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「ミトラ……ミトラぁ……っ! ああ、無事で良かった、本当に無事で……!」
見ず知らずの他人の部屋だというのに、ヒナタがいつもの発作を起こしたおかげでその一角だけは店のような空気が漂っていた。
ヒナタに再び大穴へと突き落とされたシラベは、どうにかこうにかボトムレスピットメンバーを現実へと連れ帰ることに成功した。大穴も一度シラベを出したことでなにか掴んだのか、お邪魔虫がいなくなったせいなのか、スムーズな行き来をさせてくれた。
「……シラベ……これ、なんとかして……」
「諦めろ。お前の心配を一番してたのは、たぶんそいつだ」
床に膝をついたヒナタが戻したばかりのミトラを力任せに抱きすくめている。万力じみた腕の中で、小さな店長は早くも白目を剥きかけていた。
助けを求めてくる死んだ目をシラベは黙殺する。ヒナタがどれほどミトラの不在に気を揉んでいたかは推して知るべしというものだ。それに熊の餌を横から取り上げれば後が怖い。
「大丈夫だよシラベ、拗ねなくていい。後で君にも同じだけしてあげるから」
「殺害予告か?」
最愛と憚らず公言する相手を締め落としかけている女に言われても、ちっとも嬉しくない。だがヒナタは本気で、善意と情動だけでそう口にしているようだった。
部屋の隅では、また別口の事件が起きていた。
「本当に申し訳ありません。たんこぶになっていなければよろしいのですけれど」
カルメリエルがクモンを胸に抱え込むようにして、その後頭部を検分している。髪を掻き分け、丁寧に具合を確かめているらしい。
最後に戻ってきたカルメリエルは他の面々と異なり途中でこけてしまい、出入りのたびに膨らんでいく腹を呆然と眺めていたクモンを下敷きにしてしまったのだ。
ひしゃげた音を立てた少年を気遣って、こうして怪我の有無を検めている最中というわけである。
「いやっ、だから平気ですってば、ほんとに……」
豊かな胸元に半ば顔を埋める格好になりながら、真っ赤になったクモンが懸命に身をよじっている。以前のこいつなら口先で殊勝ぶりつつ欲望に流されていただろうに、たいした成長だ。シラベは勝手にそんな感慨を抱いた。
そしてもう一組。戻ってきたレヴェローズは、なぜかキリメの頭をよしよしと撫でていた。
「出迎え感謝するぞ、三人とも。褒めてやろう」
「シラベと似たようなこと言ってるし……てか、なんで頭撫でんの?」
「なぜかそうした方がいい気がしたのだ。素直に受け取っておけ」
「答えになってねぇ……」
堂々と胸を反らすレヴェローズにキリメは困り果てているが、とりあえず抵抗はしていない。無駄だと分かっているのだろう。
見たところ、精霊だなんだという事情はもう二人に知られている。だが幸いと言うべきか、キリメもクモンも態度を一変させる素振りは今のところない。ひとまずはそれでいい。常連客の心中にまで気を回せるほど、今のシラベに余裕はなかった。
*
全員が無事に揃ってめでたしめでたし、とはいかなかった。その前に片付けるべき厄介事がまだ山ほど残っている。
夜の時分になったということで、キリメとクモンはヒナタの呼んだ車に乗せて帰した。ようやく一同が一息ついて、真っ先に頭を悩ませる羽目になったのは、自分たちを閉じ込めていた「箱庭」の後始末だった。
部屋の中央には、相変わらず青白い円柱が宙に浮いている。その真下に仰向けで横たわった意識のない男が一人。頭部や首周りから細い光の線が幾本も立ち上り、円柱へと繋がっていた。
「この男の頭の中に詰まってるのを投影してる感じなのかね」
「後始末はこちらに任せてくれて構わないよ。持ち主は帰ってこないようだし、私の方できっちり始末をつけておくさ」
「おい」
円柱を見上げたヒナタがしれっと言ってのける。あまりに剣呑な物言いに、シラベは思わず口を挟んだ。
「始末って何だよ。物騒なこと考えてんじゃねえだろうな」
「少し言葉がきつかったかな。なに、海に沈めるとか、そういうつもりはないよ。伝手を頼って、然るべき施設に移すだけさ」
ひと呼吸置いて、ヒナタは付け足した。
「私の知り合いにも、必要になりそうだからね」
知り合い、という一語に、ほんの一瞬だけヒナタの目線が足元に行った気がした。だが彼女はそれ以上を語らず、何事もなかったように微笑むだけだ。
シラベは聞かなかったことにする。どうせろくでもない話に決まっている。
「でもよ、こんな得体の知れねえもんが繋がってる以上、どう動かしゃいいんだか。そもそも動くのかこれ」
「どれ」
言うが早いか、レヴェローズが土台の男の脚を掴み、ずるずると無造作に引きずった。すると男に連なる光の柱もまた、後を追うようにずるりと傾く。
「ほう。とりあえず動かせるようだぞ」
「ちょっと。勝手に変な真似しないの」
ミトラに叱られてレヴェローズは不服そうに脚を放した。
その間に、カルメリエルは手持ち無沙汰にしていた大穴を抱え上げ、再び円柱の前へと立たせていた。フィルター越しに像を結ばせるように、妊婦めいて膨らんだままの腹をそっと覗き込む。
黒い肌の表面に、シラベにも覚えのある光景が滲み出した。
「我々が去った後も、あちらでは変わらず営みが続いておりますわね。当然と言えば当然なのでしょうけれど」
覗き込みながらのカルメリエルのひと言が、部屋の空気をしんと沈ませた。
シラベは黙って、黒い腹に浮かぶ光景をを見やる。その向こうでは義勇軍の天幕から煮炊きの煙が立ち上り、信徒たちが瓦礫を片付け、ソロモン王の娘たちが荷物を運んでいた。ほんの数時間前まで自分たちが立っていたあの世界が、今もちゃんと続いている。
もう自分には関係のないものだ。用済みの世界。退職した後の職場のように、綺麗さっぱり忘れてしまえばいい。頭ではそう割り切れる。
だが、いざ箱庭の住人たちの暮らしを目にしてしまうと、それが妙に喉へ引っかかって飲み下せなかった。
あいつらは、確かにあそこで生きていた。一度関わった相手を用が済んだからと切り捨てるのは、どうにも寝覚めが悪い。
口にはしない。それでも押し黙ったままのミトラも、レヴェローズも、カルメリエルも、おおかた同じことを考えているはずだ。シラベには、なんとなくそう察せられてしまった。
誰も口を開かないまま、光だけが面々を照らしている。
その沈黙を破ったのは、にゃ、という気の抜けた一鳴きだった。見れば、大穴が自分の大きく膨れた腹をぺたぺたと撫でている。
「どうした」
シラベが声をかけると、大穴は星屑の瞳を向けて呟いた。
「ひとり、出る」
次の瞬間。腹の表面が、内側から押し上げられたようにぐにゃりと波打った。
ずるり、と。その膨らみの奥から、銀色の髪がひと房こぼれ出てくる。
「うぇ……っ」
べちゃり、と床に投げ出された銀髪の少女――ミーシャが吐く寸前じみた声を漏らし、ううん、と弱々しく呻いた。