人の世に疎い全てを喰らう大穴でも、店での生活を続ける内に自然と知識が増えていく。それは猫になっている頭ではなかなか表出しづらいが、たしかに蓄積されていくものだ。
その中に、キーボードというものがある。ノートパソコンという道具に備え付けられた器具というのかパーツというのか、そういうものだ。
ボトムレスピットのバックヤードではカルメリエルが主に使い、ミトラも時折座る事務机の上に、それは置かれていた。普段この机の上にあるのは帳簿やノートパソコンだが、今日は見慣れないものが加わっている。
真新しい、白い板のようなもの。表面に小さな四角がたくさん並んでいる。無線接続式のタッチパッド付きキーボード、というものらしい。大穴にはその名称の意味は分からないが、ノートパソコンと呼ばれるものにあるのと同じようなものと似た匂いがすることは分かった。ただ、これから漂ってくるのはまだ手垢の無い、新しい樹脂の匂いだ。
事務机の備え付け椅子に座るミトラの膝の上に、大穴はちょこんと乗っている。ミトラの膝は小さく、大穴が丸くなるにはやや手狭だが温かい。
「大穴、あんた用のキーボードを用意したからね」
ミトラの指がキーボードを差した。
大穴はよく分からず、顔を上げてミトラの顔を見た。この店長にも最近、あの金髪女がいつも纏っている自信のようなものがにじみ出てきている気がする。
あんた用。つまり大穴用のキーボード。それがどういう意味なのか、大穴にはすぐ理解は出来なかった。
ミトラが大穴にノートパソコンのキーボードの上を歩いてほしがっているのは少し前から分かっていた。週に一度、大穴がキーボードの上を横切ると、ミトラはその文字列を面白がって何かしていた。看板猫のつぶやき、とか言っていた気がする。
だが大穴用のキーボードとは何だ。今まで踏んでいたのと何が違うのか。
「私も最初は外付けのキーボードなんていらないじゃんって思ってたんだけどね」
ミトラは大穴の頭を撫でながら、独り言のような声で語り始めた。大穴が理由を知りたがっていることを分かっているのか、それとも単に猫を撫でながら喋る癖なのかは判別がつかない。
「でも、猫の身体でも毎回毎回ノートパソコンのキーボードを歩かせてると、故障が怖いってシラベが言うのよ」
「んぅんる」
指先が耳の後ろを細かく掻く。悪くない力加減だ。シラベの雑な手つきともキリメの的確さとも違う、ミトラなりのやり方。小さい指が小さい耳をちまちまと掻いていく。
「確かに軽くない重さが毎回遠慮なく掛かってたら、まぁ気持ちは分かるけど。ノートパソコンのキーボードって交換めんどくさそうだし」
なるほど。大穴の体重が問題だということらしい。大穴の体重がどの程度なのか大穴自身は知らないが、冬毛の時期にはシラベが重いと言っていたから、それなりにはあるのだろう。
「だから、大穴が踏んで壊れてもすぐ交換できるようにこうしたわけ。いくらでも踏んでいいからね」
「にゃあ」
大穴は返事をした。よく分からなかったが、踏んで良いということだけは理解した。
とはいっても、と大穴はミトラの手に頭を押し当てながら少し迷う。大穴はキーボードを見下ろした。白い板の上の小さな四角たち。これを踏むことそのものに、大穴は執着していない。
キーボードの上を歩くのは、別に楽しいからではなかった。むしろ足裏に当たる四角い突起はあまり心地よくない。猫の肉球にとって、平らで温かい場所の方がずっと良い。
ただ、キーボードを横切ると、何かが起きるのだ。
構ってほしい時に、パソコンの前で作業しているシラベの手元を横切ると、シラベは邪魔するなと言いながらも大穴を持ち上げて膝の上に乗せてくれる。カルメリエルの前を横切った時はあらあらと微笑みながら抱き上げられ、胸元の柔らかい場所に押し当てながらポンポンと背を叩いてくれる。
キーボードを踏む。すると撫でてもらえる。猫の脳でも理解出来る、単純な因果関係だ。
大穴はミトラの膝を蹴って机の上に飛び乗った。新しいキーボードの上を、てくてくと歩く。
カタカタカタ。
肉球がキーを押す感触。ノートパソコンの方よりも軽く、踏み心地は少しだけ良い。
「よしよし」
ミトラが大穴の背中を一撫でしてから、ノートパソコンの画面に目を向けた。キーボードに入力された文字列を確認し、ブログの更新作業に取りかかっているらしい。
役目を果たした大穴はミトラに一撫でという報酬を受け取り、机から飛び降りて店内の巡回に向かう。
バックヤードのカーテンを潜り、デュエルスペースに出た。
店内には何人かの客がいる。対戦をしている二人組。一人回しをしている男。ストレージコーナーでカードを漁っている女性。それぞれが自分の時間を過ごしている。
大穴はデュエルスペースの床を歩いた。客の足元をすり抜け、椅子の脚の間を通り、店内を一周する。これが店内における大穴の巡回だ。特に何をするわけでもない。ただ歩いて、匂いを嗅いで、気になるものがあれば立ち止まる。たまに天井近くで浮かぶレディを眺めるのもその一環だ。
客の一人が大穴に気づき足をどかしてくれる。対戦中の男が猫だと小声で言うが、対戦に集中しているため手は伸ばしてこなかった。
大穴は考える。先ほどはミトラの前にあるキーボードを踏んだら撫でてもらえた。シラベの時でも、前にあるキーボードを踏んだらシラベが撫でてくれた。
では彼らの前にあるものを踏んだら、彼らも撫でてくれるのだろうか。
大穴は空いている椅子の座面を足場にして、一人回しをしている客の傍に登る。
テーブルの上にはプレイマットが広げられ、カードが整然と並べられていた。
大穴は爪をしまい、プレイマットの端を肉球で軽く踏む。カードには触れないよう、端だけだ。カードに無断で触ればシラベとミトラが烈火の如く怒る。
客が顔を上げた。
「おっ、どうしたの」
常連の中年男性だ。大穴も顔を見れば思い出す。この男はシラベの肩の上にいる大穴を見て羨ましそうにしていた。
男の手が伸び、大穴の頭に触れる。顎を掻いてくれた。力加減はまずまず。シラベには劣るが、悪くない。
「よーしよしよし」
撫でてもらえたことに大穴は自然と目を細めた。仮説は正しかった。人間の前にあるものを踏めば撫でてもらえる。
一通り撫でてもらった後に、大穴は次の獲物に向かった。
棚を乗り継いだ先にあるのはストレージコーナー。壁際に並んだ長い箱の中に、仕切りで分類されたカードがぎっしりと詰まっている。その前に立って、束で掴んだカードを流れるような手つきで確認している女性の客がいた。
大穴は棚の横から跳躍し、ストレージボックスの上に着地した。
細長い箱の縁に四本の足を揃え、どっかりと座る。ちょうど客がカードを探しているボックスの蓋の上だった。
「え、あ」
客の女性は困惑した。ストレージの蓋の上に黒猫が座り込んでいる。カードを探すには蓋を開けなければならないが、蓋の上に猫がいる。どかすべきか、それとも諦めるべきか。
大穴は客の迷いなど気にせず、期待を込めて女性を見上げた。検証の時間だ。
女性は数秒の逡巡の後、手を伸ばした。大穴の顎の下を人差し指の背で軽く掻く。
「……可愛い」
撫でてもらえた。やはり仮説は正しい。目の前のものを踏めば撫でてもらえる。座っても撫でてもらえる。前にあるものを占拠すれば、人間は撫でてくれるらしい。
大穴はゴロゴロと喉を鳴らした。この発見は素晴らしい。キーボードだけが撫でてもらえる装置ではなかったのだ。世界にはキーボードのようなものが溢れている。
頬を両手で包まれてむにむにとされながら三つ目の獲物を探そうとした大穴の首根っこが、ひょいと持ち上げられた。
「こら、客の邪魔するな」
「んぐん」
シラベだった。店の外の掃除から戻ってきたらしい。日の光が強い今日は黒い体毛の大穴ではつらいため着いてはいかなかった。
シラベの手は慣れている。首根っこを掴む力加減は正確で、痛くはないが逃げられない。撫でる時と異なり、こちらは堂に入ったものだ。
「すみませんね、うちの猫が」
「いえいえ、そんな」
シラベが客に頭を下げ、大穴をカウンターの上に運ぶ。
「ここにいろ。客のところに行くんじゃない」
シラベはカウンターの表面に大穴を降ろした。叱る声だが、降ろし方は丁寧だ。大穴の腹がカウンターの天板に触れ、ひんやりとした感触が毛を通して伝わる。
大穴は叱られたことを特に気にしなかった。叱られても痛くないし、丁寧に扱われるなら文句はない。この男は怒っているように見せて、すぐに撫でてくれる。
シラベは大穴をカウンターに置いた後、ポケットからスマートフォンを取り出して少し確認した後、カウンターの上にひょいと置いて棚をがさごそと漁り始める。
スマートフォンと呼ばれる薄い四角い板。カウンターに置かれたそれは、大穴のすぐ横にあった。
大穴はスマートフォンを見る。これも踏めば撫でてもらえるかもしれない。
意図せずシラベの視線が外れている隙を突く形で大穴はのそりと移動し、スマートフォンの上に座った。薄い筐体が大穴の腹の下に黒い毛並みが四角い板を完全に覆い隠す。
画面が大穴の腹に触れて微かに温かい。座り心地は悪くない。カウンターの冷たさよりも好みの温度だ。
大穴はそのまま体を蕩けさせる。温かくて、平らで、大穴の腹に収まる大きさ。ひょっとするとこれは猫用の座布団でもあるのかもしれない。
しばらくして、シラベの手がポケットを探った。
「あれ、スマホどこだ?」
シラベの手がもう片方のポケットに移り、尻のポケットに移り、ジャケットの内ポケットに移った。視線はカウンターの上に向かう。帳簿、ペン立て、ソロモン王の壺、レジの横の小物入れ、そして大穴。スマートフォンの姿はどこにもない。
「さっきここに置いたよな……」
シラベはカウンターの下を覗き込み、椅子の周りを確認し、落としたのかと床に目を向けた。
大穴はカウンターの上で静かに待つ。仮説が正しければ、シラベはじきに撫でてくれるはずだ。スマートフォンの上に座ったままその時を期待して、喉の奥からゴロゴロと低い音が鳴る。
丸くなった黒い毛の塊の下でスマートフォンの画面がアプリの通知を一つ表示し、誰にも読まれないまま消灯した。