カスレアクロニクル   作:すばみずる

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169 まだ吐くなよ!

 担ぎ上げられた玉座の上は、ミーシャにとって生きた心地のしない場所だった。

 

 頭に乗せられた王冠は大きすぎて今にもずり落ちそうだし、指に嵌められた指輪は緩くて頼りない。両手で握りしめた黒い杖だけが、唯一すがれるもののように思えた。

 

 望む景色には数えきれないほどの兵がいる。その目という目が、玉座の上の自分へと集まっていた。教団や義勇軍の人たちも、つい先刻まで殺し合っていたソロモン王の娘たちも、誰も彼もが。

 

(無理、です……こんなの、私には……)

 

 助けを求めて視線を巡らせても、シラベもミトラも、少し離れたところにいる。今この瞬間、自分はたった一人でこの大勢の前に晒されていた。指先が震え、喉が干上がり、視界の端がちかちかと白く滲んでいく。

 

 そこへ、隊列を割って一人の戦姫が進み出た。背に巨大な戦槌を担いだ、見るからに位の高い娘。その瞳が玉座のミーシャを射貫くように睨み上げる。

 

「――ふざけるな」

 

 怒気のこもった声に、ミーシャの肩が跳ねた。小娘が王の座に着く資格があるのか、と戦姫が吠える。返す言葉なんて何一つ浮かばない。頭の中が真っ白になって、ただ握った杖の冷たさだけが手のひらに残る。

 

 もう駄目だ。そう思って、ぎゅっと目を閉じかけた、その時だった。

 

『落ち着け。そう気を張るな』

 

 声がした。

 

 聞いた覚えのない声だった。耳から入ってきたのではない。握りしめた杖から、頭の奥へと直に染み込んでくるような、不思議な声。

 

『俺に任せろ。君たちの――娘たちの悪いようにはしない』

 

 戸惑う間もなかった。ミーシャの身体が、自分の意思とは無関係にすっと立ち上がる。背筋が伸び、杖を持つ手が掲げられ、その先端に淡い光が灯った。

 

 己の喉が、勝手に言葉を紡ぎ始める。

 

 ――私はミシャンドラ。ソロモン王が王となる前の、最初の娘。

 

 そこから先は、まるで夢の中の出来事のようだった。自分の口から流れ出ていく朗々とした声を、ミーシャはどこか遠くで聞いていた。脊界卵(ユミル)のこと、父と渡った海のこと。知るはずもない出来事が、他人の意思で自分の声として淀みなく語られていく。

 

(私、こんなこと知らない。知らないのに……)

 

 戸惑いをよそに、借り物の威厳がソロモン軍の敵意を解いていく。気づけばあれほど猛っていた戦姫さえ、憑き物が落ちたように得物を引いていた。

 

 最後の一言を言い終えると、杖の光がふっと掻き消えた。途端に全身から力が抜けて、ミーシャは玉座の座面にぺたんとへたり込む。

 

「……あ、あれ?」

 

 ソロモン王の娘たちが、次々とその場に跪いていく。畏敬の眼差しを向けられて、ミーシャは縮こまることしか出来ない。

 

「私、いま……何を、言って……?」

 

 とぼけようとしたが、無駄だった。口に出した言葉は二度とは戻らない。この場においては尚更に、ミーシャは紛れもなくミシャンドラとして振る舞う以外は認識すらされない。

 

『君という存在が皆を助けたんだ。争いを止め、誰も死なせなかった。父君であるソロモン王もきっと誇りに思うだろう』

 

 弁明の言葉を悩む頭に杖からの言葉が差し込まれる。ソロモン王のことなど、ミーシャにはさっぱり分からない。記憶のない自分にはその人の顔も声も何一つ思い浮かばないのだから。

 

『すまないとは思っている。だがミシャンドラ。君のお陰で、これ以上王の娘たちが傷付かずに済んだんだ』

 

 誰が傷付かなかったとしても、いや誰が傷付いても自分とは、と身勝手な言葉が飛び出そうになるのを心の中でも抑え込んでしまう。そんな卑劣な言い方は好きじゃない。悲しくなる。

 

 それでも。そもそも自分は王様になんてなりたくなかった。望んでもいないものを勝手に背負わされて、皆の前で恥ずかしい思いをして。それがすまないの一言で終わるのは理不尽だ。

 

『その上で、一つ頼みがある。しばらくの間、私のことを匿っておいてくれないか。誰にも見つからないように。助けた見返りと言っては、虫が良すぎるかもしれないが』

 

 釈然としなかった。けれど、たった今この身を助けてくれたのは、確かにこの声だ。断る理由も思いつかなくて、ミーシャは小さく頷く。

 

 そうして演説の余韻がカルメリエルによって遠ざかった隙に、ミーシャは握っていた黒い杖をどうにか隠そうとして、そっと服の内側、胸の谷間の奥深くへと滑り込ませた。冷たい杖の感触が、肌の下で妙に生々しく感じられた。

 

 

 *

 

 

 二匹の巨狼が作る毛皮の隙間。ミーシャはその奥に小さく丸まって、ふかふかの温かさに全身を埋めていた。

 

 戦いの後始末で誰もが慌ただしくしている今なら、ここに隠れていても気づかれない。注目の的にされる玉座の上とは大違いだ。仕切りをしているカルメリエルにはひと言言ったので問題ないはず。

 

 柔らかな毛並みに頬を擦り寄せていると、強張っていた身体が少しずつほぐれていく。

 

 ミーシャは胸に手を当てて、その最奥に隠した杖へとおそるおそる話しかけてみる。

 

「杖さんは、ソロモン王のことを知っているんですか。私、自分の父だと言われても、まったく分からないんですけど」

 

『ああ、よく知っている』

 

 杖の声は、すぐに返ってきた。

 

『君の話もあの人からよく聞かされたよ。それは大事そうに語っていた』

 

 その声にはどこか寂しげな響きがあった。けれど、その寂しさがどこから来るのか、ミーシャには分からない。

 

「でも、私、王様になんてなりたくなかったです」

 

『それは……』

 

 ぶつぶつと、一度は収まった不満がまた溢れてくる。

 

「杖さんが勝手にあんなこと言ったせいで……どうしたらいいんだろう」

 

『これからも俺が助ける。それじゃダメか?』

 

「……私言ってない。言ってないのに言ったせいにされて。王様とか、よく分からないのに……」

 

『思ったより暗い子だったなぁ……』

 

 杖の声が届きながらも恨み言はなかなか抑えられない。そもそもが振り回されてばかりなのだから鬱屈もするというものだ。

 

「いつの間に潜り込んでやがった」

 

 これを機に愚痴り倒してやると思っていると、不意に、ミーシャの銀の髪を指先でつつかれた。びっくりしたミーシャは思わず身を縮め、毛並みのさらに奥へと身を沈める。

 

 そこから父と定めたシラベからのやる気のない激励のような言葉と、レヴェローズのツッコミを聞けたのは、僅かばかりに心が持ち直すのに役立った。しかし続く言葉にミーシャはビクつく事になった。

 

「なぁミーシャ。お前に渡した杖、あれどこやった?」

 

 ミーシャの心臓がどきりと跳ねた。胸元の感触を悟られないよう、咄嗟に言葉が口をついて出る。

 

「知らないです……どっか行っちゃいました……」

 

「無くすなよ、遺品みたいなものだぞ」

 

 軽くそう言って、シラベは身を起こしていった。気づかれなかったことに、ミーシャはほっと胸を撫で下ろす。

 

 けれど、すぐにちくりと胸が痛んだ。嘘をついてしまったことが後ろめたくてたまらない。

 

「杖さん。お父様にも隠したほうが、いいんですよね」

 

『…………』

 

 念のために確かめると、杖はすぐには答えなかった。

 

 長い沈黙の後。ようやく聞こえてきたのは、ひどく苦々しげな声だった。

 

『……あれを「お父様」と呼ぶのは、やめてくれないか』

 

 どうしてそんなことを言うのか、ミーシャには分からなかった。

 

 その理由を尋ねる間もなかった。毛皮の外が急に騒がしくなったのだ。

 

 剣呑な気配に弾かれて顔を出すと、シラベの首に見知らぬ白髪の誰かが背後から腕を回しているのが見えた。

 

 何が起きているのか、ミーシャにはすぐには呑み込めなかった。ただ、シラベが何か恐ろしいものに捕らわれていることだけは伝わってくる。

 

 みんなが凍りついたように動けずにいる。やがてシラベの身体が、何もない空間に張られた透明な膜へと、ずぶずぶ呑み込まれていった。

 

「お父様……!」

 

 いてもたってもいられなかった。ミーシャは傍らに転がっていたソロモン王の遺品を――王冠も指輪も壺も、抱えられるだけ抱え込んで、二匹の狼とともに駆け出す。

 

 けれど、届かない。必死に手を伸ばしたミーシャの目の前で、シラベの姿は膜の向こうへと完全に過ぎ去ってしまった。

 

 

 *

 

 

 シラベが連れ去られてしまった後のことを、ミーシャはあまりよく覚えていない。気づけばミトラとレヴェローズ、それにカルメリエルの三人が、深刻な顔を突き合わせて何事かを話し合っていた。シラベをどう取り戻すか、あの白い精霊をどう追うのか。時折物騒な言葉が飛び交っていく。

 

 ミーシャはその輪の少し外で、抱えた品々をぎゅっと胸に押し当てたまま立ち尽くしていた。

 

 何も思いつかない。三人の話にもついていけない。役に立ちたいのに、自分にできることなんて何一つない。借り物の王冠も指輪もこんな時には何の意味も持たない、ただのガラクタだ。

 

 うつむいて唇を噛む。村にいた頃や廃鉱山にいた時ならせめて水汲みでも薪割りでも、誰かの役に立てることがあった。でも今は、本当に、何も。

 

『泣くな』

 

 胸の奥から、また声がした。

 

『俺がお前を助ける』

 

 ミーシャは弾かれたように胸元へ手をやった。谷間に隠し持っていた黒い杖を、そっと引き抜く。

 

「杖さん……お父様を、助けてくれるんですか」

 

 その問いかけに、杖はぴくりと――まるで嫌な言葉でも聞いたかのように、ミーシャの手の中で身動ぎした気がする。けれど、すぐに静かな声で答える。

 

『……ああ、助けてやる。お前は、あの父親の娘なのだから』

 

 その言葉の意味を、ミーシャは深く考えなかった。考える余裕もなかった。父と呼んだ人を助けられる。今はただ、それだけがすがるべきものだった。

 

 ミーシャは杖を握りしめ、目を閉じてその声に身を委ねる。また身体が勝手に動き出した。さっき玉座の上でそうされたように。けれど今度は演説の時とは比べ物にならないほど激しかった。

 

 ミーシャの足が地を蹴る。シラベが呑み込まれていった何もない空間の一点へ、狙い澄ますようにその身が躊躇なく飛び込んでいった。

 

 透明な膜を突き破る感触。そして――視界が、真っ黒に塗り潰された。

 

 際限のない暗がりだった。その中を、ミーシャの身体は自由落下のように真っ逆さまに落ちていく。

 

 遠くに、もつれ合う二つの影が見えた。シラベと、白髪の精霊。杖はその一点を目がけて、ミーシャの身体を矢のように突き進ませる。

 

 あと少し、というところで腕を掴まれて、落下が止まった。白髪の精霊――ノルドリッチの手が、ミーシャの腕をがしりと捉えている。

 

 杖に貸した身体は引っ張られるままでまるで抵抗しない。けれど握られていたはずの杖がミーシャの手をすり抜けた。狙い澄ましたかのようにノルドリッチの指先からも逃れて、光を灯したまま闇のどこかへと飛んでいく。

 

 舌打ちが聞こえた。ノルドリッチはミーシャを無造作に放り捨て、シラベを引きずりその杖を追いかけていった。

 

 そうして――ミーシャは、一人きりで闇の中に取り残された。

 

 動かされていた身体が、ゆっくりと自分の意思を取り戻していく。杖は飛んでいってしまった。シラベはノルドリッチに連れていかれてしまった。どこまでも黒いばかりで、身を支えるものも、足をつける床もない。ただそれだけの空間に、ミーシャはぽつんと漂っている。

 

 助けると言った杖を信じる心は最初からあった。だが音も光も無い中で時が経つにつれて、その心は不安に侵されていく。杖は私の体でどうするつもりだったのか。単にここまで運ばせるためだけに利用しただけだったのではないか。

 

 そうではないと否定は出来るが、根拠はない。確かなことは自分が今、ただ一人でこの黒い空間にいるということだけ。

 

「……また、ひとりだ」

 

 胸の奥がしんと冷えていく。思えばずっとそうだった。気づいた時には葬送外野(ヘルヘイム)にいて、自分が誰なのか、どこから来たのか、何一つ覚えていない。名前も、家族も、過去も。何もない、空っぽの自分だけがそこにいた。

 

 それでも生きていくために頑張った。村を見つけて、邪険にされても食い下がって、少しずつ溶け込んでいった。水を汲み、焼き出されても挫けずに次の村へと向かい、自警団に入り、誰かの役に立てるように覚悟をした。そうしていれば、空っぽの自分にも、いていい場所があるような気がしたから。

 

 そして――紆余曲折はあれど、自分を助けたと言ってくれたシラベとミトラを、お父様、お母様と呼んだとき。あの時のことを思い出すと、今でも胸の奥がじんと温かくなる。

 

 シラベは少し迷惑そうに、ミトラはどこか様子がおかしく、それでもどこか嬉しそうにした二人が見れたのは嬉しかった。何もない自分の中に初めて何かが注がれたような気がした。からっぽの器にほんの少しだけ、確かなものが満たされたような。

 

 漂いながら、ミーシャは膝を抱える。涙が出そうになるのをぐっとこらえた。泣いたところで、ここには誰もいない。自分が決めたのだ。あの杖に託すと決めたのだから、その行く末を待つしか出来ることはない。

 

 

 どれだけの時間が経ったのだろう。気が遠くなるほど長かった気もするし、ほんの一瞬だった気もする。

 

 ふと、声がかけられた。

 

「待たせた、ミシャンドラ」

 

 聞き覚えのある声だった。ずっと音のない会話で交わしていた、あの杖の声。

 

 顔を上げると、闇の中に一人の少年が立っていた。歳の頃は十かそこら。その手には、先端を淡く光らせた黒い杖が握られている。

 

「あいつは助けた。お前もあるべき場所に帰ればいい」

 

 ミーシャはしばらくぽかんとした。あの杖が、人の姿をしている。声が同じだから、たぶんそうなのだろうとぼんやり思う。

 

葬送外野(ヘルヘイム)へ戻ろう。残った姉妹たちがお前を待っている」

 

 少年の声は、不思議と優しかった。

 

「お前は最も古き姉だ。あいつらにとっては敬うべき、守るべき相手なんだ。王になるのが嫌だというなら、すぐにとはいかなくとも、いずれ自由にしてやれるよう取り計らう」

 

 その言葉の一つ一つが、不思議とミーシャの胸に馴染んだ。かえって不安がよぎるほどに。

 

 ミーシャは、おずおずと口を開いた。

 

「……あの。みんなが見るのは、私ですか。それとも、ミシャンドラですか」

 

 少年が、わずかに眉を寄せる。

 

 うまく言えないけれど、と前置きして、ミーシャは言葉を探していく。

 

「私、ずっと、役に立つことで居場所をもらってきました。村でも、自警団でも、教団でも。役に立って、必要としてもらえるように。そうすれば、何もない私でも、いていいんだって思えたから」

 

 握りしめた指に、ぎゅっと力がこもる。

 

「葬送外野に帰ったら、私は『ミシャンドラ』として求められる。姉として、王として敬われて、必要とされて。……それは、とても心地のいいことだと思います」

 

「なら――」

 

「でも。居場所だけあればいいのは、また違うんです」

 

 ミーシャは少年の言葉を遮った。麻袋の暗がりと埃っぽい匂いを思い出しながら、言葉を続ける。

 

「私が今こうしてあるのは、あの人たちの仲間に麻袋に詰められて攫われたからです。後から色々とごまかすように言われましたけど、分かってます」

 

 シラベもカルメリエルも言いくるめたと思っていたが、ミーシャは境遇を受け入れていただけで二人の言葉をそれほど信じていなかった。村を助けるのはほとんど二の次で、自分を攫うことを目的にしていたのは間違いない。

 

「何かの役に立つと思われていたようでした。でも私は、本当に何も出来ませんでした。記憶も、力も、何も。みんなが期待していたものは、私の中には何もなかった」

 

 あの時の心細さは、今でもよく覚えている。役立たずだと知られれば、きっと放り出される。そう怯えていた。

 

「それなのにあの人たちは、私を邪険にしませんでした」

 

 声が、震えた。

 

「何の役にも立たない私を、そのまま置いてくれて……お父様、お母様って、呼ばせてくれたんです」

 

 必要とされたからではなかった。期待に応えられたからでもない。何者でもないまま、何も差し出せないまま、それでもそこにいていいと言ってもらえた。生まれて初めて、ミーシャはそういうものをもらった。

 

「私が欲しかったのは、たぶん、それなんです。求められることじゃなかった」

 

 胸に手を当てて、ミーシャは少年を見つめる。

 

「だから……私は、ミシャンドラではありません。私は、ミーシャなんです」

 

 少年は、長いあいだ黙っていた。

 

 やがてぽつりと、独り言のようにこぼす。

 

「……羨ましいな」

 

 その声からは、もう誘いの響きは消えていた。

 

「俺はあの人に助けてもらって、必要としてもらえて。その恩を返し約束を果たすことだけを頼りに生きてきた。それ以外の生き方なんて考えられなかった」

 

 少年は、力なく頭を振る。

 

「お前に役割を与えたかったのも、結局はそれしか思いつかなかったから……お前は、俺が選べなかったほうを、選んだんだな」

 

 その横顔がひどく寂しそうで、けれどどこか晴れやかにも見えて、ミーシャは何も言えなくなってしまった。

 

 少年はふっと息を吐いて、闇の一点を指差した。

 

「あっちへ進め。そうすればお前の帰りたい場所に帰れる。葬送外野は……なんとかする準備はしてやる」

 

 ミーシャは示された方向を見つめる。何があるのかは分からない。けれど示して貰えたせいなのか、恐ろしさはなかった。

 

「あっちに着いたら、あの男に伝えてほしいことがある」

 

「お父様に、ですか」

 

 少年は最後に少しだけ言いにくそうに付け加えた。ミーシャの答えへ露骨に嫌そうな顔をしたが、今度は否定しない。

 

 告げられた伝言を受け取り、ミーシャは頷く。

 

 何も言わずに離れる事を望まれていた気がする。それでもミーシャは、少年に頭を下げた。

 

「……ありがとうございました」

 

 返事は求めず、ミーシャは示された方向へと歩き出す。一歩、また一歩。振り返ると少年はもうその姿を闇に溶かし始めていた。

 

 光る杖の灯りだけが、最後にちらりと見えた気がした。

 

 

 *

 

 

「だから、そのお父様っていうのは色々と問題があってだな」

 

「父親代わりになると言ってくれたのはお父様でしょう? 何の問題があるんですか?」

 

「面倒を見ると言ったのは間違いない。でももう少し踏むべき段階というか、俺にも用意というものがあって……」

 

 閉店後のボトムレスピットの店内。対戦スペースに座るシラベは、ミーシャへの説明に苦慮していた。どうせその内籍を入れ人生の墓場に行くことになるとはいえ、その前から子持ちと周知されるのは据わりが悪いのだが、子供にしてみればそんな事情は関係無い。

 

「店開けてる時だけでもいいから、ミトラの事は店長、俺は……なんだ、シラベさんでいいよ。そうしようぜ」

 

「でもお母様は何があってもお父様はお父様って呼びなさいと言っていましたよ。その方が外堀を埋められるって」

 

「どうせ逃げるつもりが無い奴の外堀埋めて何になるってんだよ」

 

 あの合法ロリはまだどこか不安らしい。夜にまた甘やかしてやらないといけないのかもしれない。

 

 カルメリエルにローテーション入れ替えをどうやって打診したものか。いっそ二人でやるべきか。そう悩んでいると、シラベの足元にするりと何か触る感覚がある。

 

「大穴、どした」

 

 にぁ、と鳴く大穴をシラベが抱き上げる。毛並みこそ夏の装いだが、前よりも少し重い。

 

「これで肩に乗られたらキツイな。やっぱり壺飲んだのが良くなかったか?」

 

「でも、あの人からの伝言でしたし。そうしないと葬送外野が助けられないって」

 

「それがよく分からないんだよなぁ。というかあいつ、誰だか知らないけど俺があの壺持ってるってなんで知ってたんだ?」

 

 シラベが首を捻っていると、抱き抱えられた大穴が咳き込み始める。カッ、ケッ、と毛玉でも吐くかのような素振りにシラベは慌てて顔から離す。

 

「あっ、おいバカやめろ! まだ吐くなよ!」

 

「お父様、こっちこっち!」

 

 ミーシャがティッシュを持ってシラベと大穴の間に入ろうとする。その間にも大穴は咳き込みが大きくなる。

 

 やがて、猫の腹からごぽりと大きな塊が落ちてくる。

 

「うぉ――!? ……なんだぁ?」

 

 差し出していたミーシャの手に落ちたのは、シラベのコレクションであるソロモン王の壺だった。ミーシャが大穴の中で出会った人物に頼まれたというので、シラベが猫変化のカードと共に大穴に飲み込ませていた。

 

 腹から吐き出したという妙な排出方法だったが、大穴はすっきりしたらしい。少し軽くなった身体でシラベに飛びかかり、肩まで登ってのどを鳴らし始めた。

 

「結局帰ってきたのか。俺としては助けられた恩があるからくれてやったつもりだったけど」

 

「でもこれ、なんか重くなってる気がしますよ?」

 

 ミーシャに言われ、壺を受け取るシラベ。確かに前に手に取った時よりも重くなっている気がする。なんぞやと思い、少し壺を振ってやると何か妙な重心を感じた。

 

「なんか入ってるのか?」

 

 蓋を開けて覗き込もうとしたシラベが、注ぎ口に目を近付ける前に異常に気付く。壺が内側から光を放っている。

 

 床に置いてミーシャを手招きしたシラベは、二人でおそるおそる壺へと顔を近付けた。

 

「これ……まさか」

 

「そういう事、なんじゃねえかな」

 

 シラベに理屈は分からないが、目の前の光景はありのままに受け入れるしかない。

 

 二匹の狼が駆け、機械人たちが祈祷し、精悍な女戦士たちが畑を耕している光景が壺の中で流れる様子を、ミーシャは夕食の支度が整うまでずっと眺めていた。

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