シラベが目を覚ました場所は、煤けた空気に満ちた荒野だった。
寝起きの脳がそれを処理するのに数分を要した。自分の服装。周囲の環境。腰のデッキケース。意識を失う直前に言い争った白髪のろくでなしの顔。全部が困惑の塊だったが、どうにか呼吸を落ち着かせ、叫ぼうとするのは一旦留めて無理やりにでも現状の整理に入った。
「ミシャンドラ、か」
声に出して呟いた。
二カ月ほど前にテストプレイで遊んだ、エインヘリヤル・クロニクル〈エリューズニル〉のストーリーモード。プレイヤーが魔術師となり、
それがどういうわけなのか、シラベの端末でだけ押せるようになっていたのは覚えている。ものは試しと押してみれば光が弾け、白髪のロクデナシと短い言い争いをしてから記憶が途切れた。
シラベはひとしきり地団駄を踏んで理不尽さを呪ってから、腰のデッキケースに視線を落とした。
「おい、えーっと、スピーカー?」
おそるおそる、アルファ版では案内役を務めていたはずのデッキケースに声を掛けるが、何の反応も返さなかった。革の蓋はぴくりとも動かず、目のように付けられた留め具も焦点を結ばない。
シラベの眉間に皺が寄った。アルファ版ではよく喋る案内役だったはずだが、今の環境ではまた変わってしまったのだろうか。
「ああ、そうかい」
シラベは溜め息をついて立ち上がった。悪態の一つでもついてやりたかったが、そういう態度はノルドリッチを喜ばせるだけの気がした。
良い材料はアルファ版の知識はあること。そこには地理の大筋やシステムの基本動作、注意すべきイベントなど、それらは記憶として残っている。悪い材料はそれらが本当に役立つか分からないこと、UIの類はスマホ画面で見ていたことが主であり、こうして一人称視点で見ていることできちんと役立つか分からないこと。
後ろ向きになろうとすればいくらでもなれるが、それで事態は好転しない。まずは近くの村に向かわなければ。村でカードを買い足し、デッキを再構築し、安全圏で情報を集める。何をやらされるのかは分からない以上、やれることは尽くさなければ。
*
道中で襲い掛かってきた敵を倒しつつ、シラベは進み続けた。
最優先課題はデッキの強化。そして、自分以外に巻き込まれた奴がいないかどうかの確認。同じ人間であるミトラは可能性が高い気がする。レヴェローズ、カルメリエルは精霊である以上どうなのだろうか。大穴は分からない。
実態は不明だ。だが自分の周囲にいた彼女たちも一緒に光に包まれたはずだ、同じ境遇になっていてもおかしくは無いだろう。初期位置がバラバラなのは選んだデッキの違いなのだろうか。それとも一人用モードだから巡り合うことはないのだろうか。
そこから先は、分からない。アルファ版の範囲では当然ストーリークリアまで公開されていなかったので、どうすればいいのかは途中からどうしても手探りになるだろう。そもそも実装されていない範囲で動いた時にこの世界はどうなるのだろうか。
「……マジか」
答えの出ない疑問を考え続けていたシラベは、最寄りの村があるはずの場所を見て思わずそんな言葉を口から零した。
荒野のオアシスとして配置されているはずの村が、燃えていたのだ。
粗末な造りの家々から黒い煙が上がり、村の中央広場では悲鳴と怒号が交錯している。村の周囲を巨大な狼に跨った騎兵たちが囲んでいた。
女ばかりの、露出度の高い野性的な装束に身を包んだ娘たち。ソロモン王の軍勢だとすぐ分かる。
アルファ版でもランダムイベントとして、村が襲撃されるというものは確かにあった。村に入った時にこれが出ると敵とのエンカウントになってしまうものだ。発生率はそれほど高くなかったはずだが、ここで引くのは運が悪すぎる。
「これはちょっと、いきなり厳しいな」
シラベはそっと引き返そうとした。気付かれてなさそうな今ならまだ、敵とのエンカウントが回避出来るかもしれない。今の初期デッキで戦うのも自殺行為だ。ボス級の指揮官が混じっていれば絶対に勝てない。撤退一択だ。
そう判断して身を翻した、その瞬間。頭上から地響きと共に巨大な影が降ってきた。
狼だ。
シラベの目の前に着地した狼の体長は、スマホの画面で見た時の想像の倍はあった。背に乗っているのは武装した女兵士が三人。シラベを取り囲むように、追加の狼騎兵が次々と現れる。あれよあれよと言う間に完全に囲まれた。
村を襲撃しながら周辺の捜索も並行していたのだろうか。シラベが村を観察しようとした事自体がまず致命的となってしまった。
「ふん、こんなところに男が一人。逃げ遅れた村人か?」
先頭の女兵が剣を抜いた。狼の上から見下ろす視線が、明らかにシラベを『獲物』として認識していた。
ここから魔術師であることを見抜かれ、そのままカードによる戦闘になる。シラベの判断は早かった。
「降伏する」
シラベは両手を上げた。デッキケースを腰から外し、どさりと地面に落とす。
女兵たちが顔を見合わせた。
「は?」
「降伏だ。戦わない。物資は全部譲る」
シラベは膝をついて、両手を頭の後ろに回した。
ミシャンドラには戦闘前にアンティを決める段取りがある中で、『戦闘前のサレンダー』のシステムがある。降伏した場合、所持アイテムは没収されるがライフへのダメージは無い。復帰後には再開位置が変わっていたり、ゲーム内日数が消費されるなどの問題があるが、ライフゼロでどんなペナルティが起こるか分からない今ではこちらのほうがマシだろう。
女兵たちは数秒の沈黙の後、剣を下ろした。
「ふん、軟弱だな。男ならせめて剣を抜けばいいものを」
「剣の心得が無いんでね」
「何? 貴様、魔術師か。まぁいい。連れて行くぞ!」
シラベの両手が縛られ、落としたデッキケースもルーン石も、衣服も全て没収されていく。荷車に乗せられる頃には粗末な麻袋のような布一枚着た姿になっていた。
複数の大型犬に綱で繋がれた貨物車の上で、シラベは大人しく座り込む。女兵たちが何事かを叫び、犬車がガタガタと動き出した。
シラベは荷台に揺られながら、内心でサレンダー後のモノローグ文章を思い出していた。ゲームでは『襲撃の混乱に紛れて逃げだした』や『何日も拘束されてようやく解放された』などの一文で済まされたものだが、どうにせよ捕まったままどうこうなることは無かったはず。
そのイベントが現実の縮尺となったとき、自分が身動き出来るのは数時間か、半日か。分からないが、それまで大人しくしていればいい。
そう、気楽に考えていた。
*
大女が、シラベの隣に乗ってきた。
犬車が走り始めて十分ほど経った頃。前方から、ひと際巨大な狼に跨る一人の女が現れて、シラベの犬車に並走するように速度を合わせた。
他の娘たちと違って装束は重厚で、肩には立派な毛皮を引っ掛けている。体格は他の娘たちの倍はあった。背丈は二メートル近く、肩幅も腰回りも常人の比ではない。明らかに上位の存在だった。
「お前か。降伏した男というのは」
大女の声は低く、腹の底に響くような厚みがあった。
「そうだけど」
シラベは首だけを上に向けて答えた。声が震えないようにしたが、効果があるかは分からない。
「魔術師か」
「一応な」
「ふん」
大女は狼から、荷車の荷台へと飛び降りた。危うい軋みを立てる荷車だが、破壊されることは無さそうだ。
主を失った狼が並走を続ける中、大女は車上でどかりと胡座をかいた。
「我はソロモン七十二姫の一人、ビム」
大女は堂々と名乗った。
「降伏した男の処分は、捕獲した部隊の長の好きにしていい決まりでな。お前の身柄は我が預かる」
ビムという名を聞き、シラベの脳が記憶のデータベースを引き出した。ソロモン七十二姫の中でかろうじてカード化されていた程度の存在だが、アルファ版で序盤に対峙させられて何度か死んだ覚えがある。ボス級の指揮官の中では下位の方だが、初期構築デッキで挑むには明らかに格上の相手だった。
今、そのボスがシラベのすぐ隣に座っている。しかも戦闘するつもりではないらしい。シラベはそれをチャンスと汲み取った。
彼女は会話が出来る存在だ。表情も豊かで雑魚やNPCなどではない、強固な人格と設定を持ったキャラクターだと感じられる。
であれば、あるいは。レヴェローズやカルメリエルの顔が脳裏をよぎる。彼女たちも交流することで色々と変わっていったのだ、この女もまた、そういう可能性があるかもしれない。
その為には、徹底的に機嫌を取る。彼女の自尊心を満たして悪感情を無くしておく。そうすれば油断と隙が生まれ、脱出のチャンスをより確実に掴みやすくなるはずだ。
シラベは表情を整え、声色を取り繕う。
「ソロモン王の娘と
「囚われの身の上で囀るなよ、魔術師。上辺だけの言葉に価値などない」
「手厳しい。だが魔術師が騙るのは当然だろ。何より、序列二十六位の姫君をこんなおべっか一つでどうこうなるなんて思っていない」
ビムはシラベの言葉に目を瞬かせ、シラベの傍に座り直してより近くに体を寄せてくる。狼の毛皮の匂いと、大女特有のむせ返るような体温が、シラベの肩越しに伝わってきた。
「我の事をよく知るようだな。九脊界に我らを知るものなどいないはずだが」
「貴方が言った通り、俺は魔術師なんだ。骨の外にいる者は多くを知ると、貴方の王も語っていた」
エインヘリヤル・クロニクルのストーリーの知識を総動員させつつ、シラベはどうにか相手の興味を買える話をペラ回していく。
「ソロモン王の娘の中でも、ビム、貴方の戦は群を抜いて素早いと魔術師仲間から聞いている。俺のような木っ端の魔術師が出会えたのは真に光栄だと思う」
「我の戦を魔術師が知るところだと?」
「勿論。戦場を駆ける狼と言えば貴方のシンボルと言っていい。魔術師たちは貴方をよく知り、畏れ、そして尊敬している」
相手の自尊心が煽れるポイントを探りながら、ビムの表情の機微を観察し続けた。褒める。讃える。少し大袈裟に。だが過剰には見えないギリギリのライン。くさいセリフを言うのは頭を使わないで助かるが、相手に合わせた口調にするのが骨だ。
ビムの軍勢の指揮の見事さ。狼を使役する技術の高さ。剣の業の鋭さ。ビムが纏う毛皮の質感、肩の力強い線、視線の鋭さ。挙げ連ねるネタは、シラベの記憶の中の小技の引き出しから無尽蔵に湧いてきた。
幸いなことに、これらの小細工は効いてくれた。ビムはどんどんと機嫌を良くし、最初はあぐらをかいて座っていただけだったのが、いつしかシラベに密着して座り、シラベの肩に太い腕を回すようになっていた。
シラベの頭の上に手が伸びてくる。
「魔術師というものを誤解していたようだ。お前のような男は我が軍勢の中にはおらん」
ゴツゴツとした大きな手のひらが、シラベの髪をぐしゃぐしゃと撫でた。
「軍勢の中の戦士はみな、筋肉と血の臭いに塗れた野獣ばかりでな。お前のように落ち着いた話のできる者は、希少だ」
「……光栄だ」
シラベは外面は落ち着いた声で返したが、内心では滝のような冷や汗を流していた。
この密着は完全に想定外だった。
ビムの手がシラベの頭から肩、肩から胸元、胸元から頬へと、撫でる範囲を遠慮なく広げていく。所有権を主張するような、ペットか玩具を愛でるような触り方だ。最初は機嫌を取るためにこの距離感を許容したが、今や完全にビムの方が積極的になっている。
これでは脱出の隙が無い。次なる標的の村が見えたと部下から報告を受けて狼に乗り直してなお、ビムはシラベとの並走をやめず手を伸ばし続けた。
ビムはご機嫌に喋り続ける。自身の生い立ち、武勲、軍勢の構成、姉妹姫たちとの確執。べらべらと喋る間も、手はシラベの体の上を撫で回し続けている。シラベは無礼にならない範囲で距離を切り替えつつ逃げずに耐える。
(ミトラに見られたら何を言われるか分かったもんじゃないな……)
シラベは引きつった心根を隠す。あの店長は年上の余裕を見せようとするところはあるが、性根のところは嫉妬深い。初対面のデカい女にベタベタと触られている姿を目撃したら、もう何を言われるか分からない。最悪、口を利いてくれなくなる期間がしばらく続くかもしれない。
まあ、それは無事にミトラと合流出来る幸運があってこそだが。いや、この世界にミトラがいるのは不幸だろうか?
「どうした、魔術師よ。何を悩むのだ」
「いや。本当に光栄すぎてどうしたものかなって」
シラベの口はかつてそうだったように、適当な言葉を吐き出し続けていた。