えびせんを一枚囓って、レヴェローズは至福の吐息を漏らした。
平日の昼過ぎ。ボトムレスピットの店内に客の姿は一つもない。シラベとミトラ、カルメリエルの三人は連れ立って買い出しに出ており、ミーシャは二階で勉強中。つまり今この売り場を預かっているのは、カウンター内の丸椅子に陣取ったレヴェローズただ一人であった。
(店番とは存外、悪くない任務だな)
誰に憚ることもなく、自らの小遣いで購った菓子を貪れる。塩気と海老の香ばしさが口の中で砕けるたび、勤労というものの尊さが噛みしめられるというものだ。今の私は店番という立派な勤務中なのだから、それを慰撫するために物資を消費して何が悪い。
カウンターの端には蓋の開いた白箱が三つ載っている。安売り用のストレージカードの詰まった箱だ。出がけにシラベから、帰るまでに弾ごとに仕分けをするように申し付けられている。
レジの脇には銀色の小さな鍵が一本。ショーケースの鍵だ。これも出がけ、ミトラが値札を差し替えたあと置いていったものだ。定位置に戻しておくよう言われた気もする。
どちらもまだいい。日は高く、敵影はなく、補給線は万全。三人で買い出しに行ったのであれば、ついでに行楽でもしてきっと長くなることだろう。菓子を食べ終えてから取り掛かっても釣りが来る。この間まで指揮官たる様を見せつけていたレヴェローズの計画に狂いなどあろうはずがなかった。
「んなん」
そんな至福を裂く鳴き声が、レヴェローズの耳を打つ。
いつの間に上ってきたのか、カウンターの上に黒猫が座っていた。星屑を散らした瞳がレヴェローズを――正確には、その手の中の袋をじっと見上げている。桃色の鼻先がひくひくと蠢いていた。
「大穴か。言っておくが、やらんぞ」
レヴェローズは袋を胸元へ抱え込んだ。
「これは私の小遣いで買った、私だけのえびせんだ。日頃あれだけ喰らっておいて、私の兵糧にまで手を伸ばすでない」
「なぁん」
大穴は聞いているのかいないのか、前脚を伸ばしてレヴェローズの豊かな胸をちょい、ちょいと叩いてくる。爪は立てていない、絶妙な力加減のおねだりである。
ふむ、とレヴェローズは一枚のえびせんを摘み上げた。
「そうまでねだるなら仕方あるまい。ほれ」
鼻先へ差し出してやる。大穴の首が伸び、口が開いた――その寸前、レヴェローズはひょいと手を引き、えびせんを自分の口へ放り込んだ。
「ふはは、甘いわ。戦場で餌をちらつかせる者をまず疑え。基本中の基本だぞ」
「んんん」
大穴の尻尾が、ぱたりと一度カウンターを打った。それでも懲りずに寄ってくるので、レヴェローズはもう一度差し出してやり、今度は鼻先が触れる寸前で掬い上げるように掠め取って食べた。ひげがそよいだ分だけ、先ほどより際どい駆け引きだった。
「二度も同じ手に掛かる方が悪い。戦とは騙し合い。この私から学べたことを誇るがいい」
うむうむ、と一人で頷いて、レヴェローズは講評を締め括った。
大穴はもうレヴェローズを叩かなかった。カウンターの上にきちんと前脚を揃えて座り直し、瞳孔のようなものが細くなる。耳が僅かに後ろへ倒れ、尻尾の先だけがゆら、ゆら、と振り子のように揺れていた。
(ふ、諦めたか)
勝利の余韻とともに次の一枚へ手を伸ばしたレヴェローズは、だから気付くのが遅れた。
大穴が音もなく立ち上がり、カウンターの端――ストレージの白箱の横に移動していたことに。
黒い後ろ脚が、箱の側面にそっと掛けられる。
「……ん? おい、待て」
大穴はレヴェローズを見た。目を合わせたまま、ちょい、と箱を押した。箱が滑り、縁から僅かにはみ出す。ちょい。ちょい。ちょい――
「待て。待て待て待て、それは駄目だ! それだけは」
ちょい。その致命的な一押しで、箱が宙を躍った。上に乗っていただけの蓋は空中で外れ、詰め込まれていた数百枚が派手な音を立てて床へぶちまけられる。
「貴様ぁ! なんという狼藉だ!」
レヴェローズは丸椅子を蹴って床に膝をついた。カードの海である。しかもスリーブにも入っていない裸のカードだ。踏めば汚れ掃けば傷む。一枚一枚、指の腹で摘んで箱へ戻していくしかない。
「ええい、安いとはいえカードはカードだぞ。カードに罪はないだろうに……む、おお? 『鉄脚の従者』ではないか。ストレージにいたのかお前」
拾いながら旧知のカードに再会したりもしつつ、レヴェローズはせっせと手を動かした。途中で指に菓子の脂が付いていることに気が付いて拭き取りながらも、その動きは迅速だった。
よく集中した働きだったせいか、それが背後でかさりと音を立てるまで注意を払えていなかった。
振り向く。カウンター下の丸椅子、その上に置いてきた袋に、黒い頭が突っ込まれていた。
「あーーっ!!」
レヴェローズは手の中のカードを取り落として飛びかかった。指先が黒い毛並みに触れる寸前、大穴は袋の口をくわえたままひょいと真上に跳ね、レヴェローズの頭を踏み台にしてカウンターの上へ着地した。
「返せ! それは私の……あっ、こら!」
大穴は袋をカウンターに置くと、その上へ、腹からゆっくりと覆いかぶさった。
黒い腹に、袋が沈んでいく。包装が潰れる音がしたのも一瞬で、端から見えていた切れ端すらも不可思議に縮むかのように消えていく。
ひと呼吸の後、大穴の下にはもう何もなかった。。
「なんんんる」
満足げに喉が鳴る。
「貴様ぁ……! 食うにしても袋から出せ! いや食うな! 半分は明日の分だったのだぞ……!」
わなわなと震える拳を振り上げ、レヴェローズは怒鳴りつけ――ふと、止まった。
大穴が覆いかぶさっている、その場所。レジの脇。何か引っかかる。
(……そこには確か、袋の他にも何か置いていなかったか)
銀色の、小さな。
「お、大穴よ。ちょっとどいてみせよ」
大穴はしばらく腹ばいのまま尻尾を揺らしていたが、やがて興味を失ったのか、とてとてとカウンターの上を歩いて場所を空けた。
何もない。拭き清められたようにゴミ一つないカウンターがそこにあるだけだ。
レヴェローズは屈み込み、カウンターの下を覗いた。レジの裏に手を差し入れた。散らばったカードの間を、今度はさっきの倍の速さで掻き分けた。
やはり無い。ショーケースの鍵が、どこにも無い。
「……大穴」
声が掠れた。
「いま、えびせんと一緒に、鍵も飲まなかったか? 銀色の、ちいさな、店の大事な鍵だ」
「なぁん」
大穴は前脚を舐め、顔を洗い始めた。身に覚えがないと言わんばかり顔である。だがこの店で物体が忽然と消える理由など一つしかない。
「それはまずいぞ! 菓子とは訳が違う! 一刻も早く吐き出せ、さあ!」
レヴェローズが両手を広げて迫ると、大穴はひらりとカウンターを飛び降り、対戦スペースの長机の下へするりと潜り込んだ。
「待たんか!」
追う。机の脚の林を挟んで右へ回れば左へ、左へ回れば右へ。しゃがんで手を伸ばせば、届かぬ距離を保ったまま毛づくろいを始める始末だ。
(落ち着け。私は軍を率いた女だぞ。猫一匹に後れを取ってどうする)
レヴェローズは呼吸を整え、店内の地形を頭に描いた。退路は二つ、階段側と店奥。まず店奥の通路を椅子で塞ぎ、包囲を狭め、兵糧で釣り出して……兵糧はもう奴の腹の中だった。誘引の手が既に断たれている。忌々しい。
ならば正攻法だ。何、時間はまだある。契約者たちが戻るまでに鍵を取り戻し、ついでにストレージも完璧に仕上げておけばよいのだ。そうすれば帰宅した契約者は言うだろう。さすがはレヴェローズ、店を任せて正解だった、お前は店の宝だ、と。頭を撫でられ、なんなら今夜のローテーションにも融通が利くやもしれん。そうなれば仕方がない。非常に仕方がない。
「ふ、ふふ。よし来た。私は運がいいのだ」
「ふしゃっ」
妄想で緩んだ手をあっさり掻い潜り、大穴はショーケースと棚の隙間――猫の頭ほどしかない幅を、液体のように抜けていった。挙句、積み上がった商品の段ボールの上へ音もなく駆け上がる。五段は積んである塔のてっぺんで、一箱も揺らさずに丸くなった。重さというものはどこへ行ったのか。
「貴様、卑怯だぞ! 条理を守れ条理を!」
階段の方から、ぱたぱたと足音が降りてきたのはその時だった。
「あの、レヴェローズ様? すごい音がしましたけど、何かありましたか?」
ノートを片手にしたミーシャが、階段の途中から店内を覗き込んでいる。
レヴェローズは跳ねるように背筋を伸ばした。段ボールの塔の上では大穴が置物と化している。尻尾を前脚に巻き付け上体を起こした、わざとらしいまでに非の打ち所のない招き猫であった。
「な、なんでもないぞ! うむ、なんでもない!」
「でも、ばさばさーって……」
「そ、掃除の一環だ! 私流のな!」
「掃除……」
ミーシャは床に散ったカードと、仁王立ちのレヴェローズとを見比べて頭の上に疑問符を浮かべている。純真な瞳が痛い。この娘にだけは、菓子欲しさの小競り合いの果てに店の鍵を紛失したなどと知られるわけにはいかない。末妹だった自分にせっかく出来た、姉貴分としての威厳が木っ端微塵になる。
「気にせず勉学に励むがいい。ええと、あれだ、分からんところがあれば後で私が見てやるからな! 計算なら任せろ!」
「は、はい。ありがとうございます……?」
未だ疑問符を残しつつも、ミーシャは素直に二階へ戻っていった。足音が遠ざかるのを確かめて、レヴェローズは肩から息を吐く。
「……降りてこい、大穴。話し合おうではないか」
「んー」
招き猫は片目だけ開けて、また閉じた。
それからの攻防は、レヴェローズが後々まで思い出したくない惨憺たる有り様だった。椅子で組んだ柵は跳び越えられ、罠のつもりの空箱は素通りされ、決死の跳躍は空を切って床に膝をついた。完全に翻弄されてしまっている。
そうして息を切らして三度目の包囲網を練っていた頃、店の外から聞き覚えのある話し声が近付いてきた。
からん、と戸が開く。
帰ってきてしまった。
*
「ただいまー」
膨らんだエコバッグを提げたカルメリエルとミトラが、続いてトイレットペーパーの包みを担いだシラベが店に入ってくる。夏の外気を纏った三人は、それぞれに汗を光らせていた。
「う、うむ! 帰ったか、ご苦労だった!」
レヴェローズはカウンター前で姿勢を正し、胸を張って一同を出迎えた。
大丈夫だ、とレヴェローズは自分に言い聞かせる。床のカードは全て箱へ戻した。仕分けまでは手が回らなかったが、箱に入ってさえいれば一見して分からん。鍵についても同じこと。あれの出番が来なければ、露見のしようがないのだ。大穴の腹は底なしとはいえ、これまでも飲んだ物を気まぐれに出すことはあった。今夜、皆が寝静まった頃にでも説得すれば――
「あ、そうだ。レヴェ」
ミトラがエコバッグをカウンターに置くより先に、こちらへ顔を向けた。
「ショーケースの『ハルマゲドンの残り火』、出しといて。私のデッキに入れるから」
最短だった。
出番が来なければと祈った矢先の、よりにもよって帰宅の第一声である。レヴェローズの背中を夏とは別種の汗が伝った。
「おい、帰って早々にカードか」
「だって思いついたんだから仕方ないじゃない。ショーケース品だとすぐ出しておかないと売れちゃうかもだし」
「まず売り物を私物化するな。だいたいなんでハルマなんだよ、全除去なら普通に『ラグナロック』でいいじゃん、同型再販で安いし」
「ショーケースに置いてるアレは限定仕様の箔押しで7200円もするのよ。100円程度の全除去より、高いカードで盤面吹き飛ばすほうが気持ちいいでしょ」
夫婦漫談で少し繋がれた間でもレヴェローズには妙案は浮かばない。不自然にならないよう不自然な言葉を紡いでいくしかなかった。
「え、ええっと……だな。うむ、その……今でなければ駄目か?」
「? 鍵開けて出すだけでしょ。すぐじゃない」
「い、いやその、なんというか、カードにも心の準備というものがあってだな……」
「ないわよそんなもの」
ミトラの目がすっと据わっていく。その横で、荷物を下ろしたシラベが胡乱げにこちらを見た。
「おいポンコツ。なんで目が泳いでんだ」
「泳いでなどいない! 私の瞳はいつだって真っ直ぐ前だけを――」
言い切るより早く、黒い影がふわりと宙を舞った。
段ボールの塔から一足飛びに、大穴がシラベの肩へ着地したのだ。
「おわ。なんだお前、急に……ん?」
シラベが首を捻る。その鼻先で、大穴の尻尾がゆらりと持ち上がった。
ちり、と小さな音がした。
尻尾の先に、銀色の鍵が引っ掛かっていた。いつの間に、どこから取り出したのか。輪に通した先端をご丁寧にくるりと巻き、恭しく主へ捧げる格好である。
「鍵? ……お前これ、ショーケースの」
「にゃあ」
シラベは鍵を摘み取り、それからレヴェローズを見た。事情など何一つ話していないのに、全てを察したような顔だった。
「なんだレヴェローズ、鍵なくしてやがったのか」
「い、いや、それはだな」
「道理で挙動がおかしいと思った。大穴が見つけてくれなかったら大変だったぞ。……偉いぞ大穴、よく見つけた」
シラベは大穴の顎の下を指でくすぐってやる。大穴は目を細め、ごろごろと盛大に喉を鳴らす。世界で一番の忠猫の顔がそこにあった。
(見つけたも何も、飲んだ張本人だぞ、それは)
喉まで出かかった言葉を、レヴェローズは寸前で噛み殺す。
言ってしまえば、契約者はこう返してくるだろう。大穴が意味もなくそんな真似をするわけがない、お前が何かやったんだろう、と。そこから先は芋づる式に自分の行いが露呈しかねない。菓子に現を抜かして、箱が落ちるまで仕分けに指一本触れていなかったことや、ひょっとすれば大穴をからかったことまで。鍵紛失の汚名一つで留まっている今の方がおそらく傷は浅い。
これは撤退だ。敗走ではなく、戦略的撤退なのだ。
「……うむ。すまなかった。以後、気を付ける」
絞り出した声で頭を下げると、シラベはおうとだけ返してショーケースの鍵を開けた。取り出されたカードがミトラの手へ渡るとミトラはたちまち機嫌を直して、カウンターの隅でさっそくデッキケースを開き始めた。
シラベはついでのように、カウンターの白箱を覗き込んだ。詰め直しただけで秩序も何もないカードの山に、長いため息が落ちた。
「仕分け、まるで進んでねえじゃねえか」
「う……」
「ま、他の仕事ほっぽってでも先に鍵探そうとしたんなら、優先順位だけはマシか」
シラベは肩に大穴を乗せたまま袖をまくり、白箱を手前に引き寄せて仕分けを始めてしまった。慣れた指がカードを繰るたび、無秩序だった山が几帳面な列に姿を変えていく。
「あら」
いつの間にか隣に立っていたカルメリエルが手を伸ばして、レヴェローズの髪から何かを摘み取った。
二人の間でだけ見えるように掲げられたそれは、揚げ色も香ばしい菓子の欠片であった。
「…………」
「うふふ」
カルメリエルは何も言わなかった。糸目の微笑みのまま、欠片を懐紙にそっと包んだだけである。
カウンターの向こうでは、シラベの手際に合わせて大穴が肩の上で身じろぎし、頬をその耳元に擦り寄せている。撫でろの合図に、シラベは一瞬空けた手で相槌を打つかのように毛皮を擦っていた。
ごろごろと響く喉の音。薄目のまま、黒猫がこちらを一瞥した気がした。
菓子を奪い、鍵を飲み、あまつさえ手柄まで立てて甘えている。契約者の肩で我が物顔に喉を鳴らすその黒い横顔が、レヴェローズは今日ばかりは無性に悔しかった。