昼下がりの喫茶店。駅から少し外れた裏通りにある、いわゆる純喫茶という奴だ。
深く沈み込むボックス席の革張りはくたびれているが座り心地は悪くなく、店内に染み付く年季とは対照的によく清掃されていて居心地が良い。隣の卓との間隔も広く取られていて、込み入った話をするには都合が良さそうだ。
その奥のボックス席に、シラベはヒナタと向かい合って座っている。カードの練習でない時にヒナタと会うと毎度毎度違う喫茶店を紹介されるが、よくまぁネタが尽きないものだとシラベは密かに感心している。
「わざわざ早めに呼び出した理由はなんだ?」
「君は興味が無いと言うかもしれないが、報告する責任があると思うのでね」
前置きもなく問うシラベに対して、ヒナタは運ばれてきたコーヒーに口をつけながら優雅に応えた。変わらず胸元を晒す社会人とは思えない着こなしをしているが、そうでなければヒナタではないとシラベも感覚が麻痺してきている。
「あの家から運び出した者たちのことだよ。知り合いが経営している病院にまとめて入院させていたんだが」
あの家、と言われて思い浮かぶ場所は一つしかない。
「新谷エダハの家にいた連中か」
「ああ。囚われていたのは私が雇って消息を絶っていた調査員と、身元が知れないいわゆるホームレス。合わせて六人だ」
シラベはコーヒーを啜りながら相槌を打つ。あの地下にヒナタの手の者が閉じ込められていたという話は現実に戻ってきてから断片的に聞かされていた。自分たちを捜すために手を尽くしてくれていたのは分かるが、やはりこいつだけどこか他と違う理屈で動いている気がする。
「調査員たちは程なく意識を取り戻してね。今はもう退院して、それぞれ日常に復帰しているよ」
「それは何より。もう変な真似させんなよ」
「人間には適材適所というものがあるんだよ」
てっきりもっと悲惨な話が続くものと身構えていたシラベは、拍子抜けして眉を上げた。だがヒナタの表情は晴れない。
「ただ、全員ともあの家を調べに行く直前から先の記憶がすっぽり抜け落ちているんだ。家に近付いたと思ったら、気づいたら病院のベッドの上だった、と」
怪事件そのものだが、シラベは頷いてやることしか出来ない。記憶が数日消えるのがなんだ。自分たちは存在そのものが別世界に十日近く飛んでいたのだ。その黒幕がしでかした事を考えれば、迂闊に近寄った人間の記憶を飛ばす仕掛けを用意していても不思議ではない。
地下で監禁させていた、というのは一体何を企んでいたのか。おそらくその企みに費やされてしまった側の人間の状態を問う。
「ホームレスの方はどうよ」
シラベが促すと、ヒナタの眉がわずかに沈んだ。
「生きてはいる。心臓も動いているし息もしている。だが、人格のようなものがまるごと無くなっているような、赤子よりもなお手前というか。何をしても返ってこない」
ヒナタはそこから医者から聞いたという所見を続けた。脳の機能がどうの、何を司る領域がどうのと、専門的な単語がいくつも並んだがシラベには半分も理解できず、手に負えないことだと諦めて細かいところは聞き流す。
「よく分かんねえけど、要は廃人になっちまったって事だろ」
「うん。専門家でも匙を投げる類のものらしい。私が出来るのはその状態を悪くさせない程度だ」
淡々とした口振りは冷たくすらあった。おそらくヒナタにとって興味が無い人間へのデフォルトがこれなのだろう。だが、自らが雇ったでもない殆ど見ず知らずの人間でも状態を悪くさせない程度には面倒を見ると言っているところは義理堅いというのか、貴族的とでもいうのだろうか。
それについて触れるのは面白くないので、黙ってコーヒーを飲んだ。
「あとそれ関係だと、肝心の家主周りか。お前のことだから、そっちも耳に入ってるんだろ」
どこに伝手を持っているのか知らないが、この女の情報網は妙なところまで根を伸ばしている。それを期待してシラベが水を向けると、ヒナタは小さく肩をすくめた。
「新谷エダハは相変わらず行方不明、ということになっているよ。新作の連載も無期限の休載扱い。もっとも、版元にとっては惜しい看板だ。作画を別の漫画家に挿げ替えて、連載そのものは再開させる動きもあるそうだ。しばらくはネットの好事家を騒がせるだろうが……まあ、本気で捜す者がいるとは思えないね」
「捜さないって、そうなのか? 会社の方から出せるもんじゃねえの。捜索願だか失踪届とか」
人ひとりが消えて探されないということがどうにも信じられないシラベに、ヒナタはくすりと笑って首を振る。
「失踪届はそういうのじゃないよ。家庭裁判所に申し立てて、行方知れずの人間を法律上は死んだことにする手続きだ。相続なんかを進めるためのもので、人を捜すための届けじゃない。君が言う捜索願、正式に言うなら行方不明者届が、警察に出すいわゆる人探しの届け出となる」
「へー」
「で、その行方不明者届だが。出せるのは親族か、君の言うように雇用主が主なところだ。ところが漫画家というのはたいてい編集部と雇用関係を結んでいない。個人事業主への業務委託という体裁が一般的だ」
「つまり編集部は雇い主じゃねえから、おいそれとは出せねえわけだ」
「関係者であると証明出来ればいいから、友人なんかが出すよりは目があるだろうけどね。そこから進展するかは、事件性の有無に関わってくるんじゃないかな。私も専門じゃないから確かなことは言えないけど」
「事件性って、殺人とかそういう」
ヒナタは小さく頷いた。
「失踪と一口に言っても、単に原稿を落として逃げ出しただけ、なんてことも十分考えられる。きちんと事件の匂いでも立たない限り、警察だってそうそう本腰は入れてくれないものだよ」
そうは言うものの、とシラベは考える。ヒナタたちが調査と称してずかずかと乗り込み、後始末と称して何人も人を運び出し、挙句には異世界から戻った自分たちまでがあそこからしれっと出てきている。叩かれれば埃がたっぷりと出てきそうだ。
「真面目に調べられたらだいぶマズい気がするんだが」
「ふふ。確かに、怪しいところならいくらでもあるね」
ヒナタは悪びれた様子もなく微笑む。
「でも心配いらないよ。そのあたりは色々と手を回してごまかしてある。君らの生活に影響はさせないよ」
「怖」
「君とミトラが関わることだからね。私だって手を尽くしているさ」
一体どういう、何を尽くしているのか気になるシラベだったが、覗き込んでも面白い事にはならなそうなので追及は諦めた。
「私としては、ご本人が降臨遊ばせるほうが怖いのだがね」
ヒナタの警戒する言い方に、シラベは現実へ帰還する前の事を思い出した。あの黒い空間で出会った少年について、ヒナタ側で何があったのかを聞いてみればさすがに察しはつく。あれが新谷エダハだったのだ。
「あれから大穴の腹からあの子が出てきた様子は無いんだね」
「俺が見てる限りじゃ無いな」
ヒナタの念押しにシラベが頷く。いつも通り飯はがっつき人に乗っかり気ままに過ごす大穴に異常はない。
「だが、猫に戻ってからそこらへの散歩は自由にさせているんだろう? 大丈夫かい」
「あいつを元の姿のまま置いといてライフドレインされまくる方が厄介だよ」
言いながら、シラベは念のためにと自分が打った手を思い返す。
シラベは帰還してから、大穴に二つのものを呑ませた。一つはソロモン王の壺。もう一つは猫変化のカードだ。
猫変化のカードを再び呑ませたのは、何も大穴にまた猫の姿でいてほしかったからというだけの理由ではない。あのカードの効果は対象の特殊能力のテキストを全て消し去り、ステータスを一律で1/1にしてしまうというものだ。
つまり、人型の大穴が披露したというとんでも能力の数々を、無理やり封じておけるのではないかと期待している。中に何がいようと、大穴自身がただの猫なら悪用も出来るはずがない。
もっとも、この効果のほどは正直なところ怪しい。猫の姿になっても大穴の食欲は底なしのままだし、どこからともなく物を取り出す謎のポケットは健在だ。そもそも、たまに布団の中で人型に戻っているあたり、テキストの消去とやらが完全に効いているとは到底思えない。
それでも、少なくとも猫形態の大穴からあのライフドレインを食らった覚えは一度もない。多少は効いている。そう信じておく程度には、シラベもあのカードに望みを託していた。
「気休めみたいなもんだけど、それでも何もしないよりはマシだ」
シラベは溜め息を一つ吐き、すっかりぬるくなったコーヒーを揺らす。
「……俺さ。一応、新谷エダハの漫画は好きだったんだよなぁ」
ぽつりと、零すように言った。
店に置いてあるエインヘリヤル・クロニクルの漫画は、連載当時からシラベも読んでいた。ファンの評価は分かれる代物だが、対戦シーンの確かな熱量には子供の頃のシラベはそれなりに夢中になっていた。
「サインがもらえなくて残念だったかな」
「いや、そういうのはもらわなくてもいいけどよ」
ヒナタが冗談めかして言うが、シラベは首を振った。色紙だサインだといったものに執着はない。そもそも本人に会えたところで、あの仏頂面の少年に何かをねだれる雰囲気でもなかった。
「なんつーか、漫画家先生っていうと珍しいっつうか、ちょっと雲の上の人って感じがしてたんだよ。あんなところで会うとは思ってなかったから。遅れてきた感動的なものを味わってる」
ヒナタからの情報ではだいぶろくでもない企てをしていたようだが、そこはそれ。昔から知っていた人であり、夢のある職業の人間とまみえていたのに気付かなかったのはちょっとばかし惜しい。
「憧れていたのかい」
「ん、んん。憧れ……どうなんだろうな。いや、そういうんじゃないけど……」
表現が難しい感情がシラベの中で渦巻く。子供の頃読んでいた漫画、その作者。自分が少なからず影響を受けた作品を手掛けた人というのは、きわめて近く限りなく遠い何かを感じさせた。
どうにか言語化しようと苦心していると、ふとヒナタが珍しく不満げな顔をしていることに気づいた。
「どうした」
シラベが声をかけると、ヒナタは唇をわずかに尖らせる。
「別に。……漫画家を直に見るのが珍しい、というのは確かにそうなんだろうけどね」
ヒナタはカップに視線を落としたまま、ぼそりと続けた。
「社長という肩書も、それなりに珍しいとは思うけどね」
その拗ねたような口振りに、シラベは思わず噴き出しそうになった。
いつも自信満々で何を言われても王子様面で受け流すこの女が、妙な箔付けで張り合おうとしている。あまりにらしくない光景がおかしくて、シラベの喉が鳴ってしまう。
「な、何がおかしい」
「いや、そりゃ笑うだろ。お前がそういうこと言うなんて思わなかった」
ヒナタも自分で似合わないことを言っている自覚はあるらしい。ほんのりと頬を赤らめ、ばつが悪そうに目を逸らしている。その様子がいつもの余裕綽々とした亜修利ヒナタからまたかけ離れていて、シラベの笑いを誘った。
ひとしきり笑ってから、シラベは口元を緩めたまま言い添える。
「まあ確かに、今時だと漫画ってのも色々やり方があるしな。珍しいってのはちょっと言い方が違ったかもしれねえ」
「だろう」
「でもよ。ベンチャー企業の社長なんかも世の中には割といるぜ。だから社長の肩書も、そこまで珍しくはねえ気がするけどな」
からかうように言ってやると、ヒナタはむっと頬を膨らませた。
「ふん。デヴァローカ・コーポレーションの年商を超えられる会社の社長が、そこらにごろごろいてたまるものか」
拗ねた挙句に格の話を持ち出してきたあたり、よほどプライドに障る部分らしい。シラベはまた笑いを噛み殺す。
「おや。社長がどうと聞こえましたが」
その時だった。穏やかな男の声が、横合いから二人の会話に滑り込んできた。
「もしかして、私の話をしておられましたか?」
びくり、とシラベとヒナタの肩が揃って跳ねた。噂をすれば影とはよく言ったものだ。声のした方へシラベが顔を向ける。
そこに立っていたのは、仕立ての良いスーツに身を包んだ長身の男だった。手入れの行き届いた黒髪を後ろへ流しており、整った顔立ちはシラベが見ても造りが良いと感じる。だがその目がどことなく瞳孔が開いている気がして憐憫の情と共に生理的な嫌悪感を煽る。
月山シジマ。総合不動産会社、エデンパクトの代表取締役。今日この場で会う約束をしていた、当の相手その人だった。