梅雨が過ぎた。
大穴は梅雨という単語の意味を完全には理解していない。何日も雨が続いていた時期があって、その後から気温が一気に上がったことだけは身体で感じ取っている。
そう、今は暑い。黒猫の身体では余計に暑い。
ボトムレスピットの一階。デュエルスペースの片隅、壁に取り付けられたエアコンの真下にある棚の上が、大穴の最近の定位置だった。エアコンから吹く冷気がちょうど当たるため、いくら冷房を吹いてもどこか熱を帯びる店内でもここだけは極楽だった。
いくら舐めて毛繕いをしたところで黒い体は熱を吸いやすい。冷気に当たり続けていないと、この暑さは乗り切れそうもない。
涼しい頃はシラベの肩が定位置だった。シラベの体温と猫の体温が合わさって二倍の温もりになっていた。あの頃が懐かしい。今や誰かの体温は単なる暑苦しさでしかない。
そんな事を考えていると、店の前の掃除を終えたシラベが大穴のいる棚の前を通りかかった。
「おう、大穴。今日もそこか。風邪引くなよ」
「にゃっ」
シラベが手を伸ばしてきた。大穴は反射的に身を引く。シラベの手のひらは今、外の熱気をたっぷり吸って熱い。額に汗の粒も薄っすら浮いている。あの手に撫でられたら、せっかく冷えた体がまた熱くなる。
大穴はしっぽで軽くシラベの指先を払いのけた。攻撃ではない。ただの拒絶の意思表示だ。
「なんだよ、冷たいやつめ」
シラベはしょんぼりと肩を落として棚から離れていった。普段なら多少の抵抗は無視して撫でてくるシラベが、今日は素直に引き下がった。大穴の意思を尊重したのか、あるいは自分でも手が熱いと自覚していたのか。どちらでもいい。とにかく大穴は涼しさを保ったままでいられた。
シラベが棚から離れた瞬間、別の影が彼へと飛びついた。
「契約者、私がその猫の代わりをしてやろう!」
レヴェローズだ。シラベの背中に飛びつき、締め付けるように胴に腕を絡める。シラベが半歩よろけた。
「あつい」
「うむ、今日も外は暑いな。よく涼むがいい」
「お前があついんだよ。引っ付くな」
レヴェローズはまるで聞いていない。シラベの背中に張り付いたまま頭を擦り付けている。あの女は猫の真似事をしているつもりなのだろうが、犬にしか見えないことを大穴でも知っていた。
「私を撫でろ。撫でろ撫でろ」
「わーった、分かったから一旦離れろ」
シラベは諦めたように両手を上げ、レヴェローズの頭を両手でワシャワシャと撫でた。金色の髪が乱れ、レヴェローズが嬉しそうに目を細める。
大穴は棚の上からその光景を眺めていた。冬であれば自分もあの輪の中に加わっていただろうが、今は遠慮しておく。冷気を手放したくない。
そうこうする内に開店前の時間が近付く。シラベがレジの中で何やら準備をしながら、ミトラに声をかけた。
「店長。今日は店、昼に閉めていいんだよな?」
パーカー姿のミトラはノートパソコンの画面を確認しながら頷いた。
「うん。ブログには事前に告知してあるし、問題ないでしょ」
「私も賛成だ。今日くらいは早仕舞いせんとな」
レヴェローズが胸を張って同意し、バックヤードから出てきたカルメリエルも頷いた。
昼に店を閉めるという言葉に、大穴の耳がぴくりと動いた。
ボトムレスピットの営業時間は、大穴の体感では一定だ。朝に開いて、夜に閉まる。昼間に閉まるという話はあまり聞いた覚えがない。何かが普段とは違う。
大穴の好奇心はそれほど旺盛ではない。だが今日の異変は、大穴の冷気の独占にも影響するかもしれない。この特等席を彩るエアコンの稼働時間が短くなるのではないか。これは確認する必要がある。
大穴はのそりと身を起こし、棚から床に降りた。冷風から離れた瞬間、空気が一段階暑くなった気がする。混じる熱気のせいかバックヤードへ向かう短い距離がいつもの倍に見えてもう疲れる。
カーテンを潜り、事務机の上に飛び乗る。机上ではカルメリエルが新しい帳簿に何やら書き込んでいた。
大穴の着地に気づいて顔を上げる。
「あら、大穴。どうかしましたか」
カルメリエルが手を止めて優しい声で問いかけ、白魚のような指先が自然と大穴の額に触れた。指の温度は少し冷たい。室内にずっといるカルメリエルの手は、シラベのそれよりもずっと心地よい。
大穴は質問の仕方を考えた。猫の身体で人間の言葉は使えない。だが、意図を伝える方法はある。
大穴は卓上に置かれた小さな時計のところまで歩き、しっぽで「12」の数字を示した。それから、首を傾げてカルメリエルを見上げる。
カルメリエルは数秒考え込み、ふっと微笑んだ。
「ああ、なるほど。今日のお昼にお店を閉める理由を聞きたいのですね」
「にぁ」
理解されたことに大穴は短く鳴いた。意図を読み取る精度において、この女は店の中で頭一つ抜けている。
「今日は十二時から、エインヘリヤル・クロニクルのゲームアプリがサービス開始するのですよ。それを皆で開始するために、ミトラ様たっての希望でお店を早仕舞いにしますの」
カルメリエルが大穴の背中に指を滑らせながら説明する。
ゲームアプリ。最近の店内でよく聞く言葉だった。シラベもミトラもカルメリエルも、レヴェローズですらそれに類するような言葉を呟きながらあの四角、スマートフォンを触っている。あれが何かのきっかけで、今日は重要な日になっているらしい。
「別にふつーに仕事終わりでいいと思うんだけどな。どうせ初動が七時間遅れようが八時間遅れようが、気にするほどのもんじゃないって」
カーテンが揺れてシラベが入ってきた。商品の入った段ボールを抱えている。
「結局ストーリーモードはしばらく出来ないみたいだし、急いでやる理由ねえだろ」
「初動からリセマラするなら、時間なんていくらあっても足りないのよ」
ぼやくシラベの後ろからミトラがすっと現れた。パーカー姿の小さな店長は、シラベが両手で段ボールを持っているのを構わずにその背中によじ登る。シラベはぴくりとも揺らがず、ミトラを背負ったまま首を回して肩越しに見る。
「エリューズニルじゃシングル買いするの面倒なんだから、多色ルーン引くまで粘った方がいいでしょ」
「そうかぁ? ワイルド貯めればいいだけだから初動で気にしても誤差だろ」
訝しむシラベだが、ミトラは気にしている風ではない。
「それに、どうせウチはアプリ用のプロモコードも全部配り終えてるし、アプリと店頭の連動イベントもないし。あとは私たちが店として出来ることは無いの。今日は消費者側に回るのよ」
「ハイハイ」
シラベは段ボールを抱え直して、ミトラを背負ったままバックヤードを出ていった。両手と背に荷重を背負っても重そうな素振りは一切見せないのは、彼曰く筋トレの成果らしい。
バックヤードに残ったカルメリエルが、大穴の背中をゆっくり撫でながらシラベたちの後ろ姿に向かって穏やかに微笑んでいる。大穴もそれに倣うように見ていたが、首が傾いでしまう。
よく分からない、と大穴は思った。
昼に店を閉めるのは分かった。だがアプリが始まるからリセマラ、消費者側。どの単語も、大穴の耳には引っかからない。ただ、カルメリエルの手がまだ涼しいことだけは確かだった。
*
時間が過ぎ、昼の十一時五十八分。店のシャッターは既に下ろされ、表通りから店内を覗くことは出来なくなっていた。
店内の照明は半分だけ点いており、薄暗いデュエルスペースに四人が座っている。シラベ、ミトラ、レヴェローズ、カルメリエル。四人は手にそれぞれのスマートフォンを握り、画面を見つめていた。暑さのせいか、ミトラもシラベの膝に乗らないことが増えてきていた。
長机の端にはシラベのノートパソコンが置かれていた。画面には『アイラバ☆モヒニの生配信』と書かれたタイトルバナーが表示されており、合成音声の柔らかい声が流れている。
『──さぁ皆さん、いよいよあと二分ですね。準備はよろしいですかぁ。私はもう万全の体制で挑む所存ですよ。アプリの追加インストール領域も当然確保済み、Wi-Fi環境も最強、それから皆さんも、プロモコードの入力も準備万端に──』
大穴は最近の定位置である棚の上から、四人を見下ろしていた。
四人ともソワソワしているようだった。レヴェローズなど落ち着きなく足を揺らしてシラベに蹴とばされるのを何度も繰り返している。ミトラはスマートフォンを握りしめたまま、画面を点けたり消したりと忙しない。シラベは平静を装っているが、視線がスマホとノートパソコンの間を行き来していて、それぞれの時計表示を眺めているようだ。カルメリエルだけが穏やかな微笑みを保っているが、その指先がスマートフォンの縁を忙しなくなぞっている。
大穴にはやはりよく分からないまま、エアコンの冷気を浴びていた。涼しい風が大穴の毛並みを撫でていく。四人がわざわざ一階にいてくれているおかげでこの冷気が味わえているならそれでいい。
ノートパソコンの音声が、カウントを始めた。
『あと十秒、九、八』
四人の指が、スマートフォンの画面の上に構えられた。
『七、六、五』
レヴェローズが何か小声で気合のような呟きをしていた。
『四、三、二』
ミトラが息を吸う気配がした。
『一──』
配信の声と同時に、四人の指が一斉に画面をタップした。
画面が暗転する。それぞれのスマートフォンが、何かの起動処理に入ったらしい。
数秒の沈黙。そして、それぞれの画面の上部に進行バーのようなものが現れた。シラベのスマホは順調に進む。ミトラのスマホはやや遅い。レヴェローズのスマホはなぜか途中で止まる。カルメリエルのスマホは中速。配信のアイラバ☆モヒニは、既に追加ダウンロードを終えて起動画面に入っていた。
「ええい、私のだけ止まってる! 契約者、これは故障か!?」
「故障じゃねえよ。サーバー側か、うちの回線の問題だろ。皆同じだ。落ち着け」
「ぐぬぬ……早く……」
レヴェローズが画面を睨み、スマートフォンに念を送るように掴み掛かっていた。やめろ壊れるとシラベが小声で諫める。
ノートパソコンの中では、アイラバ☆モヒニがオープニングムービーを実況していた。エインヘリヤル・クロニクルの世界観をなぞる短いアニメーションが流れ、合成音声がそれを解説していく。
『あぁ、このムービー、『脊界樹の系譜』のカードイラストを意識してますね。外から見た世界観のイラストは珍しいから、やっぱり画面映えするんですかね。そこから……これは脊界卵かな』
遅れて、シラベたちのスマートフォンでも同じムービーが流れ始めた。それぞれが画面に集中し、軽い吐息を漏らしたり、知っているカードモチーフに反応したりしている。レヴェローズは「これは私が出てくる場面か?」と何度も期待しては外れ、その度に落胆していた。
大穴は勇壮な音楽は心地よく思ったものの、ノートパソコンとスマートフォン4台分から5回も聞かされたら辟易する。膨らんだ興味はすぐに萎え、棚の上でくるりと腹を出す。
エアコンの風が腹の毛に当たり心地が良い。今日が何か特別な日だとしても、大穴の役割はこうして涼んでいることなのだろう。
*
「あれ」
シラベが上げた小さく声で、うとうとしていた大穴は意識を引き戻された。
「どした?」
ミトラがシラベの画面を覗き込んでいる。大穴も棚の上から首を伸ばして眺めた。いくつかの文字が並ぶボタンのような画面が表示されている。それに対して、シラベが驚いたらしいことは分かった。
「ストーリーモード、押せそうじゃない?」
困惑するようなミトラの声。ミトラは自分のスマートフォンの画面をシラベに突き出した。同じ画面のようだが、シラベの画面では鮮やかな水色が灯っている項目がミトラの画面では暗くなっており、触れる雰囲気ではない。
「私のは灰色のままなのに。なんでシラベのは色付いてんの」
「分からん。チュートリアルやっただけだからそっちと進捗変わらないぞ」
ノートパソコンの中の配信画面でも、ちょうどメインメニューが映っていた。アイラバ☆モヒニのスマートフォンの画面でもボタンは灰色だ。
「バグか?」
「押してみればいいではないか契約者! 何事もやってみないと分からんぞ!」
訝しんだシラベがに、レヴェローズが横から首を突っ込んできた。
「いや、未実装のはずだぞ。押しても何も起きないか、エラー出るだけだろ」
「やってみなければ分からんではないか!」
ミトラが自分の画面の灰色のボタンを試しにタップするが、『アップデートをお待ち下さい』という文字が表示されるだけだ。
「ほら、私のはこう」
「私のも、レヴェローズのものも同様ですわね。シラベ様のものだけです」
シラベは画面に映る鮮やかな色のボタンを見つめた。少しの逡巡の後、人差し指をその上に浮かせる。
「試してみないと分からないか」
タップする、その瞬間。
大穴の視界が、白に塗りつぶされた。
「ふぎゃっ」
大穴の喉から猫らしからぬ悲鳴が漏れた。覗き込んでいた大穴を、シラベのスマートフォンから放たれた強烈な光が直撃した。
猫の瞳孔は瞬時に閉じたようだが、それでは追いつかないほどだった。眩しすぎる。瞼を閉じても網膜の上に光の残像が焼きついている。大穴は両前足で顔を覆い、しばらくその場で悶えた。
店の面々の慌てた声。聞き覚えのない声。物音。それらが収まった後。大穴がゆっくりと前足を下ろして目を開けると、店内は元の薄暗さに戻っていた。光はすぐに収まったらしい。
ただ、店内の様子が違った。
長机の椅子。先ほどまで四人が座っていた場所に、誰もいなかった。
大穴は数回、瞬きをした。
「……んなぅ」
いない。
シラベがいない。ミトラがいない。レヴェローズがいない。カルメリエルがいない。
誰もいない店内に、ノートパソコンの音声だけが流れていた。
『──皆さんの様子はどうです? 『BGM最高』、分かるわ~。これ大昔のPC版のアレンジ持ってきてますよね。当時のデータなんて残ってたんだ。無かったことにされたのかと思ってた。『3Dモデルで演出するのちょっとくどい……くどくない?』、正直ここは演出簡略の設定にしちゃうと思うけど、でもこれがストーリーでも出て来るならアガりそう──』
配信の声は変わらず明るく、現実とは別世界の話を続けている。
長机の上に飛び移り、大穴はちょんちょんと机の上をつつく。先ほどまで四人がそれぞれ握っていたスマートフォンすら一台も残っていない。
大穴は首を傾げた。一体どういうことなのか。突然の光。消えた一同。残されたパソコンの音声。
ただ一つ分かっていることは、シラベがいないということだった。
「んにゃぁおぅ」
大穴の喉の奥から、不安げな鳴き声が漏れる。
返事はなかった。