カスレアクロニクル   作:すばみずる

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151 存在しないものを思い出せるわけないだろ

 寝間着の襟元に、誰かの呼吸が当たっていた。

 

 シラベが意識を浮上させる前に、まず重みが気になった。肩口には子犬一頭分くらいの重さが、胸の上には中型犬のような重さと柔らかさが、腰回りにはどっしりと大型犬が居座っているような安定感がある。やや寝苦しく寝返りも打てない。

 

 まぶたを持ち上げる。真っ先に視界に入ったのは、部屋に付けられた常夜灯のような照明の下で煌めく、金髪の頭頂部だった。

 

「……お前な」

 

 レヴェローズは素朴なシャツ姿のまま、シラベの上にまたがるような格好で抱きついている。両腕をシラベの首の下に回し、頬をシラベの鎖骨に擦り付けたまま、すうすうと寝息を立てていた。

 

 廃鉱山の部屋には窓は無く、時刻が分からない。だが体感時間では今は朝だと伝えている気がする。

 

 シラベはレヴェローズの後頭部に右手を載せた。指先で金髪の根元あたりを軽く梳く。

 

「そろそろ起きるぞ」

 

「ぅん……もうちょっと……」

 

 寝ぼけた声が響き、シラベの首筋に直接吹き付けられた。

 

「もうちょっとと言って、ちょっとで済んだことが何回あった」

 

「……覚えてない」

 

「存在しないものを思い出せるわけないだろ」

 

 シラベは溜め息を吐きつつ、力を込めて引き剥がそうとは思わなかった。息苦しいものの、悪い気分ではないのは確かだ。

 

 レヴェローズは目を閉じたまま、もぞもぞとシラベの首筋に頬を寄せ直す。

 

「……契約者。私の都合も考えてくれ」

 

「都合?」

 

 眠そうな声でレヴェローズは訴える。

 

「姉様や店長は、誰に見られていようと気にしないだろう。だが私はそうはいかんのだ。部下の前で契約者に甘えているところを見せてしまえば、軍紀に関わる。総督が男に擦り寄っているなどと言われては、示しがつかんだろう」

 

 言いながら、レヴェローズはシラベの肩口に唇を押し付けるように深く頬を寄せる。

 

「だからな、こうして人目の無い場所では、たっぷり甘えさせてもらわねば、釣り合いが取れんのだ」

 

 シラベはぼんやりと天井の岩肌を見上げた。

 

 義勇軍の練兵についてレヴェローズが真剣に取り組んでいる様子は、シラベも合流してから何度か目にしている。隊伍の組み方、武器の手入れ、夜の見張り当番の編成。部下を見るレヴェローズの目は、ボトムレスピットで漫画本をめくっている時とは別人のものだ。

 

(……まあ、それなら、これくらいは)

 

 シラベは無言で、レヴェローズの頭をもう一度撫でてやった。肯定された事を感じてレヴェローズは身体を摺り寄せて来る。

 

 とはいえ、納得し切る前に、別の疑問が頭をもたげるのに気付く。

 

「いや待て。お前、店じゃ普通に客の前でも擦り寄ってくるじゃねえか」

 

「んー?」

 

「カウンターの中まで入ってきて『契約者、撫でろー』とか言うだろうが。軍紀がどうの言えるんだったら普段の態度からなんとかしろよ」

 

 レヴェローズの肩が、ぴくりと震えた。しばしシラベの首筋で沈黙が続く。

 

 やがて、ぽつりと零す。

 

「……店での生活は、私にとって、非番のようなものなのだ。軍務でない場所で気張っても仕方がないだろう。所属が違えば求められる規律も違う。当然のことではないか」

 

「都合のいい言い訳しやがって」

 

 軽口を交わしている間も、シラベは指先でレヴェローズの髪を梳き続けていた。

 

「では、その理屈で参りますと。レヴェローズにだけは、軍隊もかくやとばかりに更なる仕事を割り当てても構いませんのね?」

 

 静かな声が割り込む。同時に、シラベの右側に敷かれた毛布がすうっと音もなく持ち上がった。

 

 バスローブのような寝間着を着たカルメリエルが、ヴェールでも被るかのように毛布を頭に掛けたままシラベとレヴェローズを見つめている。糸目はわずかに開かれており、口元は微笑みの形を保ちながらも声の温度だけ低かった。

 

「姉様!? 起きていたのか!」

 

「ええ。先ほどから」

 

 レヴェローズがシラベから顔を跳ね上げた。シラベは天井を見上げたまま、内心でだろうなと呟いていた。

 

 カルメリエルの右手は先程からずっとシラベの脇腹に張り付いていた。指の腹で控えめに肌をなぞり、寝間着の裾を弄って遊ぶそれを寝相の範疇で済ますことはシラベには出来ない。

 

 毛布から起き上がったカルメリエルは、シラベがレヴェローズを撫でていた右手をするりと取った。両手で包み込むようにして、自分の胸元へ抱き寄せる。

 

「ねぇレヴェローズ。今日は早朝から、あなたの部隊員と合同の訓練でしたわね?」

 

「うっ……それは、そうだが……」

 

「では早く着替えて出向きなさい。軍紀を重んじる総督がそんな調子では、部下が困りますよ」

 

 糸目の聖女の口元が露骨に弧を描く。

 

 シラベの右腕を抱き締めぴたりと密着させようとする力の入り方は、お気に入りの抱き枕を横から取られまいと主張する少女のようで、この異世界において教祖となった女の有り様とはとても思えない。

 

「むぅ。何を言うか姉様。ここは文字通りの山の中。日の光も差さず、時刻もろくに分からん場所で何故そう急かす」

 

 レヴェローズが、シラベの胸板に頬を擦り付け直して抗弁した。

 

「それは、こちらに用意がございますの」

 

 カルメリエルは枕元から、片手で薄い金属板の装置を取り上げる。信徒たちが用意したもののようだ。表面に小さな歯車が組み込まれており、文字盤の中央に黄色い丸印が刻まれていた。

 

 今、その印は文字盤の地平線らしき位置から、わずかに上に登ったところで止まっている。

 

「もう日が昇って、そろそろ信徒が朝を告げる鐘を鳴らすはずですわ。さあ、早くどきなさい」

 

 言われた直後。廊下の遠くから、ごーん、ごーんと、低く澄んだ鐘の音が二度、三度と響いてきた。

 

「……うぐぐ」

 

 レヴェローズの口の端がぐにゃりと歪んだ。負けを認めるのが嫌でたまらないという顔だ。

 

 だが、自分で軍紀を持ち出した手前、ここで踏み留まる名分が無い。レヴェローズはシラベの身体から名残惜しそうに頬を離し、のろのろと身を起こした。

 

「……ちっ。覚えていろよ姉様」

 

「ええ、よく覚えておきますわ」

 

 毛布を蹴って立ち上がるレヴェローズと入れ替わるようにして、カルメリエルは音もなくシラベの右側へ滑り込んできた。半端に空いたシラベの右腕に、しなだれかかるように体重を預ける。

 

「やはりシラベ様の隣は良いものですわ。妹の温もりが残っているのも、こういう場合では悪くございません」

 

「お前なぁ……」

 

 シラベは半眼でカルメリエルを横目に見るが、抱き付かれた腕を払うほどの気にはなれない。

 

 着替えの間、レヴェローズは部屋の隅で何度かこちらを振り返って恨めしげに睨んでいたが、最終的には軍服の襟を整え、サーベルを腰に佩いた総督の姿に切り替わって扉に手を掛けた。

 

「……契約者、姉様」

 

「ん?」

 

「いつまでも盛っているのではないぞ」

 

 扉前に立ち、レヴェローズが捨て台詞を吐いた。

 

「そんな下品な真似はしませんわ。ね、シラベ様?」

 

 ぐりぐりと頭を擦り付けて来ているカルメリエルを呆れた目で見ながら、シラベはあえて返事をしなかった。

 

 ぱたん、と扉が閉じ、廊下に靴音が遠ざかっていく。

 

「ふふん」

 

 二人きりになった途端、カルメリエルがあからさまに勝ち誇った声を出した。

 

「さぁ、お邪魔虫は去りましたわ。私たちの朝のひと時はこれからですわね」

 

 糸目の奥の緑の瞳が、ねっとりと甘い熱を帯びているのをシラベは感じ取る。

 

「お前なぁ。この世界に来てから、やたら積極的じゃねえか」

 

「あら、そうですか?」

 

「自覚あんだろ。前くらいの方が可愛げあったぞ」

 

 わざとカルメリエルが不愉快に思うような言葉を選ぶものの、シラベの言葉にカルメリエルはくすりと笑い、起き上がってシラベの胸の上に手を添える。

 

「宗教組織の長としての振る舞いを存分に発揮し、その手応えがあったせいでしょうか。私にも私らしい場所がある、ということを思い出しまして。それなら、いま少しは自由に振る舞ってもよいかと」

 

「教祖様が淫行に耽るとか、ヤバい組織まっしぐらだな」

 

「あら、淫行とは心外ですわ」

 

 カルメリエルは口元を片手で覆い、わざとらしく目を見開いた。

 

「この世界では、どのような物事が不健全であるかは、私たちの意志とは無関係に定められているではありませんか」

 

 言いながら、カルメリエルの細い指がするりとシラベの寝間着の腰回りに降りる。下着の縁を指で引こうとして──そこから先がどうしても動かない。何度押しても引いても、まるで縫い付けられているように布が肌から離れない。

 

「ね?」

 

 カルメリエルは指で軽く何度かそこを摘んでみせ、シラベに向き直る。バスローブの着こなしを僅かに調節しながら、前傾姿勢になって身体のあちこちが重力に従っている様をシラベに見せつけようとしていた。

 

「ですから、これから朝の健全な触れ合いを楽しみましょう、というだけのお話ですわ」

 

 糸目を僅かに開き、寝間着越しの胸を押し付けるようにしながら、カルメリエルはシラベの腰のあたりへ跨ろうと膝を立てた。

 

 いよいよ顔と顔が近付こうとする瞬間。それを見計らったかのようにシラベの左側からにゅっと白い腕が伸び、ぴしっと乾いた音がカルメリエルの額のど真ん中で弾けた。

 

「あいたっ!?」

 

 カルメリエルが慌てて身を起こし、両手で額を押さえてシラベの左側を見やる。

 

 毛布の下から伸びた白い腕。もぞもぞと動いて捲られた毛布から、シラベの左腕を枕にしたままのミトラが機嫌の悪い顔を隠そうともしない。

 

「……朝から、うるさい」

 

 寝起きそのものの、低く掠れた声。半目のままミトラは腕を畳んでから一度大きく欠伸をし、それからじろりとカルメリエルを睨んだ。

 

「ミ、ミトラ様」

 

「あんた、何隣で堂々とおっぱじめようとしてるのよ。そういうのは夜だけにして」

 

「ご、誤解ですわ! これはローテーションが機能していない緊急措置の一環として、それぞれが行使されるべき権利を味わおうとしていただけです!」

 

「俺の朝を怠惰に過ごす権利は行使していいか?」

 

 シラベの呟きは都合よく無視されつつ、カルメリエルがあわあわと頬を染めて手を振る。ローテーションにおける権利などという言葉はシラベは知らないが、どうせ聞いても無駄だろうということは分かり切っていた。

 

 ボトムレスピットでは一週間のうち、シラベの隣で寝る権利が取り決められていた。ミトラが一日、カルメリエルが一日、レヴェローズが二日。残りの三日はシラベ一人で寝ることになっているが、大抵は猫の大穴が潜り込んできて埋まる。

 

 だがこの世界に来てからばらばらになった関係上、ローテーションの管理はうやむやになっていた。そして現実問題として寝ている間にトラブルが起きて再び散り散りになるのを避けるために、合流してからは皆で一緒に寝るのが暗黙のルールになっていた。シラベを中央に置き、左右に女性陣が散らばる。ぎゅう詰めではあるが、これが今のところの安定形だった。

 

 とはいえ全員平等の建付けは、こうした隙を狙う者にとっては抜け道でしかない。

 

「権利の行使と、うるさくしてるのは別物でしょ」

 

 ミトラは欠伸混じりに言い、肘を立ててむくりと身を起こす。そしてそのまま、シラベの胸の上にぽすんと自分の身体を乗せた。

 

 子供程度の体重がふわりと落ちてくる。レヴェローズの時と違って、こちらは抗議のしようも無い。シラベの胸の上に頬を当て、両腕を首の後ろに回そうとするが届かず、それでも満足そうに身じろぎする。

 

 カルメリエルはあっと小さく声を上げ、ミトラの背中を引き剥がそうとした手をぴたりと止めた。ミトラを物理で押し退けるという選択は、やや自由に振る舞いつつある彼女にも踏み切れなかったらしい。

 

 代わりにカルメリエルは、シラベの右腕にぎゅっと縋り直した。

 

「……ミトラ様、せめて右はお譲りくださいませ」

 

「ま、それくらいはいいわよ」

 

 シラベの意見は求められていないことは分かっていたため、シラベは何も言わずに腕を差し出すしかない。せめて目線だけで抗議の意思を伝えると、ミトラが柔らかな顔でシラベを見つめ返す。

 

 頭をほんの少し傾け、額をシラベの顎の下に寄せてくる。何を言わなくとも何を要求されているか分かるのは習慣の怖さを思い知らせてくれる。シラベは黙って空いている手で、ミトラの後頭部をゆっくりと撫でてやる。

 

 ミトラの口元がふっと緩み、シラベの胸の上で満足げに目を閉じた。

 

 ボトムレスピットでよく見るその顔を、廃鉱山の薄暗い寝室で見ているという事実だけが、相変わらず奇妙だった。

 

 このまま二度寝でもしてしまおうかとシラベが思っていると、不意にカルメリエルがベッドから身を起こした。

 

「カルメリエル?」

 

 ミトラに構っていたからへそを曲げたのかとシラベは思ったが、そういう様子とも少し違く感じた。そのまま彼女はベッドから降りて身支度をはじめ、たちまちいつものシスター服姿になって髪を整えた。

 

 準備を終えたのとほぼ同時に、部屋の扉がこんこんと控えめにノックされた。どうやら廊下からの足音を聞き取り準備をしたらしい。

 

「どうぞ」

 

 カルメリエルの言葉で、部屋の扉がためらいがちに開いた。

 

 差し込んできた廊下の灯火を背に立っていたのは、エメラルドグリーンのローブを羽織った小柄な少女だった。

 

 長い銀髪と、ローブを押し上げる背丈に見合わない胸の膨らみ。所在なさげな表情は板についており、いつも何かに怯えているようにも見える。

 

 二日前にミトラが捕らえてきた少女、ミーシャだった。

 

「お、おはようございます」

 

 ミーシャは小さく頭を下げてから、慎重に口を開いた。

 

「あの……朝餉のご準備が、整いました。教祖様、ご主人様」

 

 シラベはミトラを胸の上に抱えたまま、ゆっくりと身を起こした。膝の上にミトラを座らせる形にして、寝間着の襟をついでに直してやる。

 

「ご主人様はやめろっつったろ」

 

「あ……すみません、つい……」

 

 ミーシャがぺこりと頭を下げ直す。

 

 シラベはミーシャの様子を見ながら、二日前の光景を思い返した。

 

 麻袋の中から解放された直後、ミーシャは半ば過呼吸の状態で蹲り、誰に触れられても震えるだけになっていた。涙と汗と滲んだ狼の涎で顔がぐしゃぐしゃになってしまい、シラベに対する目線は完全に拐かしの加害者を見るものだった。

 

 ストーリーキーであろうこの少女との関係をここで壊すわけにはいかないが、ミトラにもレヴェローズにも懐柔などという高度な対人コミュニケーションを望むことは出来ない。シラベはひたすら心を砕き、カルメリエルの口八丁を借りる形で慎重に時間を掛けてミーシャを宥めた。

 

 最終的にミーシャの中で組み立てられた解釈は、おおむね次のようなものだった。

 

 ソロモン軍に襲われている村を、「真・機械正教」の教祖たるカルメリエルが救援に来てくれた。村を守るための作戦の一環として自分のような非戦闘員は急遽回収されて、シラベとミトラは行き場の無い自分の保護者となってくれた夫婦である。

 

 全部が全部噓ではない、というのが救いだった。村を救ったのは事実だし、保護していること自体も間違いではない。麻袋に詰めて誘拐したという部分だけが余計だが、緊急措置ということで気にしないでもらっている。

 

 その中で、ミーシャは自分なりにシラベたちを呼ぶ言葉を探していた。最初は「シラベ様」だったが、呼び方が被ったせいでカルメリエルの機嫌が悪くなった。「ご主人様」というのはシラベもちょっと座りが悪い。

 

「あの、その……」

 

 ミーシャがもじもじと指を組み合わせる。

 

「……では、お父様と、お呼びしても、よろしいでしょうか」

 

 しばし、シラベは無言になった。

 

 行き場の無い子供を引き取った存在であり、内縁とはいえ一応所帯持ちとなる予定はある。それらを鑑みればそれほど理屈の曲がった呼び方ではない。

 

「……俺、そんな歳じゃねえぞ」

 

 シラベはかろうじてそれだけを返した。

 

(いや、まあ。悪い気は、しねえけど)

 

 内心、ほんの少しだけぐっと来てしまった。銀髪豊満のヒロインがお父様とおずおず呼んでくれるのはこれは普通に駄目な属性の組み合わせではないか。シラベの中の冷静な部分がまた女と見れば見境なしかと自己嫌悪を促そうとする。

 

「あんた今、ちょっと良いなって思ったでしょ」

 

 秘した筈の感情を言い当てられてシラベは黙り込む。それを見てミトラはくすくすと笑った。

 

「単純な奴」

 

「うるせえな」

 

 反論の言葉はもう用意できなかった。シラベはわざとミトラの頭を強めにわしわしと撫で、抗議の意を表明することにした。ミトラはやめなさいよと笑いながら抵抗して、結局シラベの手の中で大人しく撫でられている。

 

 扉の前のミーシャは、その応酬を目で追いつつ、何やら判断に困っている顔をしていた。

 

 その肩に、カルメリエルがそっと手を添える。

 

「ありがとうございます、ミーシャさん。せっかく来ていただき申し訳ありませんが、食事について私たちは別で摂りますので呼び掛けは不要ですわ」

 

「えっ……あ、そ、そうだったのですね。大変失礼致しました」

 

 ミーシャがぴょこんと頭を下げた。

 

「いいえ、ミーシャさんは来たばかりですもの。知らなくて当然ですわ。ただ、信徒へ触れ回るための声掛けはとても助かりますから、今後もお願いしますね」

 

「は、はい」

 

 カルメリエルは聖女モードのまま柔らかく微笑み、それからミーシャの頬に指の背を優しく当てる。

 

「それよりも、ですわ」

 

「……はい?」

 

「まだ記憶は戻りませんでしょう? 今日も『診察』を行いましょうか」

 

「あ……はい。よろしく、お願いします」

 

 ミーシャの目が、ぱっと明るくなる。尊敬、あるいは期待のような気持ちが籠った表情。それをさせているのがカルメリエルであるということを除けばシラベにとっても喜ばしい表情の変化であった。

 

 カルメリエルはミーシャの肩を抱くようにして部屋の外へ誘導していく。扉が再び閉ざされた。

 

 廊下に二人分の足音が遠ざかっていく。

 

「……『診察』って、何のこと?」

 

 膝の上でぼんやり呟いたのは、ミトラだった。

 

 シラベの胸板に頬を擦り付けつつ、目だけは扉の方を向いている。

 

「ああ、それな」

 

 シラベはミトラの背中を支え直し、寝室の枕元に置いていた水差しに手を伸ばした。冷めた水を口に含み、寝起きの渇いた喉を湿らせてから、ぽつりと続ける。

 

「ミーシャはどうも、記憶喪失らしくてな」

 

「えっ、そうなの」

 

「ああ。最初の聞き取りでも、自分の生まれた場所も家族の事も何一つ覚えてねえって言ってたんだ」

 

「……あ。私、面倒だからってモンちゃんに運ばせたのちょっと反省した方がいい? ショックがデカ過ぎて記憶飛ばしたとか」

 

 シラベは小さく笑った。

 

「いや、お前のせいじゃねえ。あいつ、葬送外野(ヘルヘイム)に来た時から、ずっと記憶が無いんだとよ」

 

 ミトラが顔を上げる。

 

「来た時からって。他の住人と違うってこと?」

 

「そうだ」

 

 葬送外野(ヘルヘイム)の住人は、九脊界各地で死を迎えた者がここに流れ着いて生活している。だから誰でも、前世のような形で出身脊界の記憶を抱えている。シラベもこの世界に来てからの取材で、信徒や義勇軍の連中からそれぞれの脊界の話をいくつか聞き取りはしていた。

 

 その中で、ミーシャだけは生まれも記憶も無い。

 

「記憶喪失のヒロインって、ありがちな造形だろ」

 

「まぁ、テンプレよね」

 

「実は何々の何々でした、ってオチがほぼセットだ。理由が無ければ推定ヒロインに記憶喪失なんて設定くっつけねえ。ならその記憶を蘇らせれば、ストーリークリアの何かしらに繋がるかもしれないだろ」

 

「ふぅん」

 

「で、それを蘇らせる方を、いまカルメリエルに調べさせてる」

 

 ミトラの眉が、わずかに寄った。

 

「……あいつに調べさせて、大丈夫なの?」

 

「俺もちょっと不安ではある」

 

 シラベは正直に答えた。カルメリエルは戦力的にも情報的にも頼り過ぎているのは自覚しているし、便利過ぎて頼ったままだとあいつにも悪い。

 

「ただ、ちょっと当てにはしてんだよ」

 

「あいつのどこを」

 

「レヴェローズを見てみろ。あれは戦場でカードとしての効果で好き放題やらかしてやがる」

 

 戦場で生きることが本望とばかりに強化をばら撒くレヴェローズはカードとしての性能をそのまま持ち出したかのような無法な存在だ。もしこれが他の精霊にも当てはまるのであれば可能性は広がる。

 

「カルメリエルにも、CCを支払って墓地から機械カードをデッキトップに戻す効果あるだろ。あれが何かしらの形で適用出来るんじゃねえかと思って」

 

「あー、なるほどね」

 

 ミトラはぽんと小さく手を叩く真似をした。だがすぐに、その指を立ててシラベの胸を軽く突く。

 

「でもそれ、機械についてしか思い出せないとかになるんじゃないの?」

 

「うっ」

 

 懸念点を即座に突かれてシラベは呻き声を上げる。墓地から戻すのは機械カード限定というのがそのまま適応されるなら、ミーシャの記憶のうち機械に関する部分だけが浮上することになる。前世が機械工だったなら色々芋づる式に出てくるかもしれないが、ヒロインの前世にしてはずいぶん渋い設定になってしまう。

 

「……ま、それならそれで、使えるかもしれねえしな。機械の知識を持つキャラの記憶が戻ったってだけで、何かのフラグになる可能性はある。何にもないよりはマシだ」

 

 シラベは誤魔化すように声を低めた。

 

「適当ねぇ」

 

「仕方ねえだろ。お前んとこのヒント係も黙り込んで手がかりが無いんだ。行き当たりばったりにもなるだろ」

 

 ミトラはくすりと笑い、シラベの首に腕を回し直すと頬をその肩口にぴたりと寄せた。シラベは無言でその細い背中を抱き返す。

 

 精霊たちと違い、ミトラを起こしに来る存在はこの世界には無い。何のしがらみもなく、誰からも求められない。唯一寄り添えるのはシラベだけだ。

 

 だから仕方がない。ミトラが満足するまで、この朝を一緒にいるしかない。シラベはそう自分に言い聞かせて、ミトラの背をぽんぽんと叩く。

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