夕食後。シラベの布団の上で、カルメリエルは正座していた。
いつかの夜と同じだ。パジャマ姿で背筋を伸ばし、緩みなく膝を揃えている。部屋の薄暗い照明でさえ、カルメリエルにとっては眩しく感じられた。
パジャマの下には、手入れの行き届いた自慢の身体がある。入浴時は毎回念入りに点検を行なっているし、髪のケアは欠かしていない。毛先から爪先まで丁寧に整え、肌には保湿を怠らず、下着はシラベが好みそうな清楚なデザインを選んでいた。
レヴェローズ謹製のローテーション表において、今日はカルメリエルの日だった。ミトラが週に一日で良いと言った例に倣い、カルメリエルは紆余曲折経てこれを週に一度で構わないと取り決めた。なおレヴェローズは図々しくも二日取っている。三人で週四日。残りの三日はシラベの自由だが、実際は大穴が潜り込んでいることだろう。
その週に一度の夜が巡ってくるたびに、カルメリエルの胸には確かな緊張が宿った。
既に肌を重ねており、今更生娘のような心持ちでいるわけではない。シラベの肌の温度も、息のリズムも、腕の太さも知っている。身を委ねることの恐れだって無いはずだ。そも、シラベはカルメリエルが誘わない限りは無理強いをしない性格なのだから、乱暴に対する恐れは無い。
――個人的には「そう」してくれた方が良かったのだが、それを言うとシラベが怒るのでカルメリエルは仕方なく控えている。
それでも。慣れがあったとしても、今夜これからの自分の処遇がシラベの手にあるのだと思うと、胸の奥がざわついた。被虐というには穏やかで、期待というには切実な何かが、カルメリエルの内側をじりじりと温めている。
どうなってしまうのだろうというこの感情は、きっとこの
廊下を歩く足音が聞こえた。シラベの足音だ。少し重い、慎重な歩き方はカルメリエルにはよく聞き分けられた。
足音が戸の前で止まる。カルメリエルは姿勢を正し、三つ指をついてお辞儀した。額が指先に近づく。心臓が一つ、強く打った。
戸が開く音。それからタイミングを開き、口を開く。
「失礼いたします、シラベ様」
その一言で、回路を切り替えるようにカルメリエルの迷いが消える。心の操作というそれは、内外共にカルメリエルの領分だ。
「本日は取り決めに従い、不肖カルメリエルがお傍に参りましたわ。お休みのお邪魔にならないよう努めますので、共に床に就くことをお許しいただければ幸いです」
仕方なく。あくまで取り決めだから仕方なく。そういう虚勢を、カルメリエルは声の端々に塗り重ねていた。そういう体裁を装いながら、毎回胸の奥では真逆の感情が渦巻いている。だがカルメリエルにとって、この儀式は必要なものだった。
いつものシラベならここから、これ毎回やるのかよ、と呆れた声を出す。そしてとっとと寝るからどいてくれと言い布団に入ったかと思うと、傍に控えるカルメリエルを無視しきれずに招き入れてくれる。
だが、今日は違った。
「悪い、先に寝てていいぞ」
シラベはカルメリエルを素通りし、座椅子に腰を下ろした。カルメリエルは指をついたまま、思わず頭を上げる。
座椅子に座ったシラベの手には、横向きにしたスマートフォンがあった。画面にはゲームだろうか、見慣れないインターフェースが表示されており、シラベは難しい顔をしてそれを見つめている。
「どうか、されたのですか」
「エリューズニルのアルファテスト版をやってるんだよ」
エリューズニル――エインヘリヤル・クロニクルのスマートフォンアプリ版。配信が近づいていることは店でも告知していたが、まだ一般向けのベータテストすら始まっていないはずだ。
「ヒナタの計らいでテスト枠を回してもらってな。というか、内部情報の実装リストを知っちゃってるわけだから、後付けでテスト要員にされたって感じか」
説明をするシラベの目は画面に釘付けだった。指先がタップとスワイプを繰り返し、脳の全てがゲームに注がれているのが傍目で分かる。
「でもうちの回線細いだろ。閉店してからダウンロードして終わったのがついさっきだから、急いでやらないと」
だから、先に寝てていいぞ、とシラベはもう一度言った。
カルメリエルは正座を崩さないまま、数秒間黙った。
「別に私は、先に寝るのは構いませんが。ゲームなら明日でも構わないのでは? 夜更かしは身体によくありませんわ」
「そうも行かないんだよ」
穏やかになるよう声を整えたカルメリエルに、シラベはスマホから目を上げずに答える。
「プレイ出来る時間が短くて、明日の夕方までしかサーバーが開いてない。それに遊ぶ分はレポートやアンケートを書くのが条件でな。営業時間中に触るのはちょっとアレだし、適当は書けないだろ」
「ミトラ様ならバックヤードでよくゲームをやっておられましたわ」
「ミトラだからな。客にちらっとでも画面見られたらヒナタに迷惑掛けちまう。あいつから掛けられるならまだしもこっちからは嫌だ」
やむを得ない事情と言っていいのだろう。アプリゲームの趨勢はボトムレスピットにおけるカードの隆盛にもかかわるかもしれないのだから、これは仕事の一環と言えなくもない。
カルメリエルの理性は納得している。だが感情が納得していない。週に一度の夜の全てが、スマートフォンの画面に奪われているということを意識させられてしまう。
「……では、お先に失礼します」
「おう」
文句も溜め息も飲み込み、カルメリエルは布団の中に潜り込む。シラベは気を利かせて部屋の天井灯を消し、座椅子の横の電気スタンドの照明だけを点ける。
薄暗い部屋の中で、白熱灯とスマートフォンの画面光がシラベの横顔を照らしていた。
このまま寝てしまえば朝が来る。朝が来れば、日常が始まれば、この飲み込んだものも落ち着くだろう。
形式的な宥める頭とは反比例して、カルメリエルの目が冴えていた。
寝られない。寝る気になれない。
すぐ傍にシラベがいる。手を伸ばせば触れる距離にいる。なのに、その意識はスマートフォンの中のカードゲームに向いている。カルメリエルの存在は、シラベの視界に入っていない。
ひょっとすると、とカルメリエルは思う。毎度毎度、カルメリエルが塗り固めている虚勢を、シラベは真に受けているのではないか。レヴェローズに付き合ってこんな輪番をやっていて、カルメリエルの意志に沿っていないと思われているのではないか。
そこまで愚鈍な男ではない筈だが、しかし。あるいはそういう態度への意趣返しなのか。被害妄想じみた思索が頭の中で回っていく。
カルメリエルは、布団の中で身を起こした。
四つ這いで布団の端まで進み、座椅子に座っているシラベの足元に辿り着く。シラベは画面に集中しており、カルメリエルの接近に気づいていない。
カルメリエルは腹這いのまま、そっと頭を持ち上げた。
そして、シラベの太腿の上に額を乗せた。
「おわっ」
シラベの体がびくりと跳ねた。集中していたところに不意打ちだったのか、スマートフォンを取り落としかけて慌てて掴み直し、自分の膝の上に増えた重みの正体を見下ろす。
カルメリエルは、じっと見上げていた。
腹這いの姿勢のせいでパジャマの胸元が床に押し付けられて押し広がり、ピンク色の髪がシラベの太腿の上に散らばっている。糸目が少しだけ開き、その奥にある感情がシラベを真っ直ぐに見つめていた。
妹のようなみっともない真似をしている、そういう自覚はあった。ミトラのように膝に座ったり、レヴェローズのように抱きついたりと、甘えたい時に甘えたいと言える二人に比べて、カルメリエルはいつも一手遅れる。二人に便乗する形か、あるいは形式ばった動きをしたうえで許可を得てからでないと動けない。
だからこそ、日々の時折に挟むシラベを弄るようなイタズラをする時はカルメリエルは本心から楽しんでいた。自分に主導権があるからこそ、それが甘えになろうがどうなろうが絶対的でいられて安心出来る。
今、何も言わずにシラベの太腿に頭を乗せている自分は、主導権など何もない。それがひどくみっともなく感じた。妹が飼い犬のように甘えている時の姿を微笑ましく思っていた自分はどこに行ったのか。やはり姉妹だ、とシラベに笑われてしまうのか。
だが黙り込んでいるカルメリエルを、シラベは邪険にしなかった。
スマートフォンを片手に持ち替え、空いた手がカルメリエルの頭に置かれた。
「……ん……」
指先が、ピンク色の髪の中に沈む。ゆっくりと、一定のリズムで、頭頂部から後頭部へ。カルメリエルの髪をシラベの手が梳いていく。
それは大穴を撫でている時と同じ手つきだと気づいてカルメリエルは笑いそうになるが、笑えなかった。それに満足してしまっている自分まで笑ってしまうことになる。
シラベの指が、こめかみの辺りまで降りてくる。耳の上を通り過ぎ、くすぐるように耳たぶを撫でてから、また頭頂部に戻る。その繰り返し。画面を見ながらの片手間の動作だが、手が止まることはなかった。
カルメリエルの瞼が少しずつ重くなっていく。太腿越しに伝わるシラベの体温。指先が髪を梳く微かな振動。スタンド照明のぼんやりとした光。スマートフォンの画面をタップする小さな音。
全てが、カルメリエルの意識を深い場所へ引き込んでいく。
抗うつもりはなかった。この手のひらの下で眠ることが、今夜のカルメリエルに与えられた幸福なのだと、閉じた視界の中で理解していた。
意識が溶けていく直前、カルメリエルの唇が微かに動いた。声にはならなかった。
おやすみなさいませ、シラベ様。
その言葉が届いたかどうかは、分からない。
*
カルメリエルは目を開けた。弱い光が薄いカーテンの隙間から差し込んでいる。
光の次に感じたのは、自分の姿勢が昨夜と変わっていないということだった。腹這いのまま、シラベの太腿に頭を預けている。首が少し痛い。だが夜通しこの姿勢を崩さなかったということは、それだけ深く眠っていたのだろう。
その次に気づいたのは、シラベの手がまだ自分の頭の上にあるということだった。指先が髪の中に沈んだまま、動いていない。
カルメリエルは静かに顔を上げた。
シラベは座椅子に座ったまま眠っていた。
スマートフォンは膝の横に転がっており、画面は暗くなっている。首が不自然な角度に傾き、口が半開きで寝息が規則的に漏れていた。座椅子の背もたれに体重を預けた、いかにもそのまま寝落ちしましたという姿だ。
カルメリエルを起こさないために、布団に移動しなかったのだろうか。あるいはゲームに熱中するうちに体力が尽きて、そのまま意識を手放したか。どちらにしても、カルメリエルの頭を膝の上に乗せたまま、一晩を座椅子で過ごしたことになる。
無防備な寝顔だった。普段の怠惰そうな表情とは違う、完全に気の抜けた顔。今だけカルメリエルだけが見ることを許された、夜の終わりの景色。
それを見る内に、カルメリエルの身体が動く。このまま起き上がり、シラベの膝に座ってしまえばいい。ミトラがいつもやっているように、正面から抱き着いて目が覚めるまでそうしていればいい。寝ている間なら気づかれないし、やった後ならばシラベは邪険にしないだろう。
「うなん」
カルメリエルの思考を打つように、背後から声がした。猫の声だった。
ぱっと振り返る。カルメリエルの背後に、大穴がじっと座っていた。漆黒の毛並みが朝の薄い光の中で艶めいている。
細めた瞳孔がカルメリエルをじっと見据え、それから前足を伸ばして、畳の上に置かれた小さな時計をぺちりと叩いた。
文字盤が示す時刻は六時に差し掛かるところ。それはカルメリエルが朝食の準備を始める時間だった。
ボトムレスピットの朝はカルメリエルの手から始まる。日々の業務。店の一員、家族としての務め。それがカルメリエルの身体を留めた。シラベの膝に座るために浮いていた腰が途中で止まる。ミトラが起きてくる前に台所に立たなければ。
その逡巡を、大穴は見逃さなかった。黒猫はカルメリエルの横をすいと抜け、座椅子に座ったまま眠るシラベの足元に飛び乗った。そして膝の上、カルメリエルの頭がついさっきまであった場所の隣に丸くなって陣取る。
「あっ」
ゴロゴロと喉を鳴らし始めた大穴は、先客の権利を主張するかのようにシラベの腹に顔を埋めた。
カルメリエルは大穴を見下ろし、それに気付いた大穴がカルメリエルを見上げる。星屑を散らした丸い瞳に勝利を過剰に誇る意図は見られない。だが、今はここが自分の場所だという主張はある。
してやられたことにカルメリエルは微かに唇を噛む。だが既に夜は明け、カルメリエルのターンは終了してしまっている。その上ここで騒いでシラベを起こすわけにもいかない。座椅子で一晩過ごした男の身体は労わってやるべきだろう。
カルメリエルは静かに立ち上がり、名残を断つように髪をばさりと広げる。
部屋を出る前に、もう一度だけシラベの寝顔を見た。
夜が明けてしまっている以上、出来ることは無い。それならば、機会はまた来週にある。今度は夜通し起きていればいい。ゲームだろうが仕事だろうが、カルメリエルの存在を無視させはしない。膝の上に頭を乗せるだけでは足りない。
そう決意しながら、カルメリエルは音を立てずに戸を閉めた。