カスレアクロニクル   作:すばみずる

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166 猫の声がした

 ミーシャの演説からおよそ一時間ほど。盆地周辺を覆っていた戦の気配は嘘のように薄れていた。

 

 戦場だった一帯は後始末の只中にある。倒れた兵を運ぶ者、資材を集める者、仮設で休息所を作る者。義勇軍と教団の信徒、そしてつい先刻まで殺し合っていたソロモン軍の娘たちまでもが、ぎこちなくも混じり合って働いていた。

 

 その全体を差配しているのはカルメリエルだった。30人ほど残っていた将軍格だろうソロモン王の娘に対しても一切引かず、如何なる手管か総指揮を任された彼女は誰にどう動けと淀みなく指示を飛ばしている。

 

 シラベはと言えば、その喧騒から少し外れた斜面の窪みで、寝そべった黒狼ヴェルカの脇腹にもたれかかっていた。

 

 戦のあいだ散々駆け回っていたくせにその身体は心地よい程度の温かさを保っていた。息一つ乱していないあたりが条理の異なる化け物なのだと分からせてくる。

 

 シラベの隣では同じくヴェルカに背を預けたレヴェローズが金髪を狼の体毛に散らして座り込んでいた。

 

 ヴェルカのすぐ傍では、灰色狼のモングレルが寄り添うようにして目を閉じている。その背にはミトラがうつ伏せに乗っかっていた。両腕を広げ頬を毛並みに押し付け、全身でその感触を貪っている。指示を出し続けているカルメリエルとは対照的な、見事なまでの脱力ぶりだった。

 

「ふむ」

 

 レヴェローズが慌ただしい兵たちを見やったまま口を開く。一人だけ縁の上で兵を率いていた彼女は盆地で何があったのかを詳しくは知らない。シラベは先ほどからその穴埋めをさせられていた。

 

「契約者たちはあの黒い王を削り切り勝利したのは分かった。私が授けた戦術が役立ったのならなによりだ」

 

「デッキタイプが同じってだけでお前から教わったわけじゃないけどな」

 

「だが」

 

 指摘を無視したレヴェローズが、紫の瞳をシラベに向ける。

 

「あのミーシャの豹変は貴様の差し金ではない、と?」

 

「ないない。あんなん俺が一番びっくりしてんだよ」

 

 シラベは背伸びをして黒狼の毛並みに身を埋める。戦勝の雰囲気に狼も酔っているのか、レヴェローズ以外のものが触っても唸ろうとしない。

 

「玉座に座らせようって考えたのは俺とミトラだ。頭潰されたソロモン軍を丸め込むのにちょうどいい看板になるだろうからああいう真似させた」

 

「うむ」

 

「だけど、あの演説は知らねえ。ミシャンドラが人名だったって裏付けはなかったし、最初の娘なんて設定は公式でも見た覚えない知らん。俺はせいぜい、あれで兵どもがひれ伏してスタッフロール流れておしまいばいばいと思ってたんだよ」

 

 言いながら自分でもよく分からなくなってくる。あの夢遊病じみた声を思い返すといまだに背筋が薄ら寒い。

 

「もし反抗されていたらどうするつもりだったのだ? 現にあの序列八位を名乗った戦姫は剣呑な顔で食ってかかってきたのだろう」

 

「そん時はそん時。ラスボス第二回戦、軍団対俺とミトラだな。盤面ひっくり返してもう一戦おっぱじめるだけだ」

 

「行き当たりばったりではないか」

 

 レヴェローズが呆れ果てた顔をした。

 

「貴様という男は。一軍を相手取る算段をその場のノリで立てるな」

 

「俺はどうすればゲーム側の終わりやすいかなぁっていう柔軟性が求められる部分で臨機応変に対応しただけだ。文句があるなら不良品作った奴に言え」

 

「そちらにも文句を言いたいところだが、臨機応変というのはもっと計算ずくの者が使う言葉なのだということを忘れるではないぞ」

 

 レヴェローズは溜め息混じりに言って、それから何かを思案する顔になった。

 

「しかし、ならばあれは何だったのだ。あの語り口。まるで別の何かがあの娘の口を借りていたかのようだった」

 

「さあな」

 

「……貴様が持たせたあれこれが悪さをしたのではないか? 冠やら指輪やら杖やら壺やら、戦いの後に残っていたものを全部まとめて載せていたではないか」

 

 レヴェローズの指摘に、シラベは顔をしかめた。

 

「あれは箔付けだよ、箔付け。後継ですって顔して立つなら、手ぶらより王様の遺品でも握ってた方が様になるだろ」

 

 雑な考えをひけらかしながら、シラベはなんとなく持たせた品を一つずつ思い返してみる。

 

「壺は運試しのやつだな。生け贄に捧げてコイン投げて、勝てば化け物が一体出てくる。負けりゃ自分が痛い。俺も持ってる」

 

「あの悪趣味な置物か」

 

「悪趣味言うな、カッコいいだろうが。で、指輪は使い捨てのマナだろ。割って好きな色のマナが三つ出る。玉座も使い捨てライフゲイン。冠は……確か、生け贄にすると山札の上を三枚墓地に送るやつだったか」

 

 指折り数えるように口に出していって、シラベは引っかかりを覚えた。

 

 壺、指輪、玉座、冠。ライフが無い環境では意味が無く、マナも無制限に使えるし、山札の墓地送りは逆効果。どれもこれもあの戦いにおいては役に立たないカードだ。強いて言えば壺は使い道があるが、それでも入っているのが不自然と言えるレベルのものだ。なんだってあんな物が王の中から出てきたのか。

 

 そこまで考えて、シラベはまた別の疑問に行き当たる。

 

「そういや一緒に持たせたあの杖。あれだけソロモン王のカードに無かった気がするな。……いや、あれってそういえば」

 

 記憶を逆再生するように思い出していくシラベ。そしてソロモン王──ではなく、その横で兵たちを唆していた白いあんちきしょうが持っていたものをようやく思い出した。

 

 血の気が引く。ノルドリッチは失伝結晶機の撃ち込んだ砲弾の嵐の中でいつの間にか姿を消していて、ソロモン王と一緒に粉みじんになったものとばかり思っていた。しかしあれが消し飛んでも得体の知れない外道の遺品だけが残り、それを握らせたのではないかとまで思い至ったシラベは一瞬本気で焦った。

 

 だが、その焦りもすぐに収まる。

 

「……ま、いいか」

 

「いいのか?」

 

 シラベが何かに焦り開き直り始めたのを察知したレヴェローズが半眼で睨むが、シラベはそちらを敢えて見ないようにした。

 

「元が誰の持ち物で、適当なペラ回しさせる呪いの装備だとしても、あの場が丸く収まったんなら結果オーライ。それでいいだろ」

 

「ずいぶん雑な納得の仕方だな。ミーシャもいい迷惑だろう」

 

 レヴェローズに溜め息を吐かれるのは釈然としないが、シラベだってミーシャに苦労を掛けているのは自覚がある。だがそうなってしまったものはしょうがない。むしろ元々知っているストーリーでは殺されそうなところだったのだから、命の危機が無いだけましだろう。

 

「今頃はソロモン王の幹部だか将軍だか、妹たちに囲まれてるんかね。ま、なるようになるだろ。俺は知らん」

 

「ここにいるぞ」

 

「あ?」

 

 レヴェローズの言葉にシラベは思わず顔を向けた。示された先を見て、シラベは目を瞬かせる。

 

 寝そべるヴェルカと目を閉じたモングレル。その二匹の巨狼の体が作るわずかな隙間から、銀色の髪がほんの少しだけ覗いていた。よくよく見れば、毛並みの奥に小さな体を丸めて、ミーシャがすっぽりと収まっている。傍らには渡したはずの王冠や指輪が無造作に置かれていた。

 

「いつの間に潜り込んでやがった」

 

「さてな。姉様が指揮をしているとはいえ注目の的だったろうに、こうして隠れられているのは才能があるのかもしれないな」

 

 王様という未知の重圧から逃げるためにもふもふに匿われて癒されているらしい少女。シラベが手を伸ばして覗いている銀の髪を指先でちょいちょいと弄ってやると、面白い様にびくんと髪が跳ね上がった。身じろぎしてさらに狼の毛の中へと潜っていく。ぶつぶつと懊悩している声が漏れ聞こえた。

 

「……たしは言ってない。言ってないのに……王様とか分かんないのに……」

 

「大丈夫だって。何とかなるだろ、たぶん」

 

「びっくりするくらい説得力が無いな。支えてやるくらいは言えんのか?」

 

「争いごとを知らないのと同じように王がどうとかなんて支えられるわけないだろ」

 

「担いだのだから最後まで責任を持とうとしろ。今後担げるものがフルメタル神輿だけになる呪いを掛けるぞ」

 

「カルメリエルみたいなこと言うなよ」

 

 レヴェローズのあたりがやけにしつこい。あるいは王女という立ち位置に同情しているのかもしれない。こいつに王女という自覚があるならの話だが。

 

「なぁミーシャ。お前に渡した杖、あれどこやった?」

 

「知らないです……どっか行っちゃいました……」

 

「無くすなよ、遺品みたいなものだぞ」

 

 誰のかは知らないけど、と心の中で付け足しながらシラベは身を起こした。いつまでも油を売っている場合でもない。

 

「俺たちには遠くの王様より近くの帰り道の方が大事だよ。エンドクレジットが流れる気配がいつまで経ってもねえじゃねえか」

 

 今一番の悩みの種はこれだ。肝心の脱出口が一向に分からないままだ。ボスを倒せば終わるのかと思えば、戦後処理ばかりが延々と続いている。

 

「実は敗北確定戦闘だったのではないか?」

 

「ラスボスでそれはひねくれすぎだろ。なんか条件を満たしてないのか、手がかりが全くない」

 

 うーん、と悩むが当然答えは出ない。狼に寄りかかるレヴェローズも考えてはいるようだが期待は出来ないししていない。こうなれば良かった探しをして話を締めておき、後でまたボトムレスピット出張会議を行うしかないだろう。

 

「ま、大穴がまだ見つかってねえ以上、すぐ帰るってなるのも怖かったけどよ。ソロモン軍がこれ以上暴れねえなら、もっとくまなく探して──」

 

 そう言いかけた、その時だった。

 

 どこかから、猫の鳴き声が聞こえた気がした。

 

「……ん?」

 

 シラベは動きを止める。空耳か。あたりを見回すが猫の姿はどこにもない。

 

「なあ、今」

 

 シラベが問い掛けると、レヴェローズも起き上がり訝しげに首を巡らせていた。

 

「ああ、私も聞いた。猫の声がした」

 

 二人して聞いたのだから空耳ではない。シラベは軽く咳払いをして、半信半疑で声を出してみた。

 

「……大穴?」

 

 今度ははっきりと聞こえた。

 

 にゃあ、と。意識して耳を澄ませていたからか、先ほどよりも近く感じる。すぐ傍から響いてくる。

 

「いる。近くにいるぞこれ。おいどこだ!」

 

 確信したシラベは声のした方へ一歩、一歩と探るように近付いていく。時折呼んでは声の方向を確かめて、また歩いていく。体感では近くの筈なのだが、追い掛けてみると一息で到着するような気がしない。不思議な距離感を味わいつつも猫の声を辿る。

 

 そうして着いたのは、特徴的なアイコンがあるでもなく、ただ視界が開けた場所。何もないはずのその場所から、シラベは奇妙にも視線を感じた。誰かにじっと見つめられているような、肌をくすぐる圧力のようなもの。

 

 シラベは恐る恐る、その空間へと手を伸ばす。

 

 指先が、何かに触れた。

 

 ひやりと冷たく、だが同時にひどく懐かしい感触だった。なめらかで、つるりとして、けれど不思議と熱を持たないきめ細やかな──肌。いつかどこかで触れたことのある感触。

 

「ここにいる」

 

 シラベは確信を声にした。何も見えない。だが触れれば確かにここにいるのだと分かる。

 

「ほんとに?」

 

 いつの間にか付いてきていたミトラが近寄る。背伸びをして、シラベが触れているあたりに小さな手を伸ばした。

 

「……うわ。なんかある」

 

「だろ」

 

 ミトラの手のひらも、見えない何かの表面を撫でていた。シラベは触れた感触を頼りに、手のひらを上下させてみる。柔らかく沈み込むそこは、なだらかな曲面を描いていた。

 

「この感触……腹か? どうすんだよこれ。押し続けて突き破ったらまずいよな」

 

「なんで触ってお腹って分かるのよ」

 

「それはほら、形というか手触りというか」

 

 シラベの感覚としては、透明になった大穴の腹がちょうどそこにあるような塩梅だった。へそのあたりらしき窪みからなめらかな曲面が上へと続いている。その輪郭をなぞるように、シラベは手を腹から上へと滑らせていく。

 

 このままいくと彼女が携えていた柔らかな膨らみの裾野に指がかかるのではないか、いやでもセンシティブフィルターが、でも見えてないならセーフなのでは? 何が? シラベは訝しんだ。

 

「待て契約者。貴様の手つきには邪気を感じるぞ」

 

 思考を読むかのように、横から伸びてきたレヴェローズの手がシラベの腕をがしりと掴んだ。

 

「邪気じゃねえよ。俺は大穴の体がどこまであるのか確かめてるだけだ。邪悪さなんて微塵もねえ」

 

「ではなぜ目が泳いでいる」

 

「泳いでねえ」

 

 泳がせた視線を慌てて戻しつつ、シラベは咳払いをする。傍ではミトラが胡乱げな目でシラベを見ていた。

 

「シラベ様。何をなさっているのです?」

 

「おお丁度いいところに来たカルメリエル。大穴だよ。ここにいるんだ。声がした」

 

 怪しげな動きを見ていたのか、カルメリエルまでもが寄って来た。これ幸いとシラベはカルメリエルに話題を振る。

 

 シラベが説明へ答えるように、にゃあ、とまた猫の声が響いた。その場にいる全員が音に反応して息を呑む。

 

 その源泉がこれだとシラベがさらに身を寄せようとした、まさにその時だった。

 

「──そっか。そこから覗かれてたんだ」

 

 声がシラベの耳元を撫でた。

 

 吐息が首筋にかかる。振り返ろうとしたシラベの首に、細い腕が背後から絡みついた。

 

 視界にはレヴェローズ、ミトラ、カルメリエルすべてが収まっている。少し離れたところに狼たちがいて、兵たちは遠くにいる。であればこれはなんなのか。

 

「おっと、動いちゃダメだよ。危ないからね」

 

 冷たい感触がシラベの喉元に押し当てられる。それが折れかけの杖の先端だと気付くのに一拍を要した。刃物のように研がれた冷たさが皮膚を圧している。

 

 見開かれたミトラの瞳を見つめる。自分の姿がそこに映り、自分の背後にいる何者かもそこにある。

 

「ボクの姿を見るために必死だね。仕方ないなぁ、首を動かすくらいならいいよ」

 

 首に絡んでいた腕の力が僅かに弱まる。だが宛がわれている折れた杖は変わらずだ。無駄に暴れるような真似はせず、ゆっくりと分かりきった声の主の様子を窺う。

 

 ボロボロの装いだった。白髪はあちこちが焦げ、肌には擦り傷が走っている。だがその金色の瞳だけは、変わらぬ軽薄な光を湛えていた。

 

 白き円環のノルドリッチが、シラベの首を絞める、あるいは後ろから抱き着く格好でそこにいた。

 

 シラベが顔を引きつらせたのを見て、ノルドリッチがにこりと笑う。

 

 空気は一瞬にして張り詰めた。レヴェローズがサーベルの柄に手をかけ、ミトラが息を呑む。カルメリエルの糸目が解かれ緑の瞳が露わになる。

 

「待って待って。そう色めき立たないでよ」

 

 ノルドリッチは努めてへらへらと笑いながら、しかし首に当てた杖は微塵も緩めない。冷たい先端がシラベの喉仏のすぐ下を圧している。下手に動けば皮膚を裂かれるのだろうか、あるいはそれよりもっとひどいことが待っているかもしれない。

 

「大体さぁ、そんな驚かなくってもいいんじゃない? 対戦していたのはソロモン王で、ボクは横に立ってせいぜい結界を張った程度。決闘と関係ない立場なんだから、むしろこうして砲撃の影響を受けちゃってる方がおかしいよね」

 

 好き勝手な言い分への返答はない。その場にいる誰もが口を利けなくなっていた。シラベは恐怖から。その他は、シラベの見立てでは分からない。

 

「今回はね、ボクの負けでいいよ。対戦ありがとうございましたってやつ。だからさ、キミたちのことはちゃんと現実に帰してあげようと思うんだ。ただし、すこしばかり敗者に慈悲をくれないかなって」

 

「な──にが負けでいいよこのカス──」

 

 シラベの激情よりも先に、ミトラの怒声が一瞬飛んだ。すぐさま傍にいたカルメリエルによってミトラの小さな口は抑え込まれたものの、その手の下でもミトラはぎゃーすか騒いでいる。

 

 その様子が、シラベを逆に冷静へと導いた。唇を舐めながらどうにか頭を回す。

 

「……敗者への慈悲ってのが、人質取って強請ることだとは知らなかったな」

 

 減らず口を叩きながら、シラベは視線だけをレヴェローズへ走らせた。この場で腕っぷしが一番強いのは、間違いなくレヴェローズだ。あいつが動けばいい。何なら多少俺を斬ったところで魔術師に物理攻撃は通らない。死なないだろ多分。

 

 だが、レヴェローズは動かなかった。悔しげに顔を歪めサーベルの柄を握りしめたまま、それ以上踏み込めずにいる。

 

 何故、と考えてからシラベは舌打ちをする。曲がりなりにもノルドリッチも魔法を使う素振りを見せている。であればこの世界のシステムが、ノルドリッチを守る可能性もあり得た。

 

 一方、ノルドリッチからシラベを害する手段は──無い、と断言するには根拠が薄い。むしろ害する手段があるからこそ、こうしてシラベを狙い打ったということだろう。

 

「良かったね。みんなに愛されてて」

 

 ノルドリッチがシラベの耳元で囁き、嗤う。その声には本心からの羨望とも、ただの嘲りともつかない響きがあった。

 

「慈悲って、何をくれてやればいいのよ」

 

 カルメリエルに抑えられ、ようやく落ち着いたミトラが平坦な声を捻り出した。

 

 ノルドリッチはにっと唇を吊り上げてから、シラベが先ほどまで触れていた空間を顎でしゃくってみせた。

 

「簡単だよ。ボクを見逃して欲しいんだ。これからボクはこの穴ぼこを通って現実に行かせてもらうけど、それを止めないでいてくれればいい。それだけだ」

 

「おい、お前なんかが通ったら大穴はどうなる」

 

 シラベは思わず声を上げた。ノルドリッチはきょとんとしたが、ああ、と理解を示す。

 

「これは何かで抉じ開けられた穴とかじゃなくて、穴そのものが意思を持って歩き回っているようなものだから、どうにもならないよ。壊そうと思って壊せるものじゃないね」

 

 杖の先端で首筋を撫でられて、シラベは思わず身じろぎをする。

 

「首を掻き切るくらいは出来ても、概念を突き崩すような真似は今のボクじゃちょっとねぇ」

 

「そうかい安心したぜありがとよ」

 

 感謝が籠るはずがない言葉を吐き捨てながら、シラベの内心では別の計算が回り始めていた。

 

 折れた杖で脅すという違和感。フレーバーテキストの端々で杖職人を自称するノルドリッチのアイコンがこの有り様であるというのは、思いのほか切羽詰まっているように見える。おそらくは、自分が用意していた脱出手段も覚束ない程度には。

 

 自分たちはついさっきまで帰り方が分からないと頭を抱えていたところだというのに、こいつはご丁寧に大穴が出口になると教えてくれている。何故? 親切心はありえない。こいつが明かしたい理由、明かさざるを得ない理由はなんだ。単にこうして背中を取ってから負けで良いですなどという舐めた事を言うために顔を出してきたのなら馬鹿な奴ではあるが、さすがにそれだけではないはず。

 

 こいつが出て来た原因は、おそらく大穴がそこにいると気付いた事。そこから覗かれていたと言っていた。ようやく気付いたかのような言い振りは、つまり大穴がシラベに反応して鳴いた声を辿らなければこいつですら見つけられなかったという事。

 

 ノルドリッチには大穴を見つけられる手段がなくて、ここにあると捉えておけるのは今しかないのかもしれない。ここから俺達が離れれば大穴がどうなるか誰にも分からない。そして大穴の位置を探れるのがシラベご一行の特権だとすれば、ノルドリッチにとっての千載一遇の機会はシラベにすらも想定外で慌ただしくなっている今この一時のみ。

 

 ここから脱出方法を見せてくれるなら、自分はどうあれミトラたちの帰還の助けとなる。もし特殊な器物や魔術が必要だとしても、剣と魔法とカードが飛び交うファンタジーそのまんまな葬送外野(ヘルヘイム)ならそれを補うものが何かあるはずだ。そう信じなければやってられない。

 

「逃亡先まで、シラベ様を連れていくおつもりですか」

 

「まさか!」

 

 ミトラの後ろに控えたまま問い掛けたカルメリエルに、ノルドリッチが噴き出す様に即答した。

 

「ここを出たら解放するよ。ボクは身の安全さえ確保できればそれでいいんだ。その後は好きに追いかけてくればいい。ぶっちゃけボクの好みにはちょっと遠いしさぁ」

 

「気にすんなよ。誰だって選ぶ権利があるからな。お前にも俺にも」

 

 軽口に軽口で応じると、ノルドリッチは愉快そうにからからと笑う。つられてシラベも力なく笑うが、その梯子を外す様にノルドリッチの笑いがぴたりと止まった。

 

「だけど。キミがそうやって後ろ手で信者たちに指示を出し続けるなら、その限りじゃないかな」

 

 カルメリエルの肩がわずかに強張る。歯を噛む音が聞こえたかもしれない。カルメリエルはゆっくりと、背後に回していた手を身体の両脇へと下ろした。

 

「賢明だね」

 

 ノルドリッチが満足げに頷く。シラベの視界では見えなかったが、おそらくカルメリエルは背中に回した手で信号を送っていたのだろう。そういえばと思い返すと、遠くから聞こえていた筈の作業音がやけに静かになっている。

 

 シラベはミトラの方へ目をやり、応じろと目だけで示す。どうあれここは飲むしかない。

 

 ミトラは躊躇した。瞳は揺れ、迷っているのが一目で分かる。唇が一度引き結ばれ、一瞬先には叫び出しそうな雰囲気すらあった。

 

 だが、どうすることもできないのをシラベが分かっている以上、ミトラにもよく分かっている。シラベはそう感じ、事実としてそうだった。

 

「……さっさと行きなさい」

 

 絞り出すようにミトラが言った。うん、と言うノルドリッチの声の明るさが腹立たしい。

 

「物分かりがいいのは助かるよ。じゃあ、またね」

 

 ノルドリッチの体が動く。それに合わせてシラベの体も後ろ向きに歩かされる。

 

 一瞬だけ、首に突き付けられていた杖が片手に渡される。ここで暴れればあるいは、と天秤に掛けようとした頃には戻ってきており、苛立たしいほどに手慣れている。

 

 また後ろに歩く。今度は数歩もしないうちに、ぐにゃり、と透明な膜が波打つ感覚がシラベの背中に伝わってきた。生暖かい水面に背中から沈んでいくような緩い抵抗を覚えるが、背もたれになるほどの硬さは無い。

 

 ノルドリッチに引き寄せられるまま、シラベの体はその膜の中へとずぶずぶ呑み込まれていく。

 

 見送る者達の顔を見る。悲壮に顔を歪めるレヴェローズ。悔しげに唇を噛むミトラ。憎々しげにこちらを見据えるカルメリエル。

 

 そしてその後ろから。二匹の狼を伴って、ミーシャがこちらへ向かって駆け出してきていることにシラベは気付いた。

 

 さっきは投げ出していたソロモン王の品々を武器のように抱え、何かを叫んでいる。だが既にシラベの耳は膜を通り抜けており、目に見える光景から音が遠ざかっていた。自分のやかましい鼓動だけが聞こえる中で、何を言ってやることも出来ない。

 

 それでもシラベの目が完全に膜の向こうへ過ぎ去るまで、何かを必死に言いながら駆けてくる少女と家族たちの姿が見え続けていた。

 

 

 *

 

 

 真っ黒な空間にシラベはいた。

 

 上も下もない。果ても底もない。墨を流し込んだような闇が、どこまでも広がっている。

 

 黒しかないこの場で見覚えというとおかしなものだが、身に覚えならシラベにあった。月山を閉じ込めるために大穴に張ってもらった結界。あれによく似ている。

 

 ただ、あの時とは少し違う。あの結界には薄ぼんやりとでも床らしきものがあったが、ここにはそれすらない。確かな感覚といえば、首に押し当てられた杖の冷たさと、背後から巻きついたノルドリッチの腕の感触だけだった。

 

 シラベは口を噤み、ノルドリッチに動かされるまま無抵抗に身を委ねていた。どこへ向かっているのか、どのようにして動いているのかも分からない。泳ぐよりは静かに、漂うよりも意思を感じる動きで、ただ闇の中をゆっくりと運ばれていく。

 

「ボクはね、あの葬送外野(ヘルヘイム)にいる間でも、外の事はなんとなく把握していたんだよ」

 

 不意に、ノルドリッチが語り始めた。

 

「君たちの様子を神様に見せるために、神様とその周囲には繋がりを持っていたんだ。そうしたらその神様がこの世界に逃げ込んで来た」

 

 聞かせるつもりの言い方だが、独り言のようにひどく声が小さい。がらんとした黒の空間が音を吸っているかのようだ。

 

「可哀想に、ずいぶん腐っててね。だからボクは元気づけてやりたくて、キミたちを踏み台にするつもりだった」

 

 シラベの脳裏にあの不格好な油溜まりの王が蘇る。ソロモン王と紹介されたあれがノルドリッチのいう神様だったという。おちゃらけてでも神と呼んだそれをああいう形にしたのだから、やはりノルドリッチはろくでもないとシラベは理解を深めた。

 

「それなのにさぁ。ああして空気も読まずに勝っちゃうんだもん。むかつくなあ」

 

 声には苛立ちが滲んでいた。言葉遣いこそ荒れてはないが、その下に荒れ乱れている感情が上っ面を剥がそうとしている。

 

 シラベは黙り続ける。面倒くさい女には何も返さず、たまに頷き肯定してやればいいという遠い日のバイト先の先輩の教えに従っていた。

 

 だがノルドリッチはその沈黙が気に入らなかったらしい。喉元の杖がぐっと押し込まれた。

 

「なにか言いなよ」

 

 息が詰まる。シラベは嫌々ながら口を開いた。

 

「……そんなに勝たせたかったんなら。もうちょっと、まともなデッキを使わせてやればよかっただろ」

 

 絞り出すように言う。

 

「『群狼跋扈』なんて俺は知らねえプロトコルだったけどよ。あんなめくり次第の運をぶつけるだけの環境じゃ、あのソロモン王のカードの腕も発揮出来やしない」

 

「はぁ? 何言ってるの?」

 

 ノルドリッチは、心底不思議そうに言った。

 

「カードゲームなんてどうせ運次第なんだから。何使ったって一緒でしょ?」

 

「は?」

 

「だってそうじゃない。単に積み重なっただけのカードの束を引いて、並べて、殴り合うだけ。そこに実力なんて関係ある? 引きが良ければ勝つ、悪ければ負ける。ぜんぶ運頼みじゃないか」

 

 その言葉を聞いて、シラベはようやく腑に落ちた。

 

 この女には、理解できないのだ。カードゲームというものが。手札を読み、リソースを天秤にかけ、何十手も先を睨んで一枚を伏せる。対戦までのデッキ構築から始まるその積み重ねが勝敗を分ける営みが、これにはまるで見えていない。ただ運が札を配るだけの退屈な博打にしか映っていない。

 

 憐れむ気にすらなった。こいつは一番面白いところをまるごと取りこぼしている。

 

「もっとも、キミは精霊でイカサマしてくれたみたいだけどね」

 

「ああ? 何のことだよ」

 

 ノルドリッチが付け加えた言葉は本当に身に覚えがなかった。イカサマも何も、システマチックな環境じゃ積み込みもぶっこ抜きも残念ながら出来やしない。

 

「ふうん? ──ああ。じゃあ、よそからの茶々入れだったのか。まあいいや」

 

 ノルドリッチは少し考えるように間を置いてから、独り言のように呟き話を打ち切った。シラベには何のことやら分からなかったが、追及できる立場でもない。

 

「ねえ。この空間、キミは大穴って呼んだよね。外では真っ黒い少女の姿になってるみたいだけど」

 

「……だったらなんだ」

 

 露骨に話題を変えた事を訝しみつつ、シラベは大穴の元の姿を思い出そうとする。直近で見たのはディーヴァ・アリーナでの姿だろうか。公序良俗に喧嘩を売る姿をしていたのはそうそう忘れられない。

 

「キミの声にこれは反応した。キミはきっと仲良しなんだろうね。もしこの場で、キミからボクが離れでもしたら……さあて、どうなるか分かったものじゃない」

 

 くすり、と笑う気配がした。確かに大穴がどうこう出来る空間であるなら一か八かで暴れてみるのもいいかもしれない。だがシラベの脳裏には、大雑把に振るわれた黒猫の肉球に押しつぶされる未来しか浮かばなかった。そういう細かい事が出来る性格だとはあまり思えない。

 

「だから、もっと密着しておかないとね」

 

 その言葉と共に、シラベの体がぐるりと回された。喉に杖を押し当てられたまま半回転させられ、ノルドリッチと正面から向き合わされる。

 

 真っ黒な空間の中で相対する、白髪金目の精霊。ボロボロに焦げた装いでなお、その姿はシラベの目にひどく美しく映った。そして同じだけ悍ましかった。整った造作の奥に人ならざる空虚が透けている。美しい顔は微笑みの形をしているのに、どこまでも別の生き物なのだと感じてしまう。

 

 その手が、すいとシラベの服の中へ滑り込んだ。

 

「何しやがる、っ!」

 

 抵抗しようとした瞬間、喉仏を杖の先で強く押された。シラベは動きを止めざるを得ない。その間にもノルドリッチの手がシラベの胸板を、腹を、その下まで無遠慮にまさぐっていく。

 

「ボクの手持ちの杖、もうこれしかないからさ。ここを出る前に補充しておかないとまずいんだよね。まともな一振りがないと、大穴って精霊も、あの箱庭も、外側から壊せないし」

 

「──は?」

 

 ねっとりとした指先を滑らせながら睦言のように囁かれた言葉が、シラベの思考を色情から即座に怒りへと書き換えた。

 

 慈悲だの逃がせだの言いながら、こいつは初めから自分を素材にする腹積もりだったのか。それだけならまだしも、それを何のために使うのだとぬけぬけと何故言える。それがこの女なりの復讐という事なのだろうか。

 

「大丈夫、出たらキミを解放するのは本当だって。ああでも、こっちがあんまり早いと楽しめなくって、その分遅くなっちゃうかもねぇ」

 

 押し付けられた肢体の低俗さに堪え切れず、シラベは腕を振り上げた。小さく畳んだ肘をその小さな頭に浴びせようとする。

 

 だがその前に、ノルドリッチの手がシラベの急所をぐっと握り込んだ。

 

「────ッ!!」

 

 圧迫感がシラベの全身を強張らせた。身動き一つで握り潰されかねないという状況が本能的な恐怖を掻き立て、痛みが来る前から自然と身体が強張っていく。

 

「キミ性欲強そうだしさあ。良い杖が出来ると思うんだよね」

 

 ノルドリッチが歯ぎしりするシラベに顔を近付ける。

 

「あんなちっさいのをお嫁さんにしてるんでしょ? 丁度良かった。きっとボクと相性が良いよ」

 

 白い顔が間近に迫った。逃げる間もなく唇が重ねられる。

 

 無理やりこじ開けられた口腔へ、ぬるりと舌が侵入してくる。生きた蛇を飲み込まれたような気色悪さと同時に、体の芯から何かが引きずり出される感覚に襲われた。喉の奥、腹の底から形のない熱が吸い上げられていく。

 

 脱力しかけたその刹那、シラベは残った力という力を顎の一点に集める。

 

 そして、思い切り、噛んだ。

 

「っ、たぁ……!」

 

 弾かれたようにノルドリッチが顔を離した。口の端から血が垂れている。

 

 金色の目が見開かれているのが、シラベにはなんとも間抜けに見えた。

 

 口の中に鉄の味が広がっている。それを吐き捨てたシラベは肩で息をしながら、強がって笑ってやる。きっとそれが、このろくでなしが一番嫌がる事だから。

 

「俺はな、どっかのクソ社長と違ってロリコンじゃねえ」

 

 しまった、この言い方だと該当者が二人いる。そんな事に気付いてしまい、シラベは今度こそ心から笑ってしまう。

 

 笑うついでに、思い出す。二人の内の一方、と呼ぶのはあまりにも不名誉だ。想い人を取り合う仲なのか想われる側なのか。今でも関係がよく分からないあいつの姿が、何故だかひどく恋しく思えた。

 

「ミトラだから。一緒にいて欲しいと言ってくれたひとだから惚れてるんだよ。容姿なんて関係ねえ」

 

 あの女社長の事を思い出したせいだろうか、自然と言葉が漏れ出た。後悔が襲ってくるがそれでもいい。このままろくでもない真似をされるんだったら、滑りが良くなった舌のまま言いたい事を言ってやる気を削がせてやる。

 

「お前は金貰ってもヤだ。病気持ってそうだし」

 

 その物言いのせいか、更に嘲るために伸ばした舌のせいか。篭絡と簒奪が生き甲斐の寄生虫のプライドを傷つけることには成功したらしく、ノルドリッチの顔から表情が消えた。

 

 へらへらとした軽薄さも、嗜虐の笑みも、苛立ちすらも削げ落ちる。残ったのは顔という作りだけを被った人ならざるもの。

 

「じゃあ邪魔にならないよう、役立たずは再起不能にしておこうか」

 

 急所を握るノルドリッチの手に力が籠っていく。シラベの全身が来たるべき激痛に強張った。覚悟はしていた。だが万力の様に締め付けられていくにつれて命乞いの言葉ばかりが浮かぶ。

 

 致命に至る寸前。もつれる二人の顔に差した光が動きを止めさせた。

 

「何、だ?」

 

「誰が?」

 

 シラベとノルドリッチが呟きながらも同時にそちらを向く。

 

 闇の中から何かが迫る。落ちてくる。

 

 自由落下のような速度で、先端に光を灯した黒い杖を両手で握った小さな影がシラベ達へと向かっていた。

 

「あいつの杖、まだ──」

 

 それがミーシャであるとシラベが気付くより早く、ノルドリッチの声が漏れた。無くしていた表情が笑みへと染め上がる。

 

 その反応を見て、シラベはやはりミーシャに持たせたあれがノルドリッチゆかりのものだったと後悔すると同時に疑問を抱いた。

 

 ミーシャがどこかへ行ったと言っていた杖が、どうしてまた彼女の手の中にあるのか。そもそもあれがノルドリッチの杖ならば、あれを手に入れておけば全て済んだ。

 

 それなのにどうして探さなかった──違う、見つけられなかった、隠された、隠れていた?

 

 シラベの考えが巡り終わる前に、杖を携えたミーシャが飛び込んでくる。姿勢のせいかミーシャの顔は窺えないが、意識して突っ込んでいるのではない、という事かもしれない。あるいはこの空間を統べている大穴の意思なのか。

 

 ノルドリッチの両手は折れかけの杖とシラベの急所でそれぞれ塞がっている。如何なる判断を下したのか、ノルドリッチは折れかけの杖を手放してミーシャへと伸ばす。

 

 腕を掴まれたミーシャの体が、がくんと自由落下じみた速度を止めた。その有り様は脱力しきっており、ノルドリッチに体をぐいと引っ張られていてもまるで抵抗しない。

 

 だがミーシャは意識が無いままに、見計らったかのように杖を手放していた。ノルドリッチの指先からは寸でのところですり抜けて、光を灯したまま闇のどこかへ落ちるように飛んでいく。

 

「ちっ」

 

「おいバカ、やめろ!!」

 

 ノルドリッチが舌打ちをしつつ、ミーシャを捨て置き、悶絶するシラベを引きずるようにして、光る杖を追って闇を泳いでいく。掛かる力のせいで生じる激痛でシラベの視界がちかちかと明滅する。シラベはかろうじて抗おうとするものの、ノルドリッチの手は一切力を緩めない。致命の直前で止まったままだ。

 

「あれがあればキミなんていらないんだけど、人質は必要だからね」

 

 その言葉の通りだろうか、一切の妨害なくノルドリッチは彼女の意思をそのままに進んでいく。

 

 光を追って、闇の中を二人の体が滑っていく。杖の灯りが動きを止めた。ちょうど地面に落とされたようだった。

 

 何にぶつかったのか、とシラベが、おそらくノルドリッチも注目しようとした時、杖先に灯っていた光が、強烈な刺激となって視界を焼いた。

 

「あっ!?」

 

「うお!?」

 

 暗がりの中で注目し得る標的だったそれが光ったせいで、ノルドリッチは悲鳴を上げた。シラベでさえも今ばかりは痛みではなく眩しさに声をあげている。

 

「くそっ、どこだ! どこにいった!」

 

 ノルドリッチが苛立たしげに周囲を見回しているのが分かる。振り回されぎみな体にシラベの体が再び悲鳴を上げ始めた。

 

 辛うじて顔を背けられたシラベは痛みと閃光で浮かんだ涙越しに、ノルドリッチの近くで動くものの輪郭を捕らえた。

 

 子供程度の大きさだろうか。シラベは瞬間的にミトラを思い出したが、そのシルエットが腕を大きく振ってノルドリッチを殴りつけたのを見て違うと判断した。あいつだったら脚でやってる。

 

 無警戒だったノルドリッチはそれをまともに頬へ受け、ふぎゅっと間の抜けた声を上げて大きく仰け反った。

 

 誰が、なんで、どうやって。浮かぶ疑問よりも、握られていた手が緩んだ事以外に重要なことは今のシラベには無かった。隙であることを認識した途端、シラベは渾身の力で身をよじり、ノルドリッチの拘束から自身の分身を引き剥がす。

 

「あ」

 

 離れたシラベに気付いたのだろう。ノルドリッチが手を伸ばしてくる。だが、届かない。シラベが藻掻いて遠ざかろうとしたせいでもある。だがそれよりも顕著な変化があった。

 

 シラベから離れたノルドリッチの体が、ひとりでに動き始めていた。

 

「ま、待って、嫌だ」

 

 誰よりも早くノルドリッチは自分の異常に気付いていた。先ほどのように身体を動かそうと力み、脚を動かそうとしている。だがここは何もない。底すらない闇の中では掴むものも、踏みしめるものもない。

 

「っ、杖、杖が……!」

 

 藻掻くノルドリッチの手が虚空を掻く。何もない黒い空間を落下していくその身を、止めるものは何一つなかった。

 

 まるで虚無そのものへ吸い込まれていくように。ノルドリッチの姿は見る間に小さくなっていった。白い髪など点すら見えない。どこまでも、どこまでも落ちていく。

 

 そして──遠く、闇の一点に溶けて、消えた。

 

 シラベはただ見るしか出来なかった。憐憫や恐怖のせいじゃない。闇の果てに消えたその瞬間、溢れてきた溜め息で気付く。ああ、ようやく、と心から思えるように、自分は彼女を見下ろしていたのだ。

 

「……全てを喰らう大穴」

 

 口に浮かんだのは、今この場こそを示している名前だけだった。

 

 

 

 しばらく何もない闇を見ていると、近くに小さな光が灯っているのにシラベは気付いた。

 

 目を向ける。そこには一人の少年が、先端を淡く光らせた黒い杖を握って立っていた。

 

 黒髪に、部屋着だろうラフな装い。これといって特徴の無い出で立ちで、歳の頃は十かそこらに見える。店に来ていてもおかしくないような見た目だが、その目は子供らしからぬ擦れた威圧感があった。

 

「……お前が、さっき殴ってくれたのか」

 

 涙で朧気だったものの、その様子だけはなんとなく見えていた。あれがなければ自分は今ごろ握り潰されていたかもしれない。

 

「助けてくれた、んだよな。ありがとう」

 

 シラベが礼を言うと、少年は何故かひどく嫌そうな顔をした。苦虫を噛み潰したような表情。礼を言われたことが不本意だとでも言うように眉を寄せている。

 

 露骨に歪んだ顔を隠さないまま、少年は小さく頭を振った。

 

「……どういたしまして」

 

 ぼそりと呟く少年に、よく分からない奴だとシラベが首を捻る。照れているのだろうか。

 

「にゃあん」

 

 どうしてここに、何があった、等々聞きたいことはあったものの、それより早く聞き慣れた猫の声が頭上から降ってきた。

 

「大穴!」

 

 シラベが思わず呼びかける。その途端、鳴き声がぐっと大きくなった。同時にシラベの体が、ぐらぐらと揺れ始める。

 

 まるで巨大な手に掴まれて振り回されるような感覚。上下も左右も分からなくなり、闇がぐるぐると回転する。

 

「うわ、おい、ちょ──」

 

 あっという間に少年の姿が視界から遠ざかる。今度はシラベが穴を落下していくかのようだ。風を切る音すら耳に聞こえた気がする。

 

 少年が背を向けたところまでは、シラベは見届ける事が出来た。

 

 

 *

 

 

 叫び声が枯れた頃、シラベはようやくまともな重力を感じ取れた。次の瞬間にびたんと音を立て、シラベの体は床の硬さを思い知る。

 

「いっ、つぁ……」

 

 したたか打ちつけた背中をさすりながら、シラベはなんとか身を起こす。霞む目で、周囲を見回した。

 

 見知らぬ、薄暗い部屋の中。分厚いカーテンに窓は覆われ、部屋の中央には青白い光を放つ半透明の円柱がある。

 

 そしてその前に、一人の人型が立っていた。

 

 夜の闇を切り取ってきたような漆黒の肌。タンクトップとショートデニムを纏った豊満な少女。そのお腹が不自然なほど大きく膨らんでいた。

 

 装いこそ記憶と違うものの、シラベには一目でそれが誰だか分かった。

 

「……大穴」

 

「にゃあ」

 

 膨れた腹の中から自分は吐き出されたのだと分かる。名を呼ばれた少女はひどくわざとらしい声で猫の鳴き真似をしてみせた。

 

 そして、その脇。大穴と似たようなタンクトップ姿の、安っぽい金髪の女子高生。その隣には身軽な装いの見覚えのある移り気な少年。それから、ノースリーブのワイシャツを着て、珍しくぽかんと口を開けた美女。それぞれが床に転がったシラベをまじまじと見下ろしていた。

 

 全員、状況がまるで呑み込めていないのだろう。それくらいしか、シラベにも分からなかった。何がどうなっているのか、自分だって説明できる気もしない。

 

 それでも。シラベは痛む体を無視してなんとか口を動かした。

 

「出迎えご苦労、キリメ、クモン、ヒナタ」

 

 その言葉で引き金を引いたかのように、キリメとクモンはぺたんと座り込んでしまった。察するに精霊やらなんやらオカルトについては流れで知ってしまったのだろうが、それにしても自分がこうして帰って来たのは輪をかけて異常だったことだろう。

 

 ヒナタだけは腰を抜かさず、立ったままシラベを見つめていた。唇に指を当て、何か視線を巡らせて、しきりに首を捻っている。

 

「……シラベ」

 

「おう」

 

 呟くような声にシラベが応じると、ヒナタは静かにシラベに歩み寄る。両腕を広げたヒナタにシラベは自然と脱力した。ぐらりと傾いた身体を、そのままヒナタの胸へと預けようとする。

 

 だが、その肩をヒナタががしりと掴んで押し留めた。

 

「ミトラは?」

 

「えっ?」

 

「何を力を抜いているんだい。ミトラはどうしたのか、キリキリ吐きたまえ」

 

「えっ、いやその、俺さっき去勢の危機を乗り越えてですね。ちょっとそういうノリは勘弁して」

 

「君が不能になろうが私は受け入れるから問題ない。それよりもミトラだ。何か算段があって一人で来たのだろう」

 

 ギリギリと肩に力が籠っていく。ノルドリッチの時とは別種の危機を覚えるシラベだが、一度抜けた力はなかなか入らない。

 

「立て。もう一回大穴の腹を通ってミトラを迎えに行きたまえ。それこそが伴侶としての務めだ」

 

「冗談だよな?」

 

「君こそ冗談だろう?」

 

 信じられないもの見たと言わんばかりの態度を取られた事にシラベは顔が引き攣った。

 

「違う、助けに行かないって言ってるわけじゃない。ただちょっと休憩を──ぐぇ、おいよせ──大穴! やめろ掴むな! 押し付けるな! おい! ────!!」

 

 揉み合いへし合い大きな腹に落とされつつあるシラベの様子を、キリメとクモンはただ眺め続けていた。

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