深夜のデヴァローカ・コーポレーション本社。壁掛け時計の長針が、午後十一時五十分を指している。窓の外には都心の夜景が広がり、ビルの明かりが幾重にも層をなして輝いていた。
残業をすることは珍しくないが、今夜のヒナタは仕事を片付けてしまった後の消化試合のような時間を過ごしていた。今日の目標自体は想定より早く終わらせたのは良かったものの、意気込んで初めていたせいか仕事気分を切るスイッチがなかなか入らず、後回しにしていいような雑事に手を付けてしまっている。
その一環として、ヒナタはゲーム関連の記事をまとめているニュースサイトをスクロールしていた。エリューズニルの正式リリースを控えて、エインヘリヤル・クロニクルの注目度は確実に上がってきている。情報収集なんて家に帰ってから、何なら明日でも良いのだが、一度見てしまうと気になってしまう。
唐突に、デスクの上に置いていたスマートフォンが振動した。机の表面を細かく揺らしている。
佐野ミトラ。表示された名前を見て、ヒナタの指先がぴくりと動いた。深夜に近い時間でミトラから電話。いつでも電話してくれと言いながら押し付けた電話番号ではあるが、これは何かの事件か、あるいは。
ヒナタは内心で湧き上がる歓喜を意識的に抑え込んだ。歓喜のあまり手が震えてタップを誤るような失態は避けたい。深呼吸を一つしてから、画面の通話ボタンを慎重に押した。
「もしもし」
『あ、ヒナタ。マジで出た』
「君の為なら万難を押し退けて応答するさ」
ヒナタほどになれば、今のミトラの声が寝間着姿で寝っ転がっている姿勢から掛けているのだと容易に想像が出来る。普段の気の抜けた声色がさらに弛緩した、リラックスした口調だ。
「しかし珍しいね、君から電話とは」
ヒナタは声のトーンを意識的に落ち着けた。喜びを表に出しすぎるとミトラは引いてしまう。釣りのようなものだ。
『ちょっと聞きたいことがあって』
「私で答えられることなら何なりと。今着ている下着の色は――」
『そういうのはいいから』
うっかり漏れ出た欲がミトラの呆れ声に押し返される。仕事をし過ぎて少しネジが緩んでいたかもしれない。
『今日昼休憩中、エリューズニルのベータテスト触ってたんだけど。シラベがそれ関連でミシャンドラがどうのって口走ったのよ』
「ふむ」
『でもそれ以上は何も教えてくれないの。いくら宥めすかしても誓約書がどうとか言って逃げるばっかりで』
ヒナタは机の上で指を跳ねさせながら、ミトラのいう「宥めすかせる」様子について空想に耽る。実際はシラベの膝に乗ってワガママを言っていただけだろう。愛らしいものだ。
『あんたなら、何か知らない?』
どうやらミトラはシラベの次に、ヒナタを情報源として頼ってくれているようだ。つまりシラベはミトラには折れず沈黙を貫いたのだろう。ヒナタであれば出来ただろうか、自信が無い。
ミトラがそれを聞きたがっているのならヒナタにとって話は別だ。ヒナタにとってミトラの意志はヒナタのフィルターを通された上で全てに優先される。
しかし、ヒナタの常識以外で照らし合わせるなら誓約書のの遵守は当然のことで、未公開機能の漏洩はもちろん禁止条項に含まれている。シラベがそれを守ろうとしたのは正しい判断だ。
ヒナタは意味ありげに息を漏らした。
「ミトラ、あまりシラベを困らせてはいけないな。誓約書に基づいて黙秘を貫いたのなら、彼は正しく誠実な男だ」
『正しく誠実なら、うっかりで単語漏らすのもアウトでしょうが』
「そうだとしても、そこをつつかず見て見ぬ振りをするのも社会人というものだろう。彼に対しても、私に対しても」
少し意地の悪い話し方になってしまったが、ヒナタは問題ないと考えている。ミトラは案外こういうところを撫でられてもへこみはしても怒りはしない。
案の定、ミトラは言葉に詰まっても怒声ではなく少し湿った声色になるだけだ。
『……シラベは口固いけど、あんたはペラペラだもん』
「おやおや、一企業の長にそんなことを言うなんて」
社会人らしくない行いをしているのはヒナタの口の軽さを知るせいだと言わんばかりに、ミトラの声に、開き直りの色が混じった。
心外そうな声を作りながらもヒナタは事実に反論出来なかった。ミトラに教えて、と抱き着かれてしまえば一瞬で陥落する自信がある。
だが今この場、電話越しという珍しい環境において、少しだけ勿体ぶってみたかった。
「確かに私もシラベと同じ秘密を抱えているけれど、もう少しだけ我慢しておくれ。こういう関係を抱えるのも案外悪くないと思い始めているところなんだ」
『紛らわしい言い方するな。というか、シラベを勝手に連れ出そうとするのちょっとは遠慮しなさいよ』
ミトラが湿り気から火気を帯び始めたのを楽しみつつ、ヒナタはノートパソコンの画面に視線を戻した。
「安心していい、ミトラ。近く公式から告知があるはずだから、それを待てば全部解決する。あと数分……いや、数秒で」
ヒナタは言葉と共にブラウザのタブを切り替え、エリューズニルの公式の告知ページを開いた。タイトルが大きく表示されている。
『ストーリーモード「ミシャンドラ」 実装予定のお知らせ』
「告知が出たよ。公式アカウントを確認してごらん」
『え』
がさり、ごそりと物音の後、数秒の沈黙。パソコンでも立ち上げているのだろうか。
しばらくミトラの独り言や吐息を味わっていると、再びヒナタの耳をミトラの声が撫でた。
『……ストーリーモードって、サービス開始前から「実装予定」って告知するもの?』
その声には疑問が浮かんでいた。普通のソーシャルゲームであれば、ストーリーモードは初期実装が当然だ。第何章までは初期実装、後から追加追加、としていくのはあり得ても、リリース後に追加コンテンツとして「実装予定」と告知されるのは奇妙な順序になる。
ヒナタは少し迷った。アプリ開発についてヒナタも当事者ではないし、あまりいい話ではない。だがストーリーモードの存在自体は今、公式が認めた。であればその周辺の裏事情を一つ二つ漏らしたところで大きな問題にはならないだろう。
ミトラであれば口外することは無いだろうし、なにより夜中にミトラと話せる時間を、こんなところで切り上げる理由がない。
「実はね。アルファ版でストーリーモードは試験実装されていたんだよ」
『シラベが触ったやつね』
「そう。だが、ユーザーの反応が芳しくなかったそうだ」
ヒナタは椅子の上で足を組み直した。
「ストーリーモードでは生命体や機械カードなどを3Dモデルで立ち絵として使う。会話シーンで登場するキャラクターたちが、原作のカードイラストを元にモデリングされている。これ自体は良いことだったんだが」
『うん』
「問題は、開発陣の一部が無駄なこだわりを発揮した部分でね。風属性の基本カードに『森ゴキブリ』というのがあるだろう」
『伝統のカードね。新規パックでも相変わらず収録されてたわ』
「そう。あれをディーヴァ・アリーナでのお披露目と変わらずに、リアル指向で3Dモデル化したんだ」
『……ねえ』
「うん」
『リアル指向って、どのくらい?』
「君の想像する限界よりもたぶん上だ」
ヒナタは淡々と告げつつ、当時社内で共にプレイしていたテストユーザーが悲鳴を上げたのを思い出していた。
あの3Dモデルはスマートフォンで出来る美麗な描写を加味してテクスチャから動きまで拘り抜いて作られた、ファンタジー要素の欠片も無い現実のゴキブリを再現したものだった。いかなヒナタであってもあれが画面に映っている時にタップするのは少しばかり勇気が必要になるほどだ。
「他にも妙にリアルなスタミナ回復要素や死体描写とか、いくつか開発陣のこだわりがユーザーの期待と噛み合わない部分があってね。総合的に修正が必要になった結果、工数的に正式版の配信に間に合わなくなったというのは聞いていたよ。全体的に延期するか一部延期とするかは協議していたそうだが、一部延期となったみたいだね」
『……こだわりで延期って、本末転倒すぎない?』
「全くだ。プロデューサーが現場を抑え込みきれないとこういう事態が起きる」
『ふーん』
ミトラの声に納得と呆れが混じっていた。その声に、ヒナタは椅子の背もたれに体を預ける。ミトラの好奇心は一旦満たされたらしい。話題が途切れ、ヒナタの口が寂しさを覚える。
「しかし」
ヒナタはふと、口を開いた。
「学生時代は、こうして夜中にミトラと電話で話せる日が来るとは思っていなかったよ」
ヒナタの記憶の中から、当時のミトラが蘇る。教室の隅ですぐに隠れてしまうような同級生。あの頃のミトラに電話をかけるのは当時のヒナタでもアウトラインと思い踏み込んでいなかった。何度かメールを送ったが、返事はほぼ来なかった。
『あの頃のあんた、メールがしつこかったわよ。一日に三十通とか平気で送ってきてさ』
「そうだったかな」
『「おはよう」「お昼食べた?」「おやすみ」って、毎日飽きもせずさ』
「君が無視するから、私の方が必死だったんだよ」
『重いって思ったわよ普通に』
「だろうね」
ヒナタは笑った。当時のことを否定する気はない。あの頃の自分は、ミトラに対する想いを持て余して出力の仕方を模索していたところがあった。あれが今の自分の地盤の一部であることも事実だ。
『でも』
ミトラの声が、少しだけ柔らかくなった。
『今は別に、嫌じゃないわよ。電話くらいなら』
ヒナタの胸の中で、何かが温かく広がる。二十年近くかけてようやくその一言を引き出せた。長い時間だった。
「光栄だよ」
ヒナタは声に余裕を含ませた。あまりがっついてはいけない。そういうノリはシラベに押し付けよう。
「今度は電話ではなく、レヴェローズやカルメリエルも交えて女子会でも開こうか」
『女子会?』
「君も普段、彼女たちと話す機会は多いんだろう? 私が混ざる場があってもいいじゃないか」
『私たち、もう女子って年じゃないでしょ』
「気持ちの問題だよ。三十路を超えても四十路を超えても、女子は女子さ」
『何言ってるんだか』
だがミトラの声には、拒絶の色はなかった。やるともやらないとも明言しない曖昧な相槌で、いつもの意固地な否定ではない。それはヒナタにとって充分な勝利だった。
『……まぁ、考えとく』
「楽しみにしているよ」
壁掛け時計が目に入った。通話時間は三十分を超えているだろうか。深夜の電話としては十分すぎる長さだ。
『あ、もうこんな時間』
ミトラも気づいたらしい。声に眠気の予兆が混じり始めている。
「そろそろ寝ようか」
『うん』
「おやすみ、ミトラ」
『おやすみ』
通話が切れた。ヒナタはスマートフォンを机の上に置き、軽く伸びをする。
窓の外の都心の夜景が変わらずに輝いている。だがヒナタの世界はたった今、ほんの少しだけその明るさを上回るものになっていた。