カスレアクロニクル   作:すばみずる

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158 いい眺めでしょ

いただいた158話に手を加えた本文を提示します。これを正として保持しておいてください

 

 暗いと思うことすら正しくないのかもしれなかった。暗いという感覚は、目があって初めて成り立つものだ。光が無いのだと知るには、光を受け取るための器官が要る。

 

 けれど今のエダハには、それが無かった。瞼を閉じているのでもなく、闇の中に置かれているのでもない。ただ何も無い。世界との接点がごっそりと削ぎ落とされた、輪郭だけの自分がそこにある。

 

 新谷エダハは一本の杖の中にいた。あの黒い精霊、全てを喰らう大穴に肉体を喰われる寸前でなけなしの術で意志と魂をそこへ逃がした。

 

 このままでは死ぬ、と本能的に悟った故の苦し紛れの方法に過ぎない。逃げ出した先に何があるでもなく、今ですら手も足も、声を出す喉すらもそこには無かった。

 

(指の一本でも動かせたらいいんだがな)

 

 念じてみるが応える肉は無い。指の感覚という記憶だけが、意識の中で空しく曲げ伸ばしされる。

 

 肉体を持たないというのはこういうことだった。動けない。喋れない。自分から何かをすることが一切できない。出来るのはただ待つこと。ノルドリッチとかいうあの精霊が、自分に新しい「体」を与えてくれるのをひたすら待つことだけだ。

 

 待つだけの時間というのは、思考を腐らせるのに向いている。エダハは何度も同じところを巡る思考の中で、自分がどうしてここまで来てしまったのかを反芻していた。

 

 

 話は単純だったはずなのだ。本物のソロモン王を、本物の九脊界を、今度こそ嘘の混じらない姿で描く。二十年前には果たせなかった約束を果たす。そのためにノルドリッチの話を聞き、そのための旅の記憶を呼び起こすためのこの箱庭だった。

 

 ノルドリッチは九脊界の内の八つまではするすると答え、映像まで見せるほどのサービスの良さを出しておきながら、肝心要の葬送外野(ヘルヘイム)だけはまともに答えられなかった。

 

 それに対する怒りは無い。それを言うならエダハ自身だって、本物の九脊界を旅していた癖に思い出せないでいる体たらくだ。その欠落は責められない。

 

 代わりに、と示された可能性が箱庭だ。エダハ自身の記憶と渡界者としての経験、そして漫画を描くにあたって貸与されていたECeのアルファ版アプリにおいてのストーリーモード。それらを混ぜて作り上げた箱庭であれば、真に迫ったものになると言われた。

 

 最初は拒絶した。八つ分の脊界の話を聞いていて、曲りなりにも公式の資料もあるのだ、あとは自分の力で葬送外野(ヘルヘイム)でのソロモン王の苦悩を思い出して描いて見せると意気込んだ。

 

 だが、エダハには描けなかった。ノルドリッチから聞き思い出して描いた他の脊界は思い出そのものが描かれていると言っていいほどの出来なのに、葬送外野(ヘルヘイム)での様子を描いたものは出来が悪い。すがたかたちは似ていても、エダハにはこれではないと思えてならない。

 

 あの景色を見ている筈なのに。こんなものではない筈なのに。自分の頭の中には材料がそろっているのに、それを見る事も出力することも出来ない。それこそノルドリッチに出会う前から抱えていた新谷エダハの焦燥だった。

 

 焦りはノルドリッチに話を聞いたからこそ加速したと言っていい。彼女の話を聞いた部分では旅の記憶が蘇り、ペン先は自在に動いた。まるで線が生きているようだよとノルドリッチですら語っていた。そうして蘇らせる手段が半端に見つかってしまったが故に、エダハが葬送外野(ヘルヘイム)でも同等の出来が期待してしまうようになったのは自分でも止めようがなかった。

 

 箱庭を作って欲しいという決断が遅れたせいで、更にエダハは誤った。いよいよ締切が近いというのに満足の行く物語は練られていない。締切を守れなければ得られた発表の場を失うという恐怖に駆られた。更にノルドリッチは掠れた記憶で本当にソロモン王なんて描けるのかな、締め切りは待ってくれないよ、と囁き追い込んだ。

 

 振り払おうとしたエダハを突き落としたのが、ノルドリッチのセイズだった。占いとは言うものの、オカルトの存在が振りかざすそれは未来予知といっても過言ではない。これがキミの未来の姿だと見せられてしまえば、冷静でいられるはずもない。これが唯一、キミが生きていられる道だと示されて、手を取らずにいられる人間がどれほどいるだろうか。

 

 その手に縋った結果がこれだ。漫画を描くだけだったはずの自分がいまや箱庭の中へ落ちて、杖として転がっている。

 

 どこで間違えたのか、とエダハは自問する。いくつもの分岐が空を裂く枝のように伸びていたはずだが、振り返れば一本の道にしか見えない。

 

 あるいはノルドリッチに選ばされていたのか。この何も選択出来ない状況になるまで誘導されていたのではないか。浮かんだ思いを追い払おうとするが振る頭は無い。

 

 代わりに憎悪を思い出す。恐怖を別の感情で塗り替えるしか今のエダハに切り替える手段は無い。

 

 肉体を無くして杖の中で喚くしかないエダハに、ノルドリッチは事もなげに言ったのだ。

 

 ──もし君自身が『ソロモン王』としてあのプレイヤーたちと戦うんだとしたら。それは、いい経験になると思わない?

 

 まるで良いことを思いついたとでもいうように。まるでそれが、エダハのためであるかのように。

 

 その提案を最初に聞いた時、腹の底で煮えたのは拒絶だった。エダハを拾い、旅をともにし、絵を認めてくれた、たった一人の恩人。神聖にして不可侵、その姿を自分ごときが模倣する。エダハの感傷に土足で踏み入る提案は、考えただけで肉の無い身体が粟立つようだった。

 

 だが。拒絶のすぐ裏側で別の熱が点いたのも事実だった。好き放題していたプレイヤーに思い知らすことが出来る。ソロモン王という存在を見せつけてやるべきだ。お前らが許されるせいぜいは、ソロモン王から下賜されたカードと言う力で抗うことなのだと刻み込まなければならない。

 

 ソロモン王の名を騙る忌避感を、その復讐心が一息に呑み込んだ。

 

 思い知らせてやりたいのはあいつらだけじゃない。エダハの思念が、暗がりの中で研がれ続ける。

 

 親切ごかしに人を追い込んで、いまも明るい声で笑っているであろうあの精霊。ノルドリッチ。

 

 いいだろう。ソロモン王の体をくれてやると言うなら、有難く受け取ろう。だがその力は何もプレイヤーどもだけのために使ってやる義理はない。ソロモン王の体を畏れ多くも受け入れるのであれば、あの恩着せがましい精霊にたっぷりと礼をしてやろうじゃないか。誰のおかげでお前は今ここにいるのかと笑う顔にその答えを叩き込んでやる。

 

 肉の無い身体の奥で、エダハは静かに誓った。それは待つしか出来ない無力な男に許された、ただひとつの能動だった。

 

「やぁ、お待たせ」

 

 その思念を読み取ったわけでもないだろうが、エダハの思考に不意に声が割り込んできた。軽く、芯のところがどこまでも他人事のような声。ノルドリッチの声だ。

 

「ちょっと準備に手間取っちゃってさ。でも、もう大丈夫。ようやく始められるよ」

 

 始める。何を、とエダハは問おうとして、言葉にする喉が無いことを思い出す。代わりに、念話のようやものを手探りで手繰った。杖の扱いを少しだけ習ったせいか、辛うじてノルドリッチとだけは意を通わせられる。それが今のエダハに残された唯一の外界への窓だった。

 

(何を始めるんだ)

 

「まあまあ。いま、ボクの見てるものをそっちにも繋いであげる」

 

 言うが早いか、ぐらりと世界が傾いた。

 

 無かったはずの視界が唐突に流し込まれてくる。自分の目ではない。ノルドリッチの目を通して、彼女が見ている景色が、そのままエダハの意識へ送り込まれてくるのだ。歪んだ窓越しに外を覗くような、酔いに似た感覚。

 

 そうしてエダハは、久しぶりに「世界」を見た。

 

 ひび割れた地面が地平の彼方まで続いている。色を失った乾いた土。点々と立ち枯れた木が、白い骨のように突き立っている。空には色が無く、雲とも靄ともつかないものが低く垂れこめていた。

 

 葬送外野(ヘルヘイム)

 

 エダハの胸が、痛いほど締めつけられた。ノルドリッチが作り上げた箱庭であると分かっている。エダハ自身の薄れかけた記憶と、ノルドリッチが切り取った記憶と、ゲームのデータとを、混ぜ合わせて拵えた偽りの世界ではあると理解している。

 

 それでも、確かに思い出にある通りの地だった。エダハがかつてソロモン王とともに歩いた荒野の面影がここにはある。

 

 ノルドリッチの視線がゆっくり動く。二人がいるのは荒野の中でも一段低くなった、涸れた盆地のような窪地だった。すり鉢状に落ち込んだ底に、ノルドリッチは立っている。

 

「ね。いい眺めでしょ」

 

 ノルドリッチの呟きと共に、窪地の縁へ人影が現れた。

 

 一つではない。二つ、三つ、十、すぐに数えるのも億劫になるほどの数が、すり鉢の縁をぐるりと囲むように、続々と姿を現してくる。

 

(……兵隊? ソロモン王の軍勢?)

 

 露出度の高い部分鎧を着た姿はエダハにも覚えがある、ソロモン王の娘たちが率いていた軍隊だ。そしてその先頭に立つのは、兵たちとは明らかに格の違う、煌びやかな装いの娘たちだった。一人、また一人。それぞれが一隊を率いる将のように、兵を従えて窪地を見下ろしている。

 

 エダハはその娘たちの顔を見て息を呑むように意識を波打たせた。

 

(あの子だ)

 

 覚えがあった。遠い、遠い記憶の底。霞のかかった旅の日々の、その隅っこに、確かにいた顔だ。よく笑う子だった。ソロモン王の後ろをちょこちょこついて回って、エダハの描く絵を覗き込んでは、これは何、これは誰、と無遠慮に聞いてきた、あの──。

 

 いや、それだけではない。その隣の気の強そうな目つきの娘も。さらに向こうの俯きがち大人しい娘も。筋骨隆々の大きな娘も。窪地の縁に立つ娘たちにエダハは見覚えがあった。

 

 ソロモン王の、娘たち。エダハと共に入れ替わり立ち代わり、ソロモン王が愛で使役していたあの賑やかな一行の面々。

 

 ノルドリッチの視界ではあるものの、現実で中継されたもののを見ていた時とはまた異なる思いをエダハが抱く。だがその立ち上がった懐かしさが、すぐに枯れるように萎れてしまう。

 

 顔は知っている。確かに知っている。けれど窪地を囲む娘たちの瞳には、何も無かった。

 

 無遠慮に絵を覗き込んできた光も。気の強い負けん気の光も。臆病な光も。何ひとつ無い。ぽっかりと口を開けた虚ろが、眼窩の奥に二つずつ並んでいるだけだ。整列した兵士たちも同じだった。生きて立ってはいるが、誰一人として瞬きをしない。意思も感情も無いだろう人形が、ただそこに並んでいる。

 

(なんだ、これは。何が、起きてる)

 

「あー、来た来た」

 

 エダハの動揺を知ってか知らずか、ノルドリッチはのんびりと首を巡らせ、窪地を囲む人垣を見渡した。

 

「大体集まってるかな。まだまだ足りないけどいい具合だね」

 

(呼んだ……? お前が、呼んだのか)

 

「うん。ボクが呼んだの。『おいで』ってね」

 

 ノルドリッチは、自分の指先をひらりと振ってみせた。

 

「キミも知っての通り、この子たちはあちこちに散らばって戦争ごっこをしてた。でも、キミ(ソロモン王)という存在のためならたとえ何があろうと来てくれる。武器も食べ物もぜーんぶ置いて、いそいそとここまで歩いてきてくれた。健気だよねぇ」

 

 お陰で集めて回る手間が省けた、と頷くノルドリッチ。揺れる視界だけが、エダハに吐き気を催させているだけではないだろう。

 

(こいつらを集めて、お前は何をするつもりだ)

 

「やだなぁ。決まってるじゃないか。これからキミを『ソロモン王』にするための素材だよ」

 

 ノルドリッチの視線が、窪地の底へと戻る。そこで初めて、エダハは気付いた。すり鉢の底の中央に、自分が──杖が、安置されていることに。そして、その杖を取り囲むように、巨大な何かが据えられていることに。

 

 人の形をした巨大な空っぽの容れ物。寝かされた巨人を象ったような、ひと抱えどころではない、見上げるほどの大きさの型。それが地に伏せるように据えられ、その心臓のあたりに、エダハの宿る杖が突き立てられている。

 

 鋳型。あるいは、棺と呼んだ方がいいのかもしれない。

 

 エダハはその型の輪郭を見て、奇妙な違和感に襲われた。

 

(これは……ソロモン王、なのか?)

 

 人の形をしているのは分かる。威容を備えた、王の姿を象ろうとしているのも分かる。だがその細部がどうにも曖昧だった。顔のあたりがのっぺりと霞んでいる。肩の鎧の意匠が途中で溶けるように崩れている。誰かが思い出そうとして、思い出しきれなかった姿。記憶の指の隙間から、肝心なところがこぼれ落ちてしまった、そんな歪な像。

 

(これじゃあ……ソロモン王じゃない。こんなのは、ソロモン王じゃ──)

 

 言いかけて、エダハは気付いてしまった。

 

 この歪んだ型を作るのに使われたのは他でもない、エダハ自身の記憶だ。霞んで、欠けて、思い出そうとするほど遠ざかる、エダハの中のソロモン王。その不完全な記憶を素材にしたのだから、出来上がる型が歪むのは当たり前のことだ。

 

 本物にはならない。どうやってもここから生まれるのは、本物のソロモン王ではない。偽物だ。記憶の欠けた紛い物の王。

 

「それじゃ」

 

 ノルドリッチが、片手を持ち上げた。その手には、いつの間にか一本の杖が握られている。

 

「いっただっきまーす」

 

 杖が、ひと振りされた。

 

 その瞬間、窪地を囲んでいた娘たちと兵士たちの輪郭がぐにゃりと崩れた。

 

 立っていた者たちの身体が、まるで陽に晒された蝋のように形を失っていく。甲冑も、煌びやかな衣も、虚ろな瞳も、何もかもが境を無くしてどろりと黒い液体へと変じていく。声ひとつ上がらない。抵抗ひとつ無い。ただ静かに、おびただしい数の人の形が黒い油へと溶け落ちていった。

 

 そしてその黒はすり鉢の傾斜を伝って、底へ底へと流れ落ちる。中央に据えられた鋳型へ。エダハの宿る杖へ。滝のように、雪崩のように注ぎ込まれてくる。

 

(やめろ)

 

 エダハの思念が、爆ぜた。

 

(やめろッ! やめてくれ!)

 

 黒い液体が、鋳型の底に溜まり始める。エダハの杖にも当然降り注ぐ。冷たい。重い。粘つくそれが、感覚を持たない筈の杖にじわじわと這い上がってくる。

 

 その黒の一滴一滴がさっきまで人の形をしていたのだと思うと、エダハは正気を保っていられなかった。エダハの記憶の中で確かに笑っていた者たち。それが今、何物にも分からないものに還元されて自分に注がれている。

 

(俺の記憶を──あいつらを、穢すなッ!)

 

 肉の無い身体をエダハは渾身でよじった。叫んだ。もがいた。けれど何ひとつ起こらない。指の一本すら動かせないこの身に出来るのは、ただ思念を空しく軋ませることだけだった。

 

 ノルドリッチは、その絶叫を、まるで聞かなかったかのように作業を続けていた。

 

「んー、こんなもんかな。一軍団ぶんだと、ちょうど足首くらいまでか」

 

 彼女は注がれた黒の量を職人が材料を量るような口振りで語る。その言葉一つ一つがエダハの神経に障った。

 

「思ったより嵩が出ないなぁ。まあ、しょうがないか」

 

(やめろと、言っている……ッ)

 

「うるさいなぁ。杖は動かないから良いにしても、意識が暴れてると影響が出るかもしれないから黙ってなよ。鋳造って結構難しいんだから」

 

 ノルドリッチは心底面倒くさそうに言う。

 

「息苦しいだろうけど、もうちょっとだけ我慢してね。なにせ完璧な王様の体を作ろうと思ったら──えーっと、あと、六十八回やらなきゃいけないんだからさ」

 

 六十八回。その数字が、エダハの思考を真っ白に焼いた。

 

「そう。あの子たち、ぜんぶで七十二人いるんだもの。今溶かしたのが四人分だから、残りがそれ。まぁ、キミのあやふやな思い出よりかは質が良いから我慢してよ」

 

 ノルドリッチはふうと息を吐いてから、再び杖を振り上げた。あと六十八人の娘を、これと同じように溶かす。あと六十八の軍勢を、黒い油へと変える。

 

 エダハの中で何かが軋みひび割れていく。だがそれを収めた杖はじっと、沈められるのを待つしかなかった。

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