極論を言えば、エインヘリヤル・クロニクルというカードゲームは、自分のライフをゼロにされなければ勝てるゲームである。
もちろん、特定の条件を満たせば問答無用で勝利する特殊勝利カードというものは存在する。デッキ切れによる敗北というルールもあれば、ライフとは違うダメージの積み重ねによる敗北だってある。だが、そういった一部の例外を除けば、お互いのライフを削り合って先に相手をゼロにした方が勝つという基本原則から逃れることはない。
雑魚敵のライフが5から10程度に設定されている中、ボスとして設定されているビムのライフが30もあるということは、ライフの数値というものがこの世界において強さや勝ちにくさと直結していることを示している。
つまり。現在進行形でライフ89を持つミトラに、ビムが勝てないのは当然の帰結だった。ゲーム内の基準で言えば、ミトラはボスであるビムの数倍の強さを誇る存在になっているのだから。
ビムの乗騎である巨大な狼の上から、シラベは眼下で繰り広げられる一方的な蹂躙を眺めていた。
ミトラの盤面には光属性の生命体『隠れ潜むサキュバス』が複数体並べられていた。妖艶な姿の悪魔は「フィールドに生命体が出る度に、ライフを1点回復させる」という能力を持っている。
対するビムは、小型生命体の
ビムのデッキは多くの生命体を並べる横展開の構築だ。通常であれば、その数の暴力がもたらす圧力は尋常ではない。並のプレイヤーなら数ターンで押し潰されて終わる。
だがここはその通常とは外れた盤面を強要される世界で、相手はミトラだ。その分厚い攻撃をすべてライフという巨大な壁で受け止めていた。
さらには、ビムが生命体を盤面に出すたび、ミトラの場にいる4体のサキュバスの能力が誘発する。ビムが軍勢を1体展開するごとに、ミトラのライフが4点回復していくのだ。ビムが攻撃の手を緩めず仲間を呼べば呼ぶほど、削った以上のライフがミトラに還元されるというシステムが完成していた。
そしてビムのデッキには対空手段──飛翔を持つ生命体が少数しか採用されていなかった。正確に言うなら呪法による付与がなされるものの、ミトラの扱っている光属性は呪いの除去を得意としている。巻き返しの可能性があったカードはあっけなく破壊されてしまった。
地上でどれほど筋肉の鎧を纏った野獣が吠え猛ろうと、空を飛ぶインキュバスやサキュバスたちには届かない。ミトラの軍勢は悠然と空から舞い降りてはビムの30点あるライフをちくちくと確実に削っていった。
そのまま。劇的な逆転のカードが切られることもなく。じわじわと生命力を吸い尽くすように、ミトラは一切の焦りを見せず、ビムのライフを削り切った。
*
空中のホログラムが光の粒子となって砕け散り、展開されていたカードたちが束になって各々の元へと戻る。
魔術師としての障壁を失ったビムは、ドスンと重い音を立てて片膝をついた。全身から力が抜け、荒い息を吐いている。ライフゼロによるシステムの反動か、もう立ち上がる余力すら残っていないようだった。
「……見事だ」
デッキの相性、ライフ差、諸々文句を言える部分はあるはずだが、ビムは自分を打ち負かしたミトラを真っ直ぐに見据え、称賛の言葉を口にした。
そして戦場の習いだとでも言うように、地面に突き立てていた巨大な剣を引き抜いてミトラの足元へと投げ出した。ガキン、と重い金属音が響く。
「宝が欲しければ、我の首を刎ねよ。我が肉体が財宝へと変ずる。知恵が欲しければ、我の胸を刺せ。その血が貴様に知恵を与える。勝者の権利だ」
命を差し出す潔い宣言に、シラベは目を見張った。だがすぐに、アルファ版でのシステムを思い出す。その辺の雑魚敵は倒せばアイテムを落としてそのまま消えるだけだったが、ボス級の敵を倒した際にはプレイヤーに選択肢が提示された。
倒した報酬に加えて、レアカードをさらに要求するか、それともマップに点在するダンジョンについての情報を引き出すか。その二択だ。
ゲームの画面上では単なるテキストの選択肢に過ぎなかった。しかし現実と化したこの世界では、その報酬を得るための過程が、どちらを選んでも命を絶って奪うという血生臭い行為に変換されている。
勝てばただ相手が倒れるだけというものと異なり、自分の手で選択させようとするあまりに生々しい宣告に対して、ミトラの反応は薄い。
彼女は足元の剣を一瞥すらせず、ビムを完全に無視してシラベの乗っている巨大な狼へと歩いていく。
「じゃあこれ貰うから。他はいらない。あんたは早くどっか行って」
拍子抜けするほど軽い声にビムはぽかんと口を開け、数秒遅れて顔を怒りに染めた。
「我に、情けをかけるつもりか!」
「別に。足が欲しいだけで、あんたの首なんて取る必要ないし。それとも勝者の言う事が聞けないの?」
ミトラはそう言いながら、狼の鼻先を撫でた。狼は突然撫でてきた小柄な少女に困惑したように耳を伏せるが、主に勝った相手であると理解しているのか、ミトラの手を振り払おうとはしなかった。
ビムは屈辱に唇を噛み、沈黙した。やがて全身の残された力を振り絞るようにして、ゆっくりと立ち上がる。
ビムは地面に落ちていた己の剣を拾い上げ、入れ墨が刻まれた自らの左手を迷うことなく切り落とした。鮮血が舞う。
「なっ……!?」
いきなりの自傷行為にシラベは悲鳴を上げかけた。だがミトラは眉一つ動かさず、ただ冷ややかな目でその光景を見る。
ビムは痛みに顔を歪めながらも、切り落とされた手をミトラの足元へ蹴りやった。
「魔術師であれば、この手から狼の主たる証を移植する程度は造作もあるまい」
荒い息を吐きながら、ビムはミトラを鋭く睨みつけ、そして狼の上のシラベに視線を移し、何かを言いかける。だが小さく頭を振ると、改めてミトラを正面から見据えた。
「次は負けんぞ、魔術師」
ビムは懐からスクロールのようなものを取り出すと、光に包まれてその場から姿を消した。空間転移のアイテムか何かだろうか。
戦いの途中から集まっていた周囲の狼騎兵たちも、主を失ったせいか恐れをなして一斉に逃げ去っていく。
*
「はい、じゃ手入れて。こっちで保存してから転写するから」
ミトラの腰に下げられたデッキケースの蓋がパカパカと開いてアピールをしてそう言い、ミトラは地面に転がっていたビムの左腕を言われるままに飲み込ませた。嫌な咀嚼音が響いた後、ミトラは自らの左手をデッキケースの中に突っ込む。
「……噛まないでよ」
「まさか、歯なんて立てないって」
ミトラが気分の悪そうな顔で手を差しこんでから十数秒後。引き抜かれたミトラの手の甲には、ビムと同じ狼の意匠の入れ墨が浮かび上がっていた。
それらの名状しがたい処理が行われている間、シラベは狼の背に乗ったまま、どう話を切り出すべきか必死に迷っていた。
シラベがどうしてビムと密着するように座り、あんなにベタベタと触られていたのか。その説明と弁明をしなければならなかった。それに、ミトラの腰にあるデッキケースがなぜ生き物のように動き、しかも中から聞き覚えのある白髪のろくでなしの声が出ているのかなど、気になる点は山ほどある。
だがそういう情報を共有する前に、戦闘を終えてなお一言も話しかけてこないミトラに対して、どういう第一声を放つべきなのか。というか自分から声を掛けていいのか。
沙汰を待つ罪人の気分でいればいいのか、白々しい甘言をまだ吐けばいいのか。考えれば考えるほど正解が分からなくなっていく。
シラベが冷や汗を流しながら悩んでいると、不意に、乗っていた狼がぐるんと体勢を横に崩した。
「うおっ!?」
犬がリラックスした時に見せるような、ごろんと寝転がる仕草。だが背中に乗っている人間からすればたまったものではない。
手で縛られたままのシラベは受け身も取れず、狼の背中から転げ落ちて地面に背中を強打した。
「ってて……」
どうにか身体を揺すって立ち上がると、ミトラが言う事を聞いたらしい狼の頭を撫でていた。ごろんと寝転がった巨大な狼は、新しい主となったミトラにすっかり懐き、ぶんぶんと尻尾を振っている。
シラベは痛みに耐えながら、咄嗟に口走っていた。
「お前、まず乗ってる人間に何か言えよ!」
言ってから、しまったと思った。もっと他に言うべき謝罪や弁明があっただろうに、悪態が先に出てしまった。
「私の狼だもの。勝手に乗ってる方が悪いでしょ」
だが、シラベの危惧とは異なりミトラはあっけらかんと言い返す。ふふん、と笑うミトラ。先ほどまでの殺気じみた無表情はどこにもない。いつも通りのひねくれた店長の顔がそこにあった。
シラベは痛む背中を伸びたり縮めたりでごまかしながら、その気味が悪いほどのいつも通りさに困惑する。
「お前……怒ってるんじゃなかったのか?」
「怒ってたし、今も怒ってる」
即答にシラベの背筋へ再び氷柱が刺さる。
しかしミトラは狼の腹側に回り込み、もふもふとした腹毛をわしゃわしゃ撫で回しながら、面倒くさそうに言葉を継いだ。
「怒ってたらあんたに怒鳴り散らしたり詰め寄ったり泣いたりしなきゃいけないの? 私いま、もうすごく疲れてるんだけど」
めんどくさいという心を一切偽らない物言いに、シラベは唖然とした。
ヒナタであれば、ここから一時間はねっとりとした尋問が続いただろう。レヴェローズであれば喚き散らして暴れたに違いない。カルメリエルは想像したくない。
ミトラであればここからマウントポジションを取られて容赦なく鉄槌を浴びせてくると思っていた。この35歳児はスタミナは無いが短時間であればそれなりに暴れてくれる。
だがミトラの反応は、シラベが思っていたものとあまりに違う。シラベはどう対応すればいいのか完全に迷子になっていた。
シラベが固まっている間に、ミトラはとてとてと歩み寄り、シラベの手を縛っていた縄をどこから拾ってきたのか、ナイフで無造作に切り裂いた。
自由になった手をさするシラベの腕を、ミトラがぐいと引く。そして、寝転がっている狼の腹の前にシラベを移動させた。
「座って」
「え、あ、はい」
言われるがまま、シラベは狼の腹を背もたれにするようにして座り込んだ。自分よりも大きな生き物にもたれかかるのは自分が矮小な存在になったような気がして少し落ち着かないが、柔らかい毛と暖かさが警戒心を溶かしていく。
シラベが座ったのを見届けたミトラは一つ頷くと、腰に付けていたデッキケースを狼の頭の方にぽいと投げ捨てた。悲鳴を上げながら宙を舞うデッキケースは狼の口にキャッチされ、くぐもった音を鳴らしている。
「お、おい」
呆気にとられるシラベの膝の上をミトラは跨いで、正面からすとんと座り込んできた。
ミトラの細い両腕がシラベの胴体に回され、小さな頭がシラベの肩に乗る。座るというよりは、貼り付くような体勢へと変わっていく。
「怒る元気が欲しいから、ちょっと休憩させて」
シラベの肩に顔を埋めたまま、ミトラがくぐもった声で言った。そのままぐりぐりと顔とも額ともどちらともを擦り付けていき、指は震えるほどにシラベのあちこちを掴んだり撫でたりと忙しない。
その動きに込められた想いを浴びながら、シラベは小さく苦笑を漏らした。休憩などと言ってはいるが、そんな風に体を強張らせていれば休めるわけがないだろうに。思わずシラベは膝を少し立てて、ミトラの体を押し上げるように支えてしまう。
「怒られるって分かってるのに、なんで俺が元気づけてやらなきゃいけないんだよ」
口ではそう悪態をつきながらも、甘えてくるミトラの背中にシラベは腕を回した。マントの内側、触り慣れない衣服の上から背を撫でる。そのまま襟元まで手を伸ばしていき、服の境で露出している首元の背筋に指を這わせた。
膝で尻を押し上げられ、背を撫でられ、首筋をなぞられたミトラは少し身を固くしたが、すぐに身を委ねて全身の力を抜いていく。
ふと、シラベはようやくミトラの体温に気付く。ミトラが着けたマントのお陰で熱がこもったせいだろうか。背もたれになってくれている狼のおかげでもあるだろう。冷たかった小さな指が、すっかり温くなっていた。
温かい。シラベの知る温度がそこにある。腕の中のこの温もりだけは、ボトムレスピットでの日常と何も変わらない。小さく、時折震えて壊れそうで、だが折れない愛する人がここにいるのだと、シラベはようやく実感することが出来た。