荷車の縁に座らさせられながら、シラベは依然として大女の手の中にいた。撫でる、肩を叩く、頭をぐしゃぐしゃとする。ビムもこういう触れ合いに慣れているわけでは無いようで、撫で方の引き出しがそれほど多くない、同じ動作が手を変え品を変えただけで繰り返されている。
シラベは愛想笑いを浮かべながら、早くこの時間が終わってくれと思うしかない。心からの祈りだった。固定客を取ることに憧れた事も無いわけではないが、いざこうして熱烈にされると困る。
辟易する時間を破るように、狼に乗った女兵が一騎駆け寄ってきた。伝令らしい。
「ビム様、ご報告です!」
ビムは手を止めなかった。シラベの頭を片手で撫でつつ、もう片方の手で女兵に手を振る。
「報告許す。早く済ませろ」
「左翼を警戒中の小隊に、戦いを挑んできた魔術師が一人いたとのことです!」
「ふん」
ビムは鼻を鳴らした。
「たかが一人だろう。そんな瑣末なことで、いちいち我の時間を邪魔するな。数の暴力で捻じ伏せておけ」
「は、はっ」
女兵は一礼して、慌てて狼の頭を返した。元の方向へ走り去っていく。
シラベはその様子を窺い続ける。単独の魔術師が軍勢に戦いを挑むという報告。シラベの記憶では、アルファ版ではそういうイベントは無い。プレイヤー以外の魔術師が軍勢と戦う場面など、本来は存在しないはずだ。
設定された追加のイベントか、あるいは自分と同様の魔術師、つまりプレイヤーか。シラベの脳の片隅に、可能性の光が灯る。
ボトムレスピットから連れてこられた誰か。ミトラか、レヴェローズか、カルメリエルか。大穴なら猫と言われそうだから無さそうだが、誰であっても朗報だ。同じ世界に飛ばされていて、生きていて、戦える状態にあるのなら。それが確認出来ただけでもこの密着の苦行に耐える価値はあった。
「荷車に乗せていては、何かと面倒だな」
その時、ビムが思いついたように言った。
「揺れて落ち着かん。お前、こちらに乗れ」
「は?」
ビムの太い腕がシラベの両肩を掴んだ。何の予備動作も無く、軽々と荷車から引き抜かれる。両足がぶらりと垂れ下がる感覚は気持ちが悪い。
ビムが跨る巨大な狼の背の上に、シラベは着座させられていた。ビムの目の前、ビムと狼の首の間に位置する形だ。
そしてビムの両腕が、背後からシラベを完全に包みこんだした。
シラベはこめかみが軽くつったような感覚を覚えた。胸の谷間にシラベの背中が深く埋まり、ビムの体温と質量とが完全にシラベを包み込んでいる。両側に回された大女の太い腕がシラベの胴の前で組まれて、逃げ場を一切残していない。
端から見れば、男なら羨むかもしれない構図。だがシラベ本人には絶望でしかない。
(これで完全に逃げ場が塞がれた)
脱出のチャンスが一気に遠のいた。
犬車の上ならまだ、混乱に乗じて飛び降りることが出来た。だがビムの腕の中に閉じ込められている今、どうしたところで抜け出ることは出来ないし、逃げるどころか身じろぎ一つも難しい。
ビムは満足げにうむと言ったあと、再びシラベの頭を撫で始めた。
「これでよし。お前は小柄故扱いやすい」
「……そりゃどーも」
シラベの口は、もう何を喋っているのか自分でも分からなくなりつつあった。
*
数分後。先ほどの伝令がもう一度、血相を変えて戻ってきた。今度は明らかに焦りの色が強い。
「ビム様、再びのご報告です!」
「またか。何だ」
「先ほどの魔術師ですが──」
伝令は一拍の躊躇を挟んだ。
「我が軍の小隊が、敗れました」
ビムの撫でる手が、止まった。
「ほう?」
大女の声色が変わった。先ほどまでの呑気な機嫌の良さから、わずかに興味の色が混じる。シラベは身体の中で心臓が一段強く打ったのを感じた。
「単独の魔術師が、多勢に無勢の状況で勝った、ということか」
「は、はい」
そこはシラベにとって驚くところではない。たしか雑魚敵との戦闘では、集団の敵が1つのプレイヤーとして扱われて戦うこともあった。森ゴキブリの大群が蠢きながらカードを動かす3Dモデルを作った担当者はちょっとどうかしているとシラベはフィードバックテキストを書きながら考えていた覚えがある。
「多少は腕が立つということか。わざわざ我らの軍勢に戦いを挑んでくるとは、よほどの理由があるのだろう。何か要求でもあったのか? 目的は何だと言うのだ」
「それが……分かりません。その子供の魔術師は決闘の間は一切口を利かず、ただ無表情で勝利したそうです」
伝令の声に困惑が混じり、シラベの背筋が、ぴくりと反応する。子供の魔術師という情報に、可能性の枝が一つ急速に太くなった。
ミトラの顔が、シラベの脳裏に浮かんだ。
「そして──決闘を終えるやいなや、逃げ出してしまったのです」
「なんだと?」
伝令の声は信じられないと言わんばかりで、ビムもまた奇妙に思っているのだろう。
ビムの腕の中で、シラベは内心で目を見開いた。
戦闘終了直後の即離脱。行動としては理解出来る。戦闘発生後に連続でエンカウントしないよう設定された無敵時間がここにもあるなら、それを利用して逃げるというのはゲームプレイヤーらしい行動だ。
「勝利したのに去っただと? 何が目的だ……」
シラベは口を開きかけて、すぐに閉じた。下手に口を出せば、ビムの興味がシラベにまた向き直ってしまう。今は黙って情報を待つ方が良い。
その時。今度は右翼側から、別の伝令が悲鳴のような声を上げて駆け寄ってきた。
「ビム様、緊急のご報告です!」
「次から次へとうるさいな。何だ」
「右翼の部隊が、魔術師から奇襲を受けました! 茂みの中から突然現れ、有無を言わさず対戦盤面を開かれて──」
シラベの頭が、急速に回転を始めた。時系列を整理する。左翼の小隊と戦って勝利、即時離脱、そして右翼に移動して別の小隊を奇襲。連続した戦闘の中で、それが繰り返されている。
可能性は二つ。
一つは、ミトラのようなプレイヤーが単独で戦闘から戦闘へと渡り歩いている場合。もう一つは──複数のプレイヤーが手分けして、軍勢を内側から食い荒らしている場合。ミトラだけでなく、レヴェローズやカルメリエルも合流して動いている可能性がある。
これを助けるためにはどうすればいい? シラベは考える。自分が思い至ったということは戰場に立つビムも可能性を検討しているはず。どちらに傾くか分からず、どちらに傾ければ襲撃者を助ける事になるのかも分からない。どう理屈を立てるかなんて軍師じみたことはカードゲーマーの考えることではない。
それなら、追い求めるのは自分のことだけ。自分の安全を考えればいい。シラベの安全とはつまり、出来る限りこの集団がシラベに向ける警戒を薄めさせること。
ビムが敵は単独ではないと認識すれば、警戒の方向を分散させる。本隊周辺の警備が薄くなれば、シラベ自身も脱出のチャンスを掴みやすくなる。
シラベは独り言の体で、ビムの耳に届く音量で呟いた。
「……二人、いや三人か?」
ビムの撫でる手が、止まった。
「何だ。今、何と言った」
「いや、別に」
シラベはすぐに表情を取り繕った。
「ただ、こうも続くなら、まだ潜む者がいてもおかしくないかもなと思っただけだ」
背中から抱かれているおかげで表情の演技が必要ないのは楽だが後押しに欠ける。その代わり、声には僅かに不安の演技を載せた。
「魔術師の連携か。それは厄介な事態かもしれんな」
ビムが舌打ちをしてから十秒ほど。周囲に呼び掛けるビムの声がシラベの頭上で響いた。
「正体不明の小バエ共に足止めされ続けるわけにはいかん! 周囲を徹底的に捜索し、怪しい気配があれば引きずり出せ!」
ビムの命令一下、本陣周辺を固めていた狼騎兵たちが一斉に散開した。狼の体躯が左右に分かれていき、本陣の周囲の森と草藪に向かって突進していく。シラベの周囲の警備が、目に見えて薄くなった。
(あとはどうにか、こいつが腕を緩めてくれれば──)
シラベが息を吐いた、まさにその瞬間。散開した護衛たちの間隙を縫うようにして、背丈の低い茂みから音もなく一人の影が歩み出てきた。
深緑のマント。小柄な体躯。その服装こそシラベの初期装備と変わらないが、シラベにとっては何よりも安堵の対象となる顔がそこにあった。ミトラだ。
シラベの胸中に形容しがたい幸福感が一瞬だけ温かく広がった。生きて、同じ世界にいてくれた。危ない目に遭わせたとは別に、それだけでシラベはホッとすることが出来た。
だがその安堵は、次の瞬間に凍りつく。
ミトラの目は勿論、シラベを見ている。ビムに抱きしめられているシラベを捉え続けている。
「……へぇ」
地の底から響くような低い声が、ミトラの口から漏れた。
シラベの全身の血が引いていく感覚があった。大女に背後からホールドされ、頭を撫でられている男。それを目撃した嫉妬深い恋人。これ以上の地獄はそうそう存在しない。
「ミ──」
名前を呼びかけて、シラベの口が止まった。今何か言ってどうこう出来るとは思えないし、ただこわい。
ミトラもまた、何も言わない。だがシラベのような恐怖のせいではない。
ミトラは怒っている。彼女の中の怒りが言語化出来る閾値を超えてしまっている。
「ふん」
ビムが、ようやくミトラの存在に気づいたように笑った。大女の腕がシラベを離し、狼の背から飛び降りる。
地響きが立つ中、シラベはようやく喉を震わせた。
「ミトラ、待て。逃げろ。こいつは幹部クラスだぞ、初期デッキじゃ勝てねえ」
あるいはビムに睨まれかねない言葉であっても言わなければならない。ミトラが怒りの矛先を単に向けるだけで挑むには危険な相手だ。
しかしミトラは逃げる素振りを一切見せない。それどころかシラベを見据えて言い放つ。
「なに。あんた、その女を庇うの?」
地の底から響くような声に底冷えするような温度が加わり、シラベの背骨に氷柱が突き刺さった。ミトラを敵から守るためにいう逃げろが、ミトラの耳には、庇っているように聞こえているらしい。
シラベは反射的に首を全力で横に振った。首が千切れるかもしれないほどの勢いで左右へ振り、身の潔白を訴える。
「違う! 違うぞ! 俺はお前を心配してるだけだ! こいつを庇ってるんじゃない! むしろ早く誰か来てくれって思ってた!」
息継ぎも忘れて言い募るシラベを、ミトラの目は一切捉えなかった。
既にミトラの視線はビムに固定されたまま、シラベの言葉を完全に無視している。シラベが何を言っても、今のミトラの耳には届かないだろう。言い訳のチャンスが既に過ぎてしまっていることをシラベは悟った。
「このような子供が魔術師だと? 否、年で判断するものではないか」
ビムは腰に下げた巨大な剣を地面に突き立てる。大きなその手は剣の柄から離れ、別の場所に伸びた。
自身の胸の谷間に手沈み込ませたビムは、そこからデッキケースを取り出した。
「命を削る道具に頼る兵卒どもと我を同列に考えるな。我は父祖たる王より、魔術師としての戦い方は心得ている」
ビムは堂々と胸を張った。
「我はソロモン七十二姫の一人、ビム。生まれは父祖たる王の二十六位の娘として──」
ビムの口上は途中で止まった。ミトラがそれを完全に無視して、デッキを空中のホログラムへと展開していたからだ。
空中に対戦盤面が現れる。ビムの口上が宙に浮いたまま、続きを口に出すきっかけを失っていた。
ビムのライフ表示が点灯する。30点というボス仕様のライフは下位ボスとはいえ、ソロモン七十二姫の名は伊達ではない。
相対するミトラのライフ表示も同時に点灯し、シラベの目が点になった。
89と記されたそれはストーリーモード初期値の5でもなければ、通常ルールの20でもない。一つ上の桁にも届きかねない異常な値が、ミトラの傍に燦然と輝いている。
「……お前」
シラベは絶句しつつも、脳が急速に状況を整理した。ライフ引継ぎのストーリーモードで、ライフが本来の十倍以上に膨れ上がっている。これが意味するのは、ミトラが既に村に到達し、魔法店で何らかの補強を行ったということ。具体的には、ライフゲインのコンボを組み込んだデッキを構築したということ。
そして道中で軍勢の雑兵たちを狩りながら、その戦闘の中でライフを回復し続けてきたということ。連続した戦闘の報告。あれは軍勢を破壊するための襲撃ではない。回復のための狩りだったのだ。
絶対に勝つという保証は無いと言うのに、どこまで自信があってそんなこと出来たのか。
「面白い。受けて立とう」
ビムがようやく口上を打ち切る踏ん切りがつき、不敵に笑った。
ミトラは、ビムの言葉に反応しなかった。代わりに、ミトラの視線がほんの一瞬、シラベを捉えた。
次の瞬間、再びビムへと戻った。
その目線の動きが、シラベには一つの宣告のように感じられた。
(その大女を倒した後、お前にも聞きたいことがある)
シラベの気力が、戦闘以前の段階で既に折れかけていた。