兼定キリメは自分の膝の上を見下ろしたまま、どうしたものかと固まっていた。
デュエルスペースの長机。そこに用意された椅子に、三人はそれぞれ腰掛けている。キリメの向かい、机を挟んだ対面ではヒナタがスマートフォンを持ち、黙々と何かを打ち込んでいる。キリメの隣にはクモンが座り、やけにそわそわと身じろぎしていた。
そして、キリメの膝の上。そこには、漆黒の肌に黒髪の少女が乗っかっていた。
頭頂部にぴょこんと跳ねている、三角形に見えなくもない二塊の寝癖。ボロ切れのような衣服を申し訳程度に纏った小柄な体躯。そのくせその身に余るほど豊かに実った双丘が、キリメの体にむにゅりと押し付けられている。
「んー、んなん」
少女──店の黒猫だったおーちゃんこと大穴は、ぐりぐりと頭をキリメの鎖骨のあたりに押し付けていた。
両腕をキリメの胴にしっかりと回し、撫でて、撫でて、と要求しているのが嫌でも伝わってきた。
(やってる事は、まんま猫なんだよなぁ……)
キリメは内心で唸った。
恐る恐る、大穴の黒髪に手を伸ばす。指先で梳いてやると、大穴は喉の奥からるるると鳴らしながらも息を漏らし、さらに体重を預けてきた。
最初の内は、キリメも素直に撫でてやっていたのだ。あまりにも常識外の出来事が起きてしまい、頭が働かないままに乞われた事をやっていた。
だが撫でれば撫でるほど、嫌でも意識が膨らんでしまう。
(こいつが……アタシがこの店来るたびにモフってた、あのおーちゃんなんだよな)
ボトムレスピットに来るたび、シラベの肩やカウンターで丸まっていたあの黒い毛玉。撫でれば撫でるだけ蕩けていくあの猫。それが今、人型となって自分の膝の上で甘えている。しかもキリメですら直視に困る、たわわな体つきで。
「うにゃあ」
大穴が嬉しそうに鳴いて、つむじをぐりっと擦り付ける。その仕草は猫の頃と寸分変わらず可愛らしいものだから、キリメの頬がじわりと熱を持った。
その上、隣のクモンの視線がいちいち気になる。ちらりと横を盗み見れば、クモンは耳まで真っ赤にして、明後日の方向を見ようと必死になっていた。それでいて、視界の端では確実にこちらを捉えている。
(……まあ、そりゃそうか)
キリメは妙に居心地が悪くなる。隣で自分の知り合いが見ず知らずの少女と抱き合っているのなんて、傍から見れば相当に据わりの悪い構図だろう。思春期入りたてのクモンには目に毒だが、ここであっち向けと直接的に言うのも何か違う気がする。
クモンにそう見られているという考えがキリメの意識を掠めた途端。キリメの心臓は痛いほど跳ねた。
「あーもう! はい! もうおしまい!」
羞恥が限界を迎えたキリメは、大穴の脇に手を入れてひょいと膝から下ろした。猫のときと同じ要領だったが、人型でも妙に軽いのが不気味だ。
「……?」
その行動が理解出来ないとばかりに首をひねる大穴。だが、すぐに不服そうに眉を寄せると、今度はしゃがみこんでキリメの太ももにぽすんと頭を乗せてきた。撫でろ、という催促なのは間違いない。太ももに頬を擦り付けてくる感触にキリメの肩がびくりと跳ねた。
「……アタシはもう疲れたから。な? 勘弁してくれって」
恥ずかしさを誤魔化すように、キリメはわざとらしく腕をぐるぐる回して見せる。あしらわれた大穴はむっと頬を膨らませた。
そして、きょろきょろと店内を見回す。空いている椅子がいくつもあるというのに、それらには一切見向きもしない。
代わりに、その星屑のような瞳が捉えたのは──。
「えっ」
キリメのすぐ隣で、ひときわ小さく身を縮めていた男の子だった。
大穴はぴょこんと立ち上がると、迷いのない足取りでクモンの元へ歩み寄り、その膝の上にすとんと腰を下ろした。
「ひゅぁ」
クモンの口から声にならない悲鳴が漏れたのを無視して、大穴はぎゅうっと正面から抱き着く。
クモンは目を見開いたまま両手を中途半端に宙に浮かせ、完全に石化していた。同じ程度の背丈とはいえ破廉恥な恰好かつ体つきの少女にいきなり抱きつかれて平静でいられる小学生がいるはずもない。
「ちょ、おい、何やってんだおーちゃん!」
キリメは慌てて立ち上がった。大穴の腰に腕を回して引き剥がそうとするが、大穴はがっちりとクモンにしがみついて離れない。
「うにゃー」
大穴は構わず、撫でて欲しくてクモンにぐりぐりと全身を押し付け続けた。ボロ切れ越しの双丘がクモンの上へ下へと暴れ回る。
「降りろっつの非実在青少年! 条例違反!」
「しゃー。ぐるるる」
唸り声を上げて抵抗する大穴。引き剥がそうとするキリメ。痙攣するクモン。三人が長机の脇でわちゃわちゃと揉み合う。
「──ふぅ」
そんな対岸の火事に一切の意識を割かないまま、ヒナタが一息吐いて顔を上げた。スマホの画面を伏せ、ようやく一段落ついたらしい。キリメはその気配に、揉み合いの手を止める。
結局のところ、大穴を最も平和的に引き剥がす手段は、キリメ自身が引き取ることだった。キリメは観念して大穴を後ろから抱きかかえる体勢に落ち着く。膝の上に戻された少女は抱き手が戻ったことにそれなりに満足したのか、おとなしく腕の中に収まった。
解放されたクモンが、ぜえぜえと荒い息を吐きながら机に突っ伏している。
「……で。ヒナタさん、用事は終わったんすか」
キリメは、ぐったりした声でそう問いかけた。
ヒナタは頷き、スマホをテーブルに置いた。
「ああ。関係する可能性は低いだろうが、念のためあの配信者、アイラバ☆モヒニとやらについて、少し調査するよう指示を出していたんだ」
「指示って誰に……いや、いいや。聞かねえでおく」
平気な顔でピッキングをするような奴が個人配信者を調べさせると平然と言うあたり、関わると碌な事にならない予感しかしない。キリメは深く突っ込むのを早々に諦めた。
「さて」
ヒナタはすっと空気を切り替える。
「大穴。君は、ミトラたちが消えた瞬間を見ていたね?」
問いかけられた大穴は、キリメの膝の上でこくりと首を縦に振った。
「何があったのか、教えてくれるかい」
「んー……」
大穴は何か考えるように、宙へと目をやった。そのままキリメの腕の中で、小さな顎がゆっくりと上がる。
その視線は、天井の一点へと向けられていた。じっとそこを見つめ、たまにこくこくと小さく頷いている。まるで、そこにいる誰かと言葉を交わしているかのように。
キリメは大穴の視線を追って、つられて天井を見上げた。だが、そこにあるのはいつも通りの店の天井だけだ。蜘蛛の巣が端に見える程度で何もない。
それでも大穴は天井を見上げ続けて、視線を上にやったままようやく口を開いた。
「四人が……これでなんか、見ながら」
大穴の小さな手が、長机の上に置かれたノートパソコンをぺちりと叩く。
「それを、いじってた。アプリ? ……ゲーム? してた」
次に、その手がヒナタの傍らに置かれたシラベのスマホを指さした。たどたどしいが、伝えようとする意志は確かにそこにある。
「そしたら、シラベが『あれ』って言って。なんか押せそうとかみんなで話して。ポンコツが押してみろって言って、シラベが押して、そしたら──」
大穴は両手をぱっと開いて、目の前で何かが弾けるような仕草をした。
「ぴかって光って。みんな消えた」
言い終えると、大穴は役目を果たしたとばかりに、再び天井の方をちらりと見上げた。
「……えーと」
キリメは眉根を寄せた。正直、何一つ分からない。ゲームをしていたら光って消えた。それだけ聞かされても、頭の上に疑問符が浮かぶばかりだ。
だが、対面のヒナタは違った。大穴の拙い説明を一言一句、深く咀嚼するように聞いている。やがて何かに思い至った様子で、自身のスマホを手に取った。
画面に表示させたのは、キリメも見覚えのあるアプリだ。三日前に配信されたばかりの、エインヘリヤル・クロニクル〈エリューズニル〉。キリメ達もインストールしているカードゲームアプリの画面だった。
「大穴。シラベが押したのは、この画面かな」
ヒナタは画面を大穴の前に差し出す。
大穴は身を乗り出し、画面をじいっと覗き込んだ。それから、また天井を一度見上げて、こくこくと頷く。そして、小さな指を画面の一点に押し当てた。
「これ……だけど、これじゃない」
指が示していたのは、灰色に沈んだ一つのボタン。タップを受け付けず、くすんだ表示になっているストーリーモードの項目だった。
「ストーリーモード……?」
キリメの隣で、ようやく息を整えたクモンが画面を覗き込み、首を傾げる。
「でもそれ、まだ遊べないやつですよ。配信されてからずっと灰色のまんまで、『近日公開』ってなってて押せないんです」
「ううん。シラベのだけ青かった」
大穴は首を横に振った。脇に置いていたシラベのスマホに、猫の手の様に握った手を置く。
「……シラベさんのだけ、押せたってこと?」
クモンの確認に、大穴はこくりと頷いた。
その一連のやり取りを聞いていたキリメは、ぽりぽりと頬を掻いた。だんだん話が見えてきたような、それでいて、見えてきたからこそ受け入れがたい方向に向かっている気がする。
「……いやさ。ゲームのボタン押したら光って消えた、って」
キリメは、半ば茶化すように口を開いた。
「それ、漫画とかアニメだったら、アレじゃん。ゲームの中に入っちゃいました、ってやつじゃん。よくある異世界転移ってやつ」
冗談のつもりだった。場の空気が重くなりすぎたから、軽口で和ませようとしただけの、ただの茶化し。
だが。
「ああ。そう考えていいだろうね」
ヒナタは、あっさりと頷いた。
「は」
キリメの口から、間の抜けた声が漏れた。
「……は? マジで言ってんのか、アンタ」
「ああ」
「いやいやいや、待てって。そんなのあるわけねえじゃん。ゲームの中に人が入るとか、そんなのフィクションの中だけの──」
言いかけたキリメの言葉を、ヒナタは静かに遮った。
「キリメ君。君の膝の上に乗っているそれは、何だい」
「……おーちゃん、だけど」
「カードに宿る精霊だ。ついさっきまで、カードを一枚飲み込んで黒猫の姿をしていた。そして今は、こうして人の少女の姿で、君に甘えている」
「んーにゃ」
名前を呼ばれた大穴が、キリメの腕の中で嬉しそうに身じろぎした。
「私もこの店に来るようになるまでは信じられなかったが。こんな、いい加減でふざけた事が平然と起こる世界なんだよ、ここは」
ヒナタは肩をすくめ、唇の端をわずかに吊り上げた。
「カードに精霊が宿り、その精霊も人や猫の形に変貌するような理不尽。それを許容するというなら、ゲームの中に人間が入り込む事の、いったいどこに無理があるというんだい」
「そりゃあ……いや、まぁ……うぇぇ……??」
反論の言葉が、喉の奥で詰まる。
言葉にされてしまうと、言い返すのが馬鹿らしくなってしまう。今この瞬間、自分の腕の中で起きている事象からして、すでに常識の埒外なのだ。それを当たり前のように受け入れておきながら、ゲームへの転移だけあり得ないと切り捨てるのは、筋が通らない、のかもしれない。
(……マジかよ。マジで言ってんのかこの人)
キリメは引き攣った笑みを浮かべるしかなかった。
そんな中、おずおずと手を挙げたのはクモンだった。
「あの……もし本当に、店長さんたちがゲームの中に入っちゃったんだとしたら」
クモンはヒナタの顔を窺いながら、ごくりと唾を飲んでから続ける。
「エリューズニルのストーリーモードって、どんなお話なんですか?」
「ふむ」
ヒナタは頷き、再びスマホを操作した。今度はブラウザを立ち上げ、エリューズニルの公式ページを開く。
「公式の説明には、『九脊界を舞台にしたオリジナルストーリーを体験できる』としか書かれていない。だが私は幸い、アルファテスト版を試遊している。だから、ほんの少しだけ中身を知っているんだ」
その言葉に、キリメとクモンが揃って身を乗り出す。大穴だけは、話が自分から逸れたのを察したのか、キリメの腕の中でうつらうつらし始めていた。
「ストーリーモードのタイトル名は『ミシャンドラ』、既に発表されていたね。九脊界の中の一つ、『
「ヘルヘイム? クモン、知ってるか?」
「そっちのショーケースにあったよ。あんまり強くないけど、光ってるので5000円だって」
「昔のカードはそれだけでたけぇなぁ……」
「カードとしてはそれだ。設定では、死した者たちが流れ着く、安息の場所となっている。本来は争いとは無縁の場所だが、そこは九脊界の外から現れた『ソロモン王』の軍勢に侵攻されたという歴史がある」
ヒナタの語り口は淀みない。学校の先生でもこれだけ聞かせることを意識した話し方が出来るかどうか。
「プレイヤーは一人の魔術師となる。魔術師は己に宿る『ギュルヴィの骨』──力の源に対して、その骨の記憶を辿ってさらなる力を得る儀式を行っていた。だが運悪く、そのソロモン王の軍勢が攻め入っている脊界の記憶に巻き込まれ、元の世界との繋がりを絶たれてしまう」
「……それで、どうなるの?」
「帰れなくなったプレイヤーは本来の世界に戻るため、戦乱期にある
キリメは腕を組んで唸った。キリメはどちらかというとカードイラストに惹かれて始めた方なので、ストーリー方向には明るくない。用語についてはさっぱりだが、帰るために旅をするという骨子はなんとか掴めた気がした。
その時。
「……あれ。なんか、その話」
ぽつりと呟いたのは、クモンだった。
「聞き覚えが、あるかも」
「なにっ」
ヒナタの目の色がぎらりと変わった。普段の余裕を取り払い、机に身を乗り出してクモンへと詰め寄る。
「どこで知った。言いたまえ、クモン君。どこで、その話を聞いた」
「うぇあっ。ち、近いです、ヒナタさんっ!」
迫り来る美女の胸元が目の前に来て、クモンの顔が真っ赤に染まる。どぎまぎと視線を泳がせながらも、震える指でスマホを操作した。
「こ、これです……」
差し出された画面をヒナタが、そしてキリメが横から覗き込む。
表示されていたのは、とあるウェブ漫画の掲載ページだった。第一話の公開日はアプリの配信日の翌日。現在から二日前だ。
タイトルには、見慣れた文字列が躍っている。
『エインヘリヤル・クロニクル ストレンジ・サーガ』
「なんだ、併せて連載開始したっていうコミカライズじゃん」
キリメが拍子抜けしたように肩の力を抜いた。
「こういうのって、アプリはこういうものだよって告知するための漫画だろ。そりゃストーリーモードと同じ設定だってあるだろう」
「そうだよね……すみません、紛らわしくて」
クモンがしゅんと肩を落とす。なんだ、と気を抜きかけたキリメだったが、画面をスクロールしていたヒナタは黙々と漫画を読み続ける。
そして唐突に、ぴたりと止まった。
「……いや」
声色が、低く変わる。
「これだ」
「は?」
キリメとクモンの声が重なった。
ヒナタは食い入るように漫画の一コマを見つめている。そこに描かれていたのは、旅装に身を包んだ、一人の小柄な主人公だった。
「この人物。この小柄で、黒髪で。気丈に振る舞いながらもその実、寂しさを堪えきれていない造形。目尻のこの線、口元のこの強がりの作り方──間違いない、間違いないとも。この骨格、この佇まい、私が見間違えるはずが……」
「ちょ、ちょっと? もしもし? ヒナタさん?」
ぶつぶつと早口で呟き始めたヒナタに、キリメは今日何度目か分からないほど心理的距離を取った。漫画の主人公の絵姿を前に、まるで実在の誰かを言い当てるような、確信のこもった口ぶりだ。
何が間違いないのか二人には皆目見当もつかない。ただヒナタの目だけが、異様な熱を帯びて画面に釘付けになっていた。
キリメの腕の中では、すっかり飽きてしまった大穴が、すうすうと寝息を立てて眠りこけている。
「少し、電話してくる」
「あ、おい!」
不意に、ヒナタが立ち上がった。スマホを耳に当てる仕草をしながら、さっさと裏口の方へと歩き出す。
呼び止める間もなく、ヒナタは裏口の方へと消えていった。残されたキリメとクモンはしばしの沈黙の後、顔を見合わせ揃って首を傾げるしかなかった。
「なあクモン。アタシら、なんかとんでもない事に巻き込まれてる気がするんだけど」
「うん。……で、でも。ちょっと面白そうな気もする……けど」
クモンの呑気な言葉に、キリメはお前なぁと呆れつつ頭を掴んでわしゃわしゃと撫でる。だがキリメも、クモンの言葉を強く否定するつもりは無かった。
キリメの身じろぎに、膝の上でまどろんでいた大穴が更にキリメへ寄りかかってくる。そこにある温かさも柔らかさも本物だった。