カスレアクロニクル   作:すばみずる

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164 ちょっと話し合おうよ、ね?

 協力する、と一度口にしてしまえば後は早かった。ノルドリッチは床に積まれた本を背もたれ代わりにして座り込んだ。少年、新谷エダハが礼を言うや否やいつでも描き出せるように鉛筆を構えている。

 

「どこから話そうかなぁ」

 

 ノルドリッチは天井を仰いでしばし考える。九脊界で渡り歩いてきた世界の数々が頭の中でひとつずつ並んでいき、旅の思い出をなぞるように舌を回し始めた。

 

「じゃあ、分かりやすいところから。てっぺんの神座万野(アスガルズ)。脊界樹のいっとう高いところに据えられてる、という事になってる脊界。神を名乗る連中が住んでるけど別に九脊界を作ったとかそういうんじゃない。単に気位の高いだけの面倒な奴らだよ。ボクが杖職人として招かれたこともある」

 

 ノルドリッチが宙を杖先でなぞると、その軌跡に沿って淡い光が滲んだ。光は像を結び、空中に高くそびえる白亜の楼閣の幻を描き出す。

 

 エダハは光の像を食い入るように見つめ、すぐさま鉛筆を走らせる。ノルドリッチは構わず続けた。

 

「招かれて行ったはいいけど、出来上がった杖の素材が気に入らないって因縁つけられてさ。とりあえず報酬の宝物だけでも貰ったら怒られて逃げてきたんだ。あそこにはもう顔を出せないね」

 

「招かれた先で盗みを働いたのか」

 

「盗むだなんてそんな。正当な対価をもらっただけだよ」

 

 ノルドリッチは一切悪びれずに言う。実際悪いことをしたと思っていない。主人をいつでもそばに感じられるものを作って欲しいというオーダー通りに作ったのに文句を付けてくる依頼者が悪い。

 

 エダハは言い返さずに手を動かし続けている。荒っぽい線が、楼閣の輪郭をみるみるうちに紙の上へ写し取っていく。

 

「次。光輝幻野(アルヴヘイム)。光霊が主に住む脊界だね。何もかもが色んな色に光って見えるもんだから長く居ると目がチカチカしてくる。ボクはあんまり好きじゃないんだけど、まあ綺麗ではあるよ」

 

 光の像が組み替わり、虹色に明滅する森が空中に立ち上がる。エダハの鉛筆はもう次の紙へ移っていた。

 

「この映像は口説いてきた男から取ったものだったかな。ベッドの中で自分の故郷はこんなに美しいところなんだぞって得意げに語って聞かせてくれてさ。まあその後、ボクがそいつの故郷自慢ごと杖を抜いちゃったから、この記憶も付いてきたんだけど」

 

 ノルドリッチはけらけらと笑った。

 

 それからも、ノルドリッチは脊界の名を次々と挙げていった。

 

 戦乱葦野(ミズガルズ)は終わらない戦の絶えない脊界。杖には武器としての需要があるからと武器職人として招かれたが、戦士たちが揃いも揃って血の匂いを纏っていてノルドリッチの好みではなかった。

 

 絶嶺巌野(ヨツンヘイム)は天を衝く山々が連なる巨人どもの脊界。寒いばかりで長居はしなかったが、大きな杖を作れたのは良い思い出だった。

 

 泡沫暗野(ニザヴェリル)は地の底に広がる鍛冶師たちの脊界。あそこの職人とは技を競い合った。何故か仲良くは出来なかったけど、温泉に入れたのは得難い経験だ。

 

 氷結荒野(ニヴルヘイム)焦熱原野(ムスペルヘイム)は氷と炎の対になった脊界。どちらも生命を拒絶するくせに生命が繁栄している極端な土地で、外部のものが住むところではなかった。それでも繁殖力が旺盛だから、杖の素材としては格好の土地でもある。

 

淫蕩白野(ヴァナヘイム)はボクの故郷。みんながボクを愛してくれるいいところだったよ」

 

 自分を愛し自分が愛した脊界を語り終えて、ノルドリッチはふとエダハの様子を窺う。

 

 いつの間にやら、エダハの周囲には何枚もの紙が散らばっていた。ノルドリッチは一枚を摘み上げて目の前に翳す。清書もされていない荒々しい線だった。下描きのまま投げ出されたような、いわゆるスケッチとかそういう類の絵。

 

 だが、ノルドリッチには一目で分かった。これは神座万野(アスガルズ)だ。あの気位の高い神どもの楼閣が描かれている。先ほどノルドリッチが見せた光の像をなぞっただけではない。ノルドリッチの思い出にもある気位の高いだけの面倒な奴らが住まうにふさわしい、鼻持ちならない壮麗さがその荒い線の中にちゃんと宿っている。

 

 ノルドリッチは紙をもう一枚、また一枚と手繰った。どれも同じく特徴を捉えており、その出来は職人肌のノルドリッチも頷けるものだ。

 

(上手いもんだね、本当に)

 

 そしてノルドリッチは紙を翳したまま、片眉をわずかに動かした。

 

 絵から、かすかな跡を感じ取ったのだ。線の一本一本にごく薄く何かが滲んでいる。力と呼ぶには弱々しい。それでもそれは、ただの黒鉛が紙に擦り付けられただけのものではなかった。描き手の意志のようなものが絵に宿りかけている。

 

 ノルドリッチはちらりと、当の描き手を窺った。

 

 エダハは鉛筆を握ったまま、次の紙に取りかかろうとしている。その手つきに気負いは無い。自分の描いた線に何かが宿っていることになど、まるで気付いていない様子だった。

 

「上手だね。やっぱり、長年描いてきただけのことはあるよ」

 

 ノルドリッチが素直に賞賛すると、エダハは鉛筆を止めず顔を伏せたまま答えた。

 

「旅の間も、ずっと描いてた」

 

 その声は少しだけ柔らかかった。僅かに鉛筆の先が紙の上で惑う。

 

「ソロモン王も、俺の絵を褒めてくれたんだ。お前の描くものは本物に近いって。目が肥えていたあの人に認められて、俺は一層描くようになった」

 

 言葉で勢いをつかせたかのように、エダハの手がまた動き出した。

 

「描き始めたのは九脊界に行く前からだったな。うちの親は二人とも漫画を描いててさ。それを横で見てるうちに、俺も真似して描くようになったんだ。俺が九脊界に行く時の事故で二人とも──」

 

「あー、待って待って」

 

 ノルドリッチは、ぱっと手を振ってその先を遮った。

 

「ボクの好奇心よりキミの仕事の方が優先度は高い。お絵描きに集中していいよ」

 

 エダハはきょとんとした顔をしたが、すぐにまた鉛筆を走らせ始めた。遮られたことを気にする様子も、無理に話そうとする様子も無い。

 

 ノルドリッチは膝の上の紙へ視線を戻しながら、内心で息をつく。

 

(湿っぽいのは嫌いだし、キミの人としての過去なんてどうでもいいからね)

 

 散らばった紙を眺めながら、ノルドリッチは別のことを考えていた。

 

 なぜエダハはこうも的確に脊界の特徴を捉えられるのか。その推測はすぐに出来た。エダハの絵は見せた映像をそのまま書き写しているわけではない。特徴を捉えた上で、ノルドリッチの記憶にないデザインの建物や植物の線が引かれている。

 

 ソロモン王と旅をしたと語っていた。おそらくその範囲はノルドリッチと同じく幅広く様々な脊界だったのだろう。彼には旅をした際に培われた九脊界の知識の土壌がある。

 

 それならば本来、ノルドリッチに頼る必要は無いはず。だが、目の前にいるのは見た目相応の少年ではなく、人間の寿命の半分は過ぎているかもしれない存在なのだ。

 

 人間であれば誰しも抗えず、神すらも勝てない誰しも等しく振りかかる病魔。

 

 つまり加齢。老い。健忘。人間は年を重ねてしまうと性能を劣化させてしまうと、ノルドリッチですら知っている。

 

 かつて旅した鮮烈な記憶すらも、エダハの記憶の棚は固く固着してしまい中に入ったものを取り出せないでいたのだ。

 

 それをノルドリッチの語りによって頭に油を差すかのように思い出せている。そう考えると、ノルドリッチにはしっくりきた。エダハが描いているのは、ノルドリッチが語った脊界だけではない。エダハ自身がかつてその目で見た脊界でもある。

 

 ノルドリッチが紙を眺めて納得していると、不意にエダハが口を開いた。

 

「なあ。葬送外野(ヘルヘイム)の話を聞かせてくれ」

 

 鉛筆を止めたエダハに見つめられ、ノルドリッチは目を泳がせる。

 

「……あー。あそこねぇ」

 

 ノルドリッチは天井へ視線を逃がした。

 

「行ったことはあるんだけどさ。あそこ、ちょっと苦手なんだよね」

 

「苦手?」

 

「うん。あそこの女主人にボク嫌われててさぁ。色々やっちゃってて」

 

 ノルドリッチは曖昧に笑って言葉を濁した。

 

「あそこへ顔を出したらね。行った途端に文字通りの箱にされちゃってさ」

 

「箱?」

 

「うん、革箱。そこから寄ってたかっておもちゃにされて、そこで一回、頭がすっかりパーになっちゃったんだよね」

 

 軽い口調を装ってはいたが、その箇所の記憶は余韻だけ残してノルドリッチの中にもう無い。数少ないノルドリッチの敗北の記憶だ。

 

「あんまりにもひどい目に遭ったもんだから、葬送外野(ヘルヘイム)の記憶はまるごと切除して別で保存しちゃったんだよね。だから話したくても、話せることが無いんだ」

 

 エダハの顔から、すっと血の気が引いていくのがノルドリッチの目に分かった。

 

「……まずい?」

 

「まずいなんてもんじゃない」

 

 エダハは吐き気を堪えるかのような表情にあっという間に変わっていった。ノルドリッチにとっては見ていて面白い。

 

「俺が描かなきゃいけないストーリーのメインは葬送外野(ヘルヘイム)なんだ。アプリでもあそこが舞台になってる。ここを避けて通るわけにはいかないんだよ」

 

「アプリ?」

 

 ノルドリッチが聞き返すと、エダハは尻ポケットから板状のものを引き抜いた。黒く平たい、ノルドリッチにはあまり馴染みがないスマホとかいう道具。指で表面を撫でると、ぱっと光を放つ。

 

「これだ。関係者に配られた、エインヘリヤル・クロニクルの新作ゲームだ」

 

 エダハは画面をいくつか操作して、ノルドリッチの方へ差し出した。ノルドリッチは膝立ちになって、その小さな光る板を覗き込んだ。

 

 画面の中では小さな人の形をしたものが荒れ果てた大地の上を動き回っている。上から見下ろすような不思議な視点だ。ひび割れた地面。白く立ち枯れた木々。色の失せた荒野。遠くには鬱蒼と茂る緑もあり、各地の様子が遠景に見える。

 

「おお。よくできてるじゃん、これ」

 

 ノルドリッチは思わず声を上げた。切除した記憶の残り滓、最後に見たヘルヘイムの光景がおぼろげに像を結ぶ。

 

「あんまり覚えてないけどさ。葬送外野(ヘルヘイム)ってこんな感じだったよ。このアプリのを参考にすれば、わざわざボクの曖昧な記憶を頼らなくたっていい絵が描けるんじゃない」

 

 ノルドリッチが板から視線を離すと、エダハはまじまじとその画面を見つめた。あまり納得していないようだが、ノルドリッチはこれについては嘘を言ってはいない。この世界の仮想現実は出来がいいと、ディーヴァ・アリーナの一件でもよく知っている。

 

 エダハは半信半疑という表情を浮かべたまま、とノルドリッチの言葉を頼りに再び鉛筆を握る。荒野を行く人影。立ち枯れた木。色の無い地面。アイデアを書き留めるように、線を走らせていく。

 

 ノルドリッチは、その手元を眺めていた。相変わらずエダハの絵は巧い。荒い線の一本一本に迷いが無い。だが──。

 

(違うね)

 

 ノルドリッチにははっきりと分かった。

 

 先ほどまでとは違う。ノルドリッチが脊界を語り、エダハがそれを写し取っていた時。あの線には薄くとも確かに滲みがあった。意志を感じさせる力があった。

 

 いま、画面を見ながら描かれていく線にはそれが無い。ただ巧いだけの上等な絵だ。

 

 ノルドリッチは目の前の少年を改めて見つめた。

 

 渡界者。世界の理の外側から境を越えて紛れ込んできた異物。ノルドリッチが実物を目にするのは、これが初めてだ。

 

 以前聞いたことがある。渡界者の持つ力はピンからキリまであるのだと。中には、脊界卵(ユミル)という新たな世界を丸ごと生み出してしまう創造者もいれば、ただ人殺しが人並みより上手いだけで終わる者もいる。同じ渡界者でも、その振れ幅は天と地ほどに開いている。

 

 この子はどっちなのか。ノルドリッチは、散らばった紙の山に目をやった。

 

 話を聞いて記憶をなぞらせただけで絵に魔力を帯びさせる。そんな芸当をやってのける渡界者を、ノルドリッチは内心ではただ者ではないと値踏みしていた。

 

 脊界卵などという出来損ないの果実ではない、九脊界そのものまでもを写し取って再現することすら、この男になら可能なのではないか。

 

 ノルドリッチの胸の奥が弾んだ。退屈しのぎどころの話ではない。これでようやく故郷に帰れるかもしれない。

 

 だが、ノルドリッチは口にしない。魔術において認識は鍵だ。自分が何者であるかを定義する、それ自体が力の形を決めてしまう。下手にこの少年へお前は強大な渡界者だなどと吹き込めば、思い上がって力を歪ませるかもしれない。あるいは逆に、自分にそんな力があるはずがないと勝手に枷をかけてしまうかもしれない。

 

 黙ってるのが一番と、ノルドリッチはにやけそうになる口元を引き締めた。

 

 そうとは知らずエダハは鉛筆を置いた。描き上げた紙を眺めふっと息をつく。

 

「まあ、お前から色々と話は聞けたしな。ここまでの話でなんとか組み立ててみるか。助かったよ、ありがとう」

 

 そう言ってエダハは紙束を軽く揃えて、作業机の方へ向かおうとする。

 

 ノルドリッチはその背中を見て眉を寄せた。

 

 このままありがとうさようならで終わらせてしまうのはまずい。エダハの頭の中にある九脊界はまだ半分も再現されていないだろうし、このままではまた記憶の戸棚を自分で開けられなくなって使い物にならなくなる。

 

 力を宿した線は、ノルドリッチが語っていた間だけのものだった。彼自身の認識のせいなのだろうか、『九脊界を描いている』と確信を持たないと真なる力は発揮してくれないのかもしれない。

 

 いま机に向かったところで出来上がるのはただ巧いだけの絵だ。どうにかして、この男をもう一押し唆さなければならなかった。

 

「ねえ。その書き方じゃダメだよ」

 

 ノルドリッチはエダハの背に声を投げた。エダハの動きが止める。

 

 振り返るその顔は叱られた子供のようでも、図星を突かれた大人のようでもあった。

 

「……ああ」

 

 力なく頷くエダハ。自分でも何かを察知していたらしい。

 

「分かってるんだ。さっき描いた葬送外野(ヘルヘイム)のやつは、なんていうか……違う。お前の話を聞いて描いてたやつと、明らかに何かが違う」

 

 エダハは描いたばかりの紙を見下ろし、苦しげに眉根を寄せた。

 

「でも、どうしてもそうならない。お前から本物を聞いた脊界はするすると思い出せて描けたのに、アプリの画面を見て似たようなものだと言われても自信が持てない。でももう……」

 

「それは、自分が観たことがある景色と同じって言う自信?」

 

 指摘の言葉にエダハはびくりと体を震わせる。

 

「思い出せないんだよ」

 

 声には隠しきれない焦りが滲んでいた。

 

「俺は、あいつとずっと旅をしてた。あの景色を何枚も何枚も絵に描いてたんだ。それなのに、今になっていざ思い出そうとすると霞がかかったみたいになる。……それでも、お前の話を聞いて、多少はましになったんだ」

 

 不安に喘ぐ男を見て、ノルドリッチの嗜虐心が疼いた。ここをつつけばこの男は面白く鳴くという嗅覚に、ノルドリッチは絶対の自信を持っている。

 

「そもそもさ」

 

 ノルドリッチは、わざと軽い調子で切り出した。

 

「キミ、こうやってボクの話からイメージを膨らませていくのはいいけどさ。本当にソロモン王の話なんて書けるのかな?」

 

 エダハの肩が、びくりと跳ねた。

 

「……どういう意味だよ」

 

「いやぁ、だってさぁ」

 

 エダハのその声には噛みつくような棘があったが、ノルドリッチはまるで意に介さず続ける。

 

「こうしてボクから話を聞いて、ようやく光景を思い出せてるキミだよ? そんなキミが、イメージスケッチじゃなくていざ本当にソロモン王陛下を描こうとして、ちゃんと記憶通りに描けるのかな。結構疑問じゃない?」

 

 エダハの口が何か言い返そうとして開き、そのまま言葉を失った。

 

 拳が震えている。だが、その震えは怒りよりも、突きつけられた事実への動揺の色が濃かった。

 

(ああ、やっぱりね)

 

 ノルドリッチは、その様子を見て確信した。

 

 この男は、自分の過去の記憶に自信が無い。ノルドリッチという得体のしれない存在に頼るほど執着しているソロモン王の姿でさえ、もう輪郭が曖昧になりかけているのだ。

 

 だからこそ、ノルドリッチの語りという呼び水がなければ何ひとつ満足に描けない。本物を描きたいと願いながら、その本物が指の隙間から零れ落ちていく恐怖を、この少年のような男はずっと抱えている。

 

 黙り込んだエダハを眺めてノルドリッチは小さく顎に指を当てた。それから、わざとらしく目を見開いてみせる。

 

「あ。そうだ」

 

 いま思いついた、という素振をしているが、実のところ唆す筋道は途中から頭の中で組み上がりつつあった。

 

「キミ自身が体験したことを、ちゃんと思い出せるように手伝ってあげる。どうかな」

 

「……どうやって」

 

「ボクがキミの為に、葬送外野(ヘルヘイム)を作ってあげるよ」

 

 エダハが、ぽかんと口を開けた。

 

「は? 作る? お前が?」

 

「うん。キミのための、とっておきの箱庭だ」

 

 ノルドリッチは事も無げに頷き、ローブの内側に手を差し入れた。指先で探って引き出したのは、小さな木の欠片のようなものだった。

 

 ノルドリッチは欠片を指でつまみ、エダハに向けて掲げた。

 

「これはボクがこの世界に来た時に、元々持っていた杖だ。これにはさっき言った、ヘルヘイムの記憶は切除したものが詰まってる。捨てずにとっておいてよかったよ」

 

「そんなちっさいのに記憶が入ってるのかよ。どうやって?」

 

「頑張った。まぁボクの杖を使えればキミでも出来るよ。

 これをこのまま読んじゃうとおもちゃにされた記憶まで一緒に再生されちゃうから、ボク自身は読みたくない。また頭に杖ぶっ刺して正気保ちながら記憶吸い上げさせるのは勘弁だからさ」

 

 ノルドリッチは欠片を手のひらに転がしながら話を続ける。

 

「でも情報のリソースとしてならなんとか使うことが出来る。この欠片の中に詰まってるヘルヘイムの情報をさ、キミの持ってたそのアプリの、ストーリーモードってやつ? それパクって注ぎ込んで混ぜてやるんだ。そうすればきっと、かなり真に迫った葬送外野(ヘルヘイム)が作れるよ」

 

「……いや、無理だ」

 

 目を見開かせたエダハは、その言葉から目を逸らすようにぎゅっと目を閉じた。

 

「このアルファ版のデータは、全部がこのスマホに入ってるわけじゃない。俺は詳しくないけど、たぶんサーバーとかそういうところにあるはずなんだ。俺の手元にあるのはほんの一部の筈だ」

 

「ああ、それなら大丈夫」

 

 ノルドリッチは、空いた方の手をひらりと宙にかざした。

 

 すると、何も無かった空間に、杖が一本、また一本と現れ出る。十数本もの杖が、ノルドリッチの周りにぐるりと弧を描いて浮かんだ。出来の良いものから、先ほど高架下で拵えたような粗末なものまで、様々だ。

 

「貯めておいた甲斐があったね。いくらか使い捨てていけば、情報がどこにあったって抜き出すことくらい出来るよ」

 

 ノルドリッチは浮かんだ杖の一本を、指先でつついた。

 

「それにね。この世界の電脳世界ってやつはとってもよく出来てるんだ。理屈がきちんと通ってる分、ボクには却って扱いやすいんだよね」

 

「本当に出来るのか」

 

 エダハが身を乗り出した。虚ろな目に隠しきれない期待が滲んでいる。

 

「うん」

 

 ノルドリッチは頷いてじゃあ契約を、と言い掛けた口のままぴたりと止まってしまう。

 

「あ。しまった」

 

「なんだよ」

 

 ノルドリッチは浮かんだ杖を見回し、それから己の手のひらを見下ろした。

 

「情報を抜き出して混ぜ混ぜするのはいいんだけどさ。肝心の、それを収める器を忘れてた」

 

「器?」

 

「うん。作った世界を入れておくもの。それがないと、せっかく組み上げた箱庭がこう……ざるで水を掬うみたいに、すぐ零れて消えちゃうんだ」

 

 ノルドリッチは眉を寄せて唸る。思い付いたことまでは良かったが、そこに伴う材料までは揃っていなかった。職人は素材を使うところまでは考えるものの、素材を採ってくるのは門外漢だ。まぁボクは自分で搾るけど、と内心薄い胸を張るがそれどころではない。

 

「スマホじゃダメなのか」

 

 エダハが黒い板を差し出す。ノルドリッチは試しにそれを受け取り指先でしばらく撫でて探るが、ノルドリッチは板を返した。

 

「うーん……ダメだね。容量は足りるかもだけど、結構無茶するから強度が欲しい。これじゃあせいぜいが骨の代わりにしかならないかな」

 

 ノルドリッチは杖の欠片を指の間で転がしながら、思案を巡らせた。

 

「ボクの頭の中だけで仮想に構築するっていうなら出来なくはないんだけど。それをやるとボクの中でシミュレートするだけでいっぱいっぱいになっちゃってキミを助けられない。かといって、キミの頭の中に直接やったら──」

 

 ノルドリッチはエダハの黒髪の頭を、ちらりと見た。

 

「脳味噌飛んじゃうだろうしね」

 

「飛ぶのは困る。漫画が描けない」

 

「だよねぇ」

 

 ノルドリッチは膝を抱えて、唸った。

 

 情報、記憶という属性を帯びた情報を安定して収めておける魔術的な触媒なんて、杖職人の領分を大きく超えてしまっている。読ませるつもりのない自分の記憶なら適当な木端に込められたが、今回はクライアントにしっかりと見せる必要がある分、柔軟性が必要になってくる。九脊界ならルーン石を積み上げれば用意出来たかもしれないが、そんな都合のいいものはこの世界には転がっていない。

 

 ノルドリッチは杖の欠片を手の中で弄びながら、宙を仰いだ。

 

「うーん。困ったなぁ。いっそ、その辺で精霊でも探して捕まえてこようかな。あいつらなら器くらいには──」

 

「なぁ。頭に仮想で作るって言ってたけど」

 

 ノルドリッチの言葉をエダハが遮った。

 

「人間の脳味噌は使えるのか」

 

「うん、使えるよ」

 

 ノルドリッチは即答する。

 

「いきものってのは魔力が籠りやすい、だからボクもそこから杖を作ったりする。器としては優秀だよ。それに今回は、扱うものの中で記憶っていう属性が乗っかってるからね。記憶を収める器なら、脳味噌は一等扱いやすい」

 

 言いながら、ノルドリッチはふと首を傾げた。なぜそんなことを聞くのだろう。まさか自分の頭を本当に犠牲にするつもりなのか。

 

 世迷い言を吐かれるのかとノルドリッチは身構えたが、エダハはそれを無視して探るような口調で言葉を紡ぐ。

 

「お前に声を掛ける前。お前が誘惑してた、あのホームレス」

 

 エダハの黒い瞳が、まっすぐにノルドリッチを見据えていた。

 

「あいつはどうだ」

 

「……おお」

 

 成果物ばかりに気を取られて、すっかり忘れてしまっていた。ノルドリッチは思わず感心の声をあげてしまった。

 

 欲を抜かれ、もう二度と立ち上がれないであろう男。男としての機能を根こそぎ奪われ、生涯それを取り戻すことのない空っぽの器。なるほど。あれなら誰も惜しまない。ノルドリッチとしても、杖の源泉にはならないそれの再利用が出来るのであれば今後も面倒が少ないかもしれない。

 

 ノルドリッチはにっこりと微笑んだ。

 

 

 *

 

 

 数週間が過ぎた。

 

 ノルドリッチは空っぽのホームレスを二人エダハの家に連れ込み、一人使い潰しつつも抜け殻に作り変えることに成功していた。

 

 性欲を抜かれた時点で男はもう抜け落ちている男を、ノルドリッチは丹念に中身を削いでいった。記憶も、自我も、人間性も。詰め込む情報は膨大なのだから、余計なものを残しておく余地はない。

 

 そうして出来上がったのは、葬送外野(ヘルヘイム)を再現するためだけの装置だった。

 

 男はエダハの仕事部屋に横たわっている。小汚い身なりのままぴくりとも動かない。ただ、その頭からは出力するための光の糸のような魔力糸が立ち上り、淡く発光する円柱状のホログラムが頭上に投影されている。それが今や、この男に残された唯一の役目だった。

 

 ノルドリッチはその光の柱を満足げに眺める。

 

「うん、よく出来た。さすがボクの杖」

 

 一方、ノルドリッチが『装置』の調整に明け暮れていたこの数週間、エダハはエダハで荒れていた。

 

 ソロモン王との記憶がもう思い出せないのではないか、とノルドリッチが突きつけた言葉に反発するように、エダハは自分の記憶だけを頼りにソロモン王との旅を思い出して描こうとしていた。

 

 だが、成果は芳しくない。机の上にも床にも描きかけの紙が散らばっている。どれもこれも途中でぐちゃぐちゃと線を惑わせた落書き以下の代物だ。旅の一場面を切り取ろうとして肝心のところで線が止まる。ソロモン王の顔が輪郭の途中で霞んで途切れている。エダハは満足のいくものを一枚も仕上げられず、ここ数日は目に見えて気が立っていた。

 

 その荒れた男が今、ホログラムの前で目を輝かせている。エダハは円柱へとふらふらと吸い寄せられていった。

 

「これが……お前が作った、葬送外野(ヘルヘイム)か」

 

「そうだよ。苦労したんだから」

 

 ノルドリッチは軽く肩を揉む。とりあえず造りを杖と同じ拵えにしたからノルドリッチでもなんとかなったものの、相当な無茶をしている。

 

 エダハは光の柱に顔を近づけ、その中を覗き込もうとした。目を凝らし、瞬きすら惜しむようにじっと見つめる。

 

 だがしばらくして、その顔が苛立ちに歪んだ。

 

「見えないじゃないか」

 

 エダハは光の柱を睨みつけた。

 

「中で何かが動いてる気配はするけど、それ以上は何も見えない。目を凝らしてもぼやけるばかりだ」

 

「あー。そりゃ仕方ないよ」

 

 宥めるようにノルドリッチは言う。

 

「この箱庭に対して、ボクたちは神様みたいなものだからね。あんまり細かい干渉は出来ないんだ。神様が地上の蟻んこ一匹の顔を覗き込めないのと一緒だよ」

 

「神様……」

 

 エダハは、その言葉を口の中で転がした。何かを噛み締めるように、もう一度。

 

「神様、か」

 

 それから、ふと我に返ったように顔を上げる。

 

「じゃあ、どうすればいいんだ。これをここからどうやって参考にしていけばいい。見えないんじゃ絵にしようがないだろ」

 

「それなら大丈夫」

 

 ノルドリッチは、にっこりと笑った。

 

「ボクがこの中に入ってさ、その景色をキミに中継してあげるよ。神様の御使い、天使ってやつだね。うん、ボクにピッタリだ」

 

 方針が定まってエダハの顔にようやく安堵が滲む。ノルドリッチはその様子を眺めながら、何気ない調子で続けた。

 

「それでさぁ。ちょっと聞きたいんだけど」

 

 ノルドリッチは床に散らばった紙の一枚を、つまみ上げた。エダハが書き散らした、物語の筋書きだ。

 

「キミが書こうとしてる物語のあらすじを読ませてもらったんだけど。ソロモン王を主役にしようとしてるのに、その冒頭部分があやふやすぎない?」

 

 エダハの肩がぴくりと跳ね、そこから黙り込んでしまう。ここしばらくの付き合いで、それが言い訳を探している間だとノルドリッチは理解している。

 

「……書き出しに、ちょっと詰まってるだけだ」

 

「ちょっと、ねぇ」

 

 ノルドリッチは紙をひらひらと振った。

 

「でもさ、締め切りは待ってくれないよ? そろそろ本当に書き始めないと、間に合わなくなっちゃうんじゃない」

 

「……っ」

 

 エダハは唇を噛んだ。それから、奪い返すように紙を手に取る。

 

「だったら早くこの脊界の中を見せろよ。アイデアさえあれば俺は描ける。書き出しなんて、取っ掛かりさえ掴めればすぐだ」

 

「うんうん。そうだね」

 

 頷くノルドリッチだが、その内心では、ことここに至ってもまだ物語の流れひとつ作れずにいるこの男のことを少しも信用していなかった。

 

 寝食を共にする中で、ノルドリッチは新谷エダハという人間をつぶさに観察し、その経歴を知った。そして、ひとつの結論に達している。

 

 この男は、十五年前にもう燃え尽きてる。

 

 彼にとっての九脊界での数十年は、現実に帰ってきてみると一瞬だったらしい。その濃密な九脊界での経験が、彼にソロモン王の漫画を描かなければいけないという強迫観念に駆らせている。彼が九脊界に行きて帰りしする過程に巻き込まれた漫画家の両親は死んだらしく、そちらに報いるつもりもあるのだろう。

 

 ノルドリッチには約束とか感傷とかそういうものにちゃんちゃら興味は無かったが、人恋しかったエダハは進まない原稿から逃げるように語って聞かせて来た。

 

 如何なる奇縁があったのか、帰って来たエダハは雑誌への掲載機会が与えられる。だがエインヘリヤル・クロニクルの世界での物語を描くのであれば、それが掲載出来るのは必然的にホビー系の雑誌となる。(ノルドリッチが望む方ではない)大人向けの雑誌ならまだしも、エダハに縁があったのは子供向けの雑誌紙面だった。

 

 エダハが心血を注いだ物語は素晴らしかったのだろう。だがその素晴らしさは、真に九脊界を知るものでしか分からないものだ。カードゲームとしてエインヘリヤル・クロニクルを知るものにとっては公式の設定にはない要素を上乗せさせた二次創作に過ぎない。それでも門前払いを喰らわなかったのが、二十年前の彼が持つ情熱が込められた原稿に相手を魅了する力があったのかもしれない。

 

 これを腐らせるのは惜しいと思われたらしく、彼は編集者に説き伏せられて変更修正を重ねに重ねたらしい。盛って、派手にして、子供受けするように歪められた物語。安酒を煽りながらノルドリッチに愚痴るエダハは、あんなもの邪道だと愚痴りながら自分の昔の漫画を睨みつけていた。

 

 それでもエダハは、曲がりなりにも物語を一度は形にしてしまった。

 

 本当なら、そこで終わらせておけばよかったのだ。だがエダハは十五年経った今もなお、ああすればよかった、こう描けばよかった、と過ぎ去った一作の中で藻掻き続けている。

 

 エダハと暮らし、『漫画家』という稼業について少しばかり知識を仕入れたノルドリッチは見抜いていた。もし十五年前の連載で燃え尽きていないのであれば、この男は今度の新連載にこぎつけるまでの間に他の作品のひとつふたつ、描いているはずだ。それが雑誌に載ろうが載るまいが関係ない。悍ましい材料を使うとはいえノルドリッチも職人、作り手であるなら何かしらは作り続けなければ気が済まないだろうと思っていた。

 

 だが、新谷エダハにはそれが無い。かつての歪みで枷を掛けられたこの男は、思い出を形にする力はあっても、新しく何かを生み出せる男じゃない。

 

 職人としては二流。それがノルドリッチの下した値踏みだった。

 

 もっとも、それでよかった。ノルドリッチが求めているのは何も無いところから世界を創り出す力ではない。ノルドリッチとエダハ、二人の頭の中にだけ残った九脊界をこの世界に作り上げる力があればいい。ただそれだけだ。職人である必要は無い。

 

 だからこそ、あやふやな思い出にいつまでも浸らせておくわけにはいかなかった。きちんと漫画を描かせる。手を動かさせ、形にさせ、その繰り返しの果てに九脊界を創り出せるだけの渡界者に、この男を育て上げる。それがノルドリッチの算段だった。

 

 ノルドリッチはひょいと杖を振った。円柱のホログラムに、ふっと映像が投影される。

 

 それは、まるでビデオのように動いていた。鬱蒼と茂る森の中を動く映像。聞こえてくるのは少女のような声と、それに応えるノルドリッチ自身の声だ。画角は妙に低く、どうやら少女の腰のあたりから世界を見上げているらしかった。

 

「なんだこれ」

 

「少し先の、未来の映像だよ」

 

 食い入るように身を乗り出すエダハにノルドリッチは言う。

 

「これはね、『ノルドリッチがこの箱庭で、旅人と一緒に旅をする』っていう未来を辿った時の映像。そういう先行きを手繰り寄せて、覗いてみたってわけ」

 

「未来……? そんなこと出来るのか」

 

「むしろボクの本職はこっち。セイズの応用だよ。超高精度の占い、みたいなものかな。ある程度確度の高い景色はこうして見る事が出来る」

 

 ノルドリッチは杖の先でホログラムを指し示す。映像は時折砂嵐のように乱れた。森の景色がぶれ、少女の声が途切れる。

 

「でもほら。まだ確定しきれてない部分があるから、この映像もこうして乱れちゃう」

 

「……理屈はともかく。これなら資料になる」

 

 エダハは、もう鉛筆を握っていた。乱れる映像の合間を縫って、エダハの手が紙の上を走り出す。森の木立。揺れる下生え。射し込む光。歯抜けだった先ほどまでとは打って変わって、その線には迷いが無い。異世界を描くという確信さえあれば、この男の画力に底は無いらしい。

 

 ノルドリッチは描き進めるエダハの横顔を眺め、そして頃合いを計って口を開く。

 

「ねえ。資料だけとは言わずさ、キミの漫画のストーリーをこの旅人に委ねてみない? この子を主人公にするの」

 

「はぁ?」

 

 エダハの鉛筆がぴたりと止まった。露骨な拒否の色がその声に滲む。

 

「何言ってんだ。俺にはちゃんと物語があるんだよ。今度こそソロモン王の物語を描くんだ」

 

 ノルドリッチは首を傾げてみせた。

 

「じゃあ、それが描けるようになるのは何か月後? キミはいつになったらソロモン王との思い出をちゃんと思い出せるの?」

 

 エダハの目が見開かれる。怒りの兆候だ。だがノルドリッチは畳みかける。

 

「締め切りは待ってくれないよ。一発目の出足でこけちゃったら、そんな漫画家はもういらないんじゃないかな」

 

 ノルドリッチの囁きにエダハは怒気を孕ませつつ何も言い返せなかった。握った鉛筆の先が紙の上で行き場を失っている。

 

 くんっ、とノルドリッチの杖が跳ねる。エダハの周囲を取り囲むように、小さな映像がいくつも現れる。そこには部屋にいるクモンが原稿を破りながら絶叫している様子、酒を持つ手すら震えている様子、どことも知れない路地裏でゴミクズのように転がる様子。ノルドリッチが見える範囲の陰鬱な未来を見せつけた。

 

「ほら、これがキミの未来だ。キミと言う運命は、殆どの枝の先で失意に満ちている」

 

 怒りを振り下ろす隙も無く、まだ見ぬ行く末へ晒される。それが心のどこかで否定しきれない気持ちがあればあるほど、激昂よりも恐怖へと転がりやすい。典型的な小心者としての動きを見せてくれるエダハを見て、ノルドリッチはころりと笑顔を作った。

 

「大丈夫だよ。難しく考えることない。キミさえ協力してくれれば、こんな未来は訪れないんだ」

 

 エダハの体から強張りが僅かに無くなるのをミトラは感じ取る。いくら独自の欲望に狂っていても、堕とし方は万人変わらない。

 

「それに、この旅人を主人公にするって言っても、別に常勝無敵の存在にする必要は無いんだ。キミが描きたいソロモン王の、いわば踏み台にしちゃえばいいんだよ」

 

 本当は、ノルドリッチにとってこれの描きたいことなどどうでもいい。とにかく描かせるための口実を作る必要がある。この創造性の無い男を動かすのであればどんな物語の筋でもいい。

 

「彼女に立ち塞がるソロモン王は強力無比。ぽっと出の旅人ごときじゃ手も足も出ない。──だけど、その強さの裏には、誰も知らない過去がある」

 

 ノルドリッチは、宙に絵を描くように指を滑らせた。

 

「そこから、キミの物語を始めればいいじゃないか。旅人を蹴散らす無敵の王様。その王様が、いったい何者なのか。なんでそんなに強いのか。それを後から少しずつ明かしていく。ね、悪くないでしょ」

 

 エダハは黙り込んだ。言葉を自分の中で確かめるようにゆっくりと顎を何度か動かした後、震える唇から声が漏れる。

 

「こいつは踏み台で……本当の主人公を、後から出す……?」

 

「そうそう」

 

 ノルドリッチは、間髪入れずに頷いた。

 

「キミが教えてくれたソシャゲってやつ。あれはもう、色んな人の都合でお話の筋が決まってるようなものなんでしょ? でもキミの描くのはそこに縛られないらしいじゃない。だったら構わないでしょ」

 

 横たわる抜け殻の男──そこから立ち上る光の柱をちらりと見やりながら、ノルドリッチは続ける。

 

「キミが神様になるこの世界で、ソロモン王を主人公として旅人に打ち勝つ。そういうお話を描いたって、誰も文句は言わないよ」

 

 エダハは、深く考え込んだ。

 

 握った拳が震え、伏せた目が忙しなく動く。頭の中で、ばらばらだった欠片が組み上がっていく音が、聞こえてくるようだった。

 

 やがて、エダハは、小さく頷いた。

 

 その途端。円柱に投影されていた映像が、ふっと鮮明になった。乱れも砂嵐も無い。森の景色がくっきりと像を結び、少女の声がクリアに聞こえる。

 

(ああ。決まったね)

 

 未来が確定するその瞬間は、いつだって気持ちがいい。ノルドリッチは恍惚とした思いを隠しつつ、エダハの肩に手を置いた。

 

「これで、キミの第一話は決まったよ。この子の行動をそのまま描き起こしておけばいい。それなら締め切りにもちゃんと間に合うはずだ。そこから先の映像は今は見えないけど……そうだねぇ」

 

 ノルドリッチは鮮明になった映像へ目を凝らした。映し出された未来と、今この瞬間との間に横たわる時の距離。そこを繋ぐ見えない糸の長さを測るように術で静かに手繰り測る。

 

「ちょうど、あのアプリが正式に始まる日と同じかな。アプリ開始に合わせて辿っていけばこれが釣り上げられるね」

 

 投影された映像の中、少女がどこへとも知れず歩いていく。低い位置からの見上げるようなアングルで未来の脊界が流れていく。

 

「あとはボクが彼女をこの箱庭にうまいこと引きずり込んで、面白おかしい映像をたっぷりお届けするからさ。安心して待ってなよ」

 

 


 

 

「と、いうわけで。これからお前らを97個の結晶が襲って死ぬ。遺言はあるか?」

 

 盆地の底で、シラベがそう言い放つ。

 

 円盤、ヴェルガラの能力の説明、潤滑剤の上乗せ、死蝋集積所への蓄積。一手ずつ順を追い、出来の悪い生徒に噛んで含めるようにしてこれから盤面で起こる処理を一つずつ説明し終えた後だった。

 

「……途中でリクワーを経由させれば42と41が足されて180個丁度だったな。ちっ、宝物印群が来て火マナが出せていればそっちで自壊が……」

 

 ぶつぶつと呟くシラベをミトラは呆れた目で見つめるが、ノルドリッチには反応する余裕が無い。

 

 ノルドリッチはその説明を理解したくなかった。

 

 理解できなかったわけではない。シラベが語る煩雑な処理を記憶し頭の中で再検証することなどノルドリッチには造作もないことだ。理屈さえ分かれば、道筋さえ示されれば、それが正しいかどうかの判断は出来る。

 

 だが、納得したくなかった。

 

 死蝋集積所が死んだ生命体のカウンターを写し取り、ヴェルガラの伝晶がそれを別の器へ流し込む。死んだ瞬間に乗っていた数を、二つの効果が別々に参照する。たった一度の死でまるでカウンターを二倍に膨らませるような、そんな不条理な動きを見せられれば不満も湧き出て来る。

 

 こんなはずじゃなかった。ノルドリッチは胸の内で小さく恨み言を零す。

 

 この『ソロモン王』のデッキには色々と仕込んでおいたものはあった。盤面を一掃する打ち消し不能の全体除去。ソロモン王の物語とは縁もゆかりもない凶悪な生命体。ノルドリッチの占いであれば、どれを吐き出させるか選び取るのも出来なくはない。

 

 勝利を期待した瞬間、盤面を盛り返したと思った瞬間。状況を流して長引かせ、たのしい戦いを演出させる。次に手番さえ回って来れば、ノルドリッチは即座に全体除去カードを引き当てさせてふざけたシラベの企みを台無しに出来る。

 

 だがそのドローが遠い。『ソロモン王』の生殺与奪はいま、あの男に握られている。

 

 そもそも。シラベとミトラなど、結局はエダハのための的に過ぎないはずだった。鬱屈を溜め込んだエダハの溜飲を下げるための贄。こいつらは湧き出す大群に呑み込まれて惜しくも散り、ちんけな王に身をやつしたエダハがだいすきな王様の姿で勝利を収めて満足する。そういう筋書きのつもりだった。

 

 勝たせてやったエダハを現実に帰し、それからミトラ、あれをたっぷりと作り替える。芯から崩し辱め、ただの傀儡に仕立て上げる。

 

 適当に跳ねるボールを追い掛けさせれば楽になると思っていたのに、結局は注文の多いモチベーションが保てなかったのだ。今度はエダハ好みの物語をなぞるよう、望まれれば勇敢に、あるいは従順、淫靡、天真爛漫、そういう適当なヒロインにして、適当な漫画を描かせてやればいい。

 

 そうして、あの神様が未だ無自覚な渡界者の力で、この箱庭の葬送外野(ヘルヘイム)をボクのための『本物』に作り変えてもらう。

 

 全てはボクが九脊界へ帰る為に。

 

 それなのに。こんなところで負けたら何もかも台無しではないか。

 

 杖を惜しげもなく消費して、シラベにもミトラにも最悪の運命を選ばせたはずだった。ただのサンドバッグでは興が削がれるから、そこそこ抵抗できる程度には生命体も出させた。見せかけの希望を与えつつ、惜しくも大群の物量に呑まれていく──そういう絵面を演出するはずだったのだ。

 

 だからミトラのカードが変身するまでには手間取ったし、あれが引き込んだ妨害札は一枚こっきりのはず。シラベにしても、厄介な円盤が攻め手ではなく防御に費やされて悔しさに顔を歪ませるのを期待していたのに。

 

 それなのに。あのカード、戦乱葦野(ミズガルズ)とかいう寝ても覚めても殺し合うことしかしない馬鹿な脊界出身の女、ヴェルガラだ。

 

 シラベのデッキが戦いの支度を取る前、その並び順の運命の手繰り寄せるセイズをした時にはあのカードを既に感じ取っていた。

 

 他のカードはいくらでも改変出来たのに、あれだけはデッキの上辺に居座り続ける。最遅の運命を手繰り寄せ、ようやく5ターン目のデッキトップに送り込むことしかノルドリッチには出来なかった。

 

 あの一枚だけが頑として運命を受け入れないせいで、こんな出鱈目な勝ち筋が組み上がってしまった。

 

 ただのカードの筈なのに。これがレヴェローズやカルメリエルならばまだ分かる。精霊は色々と条理にそぐわない存在だ。あれらに邪魔されるならまだしも、ただ電子と記憶の合いの子に過ぎないカードがどうしてこうも邪魔をするのか。ノルドリッチはそのヴェルガラを睨みつける。

 

 すると褐色の戦姫が、確かにノルドリッチを見つめ返した。

 

 巌の如き険しい双眸が、赤い髪の下からまっすぐにノルドリッチを射抜く。偶然に目が合うなどというものではなかった。ノルドリッチを一個の敵として明確に捉えていた目だった。

 

「……まさか」

 

 僅かに零れた言葉。だがそれすら、待ちくたびれたシラベの耳には届かない。

 

「言い残すことは無いようだな。潔くて結構」

 

 シラベの指が二つの円盤へと向けられる。

 

「失伝結晶円盤、能力起動。CCを載せていけ」

 

「あ、ま、待って」

 

 ノルドリッチの声が、初めて軽薄さを失って裏返った。

 

「待って待って! ねぇ、ちょっと話し合おうよ、ね? ボク、まだやりたいことがさ──」

 

 二基の円盤が同時に低く唸りながら回転し、自己に搭載されている結晶を増やしていく。死蝋集積所は錆びた歯車のような軋みをあげて、注ぎ込まれる死骸を待つ。

 

 システマチックな効果音たちが、ノルドリッチの命乞いを無造作に塗り潰していった。

 

 

 *

 

 

 射出音と着弾音が続く。

 

 失伝結晶機が光の砲弾を吐き出す。一発撃つごとに乗っていたCCを示す表示が一つ減り、また次が放たれる。宣言を既に済ませたシラベはただ見届けていればよかった。

 

 盆地の中央に並んでいたソロモン王の娘たちはとうに撃ち倒されて消えている。今や砲弾は、その奥に蹲る油溜まりの王へと、直接叩き込まれ続けていた。

 

 ぼたぼたと王の身体が削れ落ちていく。弾けた破片の中に、シラベは時折見覚えのある顔を見た。カード化されているソロモン王の娘たちだ。虚ろな表情も地に落ちる前にはどろりと溶け、油の中へ呑まれて消えていく。

 

 時たま、溶け残る物があった。油の表面にぽつりと浮き上がってくる品々は古めかしい指輪であったり、小さな玉座であったり、あるいはシラベにも覚えのあるソロモン王の壺であったり。形は様々だが、ただそこにあるだけで効果を発揮させることはない。

 

 撃ち込むたびに、向こうの山札である液体が削ぎ落される。あれだけ底なしに見えた物量が、今は面白いように目減りしていた。

 

「呆気なかったわね」

 

「呆気ないわけあるか」

 

 欠伸をするミトラにシラベは即座に言い返す。

 

「ノーコストで生き物を喰ってCCに変えるヴェルガラ。置かれるカウンターを水増しする潤滑剤と集積所。毎ターン勝手に肥えて、死にながら数を増やしてく円盤。──このどれか一つでも欠けてたら、こんな綺麗には決まってねえ。ガチンコだったら多分圧殺されてたぞ」

 

「リクワーは?」

 

「あいつは別にいらなかったかもしれない」

 

 飛び散ってくる油をモップで拭いているメイドがショックを受けたような顔を浮かべた気がする。

 

 ともかく、全部が嚙み合ったからこうなった。一つでも歯車が足りなければ今ごろ向こうの物量に磨り潰されていた側だ。結果こそはこうだが、盤面が傾くときは一瞬だっただけに過ぎない。

 

「ふぅん」

 

 ミトラは大して感心した風もなく、射出され続ける砲弾を眺めている。その横顔にシラベはふと思い出して尋ねた。

 

「店長の手札はどうだったんだよ」

 

「これ」

 

 手札を開いて見せるミトラ。覗き込んだシラベは固まった。

 

 塩対応が一枚。あとは水のルーンが数枚、それだけ。

 

「マジかよ」

 

 呻きが漏れた。戦略・戦術への備えが一枚あるきりで、他は何一つ握っていなかった。塩対応は生命体を打ち消し出来ない為、もし破滅的な大きさのものが出てきていればそれだけで終わっていたかもしれない。

 

 それでこの女は、あの物量の濁流を前に眉一つ動かさずに澄ました顔をしていたのだ。

 

「お前、その手札でよく平然としてられたな」

 

「だって、あんたが前にいるんだもの。なんとかしてくれると思ってたし」

 

 ミトラはこともなげに笑った。さらりと言われ、シラベは返す言葉に詰まる。

 

 シラベが言ったことの事の仕返し、なのだろうか。あれでさえミトラの当時の手札を考えれば重荷に感じ蹴られかねないというのに、こうして信頼していたと言われてしまうと何重にも重みが積み重なる。

 

 居心地の悪さに、シラベは首の後ろを掻く。これは嬉しいと感じた方がいいのだろうか。

 

「で。これ、この後どうなると思う?」

 

 ミトラが、射出音の合間に問うてくる。

 

「どうってなんだよ」

 

「だってこれ、一応ラスボスっぽいの倒してるわけでしょ。倒したらどうなるのよ」

 

 言われて、シラベも盆地の中央へ目をやる。みるみる嵩を減らしていく油の王。確かに、こいつを削り切った後のことなどまるで考えていなかった。

 

「いや、知らねえけど。一応ラスボスって言われてたし。この後ゲームクリアの表示でも出るんじゃねえの」

 

「ソシャゲにゲームクリアなんてある? サ終とアンインスコだけじゃないの」

 

「メギンドとかは綺麗に終わってたけど」

 

「あれは例外。そもそも私たち、このゲームのストーリーちゃんと知らないし。どうなったら終わりなのか分かんないんだけど」

 

 侵攻していたソロモン王を倒せば終わりなのか、それとも他に何か目的が提示されるのか。アルファ版で明かされていないのでシラベは知らず、シラベが知らないならミトラも当然知らない。

 

 砲弾の音が規則正しく盆地に響き続ける。

 

 シラベとミトラは、どちらからともなくゆっくりと顔を巡らせた。二人の視線が自然と同じ一点に注がれる。

 

 簀巻きを解かれてからずっと、シラベの傍らで所在なげにしていた銀髪の少女。ソロモン王の娘という推測がつきまとうミーシャの方へ。

 

「な、なんでしょうか……?」

 

 二人ぶんの視線を一身に受け、ミーシャが落ち着かなげに身を縮める。

 

 砲弾はまだ降り注いでいた。

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