春の陽射しが商店街のアーケードを明るく照らしている中、カルメリエル・ドゥブランコは買い物かごを腕に提げて八百屋の軒先に立っていた。
「おっ、ピンクの嬢ちゃん。今日は何がいいんだ? 葉物ならこっちの春キャベツなんてどうだ」
「ありがとうございます。春キャベツはたしか、軽いものの方が良いのでしたわね」
「おお、覚えてたのか。そうそう、冬の時期とはまた違うからな」
「わざわざ教えてくださったのですもの。大切に覚えておりますわ」
店主と言葉を交わすカルメリエル。シスター服にエプロン、ピンク色の長い髪を背中に流し、糸目と穏やかな微笑みを絶やさない姿はこの近辺では見慣れた光景だ。外国の教会から来た修道女で、妹と共に知り合いのおもちゃ屋で居候をしているというカルメリエルが流した設定を疑う者は近隣住民にはもういない。異様な風体はずだが、日々の積み重ねによって溶け込んでしまっている。
カルメリエルが春キャベツの出来を確かめるように葉の巻き具合を指で触れていると、背後から声がかかった。
「すみません、少しよろしいですか」
振り返ると、男が一人立っていた。
二十代の後半か三十歳前後。清潔感のある短髪に、悪くない作りの顔は人当たりの良さを作ろうとする意思が見える。
カルメリエルは見知らぬ顔だった。商店街の住民でも、ボトムレスピットの客でもない。
「はい。何かご用でしょうか」
カルメリエルはいつもの穏やかな声で応じた。買い物かごを持ち替え、男に向き直る。
「突然すみません。自分、アラハと言います。コスプレイヤーの撮影をしている者なんですが」
男はジャケットの内ポケットから名刺を取り出し、両手で差し出した。名刺には『フォトグラファー ARaHA』の文字と、SNSアカウントに繋がるQRコードが印刷されている。企業のものではなく、同人活動用の名刺というものだろう。
「先日のディーヴァ・アリーナで活動されていた、あなたの写真をネットで見まして」
やはりそうか、とカルメリエルは内心で頷いた。あの日の写真が出回っていることは、シラベからも聞いている。
「あの完成度は尋常じゃないです。造形も布地の質感も、本物のカルメリエル・ドゥブランコとしか思えなかった。で、どうしても直接お会いしたくて探し回ったんですけど、SNSにもイベントの参加履歴にも引っかからなくて。それでアリーナ周辺の目撃情報を辿っていったら、この辺りで似た方を見かけたという話があって」
アラハの声は興奮を抑えているが、目の奥は熱を帯びていた。コスプレイヤーを撮影するカメラマンとしての知識が会話の端々に滲んでおり、少なくとも趣味に対しては真剣な人間であるようだ。
カルメリエルは名刺を受け取り、丁寧に一礼した。
「ご丁寧にありがとうございます。失礼ですが、確認させていただいてもよろしいですか」
「どうぞ、もちろんです」
カルメリエルはエプロンのポケットからスマートフォンを取り出した。カルメリエルがスマートフォンを使いこなすようになったのはボトムレスピットに来てからだが、手にした初日から検索から諜報まで多岐に渡る利用手段に深く感心している。現代人なら大抵は持っているというのが実に良い。
名刺のQRコードを読み取り、表示されたSNSのプロフィールページを確認する。コスプレイヤーの撮影を専門とするフォトグラファー。投稿されている写真は数百枚に及び、衣装の再現度が高いレイヤーを中心に、光の使い方やアングルに技術力が窺える作品が並んでいた。フォロワー数は五桁。同人界隈においてはそれなりの知名度と信頼を持っている人間だと見て取れる。
活動履歴に不審な点はない。少なくとも、カルメリエルの前で身元を詐称しているわけではなさそうだった。
このアカウントが本人のものである、という証明には今一歩届いていないが、これは匿名性の高いインターネットでの弊害というべきだろうか。より念を押すならアカウントにメッセージを飛ばして確認するところだが、そこまでするのは彼がしたいらしい話を詰めてからでいいだろう。
「素晴らしいお写真ですわね」
カルメリエルはスマートフォンをしまいながら微笑んだ。嘘ではない。技術が確かなのは写真は素人のカルメリエルでもよく分かる。
「ありがとうございます。で、率直に申し上げると」
アラハは一度言葉を切り、真剣な表情を作った。
「これだけの完成度のコスプレを一切公開せずにいるのは、本当にもったいないと思うんです。もし差し支えなければ、ぜひ一緒に活動しませんか。撮影はもちろん、SNSでの発信やイベント出展のサポートも出来ます」
熱意のこもった提案だった。言葉の選び方は丁寧で、一見すれば純粋な創作活動への誘い以外の何物でもない。
一見すれば。
カルメリエルの目には、アラハの表情の裏側を読み取ろうとしていた。
たとえば視線の動き。カルメリエルと目を合わせている時間は長いが、その合間に視線がほんの一瞬だけ下方へ落ちる。シスター服に包まれたデコルテを意識的に見ないようにしているが、見ないことを意識している時点で見えているということだ。
身体の向きもそうだ。一歩分だけ近い。カメラマンとして適切な距離を保っているように見せかけて、通常の対話距離よりも半歩ほど詰めている。
声のトーンも後半に向かって僅かに低くなり、親密さを演出する方向に寄っている。
身体目的の男であることを、カルメリエルは見透かしていた。
だがそれは、カルメリエルにとって唾棄すべき対象というわけではない。むしろ扱いやすい部類だ。
カルメリエルは自分の容姿、この顔と身体がどれほどの吸引力を持つかをよく理解している。ボトムレスピット周辺の商店街だけでもカルメリエルの微笑みに骨抜きにされた男たちは少なくない。クモンも含めた七十二人のうら若き男子から告白されたのは、おそらく年月を重ねるごとに増えていくことだろう。
彼らは今やカルメリエルの手足となっていた。シラベがふざけて呼んだ『カルメリエル十字軍』というものを正式名称にしてから、商店街や近隣の情報は彼らを通じてカルメリエルの元に集約されるようになっていた。どの店がセールをするか、どの通りで工事が始まるか、不審な人物の出入りはないか。エデンパクトがかつて行った再開発に不穏な影を見出していた河川敷のホームレスたちとの交流に始まったカルメリエルの情報収集は、ライフワークと呼んでいい規模を超すものに膨れ上がっている。
アラハはその情報網の外から来た人間だ。同人界隈、コスプレやカメラ、ネットでの創作活動に従事する者たちの世界は、ボトムレスピットの客層とは重なる部分もあるが、カルメリエルの情報網がまだ十分に届いていない領域だった。
この男を籠絡すれば、その界隈への足がかりになる。アラハのフォロワー数から推察するに、彼の周囲には相応の人脈がある。それを介してカルメリエルの情報網を拡張出来れば、ボトムレスピットの経営にも、ひいては店を取り巻く環境の把握にも役立つ。
ただし、問題がある。
この男は近隣住民ではない。わざわざ足を運んで探し回るほどの行動力は認めるが、それは逆に言えば、頻繁に会える相手ではないということだ。商店街の顔見知りのように、日常の接触の中で少しずつ絡め取っていくやり方は使えない。
この一度の接触で、深く、確実に、カルメリエルの手の中に落とさなければならない。
手段はある。カルメリエルにとって、男を褥で誑すことなど手慣れたものだ。祖国において外交と諜報の表裏を担ってきた経歴は伊達ではない。肉体を情報と忠誠の対価として差し出す。それは国の安寧のために何度となく行使してきた、カルメリエルの武器の一つだった。
駅前まで行けば宿泊施設はいくつかある。あるいは二人で入ることが出来る防音の効いた漫画喫茶。それも面倒なら商店街の裏手。人気のない時間帯であれば、密会に使える場所はいくつかある。河川敷沿いの空き地。旧町内会館の裏。あるいは、少し足を伸ばせばいくらでも。
カルメリエルの頭の中で場所のリストが組み上がっていく。最も人目につかず、かつ短時間で用を済ませられる場所。アラハの性格と欲求の深度から逆算した、最適な手順。
唇が動いた。
「よろしければ、これから──」
言葉が途切れる。カルメリエルの脳裏に、一つの顔が浮かんだからだ。
シラベの顔だった。
カウンターの中で頬杖をつき、怠惰そうに客を迎えるあの男の顔。ミトラの頭を撫でている時の、少しだけ緩んだ目元。カルメリエルの口元からクッキーの屑をつまみ取った時の呆れた顔。
もし、シラベがこのことを知ったら。カルメリエルが身体を使って男を籠絡していると知ったら、シラベはどう思うだろうか。
別にどうも思わないだろう、とカルメリエルは即座に自分に言い返した。
カルメリエル・ドゥブランコの物語において、自分はヴラフマとの密約に手を染め、姉を謀殺し、最終的には敵国に改造されるという末路を辿る。かつてミトラに語った寝物語はその一端に過ぎない。国を統べるということは、綺麗な手段だけで成り立つものではない。
シラベはエインヘリヤル・クロニクルの背景ストーリーをよく知っている。カルメリエルがどのような手段を講じる人間であるかも、理解しているはずだ。今更、この程度のことで幻滅するような男ではない。
だから問題ない。問題ないはずだ。
問題ない、と。三度自分に言い聞かせて、カルメリエルの思考は止まった。
反論が浮かんだからではない。もっと静かなものが、胸の奥で呟いていた。
ここにいるカルメリエルは、カードの中の存在ではない。
あの物語の中で暗躍し、裏切り、堕ちていったカルメリエルと、今ボトムレスピットで事務方をこなし、夕飯の支度をするカルメリエルは、同じ名前を持つ別の存在だ。
シラベと暮らし、ミトラに仕え、レヴェローズの尻を拭き、大穴の背中を撫でている。商店街の八百屋で春キャベツの出来を吟味し、クモンの頭を撫でて褒め、在庫の伝票を整理し、蜂蜜酒に酔い潰れて醜態を晒す。
そういう日々を生きている自分が、かつてと同じ手段を取ることに、かつてと同じ顔をしていられるのか。
あの男の隣で、あの男の匂いを嗅ぎながら眠る夜に、昼間の自分を思い出して平気でいられるのか。ローテーションなどというバカらしい協定で回ってくる、あの布団の中の温もりを──。
カルメリエルは思考を断ち切った。これ以上は危ない。頬に熱が集まりかけている。
「──申し訳ありません」
カルメリエルは表情を繕い、アラハに向き直った。途切れた言葉の不自然さを、微笑みの厚みで塗り潰す。積年磨いた対人スキルが一瞬の動揺を外に漏らすことを許さなかった。
「少し考えさせていただけますか。もし興味を持ちましたら、こちらのアカウントにご連絡を差し上げますわ」
カルメリエルは名刺を丁寧に受け取り直し、エプロンのポケットに仕舞った。連絡先は控えた。使うかどうかは別として、情報として保持しておくことに損はない。
「あ、はい。もちろんです。お待ちしてますので」
アラハは少し拍子抜けした様子だったが、カルメリエルの笑顔の前では食い下がる余地がなかったのだろう。名刺を渡せた手応えだけを収穫として、軽く頭を下げてから去っていった。
アラハの背中が商店街の雑踏に消えるのを見届けてから、カルメリエルは春キャベツを含めて買い物を済ませ、その場から離れる。
アーケードの柱の影に入ったところで、カルメリエルは足を止めた。
「はぁ」
溜め息が漏れる。自分にはあるまじき、だらしない吐息だった。
カルメリエルは己の判断を振り返った。あの男を逃したことで、自身が明るくない世界への情報網の拡張はしばらく見送りとなる。アラハの人脈を介して得られたはずの情報、築けたはずの影響力。それらの機会損失は小さくない。
だが、それとは別の勘定が、カルメリエルの帳簿に新しい行を加えていた。
「……シラベ様のせいで、貴重な情報源を自在にする機会を失ってしまいました」
責任の所在を明確にしておかなければならない。これはカルメリエルの判断ミスではなく、あの男が悪いのだ。あの男に恥じるような行いが出来ないなどという本来ならどうでもいい価値基準が、カルメリエルの中に余計なものが芽生えてしまったのだ。人道に悖る行いはカルメリエルの領分だというのに、それを阻害した罪は重い。
「この穴埋めは、シラベ様にしていただきませんと」
穴埋めの具体的な中身についてカルメリエルは深く考えなかった。考えると頬が熱くなるからだ。蜂蜜酒の二の舞を演じるつもりはない。
ただ、そういう行いでなくとも、何らかの形で補填を要求する権利だってある。情報網の損失に見合うだけの何か。日々の業務への積み重ねは美味くない。分かりやすく骨を折らせる形より、ある種のきっかけとして動かすフックにすればシラベは動かしやすい。いっそアラハのようにシラベにもサークルというものを作らせて同人活動をさせれば、同じ情報網を得ることも出来る。そこで自分の小説頒布の機会を得てしまうか――。
カルメリエルは歩みを再開した。野菜の他に、今夜の夕食の材料をまだ揃えなければならない。鮭の切り身が安ければ西京焼きにしよう。副菜の材料も買い足しておくべきだ。ああ、味噌の残量も怪しい。
買い物かごを提げたシスター服の女が、商店街のアーケードを歩いていく。すれ違う人々に穏やかな笑顔を向けながら。
その微笑みの底に浮かんでいるのが、あの無精な男の顔であることを、すれ違う誰も知らない。