目を覚ましたミトラに最初訴えかけて来た感覚は、土の匂いだった。
湿った土と、青臭い草の匂い。そして底冷えする寒さ。寝室には絶対に無いはずの感覚情報が遠慮なくミトラの寝ぼけた頭に流れ込んでいた。
目を開ける。仰向けに寝ているのだと、そこでようやく気付いた。
頭上に広がっているのはボトムレスピットの天井の染みではない。重なり合った木々の葉が陽光を零している。
鳥の声がどこか遠くで鳴いていた。聞き覚えのない種類の鳥だ。少なくとも、街中で聞く事はまずない野性味あふれるもの。
仰向けに寝そべったまま、ミトラは数秒間、葉の隙間から覗く空をぼんやり眺めた。脳が現状を処理することを拒んでいる。寝起きの頭にはあまりにも情報量が多すぎる。それでも上体を起こせたのは、思考せずに日々の習慣を再生してくれる怠惰な体のお陰だ。
周囲は見渡す限りの森。それなりに大きな木々が間隔を空けて立ち並び、地面には苔と落ち葉が混在している。整備された道らしきものは見当たらない。
季節は分からない。葉は緑が濃く、空気には微かな冷たさが残っていた。春の終わりか、初夏の始まり。とは言え、この異様な状況を自分の知る基準で考えて良いのか、ミトラには甚だ疑問ではあった。
ミトラは自分の体を見下ろす。いつものパーカーにトレンカではなく、見覚えのない服装だ。
くすんだ深緑のマント。その下に着ているのは厚手の白いシャツと、革で補強された焦茶色のベスト。下半身には膝下まである同じ色のブーツと、太腿丈のスカートのようなもの。腰には何重にも巻かれた革のベルト。
総じて中世ファンタジーRPGの初期装備、というか何かのコスプレでも始めるのかと言いたくなるような旅装だった。
幸い、ミトラの寸法に合わせて仕立てられている。袖や裾を引きずらない程度には体に合っているのが却って不気味だ。誰かの意図を感じざるを得ない。
マントの下に手を入れて何か手がかりが無いか探る。スマホは無い。財布も無い。店の鍵も。当然のように普段持ち歩いているものが、何一つとして手元に残されていない。
その代わり、腰のベルトに見慣れない物がぶら下がっていた。
革製のケースのようだ。手のひらに収まるサイズの、小ぶりな鞄状のもの。革紐で蓋が閉じられており、その表面には金属の留め具が縫い付けられている。古びているようで、しかし手垢のついていない真新しい手触りだ。
ケースを腰から外し、中を改めようとする。留め具が思いのほか強固についているのは使用者に寄り添っていない。
「は?」
蓋を開けたミトラは、思わず声を漏らしてしまった。
中には見慣れた紙の断面が詰まっている。折り重なったそれが一目で六十枚ほどあると分かるのは職業病だ。スリーブにも入れられていない古びたエインヘリヤル・クロニクルのカードたちが整然と詰められている。
森の中、見覚えのない服装、消えたスマホ。それらに対する無理解に、現実でもなじみあるカードというアイテムによってようやく驚愕がミトラの脳に追いつき、混乱と困惑が同時に押し寄せてくる。
だが、それらの感情よりも遥かに早く、別の感情が湧き上がっていた。
苛立ち。それから不安。
シラベがいない。
ローテーションの日であれば隣にいて朝の時を共に出来る相手が。そうでなくてもいつも隣にいてくれる相手がいない。森の中に一人で放り出されたという物理的な状況よりも、シラベの姿が無いという事実の方が、ミトラの胸を強く圧迫していた。
「はぁ?」
もう一度、今度はもっとはっきりと声を出した。誰に聞かせるためでもなく、ただこの状況に対する抗議として。
ミトラは膝を抱え、頭を垂れた。マントが地面に広がる。
落ち着け。整理しろ、と自分に言い聞かせる。シラベがいないからってパニックを起こすのは違うでしょ。細々とでも従業員一人自分一人で店を切り盛りしていた自分が、一年も経ってない男の不在ぐらいで挙動不審になるって、いくらなんでも依存しすぎだ。依存させるようにしたのはあいつのせいで私もそれに堂々と乗っかっているけどそれは脇に置くとして。
自己弁護しようとしていたミトラの視界が歪んでいき、それを拭うように思考をなんとか切り替えようとする。三十五歳にもなって文字通りのおんぶにだっこになっているのは事実だ。だがそれを冷静さを取り戻すフックにしろ。私が一人でいられない女になっているのは、それだけシラベが甘やかしてくれていたから。それはそれで悪くない事実だろう。だがそれだけではダメだ、自立しないとと思い立った事もあった筈だ。
何とかパニックを押し殺し、呼吸を自覚して行う。嗅ぎ慣れない青臭さにむせそうになりつつも、空いた思考で気を失う前の記憶を辿る。
ボトムレスピットを一時閉店して、四人並んで長机に座って。ノートパソコンで配信を流して。十二時のカウントダウン。エリューズニルが正式リリースされる瞬間を全員で迎え、チュートリアルをやり終えた。
そこからだ。他三人のスマホでは灰色のまま押すことは出来なかったストーリーモード「ミシャンドラ」のボタンがシラベの画面にだけ押せるような状態で表示されていた。
シラベが指を浮かせ、躊躇い、それから押した。
そこで光が弾けた。それだけは覚えている。
光が弾けた後の記憶は曖昧だ。聞き覚えがあるような無いような、女の子の声がした気がする。あれは誰だっただろうか。耳の奥に微かに残っているが、輪郭が掴めない。
その声に対して、シラベが何か言い返していた。言い争っていたようだが、何を言っていたのか内容は思い出せない。シラベの声と、声の主の声と、その応酬が遠くで波打って聞こえていた感覚だけが残っている。
そこから先は無い。意識が途切れた。そして今、ここに居る。
ミトラは顔を上げた。
声を上げて呼んでみようとした。だがすぐに止める。森の中で大声を上げるのは、賢明ではないような気がした。何が居るか分からない。普通に獣が居ても困るし、不審者がいたら困る。
ミトラは立ち上がった。革のブーツが下草を踏みしめる感触が、ずしりとした重みで足の裏に伝わってくる。普段履いているスニーカーとは全くの別物だ。慣れない。
目を凝らして周囲を探したが、やはりシラベの姿はどこにも無い。レヴェローズも、カルメリエルも、漆黒の毛玉も見当たらない。
顔の前を、見た事のない羽虫が横切る。
「……マジでぇ?」
ミトラの口から、独り言が漏れた。
帰りたい。素直にそう思った。
ボトムレスピットの自分の部屋。シラベの肩。大穴の毛皮。レヴェローズの騒がしい声。カルメリエルの作る朝食の匂い。そういう全てが急に恋しくなって、ミトラは自分が思っている以上にホームシックに弱い人間であることを思い知る。
だが、ここでうずくまっていても何も始まらない。ミトラの理性が、ようやく感情を上回り始める。
「やってやろうじゃない」
怒りで奮い立たせるのが、今のミトラには一番楽な方法だった。誰に対して怒るのか、何をどうすればいいのかも分からない。だが怒りを発散させるのはカードゲーマーの十八番だ。何かにキレているほど冷静になれる人種というのは存在する。
ミトラはマントの裾を整え、デッキケースを腰にしっかりと固定した。少なくともこれがあるという事は、ここでも何かのカードゲームが行われている可能性が高い。それなら自分の領分だ。悪くない。
直前の状況を考えれば、おそらくだがエインヘリヤル・クロニクル関係のトラブルだ。精霊なんてものを三匹も飼っているボトムレスピットにおいて、そういう異常な考えを導き出す方がよほど自然と言える。着替えていてもわざわざデッキがあることからして確定だろう。
そうなると、シラベがタップしていたストーリーモードが怪しい。それを追体験しているということなのか。だがミトラはストーリーモードについての情報は持ち合わせておらず、この推測が正しいのかも分からない。もっとシラベを搾って聞き出せばよかっただろうか。
考えを巡らせながら、ミトラは森の中を闇雲に歩く。
道は無いが、なんとなく木々の間隔が広い方向に体を向けていた。下草が膝下を擦り、マントの裾が小枝に引っかかる。短い距離を歩いただけで息が上がり始めるのが情けない。普段から運動不足な上に慣れないブーツと地形だとしても、自分の身体がこれだけ動く事に向かないことが嫌になる。
日がある内であれば、まだいい。だが日が暮れたら、これは本当に詰む可能性がある、と。冷静になり始めた頭で、ミトラはぼんやり考えた。焦りと反比例して、歩く速度がだんだん遅くなる。
その時。ミトラの前方の茂みが、ガサリと音を立てて揺れた。
「──!?」
ミトラの体が反射的に固まった。
飛び出してきたのは人間だった。いや、人間の形をしていた、と言うべきか。
布製の鎧のようなものは赤黒い何かで一分も隙もなく汚れている。その背には体躯と同じ程度に膨れ上がった袋を背負っており、兜の縁から覗く顔は土気色だ。充血した赤い目がミトラを射抜く。
手にはガラクタのような刃毀れした剣。だが切っ先は鋭く研ぎ直されていて、まだまだ凶器として機能しそうだった。
ミトラの脳裏に、瞬時にカードのイラストが浮かんだ。『廃銭漁りの火達磨兵』。安価で扱いやすい火属性の生命体だ。フレーバーは「燃える銅貨を求めて廃都の灰を漁る兵士の鎧は、錆と一体になっている」だったか。
目の前の兵士は、その絵柄そのままだった。違うのは絵から飛び出してきて、こちらに刺々しい目を向けてきているという一点。
兵士の血走った目がブレた。ミトラにはそうとしか見えなかった。
「いやちょっと、まっ」
口以外、ミトラは反応出来ない。剣を振り上げる兵士の動作は鈍重に見えたが、振り下ろされる速度はミトラの予測を遥かに超えていた。
錆びた刃が頭上へ落ちる。
「あっ──」
ミトラの口から間の抜けた声が漏れた。とっさにシラベの背中を探してしまう。いつもの店内なら、ミトラに何かが降りかかる前にあの男が前に出てくれる。自分の小さな体を隠してくれる。だがその背中は、今この場には存在しない。
代わりにミトラの頭上で光が灯り、ガギンと硬質的な音が響いた。
閉じる間もないミトラの目がそれを見る。連なった六角の板のような光壁が、兵士の刃を押しとどめていた。
光壁を越えることが出来ない剣が弾き飛ばされ、兵士の体が衝撃で後ろに半歩よろける。血走った目が見開かれ、そして細く引き絞られた。
「魔術師か」
兵士の口からしわがれた声が漏れた。それに応じるかのように、ミトラの目の前の空間に四角い枠で区切られた半透明のパネルが展開される。
ミトラはぽかんと口を開けたまま兵士と空中のパネルを順番に見比べる。目の前のものは精霊どもの騒動で何度か見た、レーラズ・フィールドで表示されるホログラムのような盤面らしい。そういえば、剣を防いだ光の壁も直接攻撃を受けた時の障壁と同じだったかもしれない。
兵士は剣を引いて距離を取る。どうやら普通の殴り合いなら保護してくれるらしいから、そのまま立ち去ってくれないかとミトラは祈る。しかし兵士は剣の代わりに背中の袋から薄汚れた羊皮紙のようなものを抜き出して片手で広げる。
兵士の口の端から零れる血が顎を伝い、ポタリ、ポタリと巻物の表面へと滴る。血の滲みは巻物の上で幾何学模様を次々と作っていき、次の瞬間、空中に展開されているミトラの盤面の対面側に、もう一つの盤面が浮かび上がった。
「何それインチキ!」
思わず叫んだミトラだが、その光景に薄っすらと覚えがあった。最近レヴェローズが読みふけっていた漫画版のエインヘリヤル・クロニクルで登場していた、カードには存在しないオリジナルアイテムだ。確かあの物語では選ばれたものでないと戦いの場に立つことが出来ないというストーリー回しをしようとして、その帳尻を合わせる為に命を削れば対戦を挑めるというアイテムを出す羽目になっていたはず。
それがエインヘリヤル・クロニクル公式に逆輸入されたという話はミトラは聞き覚えが無い。ここが公式が配信しているアプリと関係する世界であるなら、なんでそんなものがあるのか。考える時間も情報も足りていない。
困惑するミトラをよそに、盤面の上にはお互いのライフを表す数値とリソースを表すルーンの欄が表示されていた。
表示されたライフを見て、ミトラは思わず喉を鳴らす。
通常環境でのライフは20。プレイテスト時のチュートリアル戦闘ですら10から始まるものが多い。
だがこの場において、ライフには5としか表記されていない。
ミトラの口元が、無意識のうちに歪んだ。歪んだのは、安心と呆れの混在した笑みのつもりだった。
「あー、はいはい。まぁハンデとしてはいいんじゃない」
ここが本当に異世界だったら、剣も魔法も使えない自分はさっきの時点でゲームオーバーだ。
だが、こうやって目の前で対面の人間とカードゲームをさせるシステムがあるらしい。それならば、ライフ5なんていう状況からの開始であっても問題ない。むしろ幸運だ、と。ミトラはそう思う事にした。
負けることなど考えない。ミトラは大きく息を吐き、自分の盤面に意識を向ける。
ホログラムの上にはすでに初期手札は開示されており、七枚の内容が見えた。ミトラの目がそれを舐めるように追う。デッキは意識を失う前にメインデッキとして登録していた、アプリ起動直後に配布される初期構築の水と風の二重構成デッキ。回避と妨害に特化したそれは決して強くは無い。だが、欲しいカードは概ね手札に揃っている。
使い方さえ間違えなければ、こんな兵士には負けない。ミトラの口元に、ようやくいつもの余裕が宿る。
「いいわよ。やってあげる」
声に、わずかな高揚が混じった。
戦闘開始の合図でも鳴ったかのように、空中の盤面から光が漏れ始める。光の輪が足元から浮かび上がって両者を取り囲み、逃げ場も横槍も許さない事を伝えていた。
兵士は煤に塗れた兜を揺らし、ミトラは小さな手で空中の自分の手札を指で並び替える。
おそらくストーリーモードであろうこの世界の最初、チュートリアルが始まった。