カスレアクロニクル   作:すばみずる

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117 なんで指のサイズ知ってるんだよ

 ヒナタの買い物には底が無かった。女性の買い物とはそういうものだろうと覚悟していたシラベだったが、それでも消耗は避けられない。

 

 アクセサリーショップから始まった行程は、雑貨店、インテリアショップ、ファッション雑誌に載りそうなセレクトショップ、果ては靴屋まで及んだ。ヒナタはそのどれにおいてもミトラの好みを想定した品物を手に取り、シラベに意見を求め、そしてそのたびにシラベの知らないミトラの情報を次々と披露してみせた。

 

「この指輪なんてどうだい。ミトラの左手薬指は七号だから、このサイズなら──」

 

「なんで指のサイズ知ってるんだよ」

 

「愛する者の指のサイズを知らない方がどうかしていると思うが」

 

 ヒナタはさも当然のように言い切った。

 

 アクセサリーコーナーのショーケース前で、シラベは純粋な畏れをもってヒナタの横顔を見た。指のサイズというのは握手や手を繋いだ程度では正確に把握出来ない情報だ。どこかのタイミングで測定したというのか。シンプルに怖い。

 

 この女の中では常識の枠組みが根本から歪んでいるのだと、シラベは改めて思い知らされた。

 

 衣服のフロアに移った時は、さらに上を行った。

 

「ミトラの身長は百三十九センチ。バストは──」

 

「待て。スリーサイズまで言うな。言わなくていい」

 

「控えめに言っても非常に可愛らしいプロポーションだよ。肩幅がこのくらいで──」

 

「聞いてない。聞かせるな」

 

 シラベは耳を塞ぎかけたが、指のサイズを知っている時点で身体の寸法くらい把握していて何の不思議もないなと、自分でも驚くほどあっさりと諦観に至った。人間の適応能力というのは恐ろしい。

 

 ヒナタに腕を引かれ、フロアからフロアへと渡り歩くこと数時間。アウトレットモールの建物を端から端まで往復し、昼食すら立ち食いのサンドイッチで済ませ、気が付けば夕暮れの色が窓の外に滲んでいた。

 

 

 *

 

 

 シラベが一息つくことが出来たのは、赤いレザーのソファ席とカウンター席が並ぶ、いわゆるダイナーとか呼ばれる類のアメリカンな内装の店に来てからだった。壁には色褪せたネオンサインのレプリカが飾られ、天井の照明が淡く色の光を落としている。

 

 シラベはカウンター席に腰を下ろした。ヒナタがその隣に座る。一日中歩き回った足が悲鳴を上げており、椅子の座面に体重を預けた瞬間、全身から力が抜けた。

 

「一日中連れ回してしまってすまなかったね。でも良い経験だった」

 

「経験っつっても、結局、何も買ってないじゃないか」

 

 すまないという言葉と嬉しそうな表情が矛盾しているヒナタに、シラベはカウンターに肘をつきながら言った。

 

 一日中あれこれと品物を見て回り、シラベに意見を求め、店員に質問し、時には試着まで──もちろんミトラの分の服をヒナタが試着しても参考にならないが──しておきながら、ヒナタはシラベの前で一つも会計を済ませていない。

 

 つまりこの長大な行軍は、丸ごとウインドウショッピングだったことになる。

 

 文句の一つでも言ってやりたかった。だが、ここで毒づけばヒナタは嬉しそうに受け止めるだろう。罵倒すら愛情表現として消化する誘い受けの天才を相手に、素直に不満をぶつけるのは相手の土俵に上がるようなものだ。

 

 代わりに、弄ってやる言葉を探した。

 

「まー気にすんなよ。犬の散歩は慣れてるからな」

 

 レヴェローズの顔が浮かんでいた。あのポンコツを連れて商店街を歩いた時の疲労に比べれば、まだ今日の方がマシだ。あちらは放っておくと知らない子供に講釈を垂れたり、ショーケースのガラスに額をぶつけたりする。

 

「犬? ああ、彼女のことかい」

 

 犬と言われてヒナタは小首を傾げたが、すぐにレヴェローズのことだと察したらしい。ヒナタは指先を唇に当て、くすりと笑った。

 

「君の相棒のように思ってもらえたなら幸いだよ。それだけ私と君の相性が良いということだろうからね」

 

「褒めてないし弄ったんだよ今の。犬って言われて嬉しいのかよ」

 

「猫の枠は君の中で終生不変だろうし、それなら犬扱いされる方が私としてはライバルが少なくていいね」

 

 何を言っても通じない。シラベは溜め息を吐きながらも、胸の奥にむず痒いものが残るのを感じていた。

 

 運ばれてきた水のグラスを手に取り、互いに一口含む。

 

「相性と言えば」

 

 ヒナタが話題を切り替えた。水のグラスを両手で包み、中の氷をカラカラと鳴らしている。

 

「ミトラと君について。私にとって君たちが仲睦まじいのは喜ばしいことだが、正直ここまで急接近するのは意外だったよ」

 

「お前がミトラの嫉妬を煽ってそうさせたんだろうが」

 

 シラベは即座に言い返した。あの夜の顛末は忘れていない。ヒナタがカウンターの中でシラベの腕にしがみつき、それを見たミトラが爆発した一件。あれがきっかけでミトラは部屋に籠り、その末に酒の席で本音を吐き出し、最終的にシラベの腕の中で夜を明かすところまで転がっていった。

 

「うん。そうでもしないと、ミトラはそのまま停滞することを選び続けるだろうからね」

 

 ヒナタはあっさり肯定した。悪びれる素振りは欠片もない。

 

 それは否定出来なかった。ミトラの性格を知っている以上、自分から動くという選択肢を彼女が取れたとは思えない。シラベ自身も、ヒナタの介入がなければ今の関係には辿り着けなかっただろう。

 

 シラベはグラスを置き、カウンターの木目に視線を落とした。

 

「だからって。俺のこと初対面で泥棒猫とか言いやがったところから、どうしてここまで来たんだよ」

 

 ヒナタの目がシラベの横顔に刺さる。

 

「それを私に説明させるのかい」

 

 演技とも本音とも分からない、恥ずかしそうな素振り。その恥じらいの仕草は舞台に上がれるほどそれらしいものだが、その下にある感情がどこまで本物なのかをシラベには見分けられない。

 

 ヒナタの雰囲気にシラベが閉口していると、注文していたパンケーキが運ばれてきた。メープルシロップの小瓶とホイップクリームが添えられた素朴な一皿が、ヒナタの前に置かれる。

 

 ヒナタはフォークとナイフを手に取り、パンケーキを丁寧に切り分け始めた。バターの香りが湯気と共に立ち上る。

 

「私はね。私自身が大好きなんだよ」

 

「だろうな」

 

 パンケーキの一切れをフォークに刺しながら言うヒナタの言葉に、シラベは特に疑問を抱かなかった。ヒナタほど自己愛に満ちた人間をシラベは他に知らない。

 

 ヒナタは苦笑し、パンケーキを口に運んだ。咀嚼しながら言葉を選んでいるのか、数秒の間が空いた。

 

「この私自身が好き、という意味はね。私を構成するものが好きということなんだ」

 

 フォークの先がパンケーキの断面を指した。

 

「自分というものを組み上げているもの。自分の人生、自分の価値観、自分というものを組み上げているもの。それが全部、私が好きだと認めたものでないと気が済まない」

 

「難儀な性格だな」

 

「そうだね」

 

 ヒナタはクスリと笑った。自嘲なのか自認なのか。

 

「こういう考え方に気付かせてくれたのは、ミトラなんだよ」

 

 シラベは思わずヒナタの目を見る。訝しむ思いが伝わったのか、ヒナタはそれを鬱陶しがることなく遠くを見るように視線を放る。

 

「私とミトラの出会いについて、語ったことがあったかな」

 

「高校の入学の時に、ぼっちだったミトラを見て雷に打たれたとかなんとか」

 

「その通りだ。初めて見た時はね、小学生でも紛れ込んだんじゃないかと思って、ひどく痺れたよ」

 

 高校の入学式で百三十九センチの同級生を見て性癖を発動させる女子高生。高校生時代からすでにその度し難い性癖を完成させていたというヒナタの告白に、シラベは無言でドン引きした。十七年そこら前の時点で既にこの女は壊れていたのだ。

 

「でも、その時のミトラはまだ私にとって小さくて可愛い女の子で、愛玩するべきものとしてしか見ていなかった」

 

 ヒナタの声はパンケーキを切るフォークの動きのように、一定のリズムを保っていた。

 

「当時の私にとって、周囲の人間は皆そうだった。取り巻きも、同級生も、教師すらも。綺麗な顔と家柄と金があれば、人は勝手に寄ってくる。寄ってきたものを選別し、好みの形に並べて眺める。それが私の世界だった」

 

 追加で垂らしたパンケーキの表面にシロップが広がっていく。琥珀色の液体が皿の縁に向かってゆっくりと流れる。

 

「ただ、孤立していたミトラは私にとって希少で、特別に見えた。だからこそ私の手元に置いて可愛がりたいと、欲しいと思ったんだ」

 

「コレクターかよ」

 

「罵ってくれていいよ。当時の私はそういう人間だった」

 

 だがミトラからは冷たい対応しかされなかった、とヒナタは続ける。

 

「何を話しかけても素っ気ない返事しかしない。差し入れも返される。手紙を入れても読まれた形跡がない。私に対する拒絶ではなく、他者そのものに対する無関心だと気付くのに、そう時間はかからなかったけど」

 

 ヒナタはフォークを置き、水を一口含んだ。

 

「そんな中である時。ミトラが昼休みにこそこそと隠れて何かをしているのに気付いてね」

 

 シラベは黙って聞いていた。

 

「取り巻きを撒いて、探し出したんだ。校舎裏の非常階段の踊り場。誰も来ないその場所で、ミトラは一人、エインヘリヤル・クロニクルのカードを広げていた」

 

 一人回し。対戦相手のいない、一人だけのカードゲーム。シラベにも覚えがある。新しいデッキの動きを確認する時に自分でやることがあるが、それはプレイヤーとしての作業だ。高校の昼休みに隠れてそれをやっているというのは、別の意味合いを持つ。

 

「呆れたよ。……ああ、ミトラに対してそう言ってしまうのは心苦しいがね。学び舎の中でおもちゃを弄っていれば、そう思うのも仕方がないだろう」

 

 シラベは僅かに頷く。とはいえシラベも高校時代はカードを持ち込んでやりたい放題やっていた口ではあるので、ミトラの行動を馬鹿には出来ない。

 

「だが、呆れたとはいっても、そこからあからさまに愚弄するほど浅慮ではなかった。興味は無かったが、ミトラに、これは何だい、何をしてるんだいと質問したんだ」

 

 パンケーキの上のホイップクリームがフォークの動きで崩れていく。ヒナタの目はそれを捕らえず遠くを見ていた。

 

「ミトラは最初、私がカードに興味を持ったのかと思ったんだろう。早口で色々と説明してくれたよ。このカードはこういう効果があって、この組み合わせが強くて、このデッキはこう動いて──私はそれを聞きつつも、話の内容より、大好きなカードについて語って生き生きとしているミトラの顔を見るのが面白くてね。適当に相槌を打って、ただ彼女を観察していた」

 

 オタクが自分の好きなものを語る時の熱量と、それを全く理解せずに表面だけを肯定する非オタク。すれ違っていたことを淡々と語るヒナタを、シラベは何も言わず先を促す。

 

 シラベの脳裏に、ボトムレスピットのミトラの顔が浮かんだ。さすがにそこまでの喜びを発露する機会は失われただろうが、それでもシラベとの対戦で一枚一点差を凌いだ時なんかは如何な死んだ目も光り輝くのは変わっていない。

 

「だが、ふと。ミトラは止まった。私を見下すような……失望したような顔で見て、そのまま何も言わずにカードいじりを再開してしまった」

 

 ヒナタが当時思ったような意識の空白が、ダイナーの店内BGMとしてカウンターの二人の間を埋める。

 

「どうしたんだい、と聞いたら。『自分が好きなもの語ってる時に適当に聞き流されて、面白いわけないでしょ』ってね」

 

 ヒナタの唇が、ミトラの言葉をなぞるように動いた。

 

「そう言われたのは初めてだったよ。いや、私がそつなくこなしていたと思っていたとしても、相手に今までも同じように思われていたのかもしれないが。それでも面と向かって指摘されたのは初めてだった」

 

 ヒナタはパンケーキの最後の一切れを口に運び、ゆっくりと咀嚼した。

 

「はっとした、というのが正直なところだ。私は好きなものしか受け入れられない。それ以外には心からの気持ちが伴わないような、自己中心的な人間なんだと。ミトラはそれを一瞬で見抜いて、私の上辺を切り捨てた」

 

「で、ますます惚れた、と」

 

「ああ。自分の正体を自覚した後でも、ミトラに対する想いに少しも変わりは無かった」

 

 冗談のつもりで言ったシラベの言葉に、ヒナタは微かに笑った。

 

「そういう自分の底の浅さに気付いた後も、ミトラに対する思いは変わらなかったよ。むしろ、私を正しく見透かしてくれた彼女がさらに愛おしくなった。カード遊びについて、その時は興味が湧かなかった。というより、失望された後にカードについてしたり顔で語れば、ミトラが面白く思わないだろう」

 

 フォークを皿の上に置く音が、静かに響いた。

 

「だから、私はミトラの隣にいるだけに留めて、趣味は共有しないように努めた。ただついて回るだけで、彼女のカードを否定も肯定もしなかった。私は佐野ミトラが好きなのだから、それ以外は私の中に入れず、勘案もしない。そういう愛し方をした」

 

 歪んでいる。シラベにはそう思えた。だが同時に、それがヒナタの選べる最善だったのだろうとも理解出来た。好きなもの以外を受け入れられない人間が、好きな相手に真摯であろうとした結果の、不格好な誠実さだ。

 

「そこからはずるずると、ミトラを振り向かせたい一心だったよ。彼女の平穏を侵す存在は学校には事欠かなかったし、それを陰に日向に守ることは充実感があった。だが一方で、当時の狭い了見ではミトラを幸せにすることは出来ないとも思っていた」

 

 シロップの入っていた小瓶を舌の上で傾けて、ぽたり、ぽたりと垂らすヒナタ。行儀が悪い姿だったが、彼女がやると不思議と絵になるのがシラベの癇に障る。

 

「だから断腸の思いで彼女から一旦離れることにした。ミトラを丸ごと、彼女のしがらみも含めて丸ごと愛せるほどの度量のある人間になるために、何でもした」

 

 帰って来た時、ミトラの隣に君のような存在がいるとは思わなかったけど、とヒナタは笑った。

 

「俺みたいなってなんだよ」

 

「ミトラと一つ屋根の下で暮らす男。精霊なんていう不可思議なものに囲まれて、低賃金でこき使われてもなお笑っている、不思議な人間」

 

 返す言葉に困る。男が出来る程度ならどうこうする気でいたのだろうが、そこに余計なコブがついているのはヒナタの明晰な頭でも予測は不可能だっただろう。

 

「さて。君の番だ」

 

 ヒナタはグラスを置き、シラベに向き直った。

 

「は?」

 

「私がこれほど赤裸々に過去を語ったのだから、君も語ってくれないと不公平だろう?」

 

 シラベは顔をしかめた。話の流れがそちらに向かっているとは薄々気づいていたが、いざ促されると抵抗感が湧き上がる。

 

「どこ話せばいいんだよ。どうせお前のことだから、大学のことも、ホストのバイトの事も全部知ってるだろ」

 

 シラベがそう口にした瞬間だった。

 

 ガシャンと。背後から、食器が倒れる派手な音がした。

 

 シラベは反射的に振り返った。背後にあるのはカウンター席から少し離れたボックス席。パーティションの陰になっていて気づかなかったが、そこに見覚えのある面々が座っていた。

 

 テーブルの上でコップを倒し、水浸しになったテーブルをおしぼりで必死に拭いているレヴェローズ。その向かい側で、何事もなかったかのようにポテトをつまんでいるミトラ。そしてミトラの隣で、おしぼりをカルメリエルが差し出している。

 

 三対の視線がシラベに向いた。レヴェローズは気まずそうに目を泳がせ、ミトラは小さく手を振り、カルメリエルは微笑みを一切崩さなかった。

 

 ミトラのパーカーの裾から、黒い尻尾が一本はみ出していた。

 

 こいつら、勝手に付いてきて聞き耳を立てていやがったのか。

 

 シラベの背中を冷や汗が流れた。今し方口にした言葉が脳内で再生される。声量は抑えていたとはいえ、あの距離なら聞こえていた可能性は十分にある。

 

「おや。みんな来ていたみたいだね」

 

 ヒナタは特に意外とも思っていない声で言った。微笑みの質が変わらないところを見ると、最初から気付いていたのだろうか。カルメリエルに一杯食わされたヒナタのことだ、店に電話を掛ければそれを盗聴してくると読んでいたのかもしれない。

 

 シラベは伝票を引っ掴んで立ち上がった。

 

「帰る」

 

「まぁまぁ」

 

 ヒナタの指がシラベの手から伝票をひょいと抜き取った。手品のような手際の良さだった。

 

「せっかく集まったんだ。場所を変えて、このまま皆で語り明かすというのもいいんじゃないかな」

 

「語り明かさない。帰る」

 

「それに、実はね」

 

 ヒナタの体がシラベの方に傾いた。ワンピースの肩口から覗く鎖骨が近づき、アッシュグレーの髪がシラベの頬を掠める。唇がシラベの耳元に寄せられた。

 

「この近くのホテルで、部屋はもう取ってあるんだよ」

 

 囁きが鼓膜を震わせた直後、柔らかいものがシラベの耳たぶに触れた。

 

 シラベの体が弾かれたように動いた。椅子を蹴飛ばす勢いで立ち上がり、カウンターに適当に抜いた紙幣に叩きつけて一直線にダイナーの出口へ向かった。ドアを肩で押し開け、夕暮れのアウトレットモールの通路に飛び出す。

 

「待て契約者! 貴様の過去話も聞かせろ!」

 

 背後からレヴェローズの声が追いかけてきた。ボックス席から飛び出してきた金髪の影が、モールの通路を全力疾走でシラベに迫る。

 

 逃げ道はない。体力も既に限界だ。一日中歩き回った脚がまともに動かない。だが今にも引き倒さんとする気配と耳たぶに残る感触がシラベの脚を回していく。

 

 捕まるまでの僅かな間、夕暮れのアウトレットモールをシラベは走り続けた。

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