デヴァローカ・コーポレーション本社ビルの社長室の窓からは、都心の街並みが一望出来る。春の午後の陽光がガラスを通して室内に差し込み、応接用のソファセットを温めていた。
亜修利ヒナタは来客用ソファの、シラベの隣に座っていた。真っ当な社会人らしくするなら向かい合って言葉を交わすべきではあるが、社会性を愛情に優先させる理由がヒナタにはない。
ジャケットを脱ぎ、ワイシャツにスラックス姿のシラベはソファの座面に背中を預けて手元のバインダーに挟まれた書類に目を通していた。一枚、また一枚と丁寧に捲っていき、条項の一つ一つを読み飛ばさずに追っている。
書類の表題には『エインヘリヤル・クロニクル〈エリューズニル〉アルファテスト版 利用規約及び秘密保持に関する誓約書』と記されていた。
事の起こりは、ディーヴァ・アリーナでの一件に遡る。あの夜、ヒナタはクモンとの対戦に臨んだが、そのデッキを組み上げたのはシラベだった。限定されたカードプールの中から相応しいデッキを作るために、ヒナタはシラベに内部情報を渡していた。
そのリストは正確に言えば、エデンパクトから提供された3Dモデルの一覧だった。ディーヴァ・アリーナのステージで使用するためにモデリングされたデータの目録なのだが、エリューズニルのプロモーションに転用される3Dデータの一覧であるということは、実質的にアプリ版に実装されるカードリストとそう変わらない。
ヒナタはそれを部外者に見せた事を問題にする性格ではなかった。事はミトラの店に関わる事態だったのだ。それはあらゆる一切に優先されることであり、内部情報を活用することに一片の悪びれもない。ミトラの幸福のためなら法の境界線の上を踊ることくらい造作もないし、踊った上で着地出来る自信もある。
だが、悪びれないことと利用しないことは別だ。ヒナタはカードリストを知っている存在として逆手に取り、エリューズニルのアプリ開発元に対して一つの提案を持ち込んだのだ。
ディーヴァ・アリーナでのイベントステージをテストプレイした経験者に、アプリ版の使用感を確認してもらうのはどうだろうか。ステージ上ではあるが使用感を体験済みのプレイヤーであれば、スマートフォンでの操作感との比較評価が出来る。フィードバックの質が高まるはずだ。
口八丁の部類ではあったが先方も納得し、ヒナタはアルファ版のテストプレイ権限を入手してそれをシラベにプレゼントした。あの男がカードゲームのデジタル版を触れる機会を喜ぶだろうことは分かっていたし、実際にシラベは寝る間も惜しんでプレイしていたらしい。カルメリエルとの夜を犠牲にしたとか何とか聞いたが、それはヒナタの関知するところではない。
ただし、テストプレイには秘密保持契約が前提となる。アルファ版の内容を外部に漏洩しないという誓約書。本来であれば諸々の前に締結すべきものだったが、アルファ版の利用可能期間が短かったためヒナタは順序を入れ替えた。先に遊ばせて、後から契約書を書いてもらう。法務部が聞いたら卒倒しそうな手順だが、ヒナタの判断で押し通した。
その後始末が、今日この場だ。呼び出しの内容を伝えた時の反応はヒナタにとって十分楽しめるものだった。
「丁寧に読んでいくんだね。マメだ」
ヒナタはシラベの肩にもたれかかりながら、書類をめくる指先を眺めて笑った。ジャケットは脱いでおり、ワイシャツの袖を捲った腕がシラベの腕に触れている。
シラベは半眼でヒナタを見た。
「お前が用意した書類なんて、中にろくでもないものを混ぜてそうで怖いんだよ」
「どうだろうね」
ヒナタは微笑んだ。口元は穏やかだが、頭の中では別の歯車が回り始めていた。
なるほど。そういう手があったか。契約書の中に、本筋とは無関係な条項を紛れ込ませる。例えば月に一度のデート義務とか、週末の食事に同伴する権利とか、婚姻届とか。次の機会で試してみよう。
シラベが次のページをめくった。秘密保持の範囲に関する条項だ。
「アルファ版で見た画面のスクリーンショットを第三者に共有した場合の違約金云々……高いんだろうな、これ」
「当然だろう。正式リリース前の画面が流出したら大問題だ。私の顔にも泥がつく」
「お前の顔なんて知ったこっちゃないが」
「ひどいな、見惚れてくれる君とミトラの為に日々磨いているというのに」
「知らない内に俺らのためなんて押し付けするな。延々遠くの湖面の下でバタ足してろ」
「心配りや思いやりは相手に直接伝えなければ意味が無いよ。君だって、私のためにサインしてくれているだろう?」
「遊ばせてもらった義理と、お前の勝手で迷惑被る社員さんが気の毒で来てるんだよ。大丈夫なんだろうな本当に」
素直じゃないな、とヒナタは思ったが口には出さなかった。わざわざ義理という言葉を使うところがシラベらしい。
シラベがページをめくる音が、静かな社長室に規則的に響いていた。ヒナタはその音を聞きながら、シラベの肩の温もりを味わっている。社長室に二人きり。秘書には来客中と伝えてある。この時間は、ヒナタにとって貴重な安息だった。
「ディーヴァ・アリーナの件だけどさ。エリューズニルのイベント、結果どうだったんだ」
「ん? そうだね。反響は上々だよ」
シラベが書類から目を上げずに言う。プロモーションの類は時間が掛からないと分からない部分もあるからと、今まで聞けず気に掛かっていたのだろう。
ヒナタは社長としての顔に切り替えた。もたれかかる姿勢はそのままだが、頭で走らせる回路が違う。
「エリューズニルについてのインプレッションは、イベントの前後で大きく伸びた。事前登録者数もうなぎ上りらしいよ。公式が出した数字を見る限り、当初の想定を二割ほど超過している」
「へぇ。あのイベント一つでそこまで変わるもんか」
「ステージでの対戦映像がネットに流れたからね。あの熱戦と演出で、かなりの再生数を稼いだらしい。カードゲームに興味がなかった層にもリーチしている」
シラベは何も言わなかったが、表情が僅かに緩んだ。自分が組んだデッキで、自分が練習相手を務めたヒナタが戦った舞台が、そういう形で評価されていることを悪くは思っていないのだろう。
「これはオフレコだけど。エインヘリヤル・クロニクルとのライセンス契約を結んでいたのは、元々はエデンパクトだった。デヴァローカはエデンパクトからの委託を受けてイベントの企画運営を担当していたに過ぎない」
書類から目を上げたシラベの視線をヒナタは受け止める。
「だが今回のイベントの成功を鑑みて、プロジェクト契約についてはデヴァローカへと移管してもらえることになりそうだ。エデンパクトが持っていたライセンスを、デヴァローカが直接契約する形に切り替える」
「そんな事業を横取りするようなことしたら、エデンパクトが……」
シラベはそこまで言いかけて止まる。数秒の沈黙。それから、ああ、と短い声が漏れた。
「月山か」
ヒナタは頷いた。
「エデンパクト代表の月山氏は、この事業譲渡に快諾してくれた。近々、三社間での合意をまとめることになる」
シラベの反応を、ヒナタは注意深く観察していた。
月山シジマ。ディーヴァ・アリーナの夜、クモンとの対戦が終わった後にあの男は人が変わったようになっていた。
以前の月山は、ヒナタの身体を賭けの代償として要求するような男だった。慇懃な皮を被った、権力欲と支配欲に塗れる品性に欠けた経営者というのがヒナタの見方だった。それが一夜にして、まるで別人のように穏やかで真っ当な人間になっていた。商店街の再開発計画も修正案を受け入れていたし、事業譲渡にも抵抗なく応じた。
何があったのか、ヒナタであってもあの夜の月山の周辺で何が起きたかは掴めていない。だが月山にシラベが接触した監視カメラの映像は残っており、謎の消灯騒ぎの後には二人は一時消えていた。カルメリエルの動きについても、断片的な情報が存在する。
だがシラベは、それについて説明したがらなかった。ヒナタが水を向けても、たいしたことじゃないと言葉を濁す。
この男が言うならたいしたことではないのだろう。少なくともシラベの認識では。だが気になる。ヒナタの性分として、理解出来ない事象を放置しておくのは落ち着かない。
もう少し情報を集めてから聞いてみようか。シラベの揺さぶり方にはコツがある。正面から問い詰めると壁を作ってしまうから。日常会話の延長に見せかけて側面攻撃からの先制攻撃に二段攻撃を畳み込む形で切り込むのが最も効果的だ。
そのためには、もう少し手札が欲しい。たとえばシラベの実家。両親や姉について本格的な調査はまだ行っていなかった。ヒナタの中では愛する者の全てを知ることは当然の権利だ。良い機会だから少し手を広げてみようか。
「なに黙ってんだよ。考え事か」
つらつらと考えを巡らせていると、シラベが怪訝そうな顔をこちらに向けていた。
ヒナタは思考を中断し、シラベの腕に頬を擦り付けた。ワイシャツの布地越しにシラベの体温が伝わる。
「別に、なんでも。それより何か気になることがあったのかな。書類の疑問点なら解説するよ」
「気になることは、無いわけじゃないがな。書類じゃなくて」
「ふむ?」
シラベはバインダーを膝に置く。
「なんでそんなポンポン内部情報を俺に話すんだよ。ライセンスの移管だの事業譲渡だの、部外者に漏らしていい話じゃないだろ」
「こういう事を話すほど、君を信頼しているんだよ」
ヒナタは即座に応え、シラベは思い切り嫌そうな顔をした。歯が浮くような言葉に辟易するとでも思っていそうだ。だがシラベに内部情報を話すのは計算でも油断でもない。この男が信頼に足る人間だと確信しているからだ。
シラベの口が漏洩の出口にならないことを、ヒナタは知っている。ミトラの店を守るために動いた過程で、シラベは既にヒナタの秘密をいくつも抱えている。
対戦の賭けの内容も、月山との交渉も、商店街の再開発計画も。その全てを、シラベはミトラに話していない。ヒナタが口止めしたからではなく、シラベ自身の判断で伏せている。そういう男だ。
「いつかどっかの雑誌社に垂れ込んでやろうかな」
「そう悪ぶらなくてもいいじゃないか」
ヒナタはシラベの頭に手を伸ばした。指先が少しだけ伸びた黒髪の中に沈む。ヒナタの指の下でシラベの体が僅かに強張り、そして力が抜けた。
ヒナタは思う。この男の自己肯定感の低さは厄介だ。
信頼していると言えば垂れ込んでやると返す。評価すれば茶化して逸らす。好意を向ければ、皮肉で受け流す。自分が信頼されるに値する人間だという自己認識が、シラベの中に根付いていない。
その有り様も愛おしいが、自分とミトラの間に挟まる男としては、その瑕疵をもう少し癒してやりたい。これを治すにはひたすら信じて、そして信じていることを伝えてやるしかヒナタには思いつかなかった。
「君は信用に足る人間だと、私は信じているよ」
ヒナタの囁きにシラベは何も言わなかった。嫌そうな顔も、皮肉も、茶化しもせず、ただ黙ってヒナタの手の下にいる。
やがて、シラベはゆっくりと書類に目を戻す。ページをめくる音がまた社長室に響き始めた。
ヒナタの手はシラベの頭から離れない。条項を読み進めるシラベの横で、その髪を撫で続けた。