理由がある。言えない、というべきか。

 

 シラベはミトラが甘えれば甘えただけ受け入れてくれる。膝に乗れば背もたれになり、髪を差し出せば梳いてくれ、手を伸ばせば握り返してくれる。あの男の許容量は底が知れない。ミトラがどれだけ寄りかかっても揺らがない。

 

 だからこそ、寄りかかるだけの自分では駄目なのだ。

 

 甘えるだけ甘えて何もしない。それを許してくれるシラベの優しさに乗じてただぶら下がり続ける。そんな関係はきっと長くは保たない。シラベが耐えられたとしても、ミトラ自身が耐えられない。そうでなくても、あの男を安月給でこき使っている現状がミトラの心を密かに蝕んでいることをミトラは自覚していた。

 

 少しでも、愛想を尽かされないような人間になりたい。

 

 今は無理でもいずれは、シラベを堂々と養えるだけの店にしたい。この店を軌道に乗せてシラベの給料を上げてやって、いっそいつかヒモとして養ってやるくらいの甲斐性を見せてやりたい。

 

 そんな壮大で馬鹿げた野望を胸に抱えながら、ミトラはまた踏み台を上る。棚の上段から在庫の箱を一つずつ下ろし、中身をリストと照合しつつ店頭へ出すものを選り分ける。地味で、地道で、体力ばかり削られる作業だ。

 

 だが、ここはミトラの店で、ミトラの仕事だ。

 

 次の箱を下ろし終えた時、ミトラの腕は限界を訴えていた。前腕の筋肉が引き攣り、指先に力が入りにくくなっている。額の汗を袖で拭い、壁に寄りかかって息を整えた。

 

 今日はここまでにしよう。一列分は終わったのだから、予定していた分は済ませた。焦って怪我をしたらシラベに何を言われるか分からない。言われるだけならまだいいが、無理をしたと知ればミトラが嫌がっても次回から力仕事を全部取り上げるだろう。

 

 ミトラは立ち上がり、エプロンの埃を払った。

 

 一階に降りよう。シラベの顔が見たい。

 

 頑張ったのだから、少しくらい甘えてもいいだろう。労ってもらって、ぎゅっとしてもらって、頭を撫でてもらう。そのためだけに頑張ったと言われても否定はしない。というか半分はそうだ。自立心と甘えたさが五分五分で同居している三十五歳を、ミトラは自分でも面倒な女だと思う。

 

 階段を降りかけて、ミトラは足を止めた。

 

 一階から声が聞こえてくる。シラベの声と、聞き覚えのない女性の声。大穴が階段を登り、ミトラとすれ違ってシラベの部屋へと消えていく。

 

 ミトラは音を立てないように階段の途中で立ち止まり、壁に体を寄せて下を窺った。

 

 

 *

 

 

「興味はあるんですけど、何を買えばいいか全然分からなくて」

 

 カウンターの向こう側で、シラベが女性客と話していた。

 

 客は二十代半ばくらいだろうか。カジュアルな格好の、ごく普通の女性だ。カウンターの上にはエインヘリヤル・クロニクルのシングルカードやパックが数種類並べられており、どれを買うか迷っている様子だった。

 

「なるほど。対戦メインでやるか、コレクション目的かで変わってくるんですけど」

 

 シラベの声はいつもの怠惰さが抜けた、丁寧な接客モードだった。この男は真っ当な客を前にすると猫を被るように最低限のプロ意識を発揮する。最低限であってそれ以上ではないが、手を抜くような真似はしない。

 

 女性客が相手だから、という理由ではないと今のミトラも分かっている。

 

「対戦はしてみたいです。友達に誘われているので。でも正直、まだ全然分からないのにそんなにお金はかけたくなくて……」

 

 ミトラの理性では少し頷けて、本能では理解出来ない部分の話だ。初心者にいきなり一万円出せと言うのは酷な話と分かっている。だが遊ぶと決めたのなら一気に金を掛けなければ思い切り遊べないではないかとも思う。

 

 だが、マジレスしかしないミトラと違い、シラベには社会性フィルターが備わっている。相手の温度感を見極めるのは対戦中のミトラほどではないが聡い。

 

「分かりました。じゃあ構築済デッキが一番手っ取り早いですね。うちにあるのだと、こっちの最新のやつか、一個前のやつ。最新の方が強いカードはありますけど、一個前の方が千円安いし、回し方にクセがなくて初心者向きです」

 

 シラベはショーケースから二つのデッキケースを取り出し、カウンターに並べた。

 

「始めたばっかりなら最新のを無理に買うよりも、安い方で基本を覚えた方がいいと思います。どうせ慣れてきたらパーツを入れ替えたくなるし、最初に高い買い物する必要はないですよ」

 

 客の財布事情に配慮した助言だが、その実売れ残りの構築済みデッキへとさり気なく誘導しているのが巧みだ。だが言っていることに嘘は無いし、最新ならなんでも強いと押し付けた結果、扱いづらくて初心者に離れられるよりはよほどマシだろう。

 

「あ、あとこれ。今月の大会スケジュールです。初心者の方も参加できるカジュアルな枠があるので、もし良かったら」

 

 シラベがカウンターの端に置いてあるチラシを一枚取り客に渡した。カルメリエルが作成した案内で、いつのまにか増えてきた小規模イベントが分かりやすくまとまっている。

 

「ありがとうございます。じゃあ、こっちの安い方にします」

 

 客の女性は笑顔で構築済みデッキを手に取った。会計を済ませ、チラシを丁寧に畳んでバッグに仕舞いながら、礼を言って店を出ていく。

 

「ありがとうございましたー」

 

 ガラス戸のカラカラという音を聞きながら、シラベが小さく息をつく。ミトラは階段の途中から、ずっとその背中を見ていた。

 

 眺めているだけだが、ミトラは悪くない気分だった。

 

 シラベが客に正当に評価されているという満足感。接客は華やかではないし、世辞も言わない。だが嘘をつかないし、客の立場で物を言う。そういう誠実さは遅効性の信頼を生む。すぐには目立たないが、一度根付けば簡単には崩れない。

 

 あの客はきっとまた来る。構築済デッキの中身に慣れてきたら、パーツを入れ替えたくなって相談しに来るかもしれない。大会にも顔を出すかもしれない。一人の新規客が常連に育つ過程、その最初の一歩をシラベは適切に踏ませていた。

 

 ふと、ミトラの脳裏にヒナタの顔が浮かんだ。

 

 あの女がシラベにしがみつきながら見せていた顔。ミトラがシラベの膝の上でヒナタに勝ち誇った時の微笑み。嫉妬でも羨望でもない、微笑ましいものを見守る目。

 

 ミトラは当時、あの表情の意味が分からなかった。愛しているらしい者が別の誰かと結ばれていく光景を前にして、なぜ笑えるのか。それはミトラの理解の外にある感情だった。

 

 だが今、階段の途中でシラベの背中を見ているミトラの胸の中に、それを理解しようとするものが芽吹いていた。

 

 自分が好きになった男が、見ず知らずの客にも信頼されている。自分が認めた人間の価値が、他の誰かにも認められている。その事実が、ミトラの中で妙な充足感を生んでいた。

 

 私の目は間違っていなかった。この男にはちゃんと価値がある。私だけがそう思っているわけじゃない。

 

 それは独占欲とは矛盾する感情のはずだった。シラベを独り占めしたい気持ちと、シラベが広く認められることを喜ぶ気持ち。二つは両立しないように見えて、ミトラの中では矛盾なく同居していた。

 

 ヒナタはきっと、最初からこの感覚を知っていたのだろう。自分が愛し、価値を認めたものが、他の誰かにも愛され認められること。それを喜べるのは、自分の中の愛情に確信がある人間だけだ。

 

 あの異常な思考回路を、ミトラは少しだけ理解出来るようになっていた。理解出来てしまった自分がおかしいのか、それともヒナタに毒されたのかは判断がつかない。

 

 まぁ、どっちでもいいか。ミトラは口元を緩めた。自嘲よりは気軽な、小さな笑みだった。

 

 客の消えた店内は静かになり、シラベはカウンターの椅子に座り直して軽く首を回している。ミトラは階段を音を立てずに降りた。長年住む家だ、音を立てないコツは弁えている。

 

 足音を殺してゆっくりと近づいていき、シラベの背中へと迫る。仕事着にしている清潔感のあるシャツの背中。筋肉質ではないが、ミトラの全体重を預けても揺るがない程度の厚みはある。

 

 ミトラは両腕を伸ばし、後ろからシラベの胴に回した。

 

「うおっ」

 

 シラベの体がびくりと跳ねた。振り返ろうとするが、ミトラの腕がそれを許さない。背中にぴったりと張り付き、顔をシラベの肩甲骨の間に押し付けた。

 

「店長か」

 

「ん」

 

「在庫整理終わったのか?」

 

「今日の分は」

 

 短い返事だけするミトラは、シラベの背中から離れない。

 

 温かかった。埃まみれの在庫部屋で冷えた指先に、シラベの体温がじわじわと戻る。心臓の鼓動が背骨を通じて微かに伝わっている。他人の気配がここまで暖かく感じるなんて、ミトラには思ってもいないことだった。

 

 シラベはミトラの抱擁を拒絶しない。さっきの客に向けていたのと同じ誠実さで、この男はミトラの甘えも受け止める。客には適切な助言を、ミトラには温かい背中を。どちらも嘘がない。

 

 でも今、この温もりは私だけのものだ。

 

 客には渡さない。ヒナタにも渡したくない。レヴェローズとカルメリエルにも、今ばかりはダメだ。この背中に張り付く権利はミトラが最優先で押さえている。ローテーションが協定がどうのと言っても、この場所だけは譲らない。

 

「ミトラ、ちょい離れてくれ」

 

「なんで。お客いないじゃん」

 

「そうじゃなくて、ほら」

 

 ミトラの頭に、シラベの指が触れる。いつもの包み込んでくれるような撫でる手が来てくれると身構えるが、指は髪から先に進まない。

 

「背中にいたままだと、俺が撫でられないから」

 

 確かに、と思いつつ、名残惜しいが離れるミトラ。撫でてくれることを前提にした言葉が胸をじんわりと温もらせる。

 

 ぐるりと回り、ミトラへ正面を向くシラベ。よし、と溢した言葉をミトラは許しと認識して、すぐにシラベに抱きつき直した。胴に腕を回して、出来る限りシラベとの隙間を無くしていく。

 

「お疲れさん」

 

 労りの言葉と共に回される腕で、ミトラの小さな体がシラベの胸元に収まる。ちょうどいい雑さで、ちょうどいい温度の手のひら。

 

 それだけで疲れが溶け、それだけで決心が蕩ける。寄りかかってばかりでは良くないと思っていたはずなのに、今日はもういいやと全部かなぐり捨ててしまいたくなる。ダメになる。

 

 離れようと足に力を込めて、でも離れる気にはなれず、結局両足でシラベの膝へとよじ登ってしまう。恥ずかしい格好をしている気がしたが、今更だ。

 

「まだするのか?」

 

「……もうちょっと」

 

「はいはい」

 

 呆れたような口ぶりのまま、頭の上に顎が乗せられた。店長の頭に乗っかるなんて不遜な男だ。もっと抱き着いてやらなければ割に合わない。

 

 疲れが溶けてもなお、在庫部屋で酷使した腕が重い。膝も少し痛む。明日は筋肉痛になるかもしれない。それでも今日やった分だけ、昨日の自分より少しマシな店長になれたはずだ。

 

 そしてその頑張った分の報酬を、今こうして受け取っている。効率が良いのか悪いのか分からない労働と報酬のサイクルだが、ミトラにとっては完璧な循環だった。

 

 ミトラが脚をシラベの背へと回して、腹と腹を密着させる。降りる気のさらさら無い素振りのせいか、シラベは溜め息をついた。ミトラの頭の上で温かい吐息が髪を揺らす。

 

 もうちょっとが何分になるのか、ミトラ自身決めていない。次の瞬間には客が来てシラベに引き剥がされるかもしれないが、ただもう少しだけ、この温もりの中にいたかった。

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