決戦の夜。商店街は、深海のような静けさに沈んでいた。
シャッターの閉ざされた店先を通り過ぎるたび、シラベの靴音が乾いた音を立てて反響する。
懐のポケットの中には、先ほどまで騒がしかった『相棒』が眠るデッキケースが入っていた。
『いいか契約者! これは私の復帰戦であり、ドゥブランコ王家の威信をかけた聖戦だ! 絶対に私を場に出せよ! あとちゃんと格好良く演出して召喚しろ!』
アパートを出る前、カードの姿を取る直前までそう喚き散らしていたレヴェローズの言葉が脳裏に蘇る。
彼女は今、シラベのデッキケースでおとなしくしている。
だが、その存在感は消えていない。収めたポケットの中で確かな熱と微かな脈動を伝えてきている。まるで、これから始まる戦いに武者震いしているかのように。
「ま、やれるだけやってみるさ」
シラベは呟き、夜風に冷えた手をこすり合わせた。
向かう先は『ボトムレスピット』。シャッターの脇にある通用口だけが、わずかに開いている。そこから漏れ出る蛍光灯の明かりが、この暗い通りで唯一の道標だった。
鉄扉を開けると、見慣れている筈の店内がそこにある。営業用の照明が落とされた店内はわずかな高揚感を齎すが、姿かたち自体は先日と変わらない。そのはずだ。
しかし。何かが決定的に違う。根拠のない警鐘が胸の中で鳴っていた。
時間帯のせいだろうか? あるいはバイト着任の可否という重荷のせいか。
くだらない妄想を頭を振って追い出し、歩く。狭い通路、ショーケースの間を抜けた奥にあるデュエルスペースに、彼女はいた。
「遅い」
佐野ミトラ。店のオーナーであり、今日の対戦相手。
彼女はいつもの黒いパーカーに黒いスパッツ──細かく言うなら、だらしなく靴を脱いだ足はつま先と
こちらを見上げる視線は、相変わらず死んだ魚のように気だるげだ。
だが。
「ん……?」
シラベは違和感を覚え、彼女の顔をまじまじと見つめた。
一週間前、初めて会った時の彼女は、もっとこう、じめっとしていた気がする。カビが生えそうな陰鬱なオーラを纏い、肌は不健康に青白かったはずだ。
しかし、今日の彼女はどうだ。
肌には健康的な血色が差し、ボサボサだった黒髪にはいわゆる天使の輪のような艶を湛えている。目の下の隈も薄らいだ気がするし、全体的に小奇麗になっていた。
まるで、誰かに丁寧に世話を焼かれたような。
「……何?」
シラベの視線に気づいたミトラが、不機嫌そうに眉をひそめる。
「何ジロジロ見てんのよ。気持ち悪い」
「いや、なんか……綺麗になったなと思って」
シラベが正直な感想を述べると、ミトラの動きがピタリと止まった。
青白い頬が、ぼっと音が出そうなほど赤く染まる。
「は、はぁ!? な、何言って……! あんた、面接の前にセクハラで訴えられたいの!?」
「いや、そういうんじゃなくて。なんて言うか、肌艶がいいっつーか」
シラベは顎に手を当て、無神経な視線をそのままに分析を続けた。
「なんだろうなこのテカり……あ、分かった。なんか油っこいもんでも食った?」
「…………」
瞬間。
ミトラの顔から赤みが引いた。
代わりに浮かんだのは、絶対零度の無表情。
「……死ね」
短く、冷徹な宣告。それと同時に、彼女から放たれるプレッシャーが跳ね上がる。
背後に怒りのオーラが立ち昇るのを感じ、シラベは思わず一歩後ずさった。
「あ、いや、冗談だって。そんな殺気立たなくても」
「問答無用。叩き潰す」
ミトラは氷のような声で言い捨てると、テーブルの上にドン、とデッキケースを置いた。
黒革の、使い込まれたケース。そこから漂う威圧感は、ただのカードゲームの道具とは思えない重厚さを持っていた。
「さっさと席につきなさい。終わらせてやるから」
「へいへい」
シラベは苦笑いを浮かべつつ、対面の席に座った。
知らぬ間に地雷を踏み抜いたらしい。が、相手の感情を逆撫でするのは戦術の一つだ──そう自分に言い聞かせる。冷静さを欠いてくれれば御の字だ。しかしこの店長に限っては、怒りがそのまま殺意あるプレイングに変換されそうで怖い。
シラベも懐からデッキケースを取り出し、中身を取り出す。
お互いにデッキをシャッフルし、相手にカットを求める。
カードが擦れ合う、シャカ、シャカ、という音が静寂に響く。
「ルール確認だけど」
シラベはカットしながら、何気ない調子で切り出した。
「採用試験とはいえ、一応形式ばった勝負だ。当然、
カードゲームの大会では一般的な形式だ。三回勝負で先に二勝した方が勝ち。
これには『サイドボード』というルールも含まれる。一戦ごとに、用意しておいた予備のカードとデッキの中身を入れ替え、相手の戦術に対策するのだ。
だが、ミトラは即座に首を横に振った。
「は? 面倒くさい。
「えっ、マジで? 俺の就職かかってるんだぞ? 一発勝負じゃ事故ったら終わりじゃんか」
「知らないわよ。運も実力のうち。それに、あんたみたいな変態の相手に長時間使いたくないの」
ミトラは冷たく言い放ち、手元のデッキを整えた。
「一回やって、あんたが負けたら即退場。それでおしまい」
それ以上は議論しないという態度に、シラベは渋々といった体で肩を竦めた。
「分かったよ。一本勝負でいい」
──よし。
心の中で、シラベは小さくガッツポーズをした。
最初からBO3などやるつもりはないし、やったら確実に負ける。今のシラベには、まともなサイドボードを組むだけのカード資産も金もない。もしBO3になって相手に対策カードを積まれたら、勝ち目は限りなくゼロになる。
だからこそ、あえて自分から「BO3」を提案した。ミトラの性格ならこちらからの提案に頷くのは癪に障ってとにかく否定から入りたいだろうし、面倒くさがって「BO1」を主張してくるだろうと踏んでいた。
(性格が悪くて助かったぜ。これで奇襲が通ればワンチャンある)
シラベは内心の安堵を隠し、真剣な表情を作る。
目の前のミトラもまた、死んだ魚のような目に、鋭い光を宿していた。
「じゃあ、やるか」
「ええ。──ん?」
頷き掛けたミトラが怪訝そうな表情をした。視線の先は、彼女自身のデッキ。ずっと前に廃番になった筈の公式スリーブだが、オーバースリーブに包まれているそれは使い古しの感は無い。ため込んでいるものを卸したばかりなのだろうか。
その真新しいスリーブに包まれたデッキ、否、その一番上に置かれた裏向きのカードが、亀裂から溢れ出すマグマのような、あるいは致死量の毒を孕んだ劇薬のような光を漏らし始めた。
「あ?」
「ちっ」
構えていたプレイヤー二人の呟きを無視して、噴出した光が濁流となって店内を呑み込んでいく。 空間が断末魔のような軋みを上げて歪んだ。蛍光灯の頼りない白光は脈打つエメラルドグリーンの燐光に侵食され、一瞬にしてその領土を奪われる。
ショーケースのガラスが共鳴しカタカタと微細な震えを立てる。棚の影からは幾千の歯車が噛み合うような異質な駆動音と、電子の祈祷文が反響していた。デッキを起点に走り出した幾何学的な回路紋様が、デジタルノイズの荒波となって壁を、床を、天井を塗り潰していく。
それはシラベがレヴェローズと初めて相見えた時とは比較にならない、あるいは荘厳とも感じさせる、圧倒的な意志を伴った侵食。
「《レーラズ・フィールド》……」
シラベは呟く。それはレヴェローズと初めて対戦した時にも展開された戦闘結界の名だった。『TCGとしての
その呟きを合図に、現実の境界線が力技で引き千切られた。
店舗の風景は、陽炎のように透けて消え去る。代わりに現れたのは、泥の臭い。二人の周囲には数多の機械兵が骸を晒す鉄の古戦場が展開され、その頭上に巨大な戦況を現わすディスプレイが冷然と浮かび上がった。
「ったく。勝手に動くなっての」
パイプ椅子の代わりに顕現した岩塊から立ち上がるミトラ。彼女はホログラム上のゲームフィールドに置かれたデッキを手に取って呟く。
彼女の指先が、微かに明滅するデッキトップを撫でた。その瞬間、彼女の背後には淡いローズピンクの影が揺らめく。修道服を思わせるシルエットと、それが背負う円状の輪郭。
シラベはその影が何であるかを直感的に理解し、背筋に冷たい戦慄が走るのを自覚した。
間違いない。彼女もまた、精霊に憑かれている。第三王女レヴェローズの姉であり、神聖機甲帝国ドゥブランコの第二王女、機械聖教主席大司教、『
ミトラはその影を、鬱陶しいハエでも払うかのように手を振って掻き消してから、シラベに向き直る。
「デッキトップ分かっちゃったようなもんだから、シャッフルしていい? カットもお願いするから」
「お、おう」
異常な展開が起きていても、ミトラの様子は変わらない様だった。
彼女は手際よくカードを捌き、シラベの前に差し出した。その挙動には一分の迷いもない。
その冷静さが、既に一度似た空間を経験しているシラベを余計に混乱をさせる。
「始めるわよ。手加減は、死んでもしてあげないから」
ミトラの言葉に応じるように空間が奇妙に伸びて、両者の間が広がる。互いにホログラムのフィールドを身体の前に浮かべる形となり、そこへ展開される戦いを予兆させた。
シラベは唾を飲み込み、虚空から生じたダイスを手に取る。手間を掛ける演出が連続する様子を見て、シラベはこの空間を作り出した主はレヴェローズ以上に自己主張が激しい事を悟った。
その雰囲気に呑まれまいと、精一杯口角を歪めてシラベは応じる。
「ああ、望むところだ」
二人の手からホログラムフィールドへダイスを投じられる。シラベは「4」と「5」、ミトラは「2」と「4」の出目。
「先攻で」「りょーかい」
両者の合意の後、デッキからカードを引いていく。運命を決める初期手札の七枚。引き直しの意思は互いに無い。
たとえ異質な空間でも、この瞬間に言うべき言葉は決まっていた。
『対戦よろしくお願いします』