カスレアクロニクル   作:すばみずる

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150 カードで戦えよ!

 階段を上がる前に、キリメがヒナタの肩を軽く叩いて止めた。

 

「ちょい待ち、ヒナタさん」

 

「ん?」

 

「上がる前に確認。ここに来る途中でアンタ、新谷の調査で人を何人か雇ったって言ってたよな。家に忍び込ませた以外にも、周辺の聞き込みもさせたって」

 

「ああ、言ったね」

 

「で、聞き込みの方は何が出てきたんだよ。地下に転がってんのは忍び込ませた方だろ。聞き込み組は別だろうし、何か聞いてるんじゃねえの」

 

 ヒナタは少し感心した目をキリメに向ける。人が消えた方に気を取られて何も言われないかと思っていた。

 

 ヒナタは尻のポケットから黒革の手帳を抜き取り、ぱらりと開いた。

 

「確かに聞き込みは行われているが、そう大したことは聞けていないよ。何せこの家、住んでる人間自体がほとんど目撃されていない」

 

「は?」

 

「この家を建てたのは二十年以上前で、それから今までずっと、同じ世帯がここに住んでいるということになっている」

 

 ヒナタは手帳のページを指でなぞる。

 

「人影はたまに見るが、はっきりと住人の姿を見たという証言はほぼ無い。宅配業者もここへは置き配しかしていないという。ま、これくらいは現代ではよくあることか」

 

「アタシは対面で貰わないと不安だけど」

 

「この辺の治安は良いんだろうね。ただ、周辺住民は置き配を回収する人影は何度か見ているそうだ。証言をまとめると、小柄な人らしい。背格好は子供か、せいぜい中学生くらい」

 

「家族の誰か、とか? いやでも、子供なんて住めそうじゃないけど」

 

 キリメがきょろきょろと周囲を見る。子供が住んでいそうな可愛げのある空間とはとても思えない。

 

「もしかして、その小柄な人影ってのが新谷エダハ本人ってこと?」

 

「かもしれない、と思っているけどね。確証は無い。漫画家が表に出ないこと自体は別に珍しい話じゃないし、あのおじさんのように妙な状態にされている可能性もある」

 

 ヒナタが手帳から顔を上げて、台所の方を顎で示した。男はもう一階に戻ってきていて、台所の流しの前でぼんやりと突っ立っている。

 

「子供を召使として使っていたが、二代目としてあのおじさんを使っている、とか」

 

「最悪な想像すぎだろ」

 

 ヒナタは手帳をぱたんと閉じて、また尻のポケットに戻す。二人がうんざりした顔を見合わせる中、クモンが声をひそめつつおずおずと手を軽く上げる。

 

「あ、あの。これから二階に上がるのに、階段の下でこんなに話してたら、聞こえて警戒されちゃうんじゃ……」

 

「警戒なら、この家に入った時点でされているはずだよ」

 

 ヒナタは事も無げに笑う。

 

「クモンくんに向けて杖が飛んできた時点で、こちらの侵入は把握されていると私は思っている。もう待ち構えられている前提で動く方が早い。今からこそこそしても、結果はそれほど変わらないさ」

 

「だな。ケンカするにしても、二階に上がってくるところをボコる方が高所取れていい感じだろうから、どうせ待ち構えてるんだろ」

 

 キリメも頷きながらそんな物騒な相槌を打つ。クモンは二人の腹の括り方に思わず半歩下がった。

 

 そんなクモンの様子を見て、キリメはわざとらしく顔を覗き込んで意地悪く笑う。

 

「怖いならここで残ってもいいんだぞクモン」

 

「い、いや、ついてくよ。ていうか残ってた方が怖いよ」

 

 ヒナタはくすりと笑い、階段の手摺に手を掛けた。

 

「順番だ。先頭は大穴。次に私、その後ろにクモンくん、最後尾にキリメくん。何か飛んできたら、まず大穴が呑む」

 

「おーちゃん、頼んだ」

 

 キリメは先ほどクモンを守ったという一件から、大穴の事を心配する必要は無いと既に学習していた。頼られた大穴はふんすと小さく大きな胸を張った。理解しているかどうかは怪しいが、先頭に立つ事に異議は無いらしい。

 

 クモンも大穴によろしくと頼むと、大穴は何を思ったのかクモンの頭を撫でて再び胸を張った。そこはかとなく上下関係を意識されていることを察知してクモンは何とも言えない表情になる。

 

「……それにしても。君はクモンくんを危険に晒さないよう、ここに残すよりも追い返すかと思ったけど」

 

 子供?二人の様子を見ながら呟いたヒナタの問いかけに、キリメはバツが悪そうに頬を掻きながら少し目を逸らす。

 

「いやまぁ、危ないことはそうなんだけど。おーちゃんがいるならもう一緒にいたほうが安全かもだし。あいつもここまで家探しに付き合わせたら帰るに帰れないだろ」

 

「ふむ。本音は?」

 

「……ここまで来たらアタシ以外にもまともに驚いてくれる道連れが欲しい」

 

「うんうん。縋りつける相手は必要だからね」

 

「誰がクモンなんかに縋りつくかよ!」

 

「ああ、逆の方が好みだったか」

 

 キリメがヒナタに殴りかかる一幕を挟みつつ、気持ちを整えた一行は先頭である大穴が一段、二段と先に階段を上り始める。ヒナタが続き、クモンが続き、キリメが続く。ぎ、ぎ、ぎ、と。四人分の体重で、古い階段が同じ音色を四度ずつ鳴らした。

 

 階段は思ったよりも短く、すぐに上り切ってしまった。二階の踊り場に出ると両側に廊下が伸びていて、それぞれに扉が並んでいた。

 

 ヒナタは身構えていた。何かが飛んでくる、誰かが切り掛かってくる、あるいは廊下の床に何かしらの罠が仕掛けてある。そのようないずれかが起こると、八割方は予想していた。

 

 が、何も起こらない。ただ静かな廊下が薄暗く伸びているだけだった。

 

 先頭の大穴が、廊下の真ん中をきょろきょろと見渡している。彼女だけが検知できるものをがあったとしても、、何かが来るのを待っている顔ではない。

 

 ヒナタは大穴の首根っこを片手で軽く掴んで、子猫を持つ要領で自分の手元まで引き寄せた。一応、自分の前に大穴を置いておく。条理を無視した存在だからか持とうとするとひどく空虚に感じるのがヒナタには不思議だった。大穴も猫の時分で持ち方に慣れているのか不満な様子はない。

 

「罠の一つや二つ、あるかと思ったんだけどね」

 

「罠なんて大げさな……」

 

 言いかけて、キリメが妙な顔をした。

 

「……でも、あり得るのか? この家相手なら」

 

「キリメ姉、染まってきてるよ」

 

「うるせえ」

 

 クモンがぼそりと忠告するのを、キリメは小声で蹴り返す。

 

 ヒナタは廊下を見渡した。

 

 一階よりも空気が淀んでいる。電灯の類は点いていないようで、窓の遮光カーテンの隙間から漏れる夏の日差しだけが、廊下を薄く照らしていた。

 

 床に視線を落とす。埃が薄く積もっている。だが、その埃が踏み散らされて溝のように出来ている経路が薄く見えた。

 

 左側の廊下の二番目の扉。そこに向かう経路だけが、頻繁に往復されているらしい。他の扉の前にも経路はあるが、踏み跡の濃さが違う。

 

 ヒナタは指で、その扉を指し示した。

 

「ここに入る」

 

 キリメとクモンが揃って頷いた。

 

 ヒナタは大穴を持ち上げる手にもう少し力を入れて、抱え上げる体勢に切り替えた。もう片方の手で扉のノブに手を掛ける。子猫を盾にする要領で、頭の少し前あたりに大穴の身体を置いた。大穴は何が起きているのかよく分かっていないようだが、ぶらりと足を遊ばせるだけだ。

 

「行くよ」

 

 ヒナタは囁き、ガチャリと扉を開いた。

 

 八畳ほどの洋室だった。

 

 遮光カーテンが引かれているが、部屋全体が冷たい薄青の光に染まっている。光源は天井の照明ではない。

 

 部屋の中央に、その光源があった。

 

 高さも幅もクモンの背丈ほどはある、半透明の太い円柱。床から一メートルほどの高さに、何の支えも無く宙に浮いていた。淡く薄青く発光しながら、内側で何かが緩慢に動いている。

 

 その円柱の真下、床の上に、一人の男が仰向けに寝かされていた。

 

 よれよれの服装。無精髭。一階の薄汚れた男と同じような姿だが、こちらは身じろぎ一つしない。完全に意識を失っているのか、あるいは。ヒナタは深く考えないようにする。

 

 寝かされた男の額、こめかみ、首の付け根のあちこちから細い光の線が何本も垂直に伸び、上に浮かぶ円柱と繋がっている。

 

 そして、ヒナタから見て円柱を挟んで向こう側に、一人の少年が椅子に座っていた。

 

 黒髪。地味な顔立ち。傍らに作業机があり、その上には漫画家が使うらしい画材が乱雑に置かれている。Gペン、丸ペン、インクの瓶、原稿用紙、トーン、定規。紙の束。由来の知れないガラクタもそこそこ。

 

 少年はヒナタたちが入ってきた音に対して、ほんの一瞬だけ視線を向けた。

 

 身構える一行だが、それを無視してすぐに円柱の方へと視線を戻す。

 

 言葉は無い。挨拶も、誰何も、追い払う気配すらない。

 

 クモンが、ヒナタの背中越しに息を吸い込んだまま止めていた。

 

「な、なに、これ……」

 

 キリメの口からも、本気の困惑が漏れた。

 

 ヒナタだけが、努めて落ち着いた目で部屋全体を観察していた。

 

 仰向けの男から円柱に伸びる、光の線。その線を辿って円柱の内側を見ると、何かが映像のように動いている。遠景の戦場のような、何かの一室のような、何かを覗き込む視点のような。具体的なものを判別出来るほどの解像度はヒナタからは確認出来なかったが、それでも内側に映像のようなものが映っていることだけは分かる。

 

 ヒナタは作業机の上の画材に目を留め、それから少年に視線を移した。

 

「新谷エダハ先生で、いいかな?」

 

 少年は反応しない。円柱を見つめたまま、ヒナタの声が届いていないかのように、微動だにしなかった。

 

「いや、新谷エダハって二十年前にもう漫画描いてるだろ。こんな子供なわけねえって」

 

 後ろからキリメが小声で突っ込んでくる。

 

「残念だが、人の見た目と年齢がそぐわないのは、私の界隈においては当たり前だよ」

 

「あー……それは、まぁ」

 

 キリメは口を引き結んだ。小学生に見える女が三十五歳で店長をやっている事実がある以上、今更人間の中身と外見に整合性を求める方が間違っている。

 

 ヒナタは少年の横顔をじっと観察する。

 

 黒髪。整った造形ではあるが、特別美形というほどでもない。容姿だけ取れば、街中で何度すれ違っても覚えていないだろう類の顔だ。

 

 だが──。

 

(……何だろうな、これは)

 

 ヒナタは内心で眉を寄せた。

 

 顔が似ているとか、雰囲気が似ているとか、そういう種類の話ではない。系統で言えばまったく似ていないのだ。少年と、ヒナタの最愛の女は。

 

 ただ、ヒナタの目をどこか引っ掛けてくる何かがあった。

 

 高校生の頃、ぽつんと浮いていたミトラを見た時の感覚に近い。視界の中でその人物だけが妙に解像度を持って浮かび上がってくるような、引きつけて止まないような、ひどく不確かで言葉に出来ない感覚。

 

(……いや、まさか。私がロリコンが発展してショタコンも併発したというのか)

 

 ヒナタはその違和感を強引に頭の隅へ押しやることにした。今は自身の精神分析をしている場合ではない。

 

 ヒナタは、深く息を吸ってから一歩前に出た。

 

「ストレンジサーガの主人公のモデルについて、少し話を聞かせてもらえないかな」

 

 ぎょろり、と。

 

 少年の目が、初めてヒナタに向いた。

 

 円柱に張り付いていた視線が、ゆっくりと、しかし確かにヒナタを捉える。それだけで部屋の空気の温度が一段下がったように感じて、クモンの背筋が震えた。

 

 ヒナタは怯まずに続けた。

 

「あれは、私の最愛の女性、佐野ミトラをモデルにしたものだろう。──彼女を、知っているかい?」

 

 しばし、沈黙。

 

 その背後で、キリメが小声で呻いた。

 

「……うわ、マジで聞いたよこの人」

 

「ヒナタさん、それ言っちゃうんだ……」

 

 クモンも引き気味の声で唸る。ヒナタはちらりと振り返って、軽く肩をすくめた。

 

「勘は私の領分ではないが、洞察力は確かだよ。間違いない」

 

「いやそれ、傍から見てるとアレだよ、読んだ作品に対してこのアイデア自分の頭ん中にもあったのに盗作したんですかってクレーム付けて来るヤバい人」

 

 冷めた目のキリメに、ヒナタはふっと笑うだけだった。

 

 肝心の少年は、ヒナタからまた視線を外していた。円柱の方へ目を戻している。否定も肯定もない、無視そのものだった。

 

 これもダメか、とヒナタが内心で歯噛みする。場の停滞はヒナタの望むところではない。

 

 次の一手をヒナタが考えている内に、その背後からクモンがおずおずと一歩前に出た。

 

「あ、あの。今日のストレンジサーガの更新って──」

 

 言い切る前に、ガン、と。少年が、作業机を片手で力任せに叩いた。

 

 インクの瓶が跳ねて、ころん、と床に転がる。蓋が緩んでいたのか、絨毯の上に黒い染みが広がっていく。

 

「……うるさい」

 

 声が、低く、押し殺されたように漏れた。

 

 少年はもう一度、机を叩く。今度はもっと強く、Gペンも床へと転がっていった。原稿用紙の束が舞い上がって床に散らばる。

 

「分かってるんだよ、俺だって」

 

 少年の声が、震えていた。

 

「こっちは十何年待って、やっとまた掴み取った連載なんだよ……ッ!」

 

 血走った目がクモンを射抜いた。クモンは反射的に後ろに半歩下がる。

 

 少年は頭を抱え、宙に浮かぶ円柱へと視線を回して叫んだ。

 

「なんだよこれ! なんでこうなるんだよ! せっかくお膳立てしたのに、なんで真正面からイベント踏まないで横合いから全部ぶち壊すんだよ! どうやってこれでネームを切ればいい!? ヒロインが袋に詰められて誘拐される展開なんてどこの編集が通すんだよッ!!」

 

 ヒナタが少年の言葉を頭の中で繰り返している間にも、少年は作業机の上の原稿用紙をぐしゃぐしゃに丸めて、床に叩きつけていた。

 

「俺は悪くない……俺はちゃんと描こうとした! なのに、あいつらが勝手にシナリオを……ああっ、クソッ……!」

 

 少年は侵入者たちにはもう目もくれていなかった。円柱の内側にある何かに向かって、狂ったように怒鳴り散らし始める。

 

「おいクソ精霊! お前、もっとうまく誘導出来るって言っただろ! なんであいつら全員を村に連れていかない! なんで因縁のある敵のボスを画面外で物理で殴り殺させてんだよ! カードで戦えよ! 俺が見たいのはそういうのじゃない! 読者が求めてるのはカードバトルなんだよ!!」

 

 円柱の内側で映像が小さく揺らぐ。ぜえ、ぜえ、と少年は肩で息をしながら、怨嗟の籠もった声で呻いた。

 

「あいつらのせいで……俺の漫画が、終わる……俺の世界が……」

 

 少年は崩れ落ちるように椅子に座り、机に向き直る。そしてまた頭を掻きむしり、小声でぐちぐちと呟き続けていた。

 

 突然始まった激昂にクモンは完全に固まり、キリメも息を呑んで動けていない。だがヒナタは、少年の口から放たれた断片を一つずつ拾い集めていた。

 

 決定的な言葉は無い。だがこうして叫ばれればヒナタを直感させるには十分だった。何よりヒナタにとって、彼らほど思い通りにならず、悔しい思いをさせられ、全てを狂わせてくれた存在を他に知らない。

 

(あの円柱の中に、ボトムレスピットの皆が居る)

 

 ヒナタは音を立てずに踏み出した。少年は背を向けている。拘束をするなら今だ。

 

「だから、次はお前らでやり直す」

 

 円柱を回り込むように動こうとしたヒナタの脚を、少年の声が縫い留める。

 

 くるりと椅子を回した少年の手には、黒光りする杖が握られていた。振り向きざま、既に杖の先端をヒナタたちの方へ向けている。

 

 咄嗟に大穴を盾にしようと腕を引き上げたヒナタの膝から、力が抜けた。

 

「え、あ」

 

 感覚が失われていく。言葉を発する暇すら無い。背後でも同じことが起きている気配があった。キリメとクモンが呻き声をあげ、何かが膝を突く重い音が続く。

 

 ヒナタにもまた、脚から背骨を違和感がたちまち登っていくのを感じられた。骨の一本一本が急速に腐るような脱力の波。

 

 床に膝が触れる寸前、脱力が駆け上る前の自分の自由が利く最後の一秒で、ヒナタは辛うじて片手に意志を乗せた。

 

 引き寄せていた勢いを無理矢理方向を変え、掴んでいた大穴を殆ど突き飛ばすような勢いで少年の方へ放り投げる。

 

「なにを──」

 

 少年の声に、初めて狼狽が混じった。宙を飛んできた光景は想定外だったらしい。大穴自身も脱力していて、空中で身を捻る抵抗すら出来ていない。

 

 黒い影が、少年にぶち当たる。

 

 椅子がぐらりと傾いて少年が体勢を崩し、大穴の小さな、しかし不釣り合いに膨らんだ身体が少年の上半身を真上から押し潰す。

 

 二人と一脚の椅子がもろともに床へ転がる。少年が押し潰された下から毒づいた。

 

「くそっ、お前、萌え落ちした後の『全てを喰らう大穴』だろ! よりによってお前が俺の邪魔するなよ!」

 

 ヒナタは悔しげな声を聞いて妨害の成功に声なく喜ぶものの、床に倒れたままなのは変わらない。ぴくりと指を動かせたが脱力はまだ抜けず、額に汗が滲む。

 

「お前ら、よくも……ッ」

 

 少年が両手を床に突いて、力任せに大穴を押し退けようとする。が、大穴の身体は元々不定の存在、意識して重くしてある彼女では、少年の細腕ではなかなか持ち上がらない。

 

 大穴も少年を掴もうとしているが、脱力した手はクモンの首にかじりついた時のような握力を発揮できていない。少年の服を辛うじて掴んでいるだけで、抑え込めていない。

 

 二人はわずかに拮抗を見せていたものの、拘束なく体重だけでは抑え込めるものではなかった。じりじりと少年の身体が大穴の下から這い出ようとしているのを見て、ヒナタは歯噛みする。

 

「まずい、抜けられる」

 

 倒れ伏したまま動かない自分の肉体が心底恨めしい。指の先まで麻痺していて、感覚が無いままで痙攣するように動かすのが精いっぱいだ。動く気配が戻ってくるのがまるで分からない。

 

 その時。ヒナタの斜め後ろで、何かが床を叩く軽い音がした。

 

 キリメが倒れた状態のまま、辛うじて動く片手で、床に落ちた自分のスマホをぱしぱしと叩いている。

 

「おーちゃん」

 

 キリメの声が、絞り出された。

 

「そいつ、飲んじゃえ」

 

 大穴が少年の上から、ゆっくりとキリメを見た。星屑の瞳がぱちりと瞬く。

 

 そして、こくりと頷いた。

 

「は? 待て、まさか」

 

 少年が叫び切る前に、既に変化は始まっていた。

 

 大穴の身体と触れ合っている少年の輪郭が、大穴の方が溶けるかのようにずぶり、と沈み込み始めた。

 

「やめ、やめろッ! おい、違うだろ、大穴の効果は――」

 

 少年がもがいた。両足で床を蹴り、両手で大穴の身体を押し退けようとする。だが、その手のひらが大穴の身体に触れた瞬間、その手ごと大穴に沈んでいく。

 

 少年の身体が、伸し掛かられている穴に落ちていくとでもいうような不条理な光景。重力に従う穴が少年の体を飲み込みながら、床に体を乗せていく。

 

「クソッ、クソッ……ッ!」

 

 半分が呑まれかけながら、少年は最後の抵抗を見せた。

 

 手にしていた杖を自分の眉間に当てる。何かを念じるようにぎゅっと目を閉じ、次の瞬間。

 

 少年はその杖を部屋の真ん中、半透明の円柱へと放り投げた。

 

 誰しもが倒れている室内では、それを妨害するものはいない。杖は円柱に重なった途端、ふっとその姿を消した。円柱に乱れたノイズが走り、光が僅かに翳る。

 

 ほどなくして、少年は完全に大穴に呑まれた。恨み言も何もないあっさりとした消え方に、ヒナタは消えたことにすぐには気付けなかった。

 

 大穴は床に座り込み、口の端をぺろりと舐めてからんにゃんと短く鳴く。それだけが、少年が消えた事に対する余韻だった

 

 

 

 ゆっくりと、ヒナタの指先に感覚が戻ってきた。

 

 深く息を吸って身を起こす。キリメも、クモンも、同じように体を起こしていた。クモンはまだ顔を青くしているが、外傷は無さそうだ。

 

「……ふぅ」

 

 ヒナタは、軽く首を回しながら、大穴の方を見やった。大穴は床の上で行儀よく座って、どこか自慢げな顔をしている。

 

「大穴に、人を呑ませる、ねぇ」

 

 ヒナタが薄く笑う。

 

「君がそんな指示を出すとは思わなかったよ、キリメくん」

 

「いや、なんつーかさ」

 

 キリメは服の裾を直し終えると、やはり言いにくそうに言う。咄嗟の判断を褒められるのが慣れていないというのと、人に対してやるには物騒な指示だったのを悔やんでいるのかもしれない。

 

「おーちゃんって、シラベのスマホとか体内にしまえてたじゃん? だから人飲み込んでも、たぶん後で元通りに吐き出せるんじゃねえかなって……」

 

「咄嗟にそれが出てくるあたり、君も大概だな」

 

「うるさい」

 

 キリメはばつが悪そうに、大穴の方へ向き直る。

 

「な、おーちゃん。あいつ、後で吐き出せる、よな?」

 

 大穴は少し首を傾げた。暫く考えるように瞬きをして、ぐるりと頭を回して長々と考えたあと、こくりと頷いた。

 

 その考える時間と頷きが本当に意味する所はキリメには分からないが、とりあえず少年が消化されてしまったわけではないらしい、と都合よく解釈することにする。

 

「……ま、解放するのは少し落ち着いてからだね。あの調子で出してやったら、また何かするだろう。十分に拘束できる目処が立ってからで構わない」

 

 ヒナタの目はもう少年の消えた床ではなく、別の方を向いていた。

 

 部屋の中央。仰向けの男と、淡く宙に浮かぶ半透明の円柱。

 

 ヒナタはゆっくりと歩き、円柱を回り込んでいく。乱雑に散らばった原稿用紙を踏まないように足を運ぶ。机の脇に倒れた椅子。ぐしゃぐしゃに丸められた紙束。床に広がるインクの黒い染み。

 

 その中央。少年がずっと見ていた位置に、キリメは立つ。

 

「さて。一体、彼は何を見ていたのかな」

 

 ヒナタは円柱に視線を向けた。半透明の円柱の中で、薄青い光が緩慢に揺らいでいる。

 

 揺らぎの奥には何かの像が、確かに浮かんでいた。

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