カスレアクロニクル   作:すばみずる

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120 ぐぬぬ

 事の発端は、体力の危機だった。

 

 三対一の夜を経験したシラベの身体は、筋肉痛という形で悲鳴を上げることになった。日常生活に支障はないが、カウンターの椅子から立ち上がるたびに関節が軋む。この程度で音を上げるのは情けない限りだが、就職後に運動の習慣なんて無くなったのだから筋力体力の低下も致し方ない部分もある。

 

 問題は、この狂宴が今後も継続する可能性だった。三人同時が常態化するかどうかはさておき、一人であっても体力の消耗は馬鹿にならない。ミトラは軽いが甘え方が激しく、レヴェローズは重いしうるさいし、カルメリエルは癖を叩き直すのに力が籠る。

 

 このままでは持たない。そう考えたシラベは近所の二十四時間営業のスポーツジムへの入会を決めた。基礎体力の向上というのは今まで考えたことが無かったが、今のシラベに最も必要な投資だった。動機を誰かに説明するつもりは一切ない。

 

 だが、入会手続きを済ませて帰ってきたシラベの手元の会員証を見て、レヴェローズが目を輝かせた。

 

「契約者、それは何だ」

 

「ジムだよ。運動するところ。今度行ってくるわ」

 

「ほう! 鍛錬か! ならば私も同行するぞ!」

 

 何を勘違いしたのか、レヴェローズは翌日から自分もジムに通うと宣言した。シラベが断っても聞く耳を持たない。契約者がいるならどこでも一緒だとのたまう女の説得に費やすエネルギーがあるなら、その分をトレーニングに回した方が遥かに建設的だった。

 

 

 *

 

 

 数日後。

 

 シラベは後悔と共にジムの入り口に立っていた。

 

 隣にはレヴェローズがいた。運動用に新たに買った紺色のジャージを身に纏い、気合十分に胸を張っている。

 

 問題はジャージについた余計なものだった。彼女の腰回りに、六つの伝結晶が装着されている。紫色の透明な結晶体がベルト状のホルダーに固定され、ジャージの上から巻きつけられていた。カードイラストにおけるレヴェローズの正装の一部だ。

 

「これ邪魔だろ。外せ」

 

「馬鹿を言え。これは私の武装だぞ。鍛錬には軍装が必須であるのに、ダメだと言うからこれで手を打ってやってるのだ」

 

 レヴェローズは聞く耳を持たなかった。威風堂々とした足取りでジムのエントランスを通過し、ゲストパスで入場する。シラベは入会手続きの際にゲスト同伴の規約を確認していたが、まさかこんな形で使うことになるとは思っていなかった。

 

 案の定、ジム内の視線がレヴェローズに釘付けになった。

 

 トレーニングウェアの群れの中に、紫の結晶を腰に輝かせた金髪の長身女が悠然と歩いてくる。コスプレイヤーの乱入か、それとも新手の宣伝活動か。困惑した表情がフロア中に広がっていく。ランニングマシンで走っていた中年男性がレヴェローズを二度見し、ストレッチをしていた女性が友人の腕を引っ張って指差している。

 

 シラベは他人のふりをしたかったが、レヴェローズはそれを許さない。

 

「契約者よ、あの機械は何だ」

 

 レヴェローズが一台のマシンを指差した。ラットプルダウンだ。上部に取り付けられたバーを引き下げることで、広背筋を鍛えるマシン。重りはプレート式で、ピンを差し込む位置によって負荷を変えられる。

 

「背中の筋肉を鍛えるやつだ。ピンの位置で重さが変わ……おい」

 

 レヴェローズはシートに座ると、重量設定のスタックを上から下まで確認し、迷うことなく一番下にピンを差し込んだ。止める間もない。

 

 表記によればこのマシンの最大負荷は百キロを超える。鍛え込んだボディビルダーでも歯を食いしばって引く重さだ。初見の人間が扱えるような数値ではない。

 

「おい、無理だから上げ──」

 

 レヴェローズは片手でバーを握り、あくびをしながら引き下ろした。難なくプレートの束が持ち上がり、金属同士がぶつかり合う重い音がフロアに響いた。レヴェローズはバーを引き切った姿勢で数秒静止し、それからゆっくりと戻す。ガチャン。もう一度引く。ガチャン。

 

 周囲の喧騒が、嘘のように静まり返った。

 

 ランニングマシンで走っていた男が足を止め、ベルトの上でつんのめりかけた。バーベルをラックに上げようとしていた若者が口を開けたまま固まっている。

 

「うむ。軽いな。もっと重いのは無いのか」

 

 レヴェローズは不満げにバーを離した。最大重量を軽いと評する人間は、このジムの歴史において初めてだろう。インストラクターがクリップボードを床に落とした音だけが、静寂の中でやけに大きく響いた。

 

 その後もレヴェローズは、ジム内のマシンを片端から試していった。レッグプレスの最大重量を鼻歌交じりでこなし、チェストプレスを片手で押し出し、負荷などありはしないと言わんばかりだ。

 

 物理法則を無視しているとしか思えないパフォーマンスに、シラベは驚愕を通り越して恐怖すら感じ始めていた。精霊の身体能力が人間の規格に収まらないことは察していたが、こうして数値化された重量でそれを目の当たりにすると、改めてこの女が人間ではないという事実を突きつけられる。

 

 シラベが自分のトレーニングに一切手をつけられないまま呆然と立ち尽くしていると、インストラクターが駆け寄ってきた。

 

「あの、お連れ様ですよね。少しよろしいですか」

 

 インストラクターの声は丁寧だったが、困惑を隠しきれていなかった。

 

「マシンのご利用自体は問題ないのですが、腰回りの装飾品がシートやフレームに接触した際に、機器を傷つける恐れがありまして。安全面からも、外していただけると助かるのですが」

 

 至極もっともな指摘だった。伝結晶は見た目以上に硬質で、マシンのレザーシートに擦れれば傷がつく。金属フレームにぶつかれば塗装が剥がれるかもしれない。

 

「レヴェローズ。それ外せ。マシンが傷つくってさ」

 

「だから言ったではないか、鍛錬には──」

 

「外せ」

 

「ぐぬぬ」

 

 シラベの低い声と、インストラクターの困り顔の挟撃に遭い、レヴェローズは渋々応じた。不満げに鼻を鳴らしながら、ジャージの上に巻きつけたベルトを外し、六つの伝結晶を一つずつ取り外していく。

 

 六つ目の結晶がベルトから離れた瞬間だった。

 

 レヴェローズの膝が、目に見えてガクガクと震え始めた。

 

「……ん?」

 

 レヴェローズ自身も異変に気づいたらしく、自分の脚を見下ろした。膝小僧がカタカタと細かく振動している。

 

 彼女は先ほどまで使っていたバイセップスカールのシートに座り直し、バーを握った。最大重量のピンはそのままだ。

 

 引いた。動かない。

 

 両手で握り直し、腕に力を込めた。顔が赤くなり、歯を食いしばる音が聞こえた。だがバーは微動だにしない。先ほどまで片手であくびをしながら引いていたそれが、今や巨大な岩のようにびくともしなかった。

 

「な、なんだこれは……? おかしい、力が……」

 

 レヴェローズは困惑しながらバーを離し、立ち上がろうとした。だがその一歩目で、膝から力が完全に抜けた。

 

「ぐげっ」

 

 カエルのような声を上げて、レヴェローズは床に突っ伏した。伸びた手足がだらりと床に広がり、ピクリとも動かない。ジャージの背中だけが微かに上下している。意識はあるようだが、起き上がる気力も体力も残っていないらしい。

 

「おい、大丈夫か」

 

 シラベは慌てて駆け寄り、レヴェローズの肩を掴んだ。彼女は床に顔を押し付けたまま、虚ろな目でシラベを見上げた。

 

「契約者……身体が、動かん……」

 

 シラベはその場にしゃがみ込み、倒れたレヴェローズと、彼女から外されてベンチの上に置かれた六つの伝結晶を交互に見る。

 

 そして悟る。レヴェローズ・ドゥブランコ。コスト8の精霊。そのカードテキストに刻まれた基本値は、0/0。

 

 攻撃力ゼロ。防御力ゼロ。

 

 素の状態では生命体としての最低限の能力すら持たないのだ。彼女のあらゆるステータスは、伝結晶が供給するクリスタル・カウンターの蓄積によって初めて機能する。

 

 それでも普段の生活では0/0でも問題がなかった。おそらくエインヘリヤル・クロニクルの世界では一般人のスペックは1/1にも満たないものなのだろうが、普段であればそれで事足りる。だが、今回は状況が違った。

 

 最大重量のトレーニングマシンを何台も扱ったことで、レヴェローズの身体には相当な負荷がかかっていた。伝結晶を装着している間はダメージが乗っても墓地には行かない。だが結晶を外した瞬間、蓄積されていたダメージが一気に表層化した。

 

 0/0の身体にトレーニングの消耗だけが残る。それは単純に、何も残っていないよりも悪い状態だった。

 

 シラベは試しに伝結晶を一つ取り、レヴェローズの腰に装着し直した。数秒の後、レヴェローズの顔色が僅かに戻り、指先が動き始めた。だが完全に回復するには至らない。

 

 これを全部つけ直せば復活するだろうか。だがそうしたらまた調子に乗ったレヴェローズが目立ち始めるし、そもそも外せと言われているのだ。

 

「どっちにしろ、このまま居るわけにはいかないか」

 

 総督閣下には今しばらく痛い目を見て、覚えてもらう他ない。

 

 シラベはレヴェローズの腕を自分の肩に回し、立ち上がらせようとした。だがレヴェローズの脚は棒のように突っ張ったまま機能しない。やむを得ず、シラベはレヴェローズの前にしゃがみ込んだ。

 

「ほれ、背中に乗れ」

 

「む……すまない、契約者……」

 

 珍しくしおらしい声だった。レヴェローズの腕がシラベの首に回り、体重がシラベの背中に預けられる。

 

 重い。レヴェローズの身長はシラベより僅かに低い程度で、体格相応の重量がある。これもトレーニングと割り切るシラベは声にはしなかった。

 

 ジムのフロアを横切り、出口へ向かう。周囲の会員たちの視線が突き刺さるのを感じるが、もはや気にしている余裕はない。インストラクターが心配そうに駆け寄ってきたが、シラベは大丈夫ですと手短に答えてゲートを通過した。

 

 夕暮れの商店街を、金髪の女を背負った男が歩いていく。

 

「契約者よ……」

 

 背中から、弱々しい声が聞こえてきた。

 

「……面倒ばかり掛けて、すまんな……」

 

 声に、自嘲と落胆が混じっている。あの傲岸不遜な総督閣下が、しょんぼりとした声を出している。

 

「まったくだ。俺は何も出来てねえんだからな」

 

「うう……」

 

 シラベは背負い直しながら吐き捨てる。恐縮するようにうめき声を上げるレヴェローズ。

 

「次からは伝結晶はつけてくるな。でもって、まだマシンも使うな。ストレッチくらいにしとけ」

 

「ストレッチだけか……効果があるのだろうか、アレ」

 

「贅沢言うな。0/0のくせに」

 

 背中のレヴェローズが拗ねたような気配を放つ。だが数秒後、シラベの首に回された腕にほんの少しだけ力がこもった。

 

「契約者」

 

「なんだよ」

 

「……もう行くなとは言わんのだな」

 

 その声は小さくて、普段のレヴェローズからは想像もつかないほど控えめだった。

 

 シラベは答えない。代わりに、背中の重みをもう一度しっかりと背負い直した。こいつのせいでトレーニングの時間が取れなかったのだから、こいつの重さで鍛えなければ元を取れない。ボトムレスピットの裏口が見えてくる頃には、シラベの脚も相応の負荷が掛けられ鍛錬したことになるだろう。

 

 背中のレヴェローズは、いつの間にか寝息を立てていた。

 

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