月山の姿を認めた途端、ヒナタの動きは素早かった。席を立ったかと思うとつかつかとテーブルを回り込み、そうして二人掛けの席に座るシラベのすぐ隣にぴたりと腰を落ち着けた。
「おい、何してんだよ。ガラでもねえ」
「仕方ないじゃないか。人が変わって以来の月山社長はどうも苦手なんだ」
シラベが小声で抗議するが、ヒナタも声を潜めて弱々しく返してくる。誰の前でも泰然と構えているはずのこの女が、今は妙に心細げな仕草をしていた。テーブルの陰に隠れた手がシラベの服の裾をつまんでいる。
その素振りを目にしても、月山は気を悪くする様子を一切見せなかった。鷹揚に微笑みながら、二人の対面の席へとゆったり腰を下ろす。
「お揃いでお待ちいただいて恐縮です。本日はご足労いただき、ありがとうございます」
お手本のように礼を払う月山を前にして、シラベもつられて頭を下げる。
「急なお願いにもかかわらず、お時間を頂戴して恐縮です。いやはや、亜修利社長は良いお店をご存知だ。こうも落ち着ける場所ですと、話をするにも助かりますね」
当たり障りのない世間話が、そつなく口をついて出る。押し付けがましさも、こちらを値踏みするような色も無い。ただ場を和ませるためだけの、如才ない社交辞令だった。
シラベの記憶の中での月山は、かつて大穴の結界の中で話した慇懃無礼かつ薄ら気持ち悪い印象が強い。その後にカルメリエルの手で誅されたのは目の前で見ていたとはいえ、今の月山にはかつての様子が綺麗さっぱり消え失せている。
害にしかならなそうだった男がまともになったのは間違いなく良いことだ。だがこうして別人のようになった姿を改めて目の当たりにすると、カルメリエルのお陰と言っていいのかどうか分からない安心と後ろめたさがシラベの胸の中で同居する。
「こちらこそ、本日はよろしくお願いします、月山社長」
そう応じるヒナタは、どうにか営業用の顔を取り繕っている。ヒナタにはカルメリエルの手によって何かされたという事実すら伝えていない。気味悪さもひとしおだろう。
「さて。亜修利社長のご提案は素晴らしいものでしたが、やはり状況は刻々と変わり行くもの。我々の方でも行った調査も加味しつつ、計画を練り直しております。もちろん正式な場は設けさせていただきますが、本日はお伝えしていた通りに事前のヒアリングを行いたいと思いまして」
月山が本日の目的へと話をシフトさせた。かねてから計画を進めている、ボトムレスピットにほど近い
「前回お示しした保存区画を、もう少し現実に即した形へ広げようと考えております。歴史ある町並みをただ切り取って残すのではなく、新しい区画と地続きに賑わいを繋げていく。その方が街全体としても末永く根付くでしょうから」
月山が資料を広げ、よどみなく説明を重ねていく。その物腰はあくまで柔らかく、言葉の端々まで配慮が行き届いていた。かつて本人の口から聞かされた、ヒナタの身体をどうにかして再び性欲を得ようとしていた陰湿さは、その物言いのどこを探しても見当たらない。
「私どもの理屈ばかり並べても始まりません。押江さんが勤めておられるあの店は、あの界隈で長く続いているでしょう。開発の手が及ばない側から見て、率直なところどう映るか。ぜひ聞かせていただきたいのです」
この話し合いにおいて、ボトムレスピットは開発範囲からぎりぎり外れることになった店舗なので直接的な関わりはない。だが影響の及ぶ範囲なのは間違いなく、近隣店舗としてどのような不安、期待、その他諸々の意見を提示する一例として同席させられている。言うまでもなく不必要な存在だが、月山との一対一を嫌がったヒナタが悪い。
「まぁ、古馴染みなので周囲の雰囲気は知ってますけどね」
断りを入れた上で、シラベは現場の人間として当たり障りのない範囲の意見を述べていく。店主であるミトラに無断で約束事などは出来ないが、そこに住むものとしての肌感覚による言葉なら出せなくはない。
なにより、あの店があの場所に残れること自体は当然悪い話ではないのだから、周囲が変わってもよりよく残せるきっかけになるなら話すくらいは安いものだ。
月山はシラベから聞き出した話の一つ一つに丁寧に頷き、メモを取っていった。
「本日は、貴重なお時間をありがとうございました」
会談は一時間ほどで滞りなく終わった。月山が再び折り目正しく礼を述べる。ヒナタが詰めていた息を吐き出したのがシラベの体にも伝わってくる。その肩から目に見えて力が抜けていた。
ちょうどその時だった。テーブルの上に置かれていたヒナタのスマートフォンが、ぴこんと軽い通知音を立てた。
「あ、すみません」
「いえいえ、お気になさらず」
ヒナタが慌てて画面に手を伸ばす。月山は穏やかに笑って、それから画面をちらと見て言った。
「おや。エリューズニルですか」
ヒナタの手元に表示されていたのは、エインヘリヤル・クロニクル〈エリューズニル〉──あのアプリが、ゲーム内で受け取れる本日分のリワードを知らせる通知だった。
「私もやっているんですよ。どこでもいつでも手軽にカードゲームが出来るなんていい時代だ」
ほら、と月山が自分のスマートフォンを取り出し、こちらへ画面を向けてくる。
社長サマのくせにずいぶんフランクだな、と内心でそう茶化そうとしたが、フランクを通り過ぎている実例が隣にいたことを思い出す。咳ばらいを一つしてシラベは差し出された画面を覗き込み、そして素直に驚いた。
「おお、アルヴまで上げてんスか」
「ええ。お恥ずかしながら、なかなかここから上に上がるのが難しいですが」
「いやいや、たいしたもんで」
つい砕けた口調になってしまったシラベに、月山は嬉しそうに笑う。
画面に映っていたのはいわゆるプロフィール画面。そこにはレート戦のランクを示す表示もあるが、位置するのは
人格改変が行われた後でカードに対する思い入れがあるものなのかと思っていたが、むしろ雑念が消えて素直に楽しんでいるのだろうか。あの一連の騒動のせいで出足を完全に挫かれたシラベやミトラたちは未だそこへ辿り着くより手前、カードを掻き集めるためにデイリークエストを進めることで四苦八苦しているというのに。
「ちなみに何使ってんですか、デッキ」
「四属コントロールですね。立ち上がりはやや遅いですが、最序盤さえ捌ければ封殺出来ますので」
「あー金満デッキだ。レアカード揃えられるならやっぱり多色のが強いんだよなぁ。自分は烈火アグロ握ってますけど、雑魚狩りは出来ても一定以上には通じないんスよね」
「相手側からすると意外と苦しい時もあるものですよ。打消しの切り時を見極めないと総崩れになってしまいますが、相手が基本構築からちょっとでも外れていると警戒範囲が広くなって大変で」
「確かに。分からん殺しを期待して『
「そういうずらしに惑わされないでいないとランク上げは厳しいですね」
気づけばシラベは身を乗り出していた。相手が誰であれカードの話となれば肩書も何も関係ない。月山もまたデッキについて語れるのが嬉しいのか饒舌になっている。二人がしばし環境の話に花を咲かせる横で、ヒナタだけが居心地悪そうにコーヒーを飲み続けていた。
「ああ、そういえば」
ひとしきり語った月山が、ふと思い出したようにスマホをしまいながら続ける。
「エリューズニルの噂についてご存知ですか」
「噂?」
「ええ。エリューズニルをプレイしていると、時々、召喚した生命体が画面から飛び出して見えるとかなんとか。亜修利社長のところのディーヴァ・アリーナでもないのに、変ですよね」
咄嗟の話にシラベの口が固まってしまった。触れ合っていたヒナタの脚がぴくりと動いたことを感じる。
「中にはゲームの中に入り込んでしまった者がいる、なんてものも。ふふ、そういう荒唐無稽な話が人はみんな好きなんでしょうねぇ」
月山は心底のんびりとした口振りで笑っている。ただの都市伝説以下の妄言。思春期の子供が見るような与太話。そう受け取って一緒に笑い飛ばせたならどれだけ楽だったろう。
だがシラベもヒナタも、嫌というほどそれらに関して身をもって知ってしまっている。
「……ま、まさかねぇ」
「ええ、ええ。まさか、そんな」
二人の口から漏れたのは、申し合わせたように乾いた笑いだけだった。
*
喫茶店を出ると、夕暮れにはまだ早い橙色の光が石畳を染めていた。
月山は最後まで丁寧な所作を忘れず、駅とは反対の方向へ去っていった。それを見送ってから、シラベとヒナタは並んで歩き出す。
歩き出してすぐ、ヒナタがシラベの腕に身を寄せてきた。腕を絡みつかせて半ば体重を預けるようにして歩くせいで、豊かな胸が惜しげもなく押し当てられている。
普段であれば有名人がべたべた引っ付くなと一言釘を刺すところだが、今日は黙って受け入れた。気疲れしているのはシラベとて同じである。
「疲れたな」
無言でこくりとヒナタが頷く。声を出すのも億劫らしい。その様子がいつになく素直なように見えてシラベも調子が狂う。
しばらく、二人分の足音だけが石畳に響く。
「まさか、俺らみたいな被害が他でも出てるんじゃねえだろうな」
噂話として聞かされたせいで頭をもたげた不安を、シラベは口にした。あのろくでなしの精霊が一体だけとは限らないし、あれが利用出来たのなら別の精霊が同様にゲームをキーにしてしでかしているのかもと想像出来てしまう。あの噂が一つでも本物なら。
「ああ、そっちはどうでもいいよ」
ヒナタの言葉が、シラベの不安を無遠慮に蹴り飛ばした。
「どうでもいいって、お前」
「私が疲れたのは月山社長との対面だけだ。あの真人間っぷりはどうにもぞわぞわする」
シラベは横目で見やる。こちらを慮って話題を切り替えようとしている、という風には見られない。
「別に義憤しろとは言わねえけど、なんか無いのかよ」
ヒナタに道徳心を説いたところで意味が薄いのは分かっている。それでも、現実にろくでもない兆しがあるかもと聞いてもするりと流してしまうのは、拍子抜けと言えばいいのか。
「なにも。ああ、でも君たちは心配だよ。一度攫われたわけだから、二度目があるかもしれない。やっぱりまた店に監視カメラを仕掛けておいていいかい?」
「ふざけろ。俺らの心配するんだったら、他の心配をしろって」
「他って、どこまで?」
問いを突き返され、シラベは言葉が詰まる。別にそこまで議論したい話題でも無かったのだ。ろくでもない精霊が他にもいるかもな、怖いな、程度で終わるはずだった話が、どうしてヒナタにここまで引っ掛からないのか。
「これからも攫われる奴がいるかもしれねえだろ。犠牲者が出てるかもってのを俺らしか知らないのをなんとも思わねえのかよ」
「思わないね」
穏やかにヒナタは断言した。
一片の逡巡もない。声を荒げるでも目を逸らすでもない、晴れた空を見上げて天気を述べるような、そういう自然さで言い切ってみせた。
「……お前」
ふざけているのかと、言えもしない言葉を探しあぐねる内に語尾が溶ける。目の前の女は冷酷と言う訳ではない。残酷を気取っているわけでもない。
「たまに、マジで怖えな」
言葉を選ぶ気にもなれず、シラベは正直な感想を漏らす。するとヒナタが絡めていた腕をほどき、くるりとシラベの正面に回り込む。
そうして、両腕をシラベの首へと回してきた。ぐ、と体重が掛けられて、とっさにシラベは傾いだ彼女の腰を支えてやっていた。
「忘れたのかい、シラベ」
囁く声。
「私は私が好きだ。私を構成しているものが好きだ」
吐息が、唇に掛かる距離。
「そこに関わらないものなんて、どうでもいいに決まっているじゃないか」
言葉を失ったシラベの唇が塞がれる。
どこか慣れて、忘れてしまっていたのかもしれない。亜修利ヒナタの関心の針は、自分の決めた円の外側には本当に微塵も振れないのだ。
ヒナタを拒否することはシラベには出来ない。シラベだって分かっている。自分の範囲より外のことに関して気を揉むなんて馬鹿らしい。深くなっていく口づけは、シラベのそんな考えを肯定しているかのようだ。
シラベに出来たのは、ヒナタの腰へそっと手を添えてやることくらいだった。
ようやく唇が離れると、ヒナタは至近距離で熱の籠った目で見つめてくる。
「ねえ、シラベ。……この近くに、ゆっくり休憩できるいいところがあるんだけど」
「調子に乗るな」
耳元へ吹き込まれた誘い文句ごとヒナタの腕をほどいて最寄り駅へと歩きだす。
背後からと楽しげな笑い声と、弾んだ足音がシラベを追いかけてきた。