空がやけに高く感じる朝だった。
この村には名前は無い。村人たちは単に「村」と呼ぶ。地図には書かれているのかもしれないが、ミーシャは見たことがなかった。
元は南東にあるという鉱山で働く者たちの為に作られた集落だったらしい。藁葺き屋根が並び、中央には朽ちかけた共同井戸があり、その傍に置かれた古びた鐘楼だけが唯一の自慢だ。
鉱山はとうの昔に掘り尽くされ、現在残っているのは老い先短い元鉱夫たちと、その家族と、
ソロモン軍の進軍の話を風の便りで聞くたび、村人たちは家の中で身を寄せ合い、息を潜めて夜をやり過ごす。それがこの寂れた村の最近の日常だった。
だが十日ほど前から、村の空気は一変した。
『ここをドゥブランコ帝国の領地とする! 即ちお前たちもドゥブランコの同胞である! 喜べ!』
共同井戸の脇に作られた即席の演台に、その人物は堂々と腕を組んでそう言い放ったのは記憶に新しい。金髪を風になびかせ、紫の輝石を腰に提げ、肩には灰色の軍服を引っ掛けた美しい女性の姿を、ミーシャは覚えている。
自らを「ドゥブランコ帝国の総督」と名乗るその貴族のような女性──レヴェローズ・ドゥブランコと言ったか──が妙な事を言ったかと思えば、義勇兵を引き連れて村に居着いてしまったのだ。
彼女は何の前置きも無く村をドゥブランコ領の一部と宣言し、村の自警団を再編成し、義勇兵から練達者を借りて防衛隊を組み上げ、村に居場所のない避難民たちにも武器を配って訓練を始めた。
あまりに突然の事に村長は混乱したらしいが、結局のところソロモン軍に怯えているよりは遥かにマシな状況であり、誰もが彼女の保護を歓迎する形に落ち着いた。今や村の外周には急場しのぎの木柵と狼防柵が立ち並び、村の中央には防衛隊の拠点となる物見櫓まで建設されている。
ミーシャはその防衛隊の腕章を、自分の細い腕にぎゅっと結び直した。
「……今日も、頑張りましょう」
誰に言うでもなく、自分に言い聞かせる。
村の片隅、防衛隊の倉庫の前に座り込み、ミーシャは木盾の表面を布で磨いていた。隣には鎖帷子とぼろぼろの鎧下が畳まれて積まれている。
その隣には使い古された鋏があった。戦いになれば長い髪なんて危ないだけだろうと思い、自分で切るために用意していたものだ。長い銀髪はミーシャの密かな自慢だったが、命に比べれば代えられるものではない。
(怖い。怖くてたまらない。でも、やらなきゃ)
ミーシャは布の動きを止めずに、胸の内側で正直に呟く。
ミーシャがこの村に来てから、ほんの一ヶ月にもならない。難民として街道を逃れていた途中で他の避難民の集団に拾われ、それからこの村に辿り着いた。
ただ、ミーシャはほとんどの避難民と一つだけ違うところがある。
だが、ミーシャは違う。気付いた時にはここにいた。
自分がどこの脊界の生まれなのか分からない。それどころか、
残されているのはミーシャという名前だけ。それすらも、行き倒れかけていた彼女を拾った難民から促され、咄嗟に口にしたものに過ぎない。
誰にも言えないでいる、自分の体に張り付いた小さな穴。それが時々、ふと胸の奥でぱくりと開きそうになる。
(戦争も、自分も怖い。だけど……だから、せめて)
胸の奥の不安に蓋をするために、ミーシャはもう一度自分に言い聞かせる。
(私にも、何かできることをしないと。みんなのために、戦わないと)
恐怖を使命感で上から覆い隠す。覆い隠せていないことは自分でも分かっていたが、それでも繰り返さなければ膝が震えて立ち上がれない。
その時、ミーシャの視界の隅に人影が差した。
顔を上げる。倉庫の壁の脇にいつの間に立っていたのか、一人の旅人がじっとミーシャを見下ろしていた。
ミーシャと同じくらいの背丈をした、黒髪の少女。焼き出された避難民とは異なる質の良さそうなマントを羽織り、腰には革のケースのようなものを提げている。
村の人間ではない。義勇兵や傭兵とも思えない。だが、不思議と警戒心は湧かなかった。
「あ……あの、何か御用ですか?」
ミーシャは慌てて立ち上がりかけたが、相手の方が先に口を開いた。
「あんたがミーシャ?」
「……えっ?」
ぽつりと、ぶっきらぼうに尋ねられた。
知らないはずの旅人に名前を呼ばれるのは不思議な感覚だった。ミーシャは中腰のまま、こくりと頭を下げる。
「は、はい。私が、ミーシャです」
そう答えた直後。黒髪の少女は、じいっとミーシャの全身を上から下まで眺めて。
「……本当に大きいんだ」
ぼそりと、感心とも呆れともつかない、低い声で呟いた。
「は、はい?」
言葉の意味が分からないままミーシャが聞き返した時には、もう少女はくるりと踵を返していた。マントの裾を翻し、村の建物の角を曲がっていく。引き止める言葉を考える前に、その背中は消えてしまった。
「……?」
ミーシャはぽかんと口を半開きにしたまま、しばらく動けなかった。
何だったのだろう。声を掛けるためにわざわざ近付いてきたのは伝わってきた。でも、確認したかったのは私の名前。それから──。
(大きい、って)
何がだろう、と。首を傾げながら、ミーシャは座り直して作業に戻る。考えても分からない事を考え続けるよりも、手を動かさなければ。ミーシャは木盾を脇に置き、隣の鎖帷子へと手を伸ばした。
ミーシャは鎖帷子を膝に乗せて、故障や異常が無いかと眺める。
冷たい手触りとこれを付けることになった時の記憶が頭の中で重なった。
農具や工具て転用できる武器と異なり防具の類、特に鎖帷子は防衛隊の中ではかなり貴重な装備だった。鋼の輪をきっちりと編み込んだ本格的なもので、村の備品庫の奥に長く眠っていたものを引っ張り出してきた代物だ。
ただ、これは大柄な男のために作られた鎧で、村にもう体格の合う者がいない。だからこそ倉庫の肥やしになっていたのだが、譲り受けたミーシャがどうにか調整して身に着けている。
ミーシャの背丈には到底合わない。袖と裾を捲り留め具を作り、左右の脇を絞り。そうやって寸法を詰めて。かなり大変な作業だったが、ミーシャは苦労を厭わなかった。
鎖帷子の胸甲に当たる部分も当然、元の持ち主だろう大柄な男の厚みを想定して作られている。本来であればミーシャのような小柄な少女には、布のように余って邪魔になるはずの場所。だが、ミーシャの場合は、その大きすぎる余裕がそのまま彼女の胸の膨らみを受け止める形になっていた。
ミーシャは無言で、自分の胸に手を当てる。
他のあらゆる箇所は寸詰めしないと装着出来ないのに、胸だけは元の寸法のままで丁度よかった。すこし胸の下に紐を通してやれば体にフィットして丁度いい。普通の鎧では胸の部分がどうしても収まらなかった身体がこうして守ることが出来るのだから、苦労する甲斐がある。
──本当に大きいんだ。
黒髪の旅人の、ぼそりとした呟きが、遅れてミーシャの脳裏に蘇った。
「あ……」
ミーシャの頬が、徐々に熱を持ち始める。耳の裏側までじわりと煮立ってきている気がする。
名前を確認した後の、あの上から下まで眺める視線。あの時、不自然に目が留まっていた時があったような。
「──!」
ミーシャはバッと両腕で胸を抱え込んだ。
(だ、だってこれは、好きでこうなったわけでは、ないですし……っ)
誰に言い訳しているのか分からない言い訳が、頭の中でぐるぐると回る。
鎖帷子を握りしめたままミーシャは赤い顔をどこに隠す事も出来ずに振り回す。羞恥に焼かれた頭は髪を切ることをすっかり忘れてしまっていた。
*
戦の角笛が鳴ったのは、それから一刻も経たないうちだった。
──ぼおおおおぉぉぉぉ。
空気を裂くような重い音が、村の境界線から三度、四度と続けて響き渡る。
ミーシャは即座に顔を上げた。村の中で訓練を受けた者なら誰でも知っている、ソロモン軍の襲撃を告げる警鐘だ。
「来たぞ!」
「ソロモン軍だ! 戦闘配置に着け!」
村の鐘楼から、防衛隊の声が次々と飛ぶ。家々の戸が一斉に閉じられ、子供を抱えた母親たちが慌てふためいて屋内へと駆け込んでいく。窓の隙間からは押し殺した悲鳴が漏れ、震える声で神への祈りを唱える者の声も聞こえてくる。
「──っ」
ミーシャの膝が、地面に着いたまま小刻みに震えた。
いざその時が来てしまうと、戦うのだと自分を鼓舞してきた覚悟が、あっという間に剥がれ落ちてしまう。背骨の真ん中が冷たくなり、胃の奥がぐっと重くなる。
(怖い、怖い、怖い……)
手がうまく動かない。鎖帷子を着なければ。袖を通さなければ。だが、指先が冷えて言うことを聞いてくれない。
慌てて鎖帷子を頭から被り、震える指で革紐をなんとか結ぶ。手早くやろうとすればするほど、結び目がほどけたり位置がズレたりする。調整した通り胸の部分だけは何の苦もなくぴたりと収まってしまったのが少しくやしい。
立ち上がろうとして、ふらりとよろめいた。
地面に転がっている古びた槍を、転倒しかけて掴む形で手に取る。木の柄の感触が、思ったよりも重い。これを構えて、突き出すのだ。突き出して、人を、敵を刺すのだ。
(私にも……できる、はず、です)
ミーシャは強く頬を叩いた。両頬が真っ赤に張れる程度に、ぱしんと音が立つ。
「私だって……っ、みんなのために、戦います!」
誰に聞かせるためでもなく、自分自身に向けて、声を張った。
言ってしまえば、引き返せない。引き返せないように自分を追い込むための宣言だった。
槍を抱えてミーシャは駆け出した。震える脚に無理やり力を込め、防衛隊の集合場所である村の正門へと走る。子供は行くなと呼び止める声が聞こえた気がしたが、ミーシャは振り返らなかった。
*
村の正門の手前、急ごしらえの狼防柵の内側に、防衛隊が並んで槍を構えていた。
騎兵の突進を遅滞させる為に地面に斜めに打ち込まれた木の杭の連なり。狼が容易には踏み越えられないように切先を尖らせ、騎乗者から見れば厄介な障害物になっているはずと説明されている。素人目にも頼りないが、限られた資材では出来ることも限られる。
ミーシャはその列の端に、何とか自分の槍を割り込ませた。隣にいたのは元鉱夫の老人で、ぎょっとした顔でミーシャを見たが、何かを呑み込んだようにすぐに前を向き直した。
「目を閉じるな! 構えろ!」
防衛隊員の怒鳴り声が戦場の喧騒に混じる。
正門の外、街道の彼方から、地響きが近付いてくる。振動がミーシャの足の裏から這い上がり、膝が再び震え始めた。
ぐっ、と槍の柄を握り直す。手のひらに汗が滲んでいる。指先は震えているのに、握力だけはやけに強い。
来る。
来る。
「来たぞぉっ!!」
誰かの叫び声と同時に、正門の木の閂が音を立てて爆ぜた。
あっけなく、と言うべきだろう。何の前置きも無かった。巨大な狼の前脚が、扉の残骸を蹴り砕いて村の地面に突き刺さる。その勢いのまま。背に乗った露出度の高い装束の女兵が、剣を振りかぶりながら一直線に村の中へと突進し続けた。
その狼騎兵の姿が、ミーシャの目には妙に遅く見えた。筋肉の隆起、毛並みの一本一本、剥き出しの牙の唾液。引き伸ばされた時間の中で、それらが嫌に細部まではっきりと見える。
(あ、これ──)
見えた故の思考は、潰されるという確信にしか繋がらない。狼防柵ごとなぎ倒される。あの突進力の前では、急ごしらえの木の杭など、ちょっとした段差程度の意味しか持たないはずだ。
目を閉じなければ。目を閉じれば、せめて最後の瞬間は見ずに済む。
だが、ミーシャの瞼は降りなかった。恐怖が瞼の筋肉まで凍り付かせている。槍を構えたまま、目を見開いて、ただ突進する死を凝視するしか出来ない。
迫る。迫る。あと数歩。
その狼騎兵の頭部が、半円を描く銀光と共に飛んだ。
「は──?」
ミーシャの口から、間抜けな声が漏れた。
乗り手も狼も、ひとつの斬撃で胴体ごと斜めに両断されていた。鈍い血飛沫が宙に散る前に、その間を一本のサーベルが綺麗に通り抜けていく。
刃を振り抜いた腕の主が、狼防柵の後ろ──ミーシャたちの背後から、ふわりと前へ出てきた。
ミーシャはその顔を、村中で何度も見ていた。
十日ほど前。村をドゥブランコ領と宣言した張本人、自称総督のレヴェローズ・ドゥブランコ。
彼女は刃を振り抜いた姿勢のまま、ミーシャの存在を一瞥もしなかった。切り捨てた敵にすら意識を向けておらず、その目は未だ迫る敵たちのみを映しているようだった。
レヴェローズは指を口元に当て、鋭く指笛を吹いた。 ピィッ、と高い音色が戦場に響く。
次の瞬間、どこかから黒い疾風が駆けてきた。漆黒の毛並みを纏った巨大な狼が、悲鳴を上げる村人たちの間を縫って、レヴェローズの隣にぴたりと身を寄せる。
レヴェローズは流れるような動作でその背に飛び乗った。
「……あ、あの、待っ──!」
ミーシャが思わず手を伸ばしたが間に合わない。黒狼は軽々と一跨ぎで周囲の全てを飛び越えていく。そのまま破壊された正門の残骸を踏みつけ、戦地のただ中へと駆けていった。
その凱旋を祝福するかのように、別の音が戦場に重なり始める。
大地を揺るがすような、金属の軋む合奏。獣の遠吠えの大合唱。それらが、ソロモン軍が攻め寄せて来るのとは、また別の方角から響いてきていた。
ミーシャは反射的にそちらを振り向く。
村の外の小高い丘の上から、何かが押し寄せて来ていた。
歯車と関節がガチャガチャと噛み合う音を立てて疾走する、緑石色のローブを羽織った、人型の集団。フードの奥から覗くのは、すべて金属で構成された顔だ。
その合間を縫うように、紫電の光を身体のあちこちから放つ騎兵たちが続いていた。色も形も統一されていない結晶を体のあちこちに灯らせ、まるで雷雲の中を走る稲妻のように戦場へ向かって突進してくる。
「ぁ、あ、あぁ……」
ミーシャの口が、ぱくぱくと無意味に動いた。
破壊された正門から村の中へ更に突入しようとしていた狼騎兵の二列目が中途半端に回頭しようとしている隙に、殺到してきた紫電の騎兵たちと機械人の集団に呑み込まれていく。
剣戟、鈍器の打撃音、悲鳴。怒声。ミーシャの目の前で、攻め込んでいたはずのソロモン軍が混乱に飲み込まれていく。
「な、何が……何が起きているのですか……?」
ミーシャは槍を取り落としかけた。慌てて両手で握り直したが、もう何のために構えているのか分からない。
今日この村で、自分は何かを成し遂げるはずだった。みんなのために戦って、何かを守って、何かを証明するはずだった。
彼女には、何の役目も残されていなかった。目の前で目まぐるしく戦闘が始まり、そこに身を投じるのかと思えば勝手に侵略者が押し戻されていく。同じ防衛隊の面々はなんとか動き出す余裕があったが、ミーシャは立ち尽くすしか出来なかった。
パニックと困惑が同じ温度で胸の中で混じり合う。何か言葉を口にしたいのに、何を言えばいいのか分からない。
そんな時。ミーシャの背後で、土を踏む音が静かに二つ並んだ。
ミーシャが振り返る。
立っていたのは先ほど見た黒髪の旅人と。緑石色のローブを羽織った人型の機械人だった。フードの奥から覗く顔は完全な金属で、どこで物を見ているのかさっぱり分からない。
そして機械人の手には、ミーシャの背丈より少し大きな麻布のようなものが垂れ下がっていた。上から覗いてみれば、それが袋状だろうと分かる代物だった。
「あ、あの……」
ミーシャが何か言葉を出すよりも、旅人と機械人の方が早かった。
まず旅人がミーシャの槍を掴む。落とさない事だけを考えていたミーシャの手は、力を込められるとあっさり離してしまった。
それをミーシャが認識する間もなく、ガバッと。黒い視界が頭上から一気に降りてくる。
「へ?」
麻袋の内側のざらついた繊維がミーシャの頬を擦り、切ろうと思っていた髪が袋の端々に引っ掛かって少し痛い。視界は完全に遮られてしまい、ぼろの匂いと埃の匂いが鼻に押し込まれる。
「えっ、えっ、ええっ!?」
なんとかその場を離れようとしたミーシャの体勢が崩れる。鎖帷子の擦れる音。袋の中では腕を動かしてバランスも取れず、地面に倒れてしまう。
「ま、待って、これ何? なんで──」
声を上げる前に、倒れた足元で袋の口が紐で締められた感触があった。光が完全に遮断され、外側からぎゅっと縛られたのが袋の縁の張りで分かる。
「ちょっ、ちょっと待って!」
ミーシャは袋の中で必死にもがくが、刃物もなしに布を傷つけることも出来ず、抵抗の糸口がつかめない。手足をジタバタさせたところで縛られた袋の口は決して空きそうもなかった。
間もなく、ふわりと体が浮く感触がミーシャを襲う。おそらく先ほどの機械人が、ミーシャの入った麻袋を肩に担いだのだ。袋越しに伝わる相手の体温は無いに等しく、鎖帷子越しでも胸に角ばったところが当たって少し痛い。
「出してくださいっ! お、降ろしてっ!」
いくら騒いだところで担いでいる者は聞く耳を持たない。外の喧騒が足音と共にだんだんと遠ざかっていく。剣戟の音、機械人たちが奏でる金属音、紫電の閃く気配。それらが薄れていく感覚から、自分が戦場の中心からどんどん引き離されていっていることが分かる。
袋の中の暗がりで、ミーシャの目からぽろりと一粒の涙が零れた。
何の涙なのか、ミーシャ自身でも分からなかった。