夕暮れ時。ボトムレスピットの前で、根巻マナブは立っていた。
前回は定休日を忘れていたものの、今日はしっかりと確認してきている懸想しているシスターの胸を拝みに行くという、不純極まりない欲望を満たすべく万全の準備を整えてきたというのに、目の前にあるのは無情にも閉ざされたシャッターだ。営業時間なのは間違いないというのに、断り書きの一枚もない。
「なんだよ、商売やる気あんのかこの店」
マナブは歯噛みし、シャッターに寄り掛かる。SNSアカウントでも開設していないかと思い軽くネットで検索してみるが、ブログが一つ見つかるだけ。そこにも休みの掲示は無い。
「せめて店員の写真とか……うおっ!?」
何の気なしに愚痴を言ったその時。店の中から微かな音が聞こえた気がして、マナブはシャッターから身を離した。
なぁお、と。猫の鳴き声だ。それも猫を知らない者でも不安になるような、ひどく心細げでかすれた声。
開かない店に、猫の鳴き声。嫌な想像が加速する。
「中に猫放置してんのか? ヤバいじゃん」
「──そこで何をしている」
マナブがシャッターに耳をそばだてていると、低く、冷ややかな声が動きを制した。
振り返るとそこには、長身の女が立っていた。仕立ての良いパンツスーツを身に纏い、アッシュグレーの髪を揺らす美女。ボトムレスピットの店内で何度か見かけたことのある女だと、マナブは認識している。
纏っている空気は語気の通りに剣呑で、通行人も目を伏せて通り抜けていく。そんな中、マナブのセンサーはそうした危険信号よりも下半身の欲望に直結して作動する傾向があった。
「あっ、何度か店で会ってますよね、どうもどうも」
マナブはヘラヘラと笑いながらヒナタに歩み寄る。この人はいつも店では子供や店員と絡んでいて隙が無かったが、今ならいける。美人なお姉さんと言葉を交わせるチャンスを逃す手は無い。
「いやー、参りますよね。こんな小さな店なのに、休みの表示も出さないとか終わってますって。待ってる客の身にもなれって話っすよ。あ、そうだ。どうせ店開かないんなら、俺と一緒に隣町のカードショップ行きません? あっちの方が品揃え良いし、俺結構強いんで色々教えてあげ──」
「すまないが、君に興味は無い」
ヒナタの声がマナブの軽口を切り裂く。取り付く島もない物言いにマナブは眉根を寄せるが、すぐにそれを解すことになった。
ヒナタの顔には微かな感情の波一つ立っていない。声も穏やかだった。だが目だけが、マナブが今まで見たどんな大人の目とも違った。亀裂の走った氷の奥底を覗き込んでしまったような、ひどく冷たい殺意が今にも滲み出ようとしていた。
ヒナタはふっと口角を上げた。形だけは笑みのようだったが、それが威嚇に近いものだと鈍いマナブでも気付く。
「立ち去ってくれないかな。今、忙しい」
第一声と比べれば、むしろ優しさすら籠っている言葉だった。だがその裏に込められた圧力にマナブの生物としての本能が警鐘を鳴らした。中学一年生のマナブには言語化出来ない種類の威圧だったが、この女はヤバいという事だけは理解した。
「あ、いや、サーセン……」
マナブは引きつった笑いを浮かべながら後ずさりし、そのまま脱兎のごとく商店街の雑踏へと逃げ去っていった。
邪魔を追い払ったヒナタは閉じたままのシャッターを一度見てから、ボトムレスピットの裏口へと続く細い路地へ足を踏み入れた。
普段ならもう少し愛想良く追い払えるはずだった。だが今のヒナタには、その余裕がない。
ヒナタの胸中には、焦燥と苛立ちが渦巻いていた。
おもちゃ屋『ボトムレスピット』のシャッターが下ろされたまま三日経つ。シラベたちからの連絡が途絶えて三日。
定休日でもないのに店が開かない。個人経営の店では店主の体調不良などで臨時休業になることは珍しくはないが、それにしても何の張り紙もなく、ブログやSNSでの告知すらないというのは奇妙だった。
店が一日開かないというだけであっても、それは異常だとヒナタは確信していた。確かに愛しのミトラは怠惰で最低限の生き方しかしないような存在だが、それでも店についてはその最低限の生き方に含まれる物事だ。
それに今はシラベも、レヴェローズも、カルメリエルもいる。店長一人どころか他の二人がボイコットしても、残り一人で回そうとするような人材が揃っている。ミトラだけの問題でないのは明らかだ。
それが、三日間。ヒナタが出張を余儀なくされていた間、店は開かず、誰の電話にも繋がらない。何らかのっぴきならない異常事態が起きている。
あらゆる予定をあらゆる手で押し退けた上でヒナタはここにいた。行動を起こすまでに三日という遅れを生じさせてしまったことが、どれほどの損失かは分からないが、これ以上の失態を犯すことを、ヒナタは自分自身に許さなかった。
路地を曲がると、裏口の前に二つの人影があった。
「──だから! 中でおーちゃんが鳴いてんだって! 絶対なんかあったに決まってるだろ!」
「キリメ姉、落ち着いてよ! 気持ちは分かるけど、勝手に扉こじ開けたら不法侵入だってば! とりあえず警察を呼んで──」
兼定キリメと、橋谷クモン。キリメは裏口のドアノブをがちゃがちゃと力任せに揺すっており、クモンが後ろから彼女の服を引っ張って必死に止めている。
「やあ。君たちも様子を見に来たのかい」
ヒナタが声を掛けると、二人が弾かれたように振り返った。
「ヒナタさん! ちょうどよかった。ボトムレスピット、なんの通知もなくずっと店閉めてるなんてありえないっすよ! おーちゃんも中に取り残されてるみたいだし、一緒に扉開けるの手伝って──」
「やめなって、キリメ姉! ヒナタさんも止めてくださいよ、コレ本当にやらかすから!」
「コレってなんだクモンやんのかオラ!」
必死に常識を説くクモンに掴み掛かるキリメ。そんな二人をよそに、ヒナタは涼しい顔で裏口の扉に歩み寄った。
言い争っている横でヒナタは懐から流れるような動作で細い金属の棒──愛用のピッキングツールを取り出すと、迷うことなく鍵穴に差し込んだ。
カチャリ、と。ものの数秒でシリンダーが回転する音が路地に響いた。
「よし、開いた」
ヒナタはドアノブを回し、何事もなかったかのように扉を押し開ける。
そのあまりにも自然で堂々たる犯行に、キリメとクモンは言い争いを止めざるを得ない。
「……えっ。今、なにしたんすか?」
キリメが震える声で尋ねる。
「ん? ああ、鍵を開けさせてもらっただけだ。心配ない、鍵の機能は傷付けていないから器物損壊にはならないはずだよ」
「そういう問題じゃねえよ! アンタいまさらっとやったけどそれ完全にプロの手つきじゃんか!」
「さあ、入ろうか。ミトラたちの安否が最優先だ」
ヒナタはキリメの言葉を無視して我が家のようにずかずかと店内へ侵入していく。キリメとクモンは顔を見合わせ、おっかなびっくりその後を追った。
店内の電気は点きっぱなしで、空調も動いている。人の気配だけが欠落していた。
空虚な空間の中で一つ。デュエルスペースの中央の長机に、黒い影がうずくまっている。
「んんんるるるるぅぅぅぅ」
大穴だ。普段のふてぶてしい態度はどこへやら、時折爪とぎをするように机の表面をカリカリと掻きながら、ひどく寂しそうに鳴いている。
「おーちゃん!」
キリメが駆け寄り、大穴を抱き上げた。大穴はキリメの腕の中にすっぽりと収まり、すりすりと顔を押し付けて甘えるように喉を鳴らす。
「よかった、無事だった。ほら、食べ物あるから。……店長たちどうしたんだよ。おーちゃん置いてどっか行っちゃったのか?」
キリメが懐から出した液状おやつの袋の封を切って大穴に与えている中、ヒナタはクモンに向き直って指示を出した。
「クモン君。二階の居住スペースを確認してきてくれないか」
「えっ、ぼ、僕がですか? なんか怖いんですけど……」
「頼む。私は一階の状況を調べる」
ヒナタの有無を言わせぬ圧に押され、クモンはビクビクしながら二階への階段を上っていった。
ヒナタは大穴がいた長机の方へ視線を向ける。そこには店で使われている古いノートパソコンが置かれていた。画面はスリープモードで暗くなっている。
ヒナタは迷わずキーボードを叩き、スリープを解除した。表示されたパスワード入力画面に対してヒナタの指は淀みなく特定の文字列を打ち込む。ッターンとエンターキーを叩くと、一発でロックが解除された。
「なんでアンタ、店のパソコンのパスワード知ってんの」
「愛する者の日常を守護するためには、あらゆる情報へのアクセス権が必要だからね。基本だよ」
「一般人の基本に帰ってきてくれよ……」
ドン引きするキリメをよそに、ヒナタは画面の表示を確認する。ブラウザが開かれたままになっていた。表示されているのは動画配信サイトのページ。配信者の名前は『アイラバ☆モヒニ』。枠のタイトルには『ECe配信記念特番!』と書かれている。
ヒナタの眉が寄った。
ECe──『エインヘリヤル・クロニクル〈エリューズニル〉』。三日前に正式サービスを開始したアプリ。シラベたちはここでこの配信を見ていて、おそらく配信に合わせてアプリをスタートさせていたのだろう。
だが、ただゲームを遊んでいただけなら、四人揃って神隠しのように消える理由がない。配信者が何らかのトリガーになったとは考えにくいが、コンタクトを取ってみるべきか。他の情報を求めてキーボードを叩くが、店の帳簿やブログの管理、小説投稿サイトのアクセス程度しか出てこない。
「くっ……。やはり店内に仕掛けておいた監視カメラを全部撤去されてしまったのが悔やまれる。また付け直しておけば、彼らが消えた瞬間の映像が残っていたものを……!」
ヒナタが本気で悔しそうに拳を握りしめて呟くのを聞き、キリメは抱いていた大穴を思わず強く抱きしめた。
(やっぱこの人、ガチでヤバい人だ……深く関わっちゃダメな人だな……)
そんな中、二階へ行っていたクモンが階段を駆け下りてきた。
「誰もいないです! 二階の部屋も、布団とかそのままだけど、もぬけの殻でした!」
「どうすんだよ、これ。マジで警察呼ぶしかないんじゃないか?」
クモンの報告にキリメは困惑の声を漏らした。するとキリメの腕の中にいた大穴が、するりと器用に抜け出した。
大穴は長机の上にトンと着地すると、ヒナタの真正面にちょこんと座り直した。そしてヒナタの目をじっと見つめながら、全身を力ませるように震わせ始めた。
「お、おい、おーちゃん? どうした? 毛玉でも吐くのか?」
キリメが心配そうに覗き込む。んーっ、と力む大穴。暫くすると毛むくじゃらの腹部が奇妙に波打ち、そこからにゅっと何かが押し出されてきた。
「うわぁっ!?」
「ひぃっ!?」
異様な光景に、キリメとクモンが同時に悲鳴を上げて後ずさる。ヒナタは臆することなく、その様子を見守った。
そのまま猫の毛を掻き分けながら、およそ隠せるわけがないものがどんどん姿を露わにしていく。
大穴の身体から完全に吐き出されてカタン、と机の上に転がったのは、白いスマートフォンだった。
ヒナタは手に取り検分する。それは紛れもなく、シラベが使っていた古い型のスマートフォンだ。それがなぜ大穴の体内から出てくるのか。
大穴は前足で、そのスマホをぺしっ、ぺしっと叩き、ヒナタに何かを訴えかけるようににゃあと鳴いた。
「これが、いや、スマホが原因とでも言いたいのかい」
ヒナタはレジ横に伸びていた充電ケーブルを引き寄せ、バッテリーが切れていたスマホに接続した。画面が白く光り、起動のロゴが表示される。
再びパスワードの入力画面。ヒナタはこれも当然のように息をする感覚で突破した。彼女にとって、愛する男のセキュリティなど存在しないも同義だ。
表示されたホーム画面を見て、キリメが横から声を上げた。
「これ、ECeのアプリか? なんかアタシらがインストールしてるやつとアイコンのデザインが違くないか?」
キリメの指摘通りだった。そこにあったのは、正式リリース版のアイコンではない。
「……エリューズニルのアルファ版だ。あの男は……契約書には消せと書いてあったはずだが、記念にでも残していたのか。まったく」
ヒナタは深く溜め息をついた。テスト終了後にスマホを確認することは無いためテスターが自主的にやらなければならない筈だが、こういう微妙に緩いところは年齢故の浅はかさと言うべきなのだろうか。
念の為、ヒナタはアルファ版のアプリを起動させるが、既にテストサーバーは閉じており通信不可の表示が出るだけだ。
PCの配信画面。スマホを訴えかける大穴。エリューズニルが関わっているのは間違いない。だがそこから先が繋がらなかった。いくらか精霊というオカルトに触れてきたとはいえ、ヒナタの頭はそちら方向には相変わらず疎い。
ヒナタは大穴を両手で掴み、ぐわんぐわんと激しく揺さぶり始めた。
「おい、大穴! 君はこの事態の顛末を見ていたのだろう! 君は無口だが一応喋れたはずだ。さっさと元の姿に戻って、何があったのか説明したまえ!」
「んぎゃぎゃぎゃぁ!?」
突然の凶行に大穴が目を回して鳴き声を上げる。
「ちょ、ちょっとヒナタさん! 落ち着けって! 猫に何言ってんだよ!」
キリメが慌ててヒナタを止めに入った。ヒナタの腕に掴みかかり、大穴を取り返そうと揉み合いになる。
「離したまえ! この猫はただの猫じゃないんだ、どうにかして口を利かせるようにしないと!」
「意味わかんねえよ! 動物虐待だぞ!」
ヒナタもキリメも体格が恵まれているため、二人の騒ぎは並みの大人でも躊躇する迫力がある。打撃こそ出ていないものの、互いに込められている力は尋常ではない。小柄な小学生であるクモンは離れた場所で二人の大人の言い争いを見守るしかなかった。
ヒナタとキリメが激しく引っ張り合った、その拍子だった。
勢い余って、ヒナタの手から大穴がすっぽ抜けた。
「あっ」
放物線を描いて宙を舞う黒猫。その空中の中ほどで、大穴の身体がビクンと跳ねた。
「げぷっ」
大穴の口から、一枚のカードが吐き出される。
宙を舞うそれが呪法カード『猫変化』である事を、クモンは辛うじて読み取れた。
瞬間。空中にあった黒猫のシルエットが黒い靄のようなものに包まれ、急速に膨張し、形を変えていく。
そして大穴が落下した地点には、運悪く立ち尽くしていたクモンがいた。
「えっ──」
ドスン、と。鈍い音とともに、クモンが床に押し潰される。
「クモン! 大丈夫か!」
キリメが慌てて駆け寄った。だが、そこで彼女の動きは硬直する。
床に倒れたクモンの上に乗っかっていたのは、黒猫ではなかった。
漆黒の肌。腰まで伸びる長い黒髪は、頭頂部に二つの寝癖がある。ボロ切れのような衣服を纏った、小柄な体躯。そしてその体格にはおよそ不釣り合いに大きな胸。
キリメがどこかで見た覚えのあるその少女が、四つん這いのような体勢でクモンの上に乗っかっていた。
悲惨だったのはクモンである。彼の顔面は漆黒の少女の豊満すぎる双丘の間に完全に埋没し、潰れた蛙のような姿勢でピクピクと痙攣していた。
「えっ……は、あぁ……?」
意味のある言葉を考えられないキリメが見守る中。少女はクモンを圧し潰したまま、きょろきょろと周囲を見回す。
「……にゃあ」
少女の声でわざとらしく呟かれた言葉が店舗に響いた。