カスレアクロニクル   作:すばみずる

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149 近所付き合いは苦手そうだな

 目的の住所は、住宅街の外れにあった。

 

 二階建ての一軒家。築年数は二、三十年といったところか。外壁の白い塗装は経年で薄く煤け、雨樋には緑色の苔がうっすらこびり付いている。夏の昼間だというのに、この一軒だけ妙に陰っているようにも見える。

 

 ヒナタは門柱の前で足を止め、目を細めた。

 

「ここで間違いないんすか」

 

 キリメが小声で問う。先ほどまでの大穴とクモンの揉み合いはどうにか収まり、クモンの首筋についた歯型はキリメが持ってきていた絆創膏で応急処置を済ませている。

 

 ヒナタはスマホの画面と目の前の門柱を見比べ、頷いた。

 

「番地は合っている。区画もこのブロックだ。ただ表札は無いね」

 

 ヒナタの指が、門柱の上部を示す。表札のプレートを填め込むための四角い枠だけがあって、肝心の名前のプレートが入っていなかった。剥がし取られた跡というよりは、最初から入れていない様子だった。

 

「少なくとも、近所付き合いは苦手そうだな」

 

 キリメは胡乱な目を門柱に向ける。

 

 ヒナタは門扉に手を掛けた。元から閉じられてはおらず、軽く押すだけで内側に開く。敷石が玄関口まで続いており、両側の植え込みは雑草が伸び放題でほとんど藪と化している。

 

「では、打ち合わせ通り行こうか」

 

 ヒナタはくるりと振り向き、クモンと大穴を順番に見つめた。

 

「クモンくん、大穴。お願いするよ」

 

「は、はい……」

 

 クモンが、ごくりと唾を飲み込んで頷いた。隣の大穴は事の重大さを理解しているのかいないのか、ぼんやりとした顔のまま、それでもクモンの左腕にしっかりと自分の腕を絡め直す。

 

「私とキリメくんは向こうの電柱の影で待機している。何かあれば即座に出るから」

 

「即座に出るのは結構だけどさ、何も無いのが一番だかんな……居留守使われるか追い返されるのが普通だぞ、こんなの」

 

 キリメは溜め息混じりに呟くが、ヒナタにに促されて、道の反対側の電柱の陰へと身を隠した。

 

 ヒナタの片手はもう、自分のスマホをカメラモードで構えている。シャッター音を殺すサードパーティ製のアプリだ。三日前のうちに気付いて入れ替えておいた、というのが今のヒナタの口振りから察するに自然な代物だった。

 

 クモンと大穴は敷石を踏みながら玄関口へと進んでいく。脇にはひび割れたプラスチックの植木鉢が二つ並んでいるが、中身の植物は枯れてただの土塊になっている。

 

 大穴から伝わる柔らかく冷ややかな感触に気を逸らすために、クモンは必死に周囲に気を巡らせる。テレビでもたまに心霊番組で映像が流される、廃墟探索でもしている気分だった。

 

 クモンは深呼吸をしてから、外装が黄ばんで変色している呼び鈴の押しボタンを押し込んだ。

 

 ピンポーン、と。やけに耳に残る、間延びした電子音が家の奥で鳴った。

 

(出てきてくれるかな……ていうか、出てきたらどうしよう……)

 

 クモンは自分の心臓の音がうるさく聞こえるのを必死に押し込めた。左腕に絡みついたままの大穴の体温だけが、不思議と背中の冷や汗を散らしてくれる。

 

 応答はしばらく無かった。

 

 もう一度押そうか、ヒナタに判断を仰ぐか、と指を浮かせかけた、その時。

 

 ガチャ、と。

 

 錆びた蝶番が嫌な音を立てて、玄関の扉が内側へと開いた。

 

 現れたのは、痩せた男だった。

 

 歳は四十くらいか、もう少し上か。よれよれの灰色のスウェットに、襟元の伸び切ったTシャツ。無精髭が顎を覆い、伸びっぱなしの前髪の隙間から覗く目は、どこを見ているのかも判然としない。瞼が半分落ちていて、瞳は焦点を結んでいなかった。

 

「……何の御用でしょうか」

 

 声まで、機械的だった。抑揚というものが一切無い。

 

 電柱の陰でその様子を覗き見ていたキリメが、ぼそりと呟いた。

 

「……おい。あれが漫画家か? ホームレスの間違いだろ」

 

「シッ。声が大きい」

 

 ヒナタが小声でキリメを制した。だがその右手はもう、無音で連写を続けている。

 

(新谷は顔出しをしていないから、この顔だけ見ても分からない)

 

 二十年前の連載期間中も写真や似顔絵を一切公開しなかった漫画家だ。容姿だけで本人かを判定することはそもそも出来ない。

 

 代わりにヒナタはスマホの画面を指で広げて、別の場所を拡大した。扉の端から見えた男の指先だ。

 

 爪は伸び放題で、指の節は妙に細く、節くれだっている。だがそれだけだった。中指の側面に出来るはずのペンダコも、爪の縁に沈着するはずのインクの黒も、机に擦り付けて出来るはずの手の側面の痣もない。あるのは、ただ薄汚れているという事実のみ。

 

(……二十年前に月刊連載を回していた人間の手だろうか)

 

 漫画家の指先には何かしらの痕跡が残るという。長年連載をした者ならば、利き手は職業を雄弁に語る臓器のようなものだ。鉛筆でもペンでも、デジタルかアナログかで残る位置は変われど痕跡そのものはなかなか消えない。それに、新谷エダハは現在連載中なのだ。仕事道具と言える指先、爪の手入れはしているはずだろう。

 

 出てきた男の正体不明さをヒナタが訝しむ中、玄関口ではクモンが必死に台本を回していた。

 

「あ、あの! 僕、新谷先生のファンで! 前のエインヘリヤル・クロニクルの漫画も、新しく連載始まったストレンジサーガもすごく楽しみにしてて。あの、もし、ご本人にお目にかかれたら、サインとか頂きたくて、それで──」

 

 男の表情は、変わらなかった。

 

 眉根一つ寄せず、頬の筋肉が一ミリも動かない。クモンの拙い演技に対する反応も、新谷エダハという名前に対する反応も、まるで無い。

 

「……お引き取りください」

 

 短く、それだけを言うが早いか、男は背を向けて扉を閉めようと足を引きずる。

 

「あ、待っ──」

 

 咄嗟に出たクモンの手が、閉まりかけた扉の縁を掴んでいた。男に無理矢理力を込められてしまえばすぐにでも閉じそうなものだが、男の動きが妙に緩慢だったためにそれで一拍だけ動きが止まる。

 

 むしろ、相手が力を込めると思っていたクモンは扉が呆気なく開くことにつんのめり、勢い余って前のめりに玄関の内側へと踏み込んでしまった。

 

「あ、まずい」

 

「え? なにが」

 

「あの入り方だと不法侵入を問われるかもしれない」

 

「今更あんたが言う事かよそれ」

 

 ヒナタのボケとも本気ともつかない言葉にキリメが言い返していた、その瞬間。クモンは家の中から、何かが空を切る鋭い音が鳴ったのを聞いた。

 

 廊下の奥の薄暗がりから、何かが真っ直ぐに飛んできていた。

 

 クモンの視界の中で、それは黒い一本の直線として描かれた。足を引きずる男のすぐ横を突き抜けて、まっすぐにクモンの眉間を目掛けて飛んでくる。

 

「ひっ」

 

 何かが来ると勘付いたものの、悲鳴を上げる暇すらろくに無い。身を翻すことも出来ずに立ち尽くす。その横から、黒い影が割って入った。

 

 大穴だった。

 

 漆黒の腕がクモンの顔の前を横切り、両の掌でそれを、パシッ、と。挟み込むように受け止める。

 

 大穴の手の中でぴたりと止まっていたのは、一本の、黒光りする杖だった。

 

 艶のある黒檀のような材質。木軸の杖の先端が、冷え冷えとした光が灯っている。大穴の両手でがっちりと掴まれ静止しているそれは、両手で覆っても先端がはみ出るほどの長さがあった。

 

「えっ、えっ……?」

 

 クモンの口から間の抜けた声が漏れる。

 

 大穴は捕らえた杖をすっと自分の顔の前まで持ち上げてから、それから無造作に自分の胸元へと押し当てる。

 

「ちょ、なんで!?」

 

 驚くクモンの目の前で、大穴の身体に押し当てられた杖はずぶり、ずぶりと飲み込まれていく。貫通する様子はなく、一切の質量を感じさせずに消えていくかのようだ。

 

「ん」

 

 持ち手の最後まで収め終えると大穴は最後にごくんと喉を鳴らし、満足げに口の端を舐めて一息吐いた。

 

「クモン!」

 

「クモンくん!」

 

 異変を察知したヒナタとキリメが、電柱の陰から飛び出し、敷石を蹴って駆け寄ってくる。

 

 扉の傍で立ち尽くしていた男は、駆け寄ってくる二人を一瞥もしなかった。クモンの存在も、大穴の存在も。ただ、誰もそこにいないかのように、再び背を向けて、廊下の奥へとずるずると足を引きずって戻っていく。

 

「大丈夫か、クモン! 怪我は!?」

 

 キリメが膝をついて、クモンの肩に手を置いた。

 

「だ、大丈夫です、けど。今、なんか飛んできて……」

 

「飛んできた?」

 

「廊下の奥から、黒い、棒……杖? みたいなのが。たぶん、僕の頭目掛けて。それを、大穴ちゃんが、その……呑むというか、食べ、ちゃって……」

 

「食べた?」

 

 ヒナタが眉を寄せる。クモンの隣の大穴は頬を膨らませて、こくこくと頷いた。

 

「そこそこ」

 

「そこそこって……」

 

 キリメは大穴の頭の上から下まで視線を往復させるが、口の脇にも体のどこにも、杖を呑んだ痕跡はもう残っていなかった。店内で自身の体内からシラベのスマホを吐き出してみせた時と同じだ。この少女の中身がどうなっているのかは、考えるだけ無駄らしい。

 

 ヒナタは扉の内側の暗がりに目を凝らした。男が下がっていった廊下の奥は、ふつうの一軒家の廊下のはずなのに、光が奥まで届いていないように見えて薄気味悪い。

 

「ここまで来て、新谷エダハを調べないわけにはいかなくなったね」

 

「いや待て待て待て」

 

 キリメが慌てて立ち上がる。

 

「いまのを聞いたかアンタ。家の中から棒だか杖だか、とにかく何か投げてきたんだぞ、それも子供目掛けて。普通に殺意あるって。警察呼ぼう、警察」

 

「警察が来て、どう説明するつもりかな。知り合いでもない漫画家の家に押し入られようとして物を投げられた、なんて。荒っぽくはあるがこちらに非があるようにしか感じないね」

 

「うっ……」

 

 ヒナタは穏やかに、しかし退路を残さない口調でヒナタを言いくるめようとしていた。

 

 そうこうする間に大穴はもう、ヒナタの足元へすたすたと歩み寄っていた。クモンも好奇心が恐怖を上回ったのか、ヒナタの後ろにそろりと付く。

 

「……ったく、なんだよこの面子。正気なの、アタシだけじゃねえか」

 

 悪態をつきながらも、キリメは仲間外れにされるのが嫌で、結局その最後尾に続いた。

 

 

 

 

 玄関を入ってすぐ、廊下が真っ直ぐ奥へ伸びていた。

 

 左手に上り階段、右手にいくつかの扉。突き当たりが台所で、薄汚れた男はそちらに向かって緩慢に歩いている。

 

 ヒナタは靴を脱ぐかどうかを一瞬迷ったが、脱がずに上がることにした。マナーに気を遣う場面ではない。三人もそれに倣う。

 

 男は廊下の奥、台所の冷蔵庫の前まで辿り着くと、扉を開けた。中から二リットルのペットボトルを一本取り出し、両腕で抱えるように持つ。それから、ゆっくりと向きを変え、玄関とは反対側にある別の扉に向かって歩き出した。

 

 その間、男はヒナタたちを一切、視界に入れる素振りを見せなかった。

 

 ヒナタは試しに指を二本立てて男の鼻先で振ってみる。反応はない。

 

「見えてないわけじゃ……ないだろうけどな。意思が無いのか何なのか」

 

 キリメが声を落として呟いた。

 

 男が辿り着いた扉を開けると、その奥には下り階段があった。

 

 地下室だ。古い一軒家にしては珍しい造りだが、それでもあるところにはある。男はペットボトルを抱えたまま、ぎ、ぎ、と軋む木の階段を一段ずつ下りていく。

 

 ヒナタは、その背中をじっと見送った。

 

 それから、隣のキリメ、後ろのクモン、そして大穴を、順に視線で確かめる。

 

「キリメくん、クモンくん。一階を頼む」

 

「は?」

 

「大穴。この二人を任せたよ」

 

 大穴がふんすと胸を張った。なんとなく頼られたのは伝わっているらしい。

 

「ちょっ、待てって。アンタどこ行くんだよ」

 

「私は彼を追う。地下に何があるのか、見ておきたい」

 

「だから危ないって……!」

 

「だから私一人で行くのさ」

 

 ヒナタの声がほんの少しだけ低くなり、キリメの喉がぐっと詰まる。

 

 ヒナタはすぐにいつもの涼しい顔に戻り、片手をひらりと振る。

 

「何かあれば声をあげてくれ。私もそうする。じゃあまた後で」

 

「あ、おい、ヒナタさん──」

 

 止める間もなく、ヒナタは男の後を追って、下り階段に身を滑り込ませていった。

 

 ぎ、ぎ、と。今度はヒナタの体重で、階段が同じ音を立てる。

 

 階段を下りきった先は、思いのほか広い空間だった。

 

 コンクリートの打ちっ放しの床。天井には裸電球が一つ、頼りなく灯っているだけ。空調は無いが、地下特有の冷気が薄く滞っていて、汗ばんでいたヒナタの肌が一瞬で冷えた。

 

 そして視界の半分を、鉄格子が占めていた。

 

 地下室の奥半分を、床から天井までを覆うようにして、鉄格子が走っている。

 

 ヒナタは、思わず口の端を引きつらせた。

 

 座敷牢とでも言うのだろうか。拘禁を目的にした空間であることは明らかだった。鉄格子の向こうには毛布が何枚か敷き詰められ、便所代わりらしいバケツが端に置かれ、空のペットボトルが何本も無造作に転がっている。

 

 そしてその中に、数人の男が座り込んでいた。

 

 四人それぞれが壁に背を預け、あるいは床に丸まり、虚ろな目を宙に泳がせている。先ほどヒナタたちを応対した男と、寸分違わぬ表情だった。

 

 薄汚れた男は、抱えていたペットボトルを鉄格子の隙間に差し入れた。鉄格子の内側で一人の男が、ふらりと立ち上がり、当たり前のようにそれを受け取る。

 

 受け取った男は、空のペットボトルを一本、入れ替わりに鉄格子の外へと押し出した。

 

 差し入れた男は、それを拾い上げ、また足を引きずって階段の方へと戻っていく。ヒナタの脇を、視線を合わせもせずに通り過ぎていった。ヒナタの存在は、相変わらず男の中には存在していない。

 

 階段を上がっていく足音が遠ざかるのを待って、ヒナタは鉄格子に近付いた。

 

 中の男たちは、ヒナタが近付いてもまるで反応を示さない。

 

 ヒナタはまず、手を見た。

 

 誰の指先にもペンダコやインクの汚れなどはない。爪は短く切り揃えられているもの、伸びっぱなしのものとまちまちだが、漫画家の手と判定できる手は無いと思われる。

 

 次に、顔を見た。

 

 虚ろで、生気の無い顔。だがその一つ一つを、ヒナタは知っていた。

 

 壁際で膝を抱えている無精髭の男。情報屋として安く使える便利屋だった。何度か聞き込みに使ったこともある。

 

 その隣で寝そべっている痩せた青年。同業者の繋がりで紹介された若い手駒だ。新谷エダハの過去の連絡先を辿る仕事を任せた。

 

 他の二人も含めて全員、ヒナタが新谷エダハの調査のために雇い、そして音信不通になっていた者たちだった。

 

 ヒナタは無言で、鉄格子を握る指の力を強めた。いくらまともじゃない手段を取ることに躊躇が無いとしても、雇った人間の身を案じる程度の倫理は持っている。彼らがこういう形で並んでいるのを目にして、平静でいられるほど慣れてはいなかった。

 

 だが、ここで激情を発露しても何にもならない。

 

(落ち着け)

 

 ヒナタは静かに息を吸い、吐いた。

 

 試しに名前を呼んでみるが、誰もヒナタの方を見なかった。瞬き一つ変わらない。耳は機能しているらしく、声に微かに首が傾く程度の反応はある。だが、そこから先が無い。

 

「……まいったね」

 

 ヒナタは、口の中だけで呟いた。鉄格子から手を離し、踵を返す。

 

 階段を見上げてから、ふと目を伏せる。

 

(あの子たちには、伏せておくべきだろうね)

 

 虚ろな目で並ぶ男たちの光景を、思春期の少年と姉貴肌で踏ん張っている少女に共有するのは無神経が過ぎる。

 

 ヒナタは表情を平時のものに戻し、地下の階段を上っていった。

 

 

 

 *

 

 

 

 ヒナタが地下に降りていったあと、キリメは廊下の真ん中で大きく溜め息をついた。

 

「あの人、本ッ当にとんでもねえな……」

 

「ね。頼りがいはありそうな気はするけど」

 

「あれ頼りにしていいのか? その内三面記事飾っても驚けねえぞ」

 

 もし知り合いか聞かれても惚けようと思いつつ、キリメは廊下を見渡した。

 

 暗いから一見すると荒れているように見えたが、よく見れば廊下にはほとんど物が落ちていない。最低限の掃除はされている気配がある。

 

 二人と一匹は、まず手前の扉から開けていくことにした。

 

 最初の部屋はトイレ。次が脱衣場と風呂場。覗き込んでみるが、これも特段おかしなところは無い。荒れた雰囲気はなく、シャンプーやリンスがちゃんと備え付けられている。生活感は微かにあるが、人が暮らしている匂いがあまりしない。

 

「……頻繁に使ってねえ感じか?」

 

 キリメは顎を撫でた。

 

 廊下の奥の台所も覗いた。冷蔵庫を開けてみるとペットボトル飲料が何本も整列している。それ以外の食材はろくに入っていない。買い置きのカップ麺がシンクの下に積まれていた。

 

「食事は適当で水ばっかだな」

 

「台所、汚れてないね。あのおじさん結構掃除してるのかも」

 

「まず身なりを何とかしろよな……あれ臭いぞ、マジで」

 

 大穴は二人の脇で、台所のテーブルの脚をぺしぺしと叩いて遊んでいる。緊張感は欠片も無い。クモンは手持ち無沙汰になった大穴の頭をぽんぽんと撫でて落ち着かせた。撫でられた大穴は嬉しそうにしてクモンの腰にしがみつき、クモンの頬がまた赤くなる。

 

 台所を出て、廊下の反対側。階段の手前にある最後の扉へ向かう。ノブを引くと、軋みもなく扉は静かに開いた。

 

 キリメは中を覗き込んで、思わず息を呑んだ。

 

「……うわ」

 

 六畳ほどの洋室。だが部屋の四方の壁が全て、天井までの作り付けの棚で埋め尽くされていた。

 

 それぞれの棚には段ボールや何やらのフィギュアや壺まで置かれているが、キリメの目を引いたのはそのうちの一つだった。

 

「これ……」

 

 クモンが先に声を上げる。

 

「カードのバインダー、だよね。ボトムレスピットにもある、公式ライセンス品のやつ」

 

 エインヘリヤル・クロニクルのカードを保管するための、専用バインダーがずらりと並んでいた。一冊ずつ丁寧にラベルが貼られ、年月と収められているカードの収録パックの名前が几帳面に書かれていた。

 

 キリメは、知らず知らずの内に部屋へ足を踏み入れていた。

 

「うわぁ、すげえ……」

 

 クモンが小声で感嘆する。大穴も興味深そうに棚を見上げて、一番下のバインダーの匂いを嗅いでいる。

 

 キリメは一番左上から、ブースターパックの発売順に並んでいるのを指でなぞる。

 

 最初期の基本パック。第二弾、第三弾、コラボ拡張。テーマ別の構築済みデッキ、限定プロモ。歴史を辿るような並びだった。

 

 だが、棚の段を進むごとに、キリメの眉根は段々と寄っていった。

 

「……あれ?」

 

「キリメ姉、どした?」

 

「いや。最近のパックは無いんだな、これ」

 

「え?」

 

 キリメはバインダーの最後の一冊──棚の右下に収まっている、最も新しいはずの一冊を抜き出した。表紙のラベルを確認する。『脊界樹結実祭』というパックタイトルは記憶にはあるが、キリメの知識では結構昔な拡張パックという認識しかない。

 

 キリメはスマホを取り出し、エインヘリヤル・クロニクルの非公式wikiを開いて歴代のパックの一覧をスクロールしていく。指の動きが途中で止まる。

 

「このパック、十年前のだ。ここから収集が止まってる」

 

 周囲を見渡しても、続きになりそうなバインダーは見当たらない。目の前のコレクションは、約十年前の拡張パックを最後に、ぴたりと途絶えているらしい。

 

「ここで収集しなくなったのか?」

 

 キリメが最後のバインダーを丁寧に元の位置に戻しているその隣で、何かを思い出したクモンが自分のスマホを取り出していた。

 

 大穴が興味津々で、クモンの画面を覗き込もうと身を寄せる。タンクトップの胸がぐにゅんと腕に押し付けられる感触に、クモンの首がまた一段階赤くなった。

 

「お、大穴ちゃん、もうちょい離れて……」

 

「んー」

 

 離れる気は無いらしい。クモンは諦めて、片手で大穴の頭を撫でながら画面を操作する。

 

 時刻は、もう昼を一時間ほど過ぎている。今日はエリューズニスと同時に開始した公式WEB漫画『ストレンジサーガ』の第二話が、昼の十二時に更新される予定だった。

 

 新谷エダハが関わっているということ以外にも、クモンも純粋に楽しみにしていた。

 

「あれ」

 

 サイトの最新話一覧を開いたクモンは、ぱちぱちと目を瞬かせた。

 

 一覧の一番上に載っているのは、第一話のままだった。お知らせ欄には更新を延期するという言葉だけが載せられており、予定に目途は立っていないように見える。

 

 

 

 キリメとクモンと大穴がカード保管庫から廊下に戻った頃合いで、地下への扉がと開いた。

 

 身構えたキリメだったが、涼しい顔をしたヒナタが出てきて力を抜いた。

 

「待たせたね」

 

「おー、無事だった」

 

 率直に安堵の息を吐くキリメ。本気で死んでも帰ってきそうな女ではあるが、それでも生身で戻ってきたのは素直に嬉しい。

 

「で、地下、どうだったんすか」

 

「ああ。──私が雇って、行方知れずになっていた調査員たちが、閉じ込められていたよ」

 

 ヒナタは、淡々とそれだけを言った。

 

「は?」

 

「四人とも怪我は無いように見えた。あの薄汚れた男が、水と食料を運んでいるようだ」

 

 それ以上を、ヒナタは語らなかった。キリメとクモンはヒナタの言葉の薄さで逆に何かを察し、黙って頷くだけに留めた。

 

「君たちの方はどうだった」

 

「ああ、こっちも色々あったんだ」

 

 キリメは肩をすくめながら、カード保管庫で見た情報を伝える。

 

「あと、僕の方なんですけど」

 

 クモンがスマホを差し出した。

 

「今日の昼に、ストレンジサーガの第二話が更新される予定だったんですけど。更新、止まってます」

 

 ヒナタは少しの間、目を伏せて考え込んだ。ひどく奇妙な家の中、これらの手がかりを一つに形に出来るだろうあての在り処を、ヒナタは既に視線で示していた。

 

 目線の先には二階へと続く急な階段がある。日中だというのに上の階の方が一階より暗く、光が降りてきていない。

 

 一行の脚がそちらへ行くのは、そう時間が掛からなかった。

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