平日の昼下がり。兼定キリメは制服ではなく私服で商店街を歩いていた。
午前中の授業を終えた時点で今日の真面目ゲージを使い果たしたキリメは午後の時間割を確認し、古典、数学Ⅱ、英語という輪をかけて教科書を開く気が起きない三連星であることを認めると、即座に不良モードにスイッチを切り替えた。
昼休みになったと同時に友人にフケると言い残し、常備している私服の入った鞄を掴んで逃げ出し堂々と裏門から逃避行。近所の公衆トイレで着替えるところまで、サボりの手順としては手慣れたものだ。
前を開けたスカジャンに厳ついプリントのTシャツ、ダメージジーンズという格好でキリメは街を歩く。雑な染色の金髪を風に晒して三白眼で前方を睨むその姿は、すれ違う人間を自然と避けさせるだけの圧がある。本人にそのつもりはそんなにないが、見た目が勝手にやっている。
キリメは考える。ここからどうするか。学校をサボったところで、サボりが出来たという事実でキリメは七割がた満足してしまっていた。
無計画な逃避の後には、結局日常しか残っていない。ドラッグストアでシャンプーの詰め替えを買い、電気屋でスマホの充電ケーブルを買い、その他生活必需品を鞄に放り込んでから、キリメの足はそのまま商店街へ向かっていた。
目的地はボトムレスピット。目当てはエインヘリヤル・クロニクルの最新パックだ。
パック自体にも興味はあるが、それだけではない。今日から公式認定店舗で、配信間近のスマホアプリ「エインヘリヤル・クロニクル〈エリューズニル〉」──ECeで使える特典プロモ用コードが、最新パックの購入者に配布されると聞いていた。実際のゲームでどれだけ有用なのかは分からないが、どうせ貰えるものは貰っておきたい。
ガラス戸の前で、キリメは一瞬だけ足を止めた。
まだ授業中の時間帯だ。シラベがカウンターにいたら、また何か言われるかもしれない。この前も平日の昼間に来た時、不良だなお前はと呆れ顔をされた。別にキリメの生活態度にまで口を出す義理はないはずだが、あの男は妙なところで世話焼きだ。
テスト期間中だって嘘でもつくか。いや、前もその手を使った。同じ嘘を二度使うのはバレる。ならいっそ堂々と入るか。腹を括ってガラス戸を開ける。カラカラという乾いた音が店の内外に響いた。
「いらっしゃい」
カウンターの中から声がする。だが、シラベの声ではなかった。
キリメは一瞬、目を疑った。カウンターの椅子に座っていたのは小さな女だった。ぶかぶかのパーカー。黒髪は艶こそあるが無造作に流した、子供にしか見えない女がカウンターの中でノートパソコンのキーボードを叩いている。
ぎょっとしたのもつかの間、キリメは最近入った情報を思い出す。あれは信じがたいがこの店の店長であるミトラだ。
キリメがこの店に通い始めてから、ミトラのことは長らく近所の子供か、あるいはシラベか店長の親戚の子供だと思っていた。まさか三十五歳の店長その人だと知った時の衝撃は今でも忘れていない。
極まれにカウンターでレジを打っている姿は見たことがあったが、あの時はシラベやカルメリエルの補助という雰囲気だった。今日はミトラ一人がカウンターに座り、ノートパソコンで何やら作業をしている。
本当に店員みたいだ。店員どころか店長なのだが、その事実と目の前の見た目との乖離が未だにキリメの頭を混乱させる。
奇異の目を隠しきれないまま、キリメはカウンターに近づいた。
「ECの最新パック、一つ」
「はいよ」
ミトラは手慣れた動作でショーケースからパックを取り出し、レジを打った。プロモコードの付いた紙片を一枚添えて、キリメに差し出す。
「ありがとうございまーす」
会計を済ませ、パックとコードをスカジャンのポケットに突っ込んだ。だがキリメの視線はまだミトラに引っかかっていた。この小柄な体格ではカウンターの椅子に座ると足が届いているとは思えないのだが、それでも座っている姿はどう見ても留守番を任された子供だ。
「なによ」
「いや、別に」
ミトラがキリメの視線に気づいた。死んだ魚のような目がじろりとキリメを見上げてきて、キリメは言葉を濁した。見た目のことを言えば地雷を踏むのは明白だ。
「シラベ、居ないんだなって」
「あいつはジム行ってる」
「ジムぅ?」
カードゲームなんてオタクな趣味をしているくせになんだかまともな人間みたいな事をしていると、キリメは一切の悪意なく思ってしまう。ミトラはそんなキリメの想像を無視して、ノートパソコンの画面に目を戻しながら続けた。
「客が少ない時間帯には抜けてもいいことにしたから。まぁ、客増えてきたらすぐ戻ってこれるように電話出られるようにしろって言ったけど」
意地悪く笑うミトラの顔はブラック企業の上司を演じているつもりかもしれないが、そもそも営業時間中でも柔軟にジム通いを許可している時点でずいぶん穏当な方ではないかとキリメは思う。この店長の気性からすれば、バイトの外出なんて一切認めなさそうなものだが。
「そっちはサボり?」
「まぁ、うん」
ミトラの問いは責めるような調子ではなかった。単なる事実確認で、シラベに言われた時のような説教の気配がない。
毒気の無さに、キリメは素直に認めてしまう。どことなく纏う雰囲気から、ミトラはその手の道徳観とは無縁そうだと何となく理解出来ていた。
「ふーん」
ミトラは特に追及しなかった。ノートパソコンのキーを数回叩いてから、ふと顔を上げる。
「あんた高校生だっけ。あんたくらいの年なら良いけど、あの彼氏までそういう道に引き込むんじゃないわよ」
「ん?」
キリメの首が傾いた。彼氏という単語が脳内で宙に浮く。アタシに彼氏なんていた覚えはない。そういう話をこの店でした記憶もない。
「彼氏?」
「ほら、ディーヴァ・アリーナに一緒にいた子。彼氏じゃないの?」
ディーヴァ・アリーナで一緒にいた子、とまで言われればキリメにも分かる。クモンだ。
確かにあの日、クモンの招待券のご相伴に預かり二人で施設に行っていた。そういえば言葉はあまり交わさなかったが、この店長とも顔を合わせていたではないか。
「いやいや、あいつとはそんなんじゃないっスよ。それに、あっち小学生だし」
キリメは手を振って否定した。あれを見て彼氏と言われるとは思わなかった。体感では子守のつもりだし、弟分みたいなガキを連れ回してやっているだけた。異性間の友情は存在するとキリメは思っている。
それに、クモンは小学生で、キリメは高校生だ。年齢差だけ取っても彼氏と呼べる関係ではない。
だが否定した直後に、胸の奥で何かが引っかかった。
子守のつもりで一緒にいたのはそうだ。だがクモンがキリメ姉キリメ姉と慕ってくるのを、鬱陶しいと思ったことは一度もなかった。デッキの相談をしてくる時の真剣な目。対戦で負けた時の悔しそうな顔。一緒に野良猫を追い回す時だって一緒にいれば楽しい。憎からず思っている。その自覚はあった。
だがあの日、施設の中を二人で歩いている姿が端から見れば「彼氏と彼女」だったのか。他人から見てそう見えていたのかと考えてしまうと、キリメの頬にじわりと熱が上がってきた。
「なんだ、違うんだ」
ミトラはあっさりと引いた。だがその口元には鬱陶しいまでに自慢げな弧を描かせている。
「彼氏は作った方がいいわよ。人生が潤うわ」
口元どころか声色までも自慢げだった。鼻の穴が僅かに膨らんでいる。
こういう反応をする人間をキリメは知っている。学校にもたまに出て来る、初めて恋人が出来て浮かれているタイプだ。年齢的にはキリメよりも二十歳近く上のはずだが、言動の幼さが本当に子供なんじゃないかと思わせて来るのはどうなんだ。
「なんだよ、ガキみたいな見た目の癖にめんどくせえ大人だな」
「大人だもの」
毒づいても鼻を鳴らして無傷の三十五歳児を見ていると、キリメはふとディーヴァ・アリーナでのミトラの姿を思い出していた。
あの時はまだこの女が子供だと思っていた。だから気に留めていなかったが、ミトラの実年齢を知ってから振り返るとあの光景は全く別の意味を帯びてくる。
公衆の面前で、ミトラは子供のふりをしてシラベの膝に座っていた。抱きついて、あの男の胸に顔を埋めて、ぴったりとくっついて離れなかった。周囲の来場者たちは親子だと思っていただろうし、キリメ自身もそう思っていた。
だがあれは三十五歳の女が二十そこらの男に甘えている図だったのだ。思い返してみればとんでもないものを見せられていた。
「そっちは旦那さんとは仲良いようで良かったっスね。出先でもあんな抱き着いて、めっちゃ目立ってたっスけど」
キリメは皮肉を込めて言ってやる。これでミトラが少しは照れるか、あるいはこの手のプライドの高い輩はみっともなく言い訳をするだろうと踏んでいた。
「まぁ、膝に乗っけてもらってぎゅってしてもらうくらい、いつもやってもらってるし」
だが今の色ボケたミトラはまるで動じなかった。ノートパソコンのキーを叩く手を止め、ミトラは椅子の上で足を揺らした。
「人に見られようがどうでもいいわ。自分の幸せが第一でしょ、人生って」
惚気切った顔だった。開き直りとも達観とも違う、自分の幸福を疑っていない人間の表情。黒々とした目の奥に、ほんのりと酔いのような色すら見える。
キリメは返す言葉を失った。こういう手合いに皮肉は通じない。幸せの中にいる人間は防御力が高い。
「あんたの場合は、逆に抱きかかえる側かしらね」
「なにが」
「あの子、クモン。抱っこしてあげたら喜ぶんじゃない?」
笑いながらミトラの言う言葉のせいで、キリメの脳裏にクモンの姿が浮かんでしまう。小柄な体。自分より頭二つ分は低い背丈の体を両腕で抱えるのだって訳無いし、クモンになら別に――
「アホ言ってんじゃねえよ!」
燃え上がるような頬のせいで声が裏返った。カウンターのガラスがびりびりと震えるほどの大声だったがミトラは眉一つ動かさず、むしろ満足そうな笑みを深くしている。
そこで、ガラス戸が開いた。
「こんにちはー。あれ、キリメ姉も午前授業だった?」
カラカラという音と共に入ってきたのは、ランドセルを背負った小柄な少年だ。橋谷クモンはキリメの顔を見て不思議そうに言う。
キリメの赤い顔色は見えていないのか。気付くな。頼む。今は見るな。
そういう気付いていないでくれと願うキリメの想いが通じたのか、クモンはそのままデュエルスペースに向かい、椅子に腰を下ろすと棚に並んでいた漫画本を手に取った。最近のクモンのルーティーンだったが、キリメにとっては視線が切れたことが何よりの救いだった以上に思う事は無い。
「ああ、そうそう」
ミトラの声がカウンターの向こうから届いた。そう言われて目を向けてしまい、すぐキリメは後悔する。これが喧嘩なら自分がどれだけ殴りやすい恰好をしているのかもっと自覚するべきだった。
「ほかに客もいないことだし、ちょっとくらいイチャついてても大目に見るけど?」
ニヤニヤとした目がキリメを貫いた。我慢の閾値を優に飛び越える発言にキリメは怒髪天を衝くという故事成語を身をもって知った。
「うるせえ!」
キリメは掴みかかるのを必死で堪え、身を翻して出口に向かった。頭を冷やせ、アンガーマネジメントだ。だが怒りだけが胸にあるわけでもないのに意味はあるのだろうか?
「キリメ姉、どうしたの?」
クモンが漫画から目を上げて声をかけてきた。怪訝そうな顔。丸い目。見慣れた顔だが、それが今ばかりはまともに見えない。
「デッキ忘れたから取りに行くだけだ。すぐ戻る」
嘘だった。デッキはスカジャンの内ポケットに入っている。だが今この場に留まっていたら、顔の赤さを隠しきれない。ミトラのむかつく視線も、クモンの顔も声も、今のキリメには刺激が強すぎた。
ガラス戸を開け、商店街の空気を肺に入れた。春の風がキリメの火照った頬を撫でる。
足早に歩きながら、キリメは自分の心臓が妙にうるさいことにようやく気がついた。
別にクモンのことをそういう目では見ていない。あいつは小学生だ。弟分だ。そう言い聞かせるたびに、ディーヴァ・アリーナで隣を歩いていた小さな背中が脳裏にちらついて消えなかった。
不意にキリメは、レベの服を見繕っていた時の白のスウェットを思い浮かべてしまう。レベさんが会計を通した後についでに買ってしまったあれ。
今日は着ていなかったが、もし今日あれを着ていたら、あいつは何か言ってきただろうか。言わないか。言わないだろうな。あいつは変なところで奥手だし鈍い。きっと買い物の時の事なんて忘れてる。
鈍くなかったらどうする。
キリメは立ち止まり、自分の頭を拳骨でどつく。突然の奇行に通行人が一人、びくりと目を向けるが気にしない。
「何考えてんだアタシは」
低く唸り、キリメは再び歩き出した。ボトムレスピットに戻るまでに、この赤さを何とかしなければ。だが赤らんでいたところでクモンはきっと原因など分からないだろう。あるいはどうしたのと心配してくれるかもしれない。生意気してない時のあいつはそういうやつだ。
そう思えるのが今はちょっとだけ、嬉しい。
嬉しいのが、腹立たしい。
キリメは商店街の角を曲がり、自動販売機の前で立ち止まった。冷たい缶コーヒーを買い、頬に押し当てる。アルミの冷たさが火照った皮膚にじんわりと染みた。
深呼吸を三回。よし、と自分に言い聞かせて、キリメはボトムレスピットへの道を引き返した。