カスレアクロニクル   作:すばみずる

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第十部 帰ってきた日常
170 よし、ちゃんと出来た


 朝。ミーシャがまず取り組むべき仕事は、レヴェローズの腕の中から抜け出すことだった。

 

 寝相の悪いレヴェローズは、夜のうちに必ずと言っていいほどミーシャを抱き枕にしてしまうのだ。一緒に寝ていると、どのような対策を取っていても腕を回してくるのはもはやわざとなのではないか。豊かな胸に顔を埋められてしまうと、身じろぎ一つにも難儀する。

 

「れ、レヴェローズ様……苦しいです……」

 

 ミーシャは芋虫のように身をよじり、少しずつ肉の檻から這い出していった。

 

 ミーシャが寝起きしているのはボトムレスピットの二階だ。三つある部屋のうちの一室で、かつては在庫部屋だった場所だが、在庫品の大半をミトラの実家へ運び出したことでミーシャとレヴェローズ、カルメリエルの三人が眠る部屋と変貌した。

 

 レヴェローズとカルメリエルはようやく寝袋から解放されたと喜んでいたが、ミーシャには今ひとつその実感がない。二人が寝袋で寝続けていたと言うことを知らないというのもあるが、そもそも布団も寝袋も、雨風をしのげる屋根の下で眠れるというだけでミーシャには上等だった。

 

 畳に三組の布団を川の字に敷いて、毎晩三人で眠るのが新たな習慣となっている。だが川の字とは言っても、三つの布団が毎晩きちんと埋まるわけではなかった。週に三度ほど、レヴェローズかカルメリエルのどちらかが、朝になっても隣の布団にいないことがある。

 

 今朝はカルメリエルの布団が昨夜から畳まれたままだった。彼女がいれば絡みつくレヴェローズを容赦なく叩いて起こしてくれるのだが、いないものは仕方がない。

 

 ようやく抜け出したミーシャは、まだむにゃむにゃと夢の中にいるレヴェローズの肩を揺する。

 

「レヴェローズ様、朝です。起きてください」

 

「ん……むぅ。契約者、もう少し……」

 

「私はミーシャですって。ほら」

 

 何度か揺すってどうにか半身を起こさせると、レヴェローズは金色の髪を寝癖だらけにしたまま、大きな欠伸をした。その隙に、ミーシャはかねてから気になっていたことを尋ねてみる。

 

「あの、レヴェローズ様。カルメリエル様やレヴェローズ様がお布団で寝ておられないことがあるのはどうしてなのでしょうか」

 

 レヴェローズは寝ぼけ眼のまま、んん、と少し考え込んだ。それから、妙に勿体ぶった顔で頷く。

 

「あれはな、我々にとって最も重要なことを行っているのだ。だが――うむ。ミーシャにはまだ早いな」

 

「はあ……」

 

 よく分からないが、そういうものらしい。ミーシャは曖昧に頷いた。

 

 それはひょっとして、夜更けにシラベの部屋のほうから漏れ聞こえてくる物音や押し殺したような声と何か関わりがあるのだろうか。ミーシャは追加で聞こうとしたが、直感からやめておいた。

 

 朝の体操を始めるレヴェローズを残して顔を洗おうと二階の洗面所へ向かうと、鏡の前でミトラがちょうど顔を拭き終えたところだった。幼い少女の子にしか見えない小さな店長が振り返り、ミーシャを見て手を振る。

 

「ん、おはよう」

 

「おはようございます、お母様」

 

 お母様と呼ぶと、ミトラの口元がむずむずと緩んだ。小さな手が伸びてミーシャの頭をくしゃくしゃと撫でる。背伸びまでしてやっている手つきがミーシャにはくすぐったくて、少し嬉しい。

 

「顔洗ったらキッチンに来てちょうだい。今日は私たちで朝ごはん作るから」

 

「はい」

 

 応じたからには手早く顔を洗ったミーシャはキッチンへ向かう。並んで立つミトラとミーシャの後ろから、レヴェローズがまだ眠そうな大穴を抱えてやってきた。黒猫は腕の中で迷惑そうに尻尾を揺らしている。

 

「ふむ。こうして並んでいると、まるで姉妹のようだな」

 

「ドゥブランコの三姉妹のあんたに言われるとなんか不吉なんだけど」

 

 レヴェローズが微笑ましげに言うと、ミトラが半目になった。ミーシャにはよく分からず、当のレヴェローズも何が不満なのだと何故か得意げな顔をしている。

 

 ミトラは溜め息一つで話を切り上げ、ミーシャにトースターでパンを焼くのと、サラダの盛り付けを言いつけた。自分は手際よくフライパンを温め、ベーコンエッグに取りかかる。

 

 ミーシャはこの世界については何ひとつ知らないまま、ここへやってきた。触れれば光る板も、捻れば水の出る器具も、最初はいちいち目を丸くしたものだ。それでも持ち前の物覚えのよさで、日常的に使う機械くらいはどうにか扱えるようになっていた。

 

 教わったとおりにパンをトースターへ入れ、つまみを回す。じき、橙色の熱がぽうと灯ったのを見て、ミーシャはほっと息をついた。

 

「よし、ちゃんと出来た」

 

 それからサラダの盛り付けに取りかかる。ちぎった葉野菜を彩りよく皿へ並べていくのは難しいことではないが、強いて言えば野菜の新鮮さは未だに慣れないところがちょっとある。

 

 ミトラは卵を割り入れながら、その手つきを横目で確かめている。危なっかしいところがあればすぐ手を出せるようにしていたものの、その機会は来ないようで安心する。

 

 その隣を、レヴェローズが大穴を抱えたまま覗き込んだ。

 

「しかし店長、料理が出来るのだな。意外だ」

 

「そりゃ出来るわよ。あんたらが来るまでほぼ一人で暮らしてきたんだから」

 

 ミトラはフライパンを動かし焼き加減を確認しながらこともなげに言う。

 

「サブロウさんがたまーに面倒見てくれてたけど、お爺ちゃんをあんまり頼ったら悪いでしょ。だから家事は一通り、自分で出来るようにならなきゃいけなかったの」

 

 ふうんとレヴェローズは気のない相槌を打っていた。ミーシャはその話を横で聞きながら、その言葉をなんとなく胸の奥にしまう。一人で生きていくために、否応なく身についたもの。ミーシャにも少し共感出来るところはあった。

 

「私はてっきり、ミーシャにいいところを見せたいからと練習したのかと思ったぞ」

 

「ベーコンエッグくらい練習しなくても出来るわよ」

 

「姉様にカレーのレシピを聞いていたではないか」

 

「あれはっ、ちょっと興味があっただけだから」

 

「む、黄身が潰れているぞ店長」

 

「うっさい、シラベが食う分だからいいの」

 

 少しの言い合いにミーシャはどういう顔を浮かべればいいのか分からず、苦笑いする他無かった。

 

 焼き上がったパンと湯気の立つベーコンエッグ、プチトマトを載せたレタスサラダ。出来上がったそれぞれの皿を、三人で一階へと運んでいく。

 

 対戦スペースの卓は朝と夜には食卓になるとミーシャは教わった。ミーシャが皿を並べ終えた頃、階段を下りてくる足音が二つ、重なって聞こえた。

 

 シラベと、カルメリエルだった。

 

「おはよーさん」

 

「おはようございます、皆様」

 

 シラベが寝起きの掠れた声で言い、カルメリエルはいつもの微笑みを湛えている。

 

「はいはい、おはよ。あんたが起きてくるの遅いから、ミーシャに朝ごはんの準備手伝ってもらったわよ」

 

「あら。それはありがとうございます、ミーシャさん」

 

 ミトラからじとりと目線を向けられたものの、カルメリエルは悪びれもせずにミーシャの頭を撫でる。撫でられてばかりの朝だ、とミーシャはくすぐったく思った。

 

「まったく。シラベ、あんまり甘やかしちゃダメよ」

 

「考えとく。……なんか俺のベーコンだけ焦げてないか?」

 

「気のせい」

 

「気のせいか」

 

 言い合いながらも、それぞれの席に座っていく。シラベの足元には大穴が座り込み、前に置かれた餌皿の中身に爛々と目を輝かせながらも律儀に待っているのが見えてミーシャは可愛らしいと思った。

 

「いただきます」

 

 自然と重なる声。手を合わせて、朝食が始まった。

 

 

 *

 

 

 朝食のあと、店は開店の支度に入る。シャッターを上げ、店先を掃除して、カウンター内ではあれこれと物の出し入れをする。

 

 その慌ただしさを階下に残して、ミーシャはカルメリエルと共に二階の部屋へ戻っていた。

 

 ミーシャの膝の上では、大穴が丸くなって眠っている。ほどよい重みとぬくもりがミーシャの足を温めていた。

 

 ちゃぶ台を挟んで向かいに座ったカルメリエルは、まず深々と頭を下げる。

 

「昨日まで、店舗と倉庫――ミトラ様のご実家での在庫整理を手伝っていただいて、本当に助かりましたわ。ありがとうございます」

 

「い、いえ。私にできることでしたら」

 

 ミーシャは慌てて手を振った。誰かの役に立てたのなら、それだけで嬉しい。

 

「それで、ミーシャさん」

 

 カルメリエルは、糸のように細めた目をミーシャへ向けた。

 

「ボトムレスピットのお手伝いをもっとしたいと相談があったと、シラベ様から伺いました」

 

「はい」

 

 ミーシャは頷いた。

 

「お父様とお母様のご厚意で置いていただいていますが……それに甘えてばかりでは、悪いので」

 

「ふむ」

 

 カルメリエルは頷いて、それから少し面白がるように言葉を継ぐ。

 

「シラベ様は何か仕事を見繕ってやってくれと仰いました。ですが、私とミトラ様はその前にやるべきことがあると思っています」

 

「やるべきこと、ですか?」

 

 ミーシャが首をかしげると、カルメリエルはどこからか持ち出した数冊の古びた本を、ちゃぶ台の上に並べてみせた。色褪せた背表紙には国語や算数といったシンプルな題名が並んでいる。

 

 葬送外野で触れた文字とこちらでの文字が基本は同じだった事は、ミーシャにとって喜ばしい事だった。全てがではなかったが、ひらがなカタカナであれば読むのに不自由はない。シラベやミトラはゲームが日本語対応だったから使っている言葉も日本語だったのではないかと話し合っていたが、ミーシャにはあまりよく分からない話だった。

 

「お勉強です」

 

 きょとんとするミーシャ。カルメリエルはミーシャの反応を少し待ったが、辟易や嫌気というものが無いのを見てますます結構とばかりに頷いてから語り始めた。

 

「シラベ様とミトラ様は言うに及ばず。私も王族として、一定水準以上の教育を受けて育ちました。レヴェローズでさえ、小難しい計算なら誰より得意なのですよ。もっとも、あの子が頭を回したがるのはゲームと軍略のことばかりですけれど」

 

 最後のひと言はほんの小声だった。どこか悔しさを滲ませていた気がするのは気のせいだろうか、とミーシャは思う。

 

「読み書きや計算だけではありません。この世界での道徳や、簡単な地理や歴史、基礎的な理科。そうしたものは、暮らしの中できっと役に立ちます。もちろん、お客様を相手にするお店での仕事でも」

 

 カルメリエルは、ちゃぶ台の本をそっとミーシャのほうへ押しやった。

 

「お手伝いは、知識を身につけてから。それでよろしいかしら」

 

「……はい」

 

 ミーシャは、こくりと頷いた。

 

 ほんの少し前の自分なら、きっと違っていただろう。早く役に立たなければならない。誰かの邪魔にならないよう、一刻も早く何者かにならなければ。そんな焦りにいつも炙られていた気がする。居場所をもらうためには、役に立つ自分でいなければと。

 

 でも、今は違う。お父様もお母様も、何の役にも立たない自分をただそのまま置いてくれた。だから今ミーシャの胸にあるのは居場所を失う恐れではなく、ただ純粋に、この人たちの力になりたいという思いだけだった。

 

 その思いがあるからこそ、自分のために時間を割いてもらうことに負い目を感じずにいられる。胸を張って教わることができる。

 

(今は甘えて、学ばせてもらおう。いつかみんなの役に立てる日のために)

 

 そんなミーシャの面持ちを見て取ったのか、カルメリエルはやわらかな笑みを浮かべた。そうして最初の一冊を開いてみせる。

 

「では、始めましょうか」

 

 

 

 勉強は昼食を挟みながら、夕方まで続いた。

 

 知らない言葉の使い方を学び、数の扱いを覚え、知らなかったことが一つずつ自分の中に積もっていく。それは思っていた以上に、ミーシャにとって楽しい時間だった。

 

 日が傾いた頃、カルメリエルは店の手伝いに行くと言って部屋を出ていった。一人残ったミーシャは、出された算数の問題集とこつこつ向き合っていく。

 

 そこへ部屋の戸を勢いよく開けて現れたのは、短パンにTシャツという寛いだ装いのレヴェローズだった。手には見慣れない箱のような機械を提げている。

 

「ミーシャよ、勉強ばかりでは気が滅入るぞ。息抜きというものも人には必要だ」

 

 堂々と言い放つレヴェローズだが、それが自分が遊びたいだけなのはミーシャの目にも明らかだった。

 

 差し出された機械を前にしたミーシャの脳裏に、よだれまみれの枝をくわえて差し出し、投げて欲しいとねだってきた黒狼ヴェルカの姿が思い浮かぶ。この主従はこういうところがよく似ている。

 

「ありがとうございます、レヴェローズ様」

 

 ミーシャは小さく笑ってその機械、ゲーム機と呼ばれるもののコントローラーを受け取った。

 

 レヴェローズに手取り足取り教わりながら、二人で画面の中の冒険に挑む。協力して敵を倒し、罠を越え、宝を集めていくアクションゲームというものだ。

 

 何度やられてもすぐにやり直せるところが気軽に遊べて良いのだ、とレヴェローズが語る通り、初心者のミーシャにも気負うことなく遊ぶことが出来た。とはいえ共に遊んでいるのはレヴェローズ。そのテンションはどんどんとヒートアップしていき、やかましくなっていく。

 

「そこだミーシャ! 私が前に出るから援護を……あっこら大穴、横から手を出すな! 見えんではないか!」

 

 いつの間にか目を覚ました大穴が、立て掛けたゲーム機の画面で動く絵を叩こうとして乱入してきたのだ。レヴェローズと黒猫がぎゃあぎゃあと小競り合いを始める。

 

「んなぁん」

 

「ええい、邪魔をするな! 今いいところなのだ!」

 

「ふしゃっ」

 

 じゃれ合う一人と一匹を眺めながら、ミーシャはくすくすと笑った。和やかな、何でもない時間。こういうものが、ずっと続けばいいのにと思う。

 

 そうして遊んでいるうちに、すっかり時間が過ぎていた。

 

「お前ら、飯の前にシャワー浴びとけよ」

 

「あっ、契約者よ!」

 

 戸の隙間から顔を覗かせながら声を掛けて来たのは、髪をまだ少し湿らせたシラベだった。風呂上がりらしい。

 

 シラベの様子を見て、レヴェローズが目を吊り上げた。

 

「この私というものがありながら、貴様、先に一人でシャワーを浴びたのか!? 今日は私の日だぞ!」

 

「いくら呼んでも来ねえお前が悪いんだろ。じゃあな」

 

 取り合うことなくシラベはあっさり引っ込んでいった。残されたレヴェローズは、頬をぷうと膨らませている。

 

 だが、その不満もすぐにどこかへ行ったらしい。レヴェローズはミーシャの手を取って、勢いよく立ち上がった。

 

「全く、仕方のないやつめ。ミーシャ、では一緒にシャワーへ行くぞ!」

 

「は、はい」

 

 半ば引きずられるようにして、ミーシャは部屋を後にした。

 

 

 *

 

 

 シャワーを浴び、カルメリエルの作った夕食を平らげた頃には、外はすっかり夜になっていた。

 

 片付けが済むと、一同は自然とシラベの部屋へ集まっていく。誰が言い出すでもない様子にミーシャも、当たり前のような顔で歩いていくミトラの後ろについて、その部屋へ足を踏み入れた。

 

 シラベは座椅子に背を預け、扇風機の風を浴びながら漫画を読んでいた。次々と入ってくる面々を見て、げんなりした声を上げる。

 

「お前ら、こんなに集まると暑くなるだろうが」

 

 口ではそう言いながらも、シラベは座椅子を少し引いて、自分の前に場所を空ける。その空いた場所へ、ミトラが迷いなく歩いていった。

 

「別にいいでしょ。夏なんだから、暑いのは当たり前よ」

 

 当然のようにシラベの膝の上にすとんと腰を下ろしもたれかかるミトラ。たちまち脱力して全身をシラベに委ねる様子にミーシャは一瞬どきりとしたが、誰もそれを気に留める様子はない。二人の間ではごく当たり前のことらしかった。

 

 四角いテーブルを囲むように、レヴェローズとカルメリエルが腰を下ろしていく。ミーシャもそれに倣って、空いた場所にちょこんと座った。大穴はといえば、我が物顔でテーブルの真ん中に乗り上げ丸くなってしまう。

 

「こら、テーブルから降りろ」

 

「ダメよ、大穴」

 

「んんんる」

 

 口々に言われながらも、結局は誰も下ろそうとはしない。諦めた一同の手に撫でられて、大穴は満足そうに喉を鳴らしていた。

 

 狭い部屋には扇風機のほかに涼を取れるものなどない。シラベの言う通りひといきれで少し暑い。

 

 それでも、と膝を抱えてミーシャは思う。誰かの軽口に誰かが笑い、それにまた別の誰かが茶々を入れる。意味もなく、結論もない、ただそれだけのおしゃべり。この空気がミーシャは好きだった。

 

 役に立てなくてもいていい場所。何者でなくとも、ここにいていい時間。

 

 夜が更けていく中。家族のひとときは、いつまでも穏やかに過ぎていった。

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