カスレアクロニクル   作:すばみずる

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115 怒らないでよ

 朝の冷気が残る薄暗い部屋で、シラベは目を覚ました。

 

 感覚からして六時前程度だろうか。春になって日の出が早くなったとはいえ、この時間だとまだ外から響く音も少なく、夜とそれほど変わらない。

 

 最初に認識したのは、体の右側に張り付いている温もりだった。

 

 ミトラだ。パジャマ姿の小さな店長がシラベの胴に腕と脚を絡みつかせ、まるでコアラが木にしがみつくような格好で眠っている。シラベの脇腹に頬を押し付け、黒髪が胸元に散らばっている。

 

 あまりにも遠慮のない寝相だった。起きている時でさえ膝の上に座りたがるミトラだが、寝ている間はもう一段階タガが外れているらしい。シラベを完全に抱き枕扱いして、空いた手では寝間着をぎゅっと握りしめている。

 

 笑うような口元はだらしなく半開きになっていた。薄い唇の端から、一筋の涎が糸を引いてシラベの脇腹に到達している。安眠の証と言えば聞こえはいいが、品位という点では落第ものだ。もっとも、シラベは他人の落第を気にするほど上等な自覚はないし、ミトラの魅力は品位とは全く無縁のところにある。

 

 シラベは手を伸ばしてミトラの口元を親指で拭った。寝ている彼女は身じろぎもしない。拭い取った涎の感触が指先に残り、シラベはTシャツの裾で手を拭く。

 

 もう一度指先でミトラの口元を拭い、今度は指先がそのままミトラの唇の近くに留まった。ミトラはんにゃ、と猫のような寝言を漏らし、さらに強くシラベの胸に顔を擦り付けてくる。

 

 ぐるり、とシラベの中で静かにとぐろを巻く感覚が広がっていく。

 

 三十五歳のものとは思えないほど幼く、薄く、柔らかい唇だ。起きている時は毒舌を紡ぐ口が、今はただ無防備に開いている。

 

 これだけ無防備に甘えられているのだ。このまま額か唇にキスの一つでもしてやろうか。

 

 そんな考えが頭を掠め、身を浮かせようとしたその時。

 

 ブブブブブ、と。枕元のスマートフォンが振動した。

 

 シラベの意識が一瞬で現実に引き戻された。ミトラを起こさないように手を伸ばし、スマホを掴む。画面の光が暗がりの中でシラベの顔を照らした。

 

 着信画面に表示されている名前を見て、シラベは露骨に渋い顔を作った。

 

 亜修利ヒナタ。

 

 朝早くに電話を掛けてくるような奴に良い人間はいない。これはシラベの人生で培われた経験則だ。まして相手がこの女であれば、ろくでもない用件であることは確定的に明らかだった。

 

 シラベはミトラの腕を慎重に解いた。コアラの拘束力は思いのほか強く、絡みついた脚を外すのに数秒を要した。ミトラは引き剥がされた反動でもぞもぞと身じろぎしたが、代わりに布団を抱え込んで丸くなり、再び寝息を立て始めた。

 

 シラベは布団から這い出し、部屋の隅に移動してから応答ボタンを押した。

 

「……もしもし」

 

「おはよう、シラベ。ミトラとの甘いひとときを邪魔してしまったかな。すまないね」

 

 早朝だというのに、その声は爽やかで寝起きの気配が微塵もない。朝の支度を完璧に済ませた上で電話をかけてきたのだろう。この女の生活リズムの良さを悪く言うつもりはないが、あまり正しい人間に近寄られると溶けてしまう気がする。

 

「お前、本当に監視カメラとか仕掛けてないんだよな」

 

 以前にも同じことを確認した。その時は否定されたが、今朝もまさにこの瞬間に着信が来たというのはタイミングが毎回あまりにも的確すぎる。偶然にしては出来すぎだ。

 

「ふむ。なるほど。どうやら夫婦仲は円満なようだね」

 

 シラベの口が止まった。一拍遅れて、理解が追いつく。くだらないカマかけに引っ掛かってしまった事実に舌打ちが出た。

 

「……で、何の用だよ。こんな時間に」

 

「今日はボトムレスピットは定休日だろう? よければ、私とデートしないかい」

 

「なんでお前と。ミトラでも誘えよ」

 

「今回ばかりは、ミトラを誘うわけにはいかないのさ」

 

 ヒナタの声のトーンが僅かに変わった。芝居がかった軽薄さの下に、何か含みのある響きが混ざっている。

 

「詳細は会って話そう。場所はメッセージで送っておくからね」

 

「おい、勝手に決めんな」

 

「待ってるよ、シラベ」

 

 通話が切れた。

 

 シラベは思わずスマホの画面を睨みつけた。即座に通知が来るメッセージアプリがうっとうしい。一方的に待ち合わせ場所を指定され、一方的に切られた。

 

 無視すればいい。好き勝手な事を喚いている相手なのだから、このまま布団に戻ってミトラと二度寝する権利がシラベにはある。

 

 だが脳裏に、時計台の前に立ち続けるヒナタの姿が浮かんだ。あの女なら、スーツ姿で何時間でも佇み、通行人の視線を集めながら微動だにせず待ち続けることでも本当にやりかねない。そしてシラベが来なかったことを後日ミトラに報告し、「君の旦那さんは約束を破る男だよ」と哀しげな顔をしてみせる。約束した覚えなど一切ないのに。

 

 面倒だ。面倒だが、放置した場合の面倒の方が大きい。

 

 シラベは溜め息をつき、ミトラの枕元に戻った。布団の横に置いてあるメモ帳とペンを手に取り、短い一文を書き残す。

 

『ちょっと遊びに行ってくる』

 

 メモをミトラの枕の横に置いた。丸くなって寝ているミトラの頭を一撫でし、シラベは部屋を出た。

 

 自室に戻り、着替えを済ませる。休日に出掛ける格好と言ってもシラベの選択肢は大して広くない。くたびれていないTシャツの中からマシなものを選び、薄手のジャケットを羽織る程度だ。

 

 階段を降りる途中、レヴェローズの寝袋から抜け出してきた大穴と目が合った。シラベの足元でするりと胴を擦らせてから、どこに行くのかと問いたげに首を傾げた。

 

「散歩だよ。留守番頼むわ」

 

「にぃ」

 

 シラベの言葉に不満げな声を出しつつも、言いつけ通り着いてこようとはしなかった。大穴に手を振ってから、シラベはボトムレスピットの裏口から踏み出した。

 

 

 *

 

 

 電車でしばらく揺られた後。あまり縁のないアウトレットモールにシラベは立っていた。

 

 開放的な吹き抜け構造の建物が朝の陽射しを受けて白く光っている。開店直後の時間帯のせいか人通りはまだまばらだ。

 

 待ち合わせ場所を探す必要は無かった。入り口部分からほど近い、エントランス広場の中央に据えられた時計台の下にヒナタは立っていた。

 

 ヒナタ、と認識出来たのは、いつものトンチキな服装のせいではなかった。ある意味、それとは違うからこそシラベの目を引き、そして気付けたと言える。

 

 薄いベージュの、膝下丈のワンピース。ウエストで絞られたシルエットが長身の体型を上品に際立たせている。袖口にさりげないフリルがあしらわれ、胸元は控えめなVネック。アッシュグレーのショートヘアには小さなバレッタが留められていて、足元はヒールの低いパンプスだ。

 

 いつもの男装と自称していた装いとは完全に別人の、ごく普通の──ただし非常に整った顔と抜群の体型を持つ──女性がそこにいた。

 

「お前、そういう格好も出来るんだな」

 

 シラベが率直な感想を述べると、ヒナタは微笑みながら小首を傾げた。

 

「君とのデートで男装していたら変だろう?」

 

「お前あれを本当に男装だと思ってんのかよ。ワイシャツの前はだけて谷間見せまくってる奴のどこが男装だよ」

 

 至極真っ当なツッコミを、ヒナタの耳は都合よく聞こえなかったことにした。

 

 二人は並んでモールの中を歩き始めた。ヒナタはシラベの左側に位置取り、半歩だけ近い距離を保っている。スーツの時は肩にもたれかかってくるところだが、ワンピース姿のヒナタはそこまではしなかった。格好が変わると距離感も変わるらしい。

 

「で、急にどうしたんだよ。電話じゃ言えないような話か」

 

「ミトラの誕生日は知っているかい」

 

 唐突な質問だった。

 

「四月二日だろ」

 

 シラベは即答した。店の書類に記載されているのをちらりと見たことがあった。

 

「そう。四月二日」

 

 ヒナタの声に、珍しく感傷のようなものが混じった。

 

「私がディーヴァ・アリーナの準備やら何やらにかかずらっている間に、過ぎてしまったんだよ」

 

 言いながら、ヒナタは片手を額に当て、悲劇のヒロインのような仕草をした。周囲の視線が集まるが、本人は一切気にしていない。

 

「最愛の姫君の誕生日を祝えなかった。これは私の人生における最大の汚点だ。取り返しのつかない失態だ。末代まで語り継がれるべき」

 

「大袈裟だな末代筆頭」

 

「大袈裟ではないよ。というわけで、その穴埋めをするためにプレゼントを贈る機会を用意したくてね、今回は贈呈用の品を考えているんだ」

 

 ヒナタはシラベの顔を覗き込んだ。

 

「ちなみに、君はミトラに何か贈ったのかい?」

 

 シラベは目を逸らした。

 

「……その時はまだ、惚れただなんだもなかったし。本人も誕生日のこと忘れてたっぽいから、何もしてない」

 

「なるほど」

 

 ヒナタの口元が弧を描いた。予想通りの答えだったのだろう。

 

「それならちょうどいい。君と私で、最愛の姫君に贈る品を探そう」

 

 言うが早いか、ヒナタの腕がシラベの左腕に絡みついた。

 

 ワンピースの袖越しに伝わる細い腕と、控えめとは言い難い胸部の圧力。スーツの時よりもより距離が近い。ヒナタの体温がシラベの二の腕を温めていた。

 

 シラベは腕を振り解こうとしたが、ヒナタの拘束力は見た目に反して強固だった。通行人が何人かこちらを見ている。仲の良いカップルに見えているのか、それとも美女に連行される気の毒な男に見えているのか。

 

 この女がなぜここまで自分に懐いてくるのか、シラベには未だに理解出来なかった。ミトラ一筋のストーカーだったはずが、いつの間にかシラベにまで甘えるようになり、今ではこうして休日にデートまがいの誘いをかけてくる。

 

 意識をそらすために、別の疑問を口にした。

 

「なんでアウトレットで探すんだよ。お前のことだから、都心の高級店で何十万もするものを送りつけるのかと思ってたぞ」

 

「ミトラは値段よりも気持ちのこもったものを好むだろう。高級品を贈ったところで、値段を調べて恐縮されるのが落ちだ。こういう場所で探す方が、きっと彼女に相応しいものが見つかるさ」

 

 もっともらしい理屈だった。ミトラの性格を考えれば、高価すぎる贈り物は素直に喜べないだろうというのは正しい。

 

 だがシラベは、この女の言葉を額面通りには受け取らない。

 

「で、本音は?」

 

 ヒナタの歩みが一瞬だけ止まった。それからくすりと笑い、悪びれる素振りもなく答える。

 

「君と一緒に高級店に行っても、気圧されてすぐに逃げてしまいそうだから。もう少し地に足のついた場所なら、こうして一緒にいられるかと思ってね」

 

 シラベは反射的にデコピンの構えを取りかけたが、周囲の視線に気づいて手を下ろした。人前で女性の額を弾くわけにはいかない。恨めしそうにヒナタを睨むことしか出来ない。

 

 その恨めしい視線を正面から受けたヒナタは、ふと表情を変えた。

 

「怒らないでよ、しーくん♡」

 

 悪寒が走った。

 

 いつもの芝居がかった王子様口調が消えた。代わりに浮かんだのは、甘すぎる猫撫で声。声のトーンが半オクターブ上がり、普段のヒナタからは想像もつかない声色が、シラベの鼓膜を撫でた。

 

 背筋を電流が駆け抜け、腕の毛が逆立つ。心臓が嫌な跳ね方をした。嫌な、というのは恐怖に近い意味での嫌だ。

 

「その呼び方やめろ」

 

 シラベの声は低く、切実だった。

 

 ヒナタは首を傾げる。仕草だけは可憐だが、中身は相変わらず狂人だ。

 

「おや? 前職──いや、前々職での君の愛称だったはずでは?」

 

 それはホスト時代、シラベの数少ない指名客が呼び始めた店内での愛称だった。この女はシラベの過去を調べ上げている。在籍していた店の名前も、源氏名も、同僚の評判も全て握っている。

 

 シラベは視線を正面に戻した。アウトレットモールの通路が真っ直ぐに伸びている。

 

「そうだけど、そう呼んできた奴に良い思い出がないんだよ」

 

 嫌悪するような記憶ではない。だが、思い出すと疲労感が伴うものであるのは確かだった。

 

「ふむ」

 

 ヒナタは考え込むような声を漏らす。腕に絡みつく力は変わらないが、甘えた声色は引っ込んでいた。

 

 無言で歩く時間が続く。アウトレットモールの通路に並ぶショーウインドウが、二人の姿を映しては流れる。美女と青年。雰囲気からしても身に着けているものからしても、端から見れば不釣り合いな二人組だ。

 

「悪かったね」

 

 ヒナタが、ぽつりと言った。

 

 シラベは少し驚いた。この女が素直に謝る場面は数えるほどしか見たことがない気がする。

 

「別に怒ってねえよ。ただ、やめろってだけだ」

 

「分かった。もう呼ばない」

 

 あっさりと引いた。それもまた珍しい気がする。いや、まともなコミュニケーションが出来ている場面はあるはずなのだが、ヒナタのキャラではないと勝手に思い込んでいたせいかこうも素直だと調子が狂う。

 

「さて」

 

 ヒナタは声のトーンを切り替え、前方を指差した。

 

「そろそろ本題に入ろう。ミトラへの贈り物、何か当てはあるかい?」

 

「ない。あいつ物欲ないし、欲しいものがあっても自分から言わないタイプだし」

 

「そうだね。だからこそ二人で彼女の気持ちを考察して探す意味がある。手始めにあそこから回ってみようか」

 

 ヒナタはシラベの腕に寄り添いながら、アクセサリーショップのショーウインドウに視線を向けた。

 

 シラベは腕に絡みつく体温を振り払えないまま、ミトラの喜ぶ顔を想像しようとした。どうしてもレアカードを手にしてニヤニヤしている姿しか出なかったが、やはりこれもミトラのキャラというものだから仕方がないだろう。

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