地面に座り込んだまま、ミトラはうずくまっていた。膝小僧に頬を押し付け、ただ呼吸を整える。森の中の冷たい空気が肺の奥まで届くたびに、胸の内からせり上がるものと鼓動の存在が大きくなる気がした。
動きたくない、と思うのはいつも通りだ。いつだって自分は面倒くさがりだった。だがそれでも、今は立ち上がるしかない。
ミトラは無理やり奥歯を噛み締めた。自分の中の弱気を苛立ちで上書きする。怒りは便利だ。何に対する怒りでも、立ち上がる燃料として使える。さっきまで使い切ったはずの怒りを、もう一度引き出しの奥から引っ張り出す。
誰のせいでこんな目に遭っているのか。画面を押したシラベか。それともそんな表示させた何者かか。ヒナタの会社か、エインヘリヤル・クロニクル公式か。どこに怒りをぶつければいいのか分からないなら、宙にぶつけるしかない。
ミトラは膝の力で立ち上がった。ふらつきながらも首を上に向ける。森の木々の隙間から曇り空が覗いていた。
「ちょっと! 敵倒したんだから、経験値でも金でもカードでもなんかよこしなさいよ! クリア報酬!」
ミトラは空に向かって声を張り上げる。しばらく待つが返答はなく、ミトラの声に驚いて飛び立つ鳥の羽音だけが響いて来るだけだった。ファンファーレは鳴らず、空からアイテムボックスが降ってくることもない。スコアの表示も、レベルアップの効果音も何もない。
「……ねぇ、聞いてんの?」
もう一度試したが、当然のように何の反応もない。ミトラは空を睨んだまま地面を蹴りつける。
「不親切なゲームね。低評価付けてやるわ」
ミトラの視線が、先まで戦っていた相手に落ちた。
倒れ伏している火達磨兵は微動だにしない。敗北したと同時に生命活動も停止したのだろうか。ミトラの目には死んでいるようにしか見えなかった。
錆びた剣が地面に転がり、下敷きになった血の滲んだ羊皮紙が風に吹かれ僅かに揺れている。使っていた筈のデッキは消え失せており、そのまま利用することは出来ないらしい。
デッキは無くとも、身体が残っている。残されているという事に意味があるならとミトラは思考してしまい、思わず顔が引きつる。
「まさか……」
脳裏にRPGのドット絵が浮かんだ。倒した敵がアイテムを落とす分かりやすい仕組みは今や万国共通と言っていいが、ゲームの中にはその工程にリアルさを求めるゲームもある。たとえばモンスターを狩猟するゲームなら倒したモンスターに屈みこんで肉を切り分けたり、オンラインゲームなんかでは残っている死体をクリックしていちいちアイテムバックを開いて自分の持ち物に入れていく必要があったり。
ここがミシャンドラと呼ばれていたストーリーモードの世界だったとして、その公開が延期になった理由はなんだったか。森ゴキブリのモデルがリアル過ぎたというのをヒナタから聞き出していたものの、もちろん問題はそれだけではなかっただろう。
事実、カードゲーム部分は非現実的な――それ以外が現実じみているという意味では断じてないが――システマチックと言っていい処理で進行していたが、それ以降の倒した敵がどういう処理もされずにその場に転がっている。戦い部分はコンテンツとしてパッケージングされているが、それ以外の処理も、あの森ゴキブリのリアルさを求める馬鹿らしさと一緒に無駄な追求をされてしまっているのであれば。
報酬が欲しければ死体から直接奪い取れと言うのも、あり得てしまうのではないか。
血と油、煤と泥に塗れた死体の懐を探る。想像しただけでミトラの胃の中が冷えた気がした。生理的な嫌悪感が首筋を駆け上がる。ゲーマーの端くれである以上、血しぶき上等のゲームはいくつもやってきている。それを画面越しでやるのと実際にやるのとでは重みがまるで違う。
だがここで気取っている余裕は無いことくらい、ミトラには分かっていた。情報も装備もない状態で森の中を放浪する方が、よほど詰む。
「……仕方ないでしょ」
ミトラは自分に言い聞かせ、マントを翻して作業をしやすい体勢を整えた。屈み込み、火達磨兵の鎧の留め金に手を伸ばす。
その手が触れる、一歩手前で。
「待った待った! その前に、ボクの話を聞いてよ!」
軽薄で、中性的な声が響いた。
ミトラの動きが止まる。声の出どころは自分の腰の辺りだった。
視線をゆっくり下ろす。腰回りにあるのは革のベルトと、そこに固定されたデッキケース。声を発しそうなものは無いはずだ。
「こっちこっち。ああ、大丈夫。人の目を見て話そうなんて教師みたいなことは言わないから安心して。ボクの目なんてどこだか分からないだろうから」
呆然として見下ろすミトラの前で、腰のデッキケースの蓋がまるで口のようにパコパコと開閉している。革の表面にある丸い金属の留め具が、まるで目のようにミトラを見上げている気がした。
「やぁ! ようこそ『
デッキケースは仰々しく挨拶した。
「ボクは案内役の『スピーカー』! この地を旅する君を助ける、有能なナビゲーターさ!」
ミトラはデッキケースを見下ろしたまま声が出なかった。
「まずは自己紹介がてら、ボクの活躍を聞いてほしいんだ。さっきのデュエルの前、君を剣の直撃から守ったバリアを展開したのは誰だと思う? そう、このボクなんだよ!」
ぱこぱこと蓋を動かしながら、デッキケースは熱弁を振るう。
「その後の対戦盤面を用意したのも、もちろんボクさ。感謝してくれてもいいよ? いやぁ、ボクが居なかったら、君はあの時点で即死だったからねぇ。恩着せがましいことを言うのは好きじゃないけど、ま、命の恩人ってやつかな?」
ミトラは無言のまま、デッキケースを見下ろし続ける。その視線に気づいたのか、デッキケースの饒舌が少しずつ鈍り始めた。
「あれ? ちょっと、その目はなに? えっと、なんかボクへのリアクションが薄くない? 普通もっとびっくりとか、感動とかしない? しゃべる革製品だよ? もうちょっと反応してくれてもさぁ──」
「あんた、ノルドリッチでしょ」
ミトラはぴしゃりと言い放った。デッキケースのぱこぱこ動いていた蓋が、ぴたりと止まる。数秒の沈黙。
「な、なんのことかな? ボクはスピーカーであって、そんな儚げで可愛らしい名前の美少女なんかじゃ……」
「そんなアホみたいな反応するとは思ってなかったけど、マジでそうなんだ」
思わずミトラが溜め息を漏らす。その反応に、デッキケースの蓋が限界まで開かれた。
「あっやべ。いや違う。分かった、もう一回やり直そう。君が泣きそうになってるところからでいいから。さ、どーぞ座り直して」
ミトラはその言葉を無視してベルトごとデッキケースを腰から外した。革ベルトの端を握りしめる。
「あ、あの、ミトラさん?」
デッキケースの蓋がおずおずと開く。冷や汗のようなエフェクトが滲んでいるように見えたのはミトラの気のせいだろう。
「ちょっと話し合いを、ね? 冷静に──」
「うるさい」
ミトラは構わず、デッキケースのついたベルトを勢いよく振り回し始めた。
頭上で円を描くように、デッキケースが旋回する。最初は緩やかな弧を描いていたのが、徐々に速度を上げていく。革紐の手応えが重くなり、遠心力でケースが地面と平行に飛ぶ角度になる。
ぐるん、ぐるん、ぐるんぐるんぐるん。
「うわぁああぁあ!? 待って待って待って! 目が回る! 回るぅぅぅ!」
ケースの中から、ノルドリッチの情けない悲鳴が漏れた。先ほどまでの軽薄な口調はどこへやら、取り繕う余裕を失った悲鳴が響き渡る。
ミトラは振り回す速度を緩めなかった。むしろ加速させる。
「白状しなさい! ここはどこで、あんたの目的は何で、シラベはどこにいるの!」
ミトラは頭上のケースに向かって声を張り上げた。
「あ、いや、それは──」
「言わないならこのまま埋めるわよ!」
「埋めっ──!? いやいや待って、ちょっ、これ以上は、おえっ、ちょっ、吐く、吐くから!」
「吐いてやめてもらえるなんておめでたい脳味噌してんのね。裏返るまでやるわよ!」
「話す! 話すから! 話すから、回すのやめてえぇぇぇ!!」
ミトラはようやく腕を止め、革紐をゆっくりと下ろした。デッキケースは空中でくるくると最後の慣性で回り、ようやくミトラの胸の高さでぐったりと止まった。
ミトラはデッキケースの蓋を指で叩いた。
「最初からそう言いなさい」
ケースからしばらく荒い息遣いだけが聞こえてきた。ノルドリッチがケースそのものになっているのか、これを通してどこかから見ているのかは分からないが、激しい乗り物酔いに苦しんでいるらしい。もちろん同情はしなかった。
数十秒後、ようやくノルドリッチの声が、少しだけ落ち着いた口調で戻ってきた。
「……話す。話すから、もう振り回さないで……」
「答え方次第ね。気に入らなかったら蹴るし回すわ」
ミトラはデッキケースを持ち直し、目線の高さに合わせた。革の表面の留め金が明らかに焦点が合っていない状態でうろうろと泳いでいる。
「……大体、なんでボクだと分かったんだい? ボク、君とは初対面のはずだけど」
革のケースの蓋がおずおずと開き、まだ揺れの抜けない弱々しい声が漏れた。理不尽な暴力に屈した為か、それとも単に揺さぶられて頭の中が攪拌された結果か。ミトラとしてはどちらでも構わない。喋ってくれるならそれで十分だ。
「別に。胡散臭い奴がいたらノルドリッチじゃないか聞くって決めてたから」
他の奴らもそうするんじゃない、と言い掛けてやめる。実際そういう取り決めをボトムレスピットの面々と交わしたわけではない。だがこの状況で胡散臭い存在が出てくる以上、以前きな臭い動きをしていた奴が真っ先に上がるのは当然だ。雑なやり方だったが、結果として当たっているのだから問題ない。
「はぁ!? なんだよそれ、ボクが何をしたって言うんだい! ボクほど清廉潔白な精霊はいないよ!」
デッキケースの蓋が大きく開いた。心外そうな声色を出す蓋の動きに、ミトラは指でケースの蓋の縁をぴしりと叩いた。
「私たちが居ない時、店に入り込んでたでしょ。バレてんのよ」
「むっ。……ああ」
ノルドリッチの声が早々に諦めのような溜め息を出す。
「あれかい、監視カメラってやつか。気を付けてたつもりだったんだけど」
「ううん。あんたを撃退したドローンのカメラで見た。カルメリエルが出動履歴があるっていうから見せてもらったら、ディーヴァ・アリーナで見た顔がいたんだもの。正直驚いたわ」
店の一同が外出している間に防犯ドローンが自動起動した記録があったのは先々月になるだろうか。当のカルメリエルが誰の断りも入れずに危ない防犯器具を導入していると知った時は呆れたものだったが、せっかくだからと動画を全員で映像を確認してみれば、ディーヴァ・アリーナでも見た顔がそこにはいた。
映像に映っていた白髪の少女は、ドローンの電撃に追い立てられて慌てふためき、最終的に空気に溶けるように消えていった。何をするつもりだったのかは分からなかったが、何をするでもなくとも無断で侵入してくる輩は無条件で警戒対象だ。
「あれ、バチッとするだけじゃなくてそんなこともしてきてたのか。好き放題してくれるなぁ」
「あんたほどじゃないわよ」
ノルドリッチは被害者ぶるように呟くが、ミトラは鼻で笑った。どうしてこう精霊と言うのは面の皮が分厚いのか。
「詳しくは聞いてないけど、あんたなんかやらかしてたんでしょ。カルメリエルもシラベもヤバい奴って口を揃えて言ってたから、もし現実離れした怪しい奴が出たらノルドリッチのせいだと思っていた方がいいって」
「顔メタやめてくれない? カードゲーマーってこれだからさぁ」
「カードそのものが何言ってんのよ」
呆れ声を返しながら、ミトラは肩をすくめた。デッキケースの蓋が一瞬気まずそうに半分閉じる。
顔メタ──プレイヤー個人を対象とした、過去の傾向から相手の構築や考えを推測して対策する行為。ゲームに関するの俗語の一つだ。ノルドリッチがその単語を口にしたことで、ミトラの口元の端がぴくりと動いた。たとえ胡散臭い相手であっても、自分の身近にある言葉をこうして出してもらえると訳の分からない状況であっても安心感が出てしまう。
「それに、ここに来る直前にシラベと言い合ってた声。あれもあんたでしょ。声聞いてたら思い出してきたわ」
シラベが画面を押した瞬間の閃光、そして閃光の中で耳に届いた言い争いの声。記憶の輪郭は曖昧だったが、こうしてノルドリッチの声を間近で聞いているうちに、薄れていた記憶の縁が少しずつ繋がってきていた。
あの時、ノルドリッチの声も慌てていたような気がする。ともするとこの状況は、彼女の望むところではないのかもしれない。
「ちぇっ。君らが引っ掛かった時から嫌な予感はしてたけど、こんな……」
「こんな、なに」
「え? いや別に。面倒な相手に関わっちゃったなって」
ノルドリッチの声が小さく漏れた。何かを言いかけてふっと言葉を濁す、ゲームでもありがちな意味ありげな言い方だった。その態度がミトラの神経を逆撫でした。
「はい意味深な言い方しない。キリキリ吐く」
「うわっ、やめてってば!」
ミトラはデッキケースを掴んだ手にぐっと力を込め、再び腕を持ち上げ始めた。ノルドリッチの悲鳴が革のケースから漏れて、蓋がパタパタと激しく開閉する。
ミトラは構わず、今度はデッキケースを縦に振り上げ始めた。横回転で目を回したノルドリッチに対し、上下方向で済ませてやるのは慈悲と言っていいだろう。何事もマンネリになってしまうのは良くない。
「うぅぅうぇっ、縦回転は無理、おぇ、ヤバい中身出るっ……!」
「出たところでさっきのカスデッキでしょうが、望むところよ。それとも締まりが悪いデッキケースは買い替えなきゃいけないかしらね」
「ボクの締まりは最こ――ぉぁぁああああ!! ごめんなさいごめんなさいごめんなさい!!」
戯言を掻き消すように回転スピードを一段階上げる。風を切るデッキケースが情けない悲鳴を上げて宙を回る姿を見ていると、本当にカードが飛び散るのかもしれない。その時はその時だ。ミトラの腕は止まらなかった。
革のケースが風切る音と、その中から漏れる悲鳴だけがしばらくの間響き続けていた。