シラベの肩の上は大穴の指定席だった。朝の餌皿を空にしたら跳び乗り、そこから店を開けてカードを触り客と喋る一日を眺める。長らくそうしてきたし、これからもそうするつもりでいた。
「よし、降りろ。暑い」
ところが近頃は、乗って早々こうである。今日も開店の作業が一段落するなり、脇の下に手を差し込まれてカウンターへ下ろされてしまった。
「なーぅ」
「しょうがないだろ。クーラー入れてても真夏に毛皮を首に巻いてたら意味ねえんだよ」
シラベは襟元をつまんでぱたぱたと扇いでみせる。見れば首筋がうっすらと汗ばんでいた。人間は夏になると体から水を出す。それは知っているが、自分を下ろす理由になるというのは大穴には得心がいかない。今日はまだそれほど暑くないのだから、暑くなるまでは甘えさせて欲しい。
もちろん暑くなったら触って欲しくないのは大穴も同じだ。シラベが外から帰って来たときはよほどの事が無ければ避ける。しかしそれはそれ、状況次第で臨機応変に対応して欲しい。
「んなん」
「文句言うな。涼しくなったらまた乗せてやるから」
わしわしと頭を撫でられて交渉は打ち切られた。こういう次第で、この夏の大穴は散歩の時間が増えている。
涼んでいる時には熱い手で触ろうとして来るくせに、涼しい内には甘えさせてもらえない。ままならないという気持ちを猫の身に持て余しながら、大穴はカウンターから床へ降り階段を上る。今日の見回りは、まず二階からだった。
相部屋の戸は開け放してあった。ちゃぶ台を挟んで、ミーシャとカルメリエルが向かい合っている。首を振る扇風機が二人の間で紙の端をめくっては戻していた。
ミーシャは小さく膝を揃えて座り、鉛筆を握って紙と睨めっこしている。数字を書くなにかしらの勉強だ。向かいのカルメリエルはそれを見守りながら、手元では自分の本の頁を繰っていた。ミーシャが向き合っているものより何倍も厚い、『六法全書』と背に打たれた鈍器のような本である。あの女が何のためにそんなものを読んでいるのか大穴は知らないし興味もない。
大穴は音もなく部屋へ入ると、ミーシャの背後に回った。ひと跳びで背中に取り付き、肩を経由して銀色の頭のてっぺんまで登る。
「おっと。大穴さん、どうしました?」
ここへ来たばかりの頃のミーシャは、これをやるたびに妙な声を上げて鉛筆を転がしていたのが面白かったが、今は慣れたものだ。頭を微塵も揺らさず、鉛筆も止めずに聞いてくる。大穴は返事の代わりに前脚を折り畳み、頭の上で香箱を組んだ。
「ミーシャさん、すっかり慣れましたわね」
「はい。最初はびっくりしましたけど、大穴さん、ちゃんと軽くしてくれているみたいなので」
大穴は自分の重さをある程度は好きに出来る。乗り心地ならぬ、乗せ心地への気配りである。なお重ければ重いほど大穴は相手を実感できて好ましいため、シラベに対して軽くすることは基本無い。
扇風機の風が回ってくるたび、毛並みの表面を波立たせて通り過ぎていく。下からは鉛筆の走る音と、時折カルメリエルがアドバイスする声がする。静かで、風があり、ほどよく高く柔らかい。悪くない場所だった。
ただ、一つだけ不満があった。
撫でられないのである。ミーシャの手は鉛筆で塞がり、カルメリエルの手は鈍器で塞がっている。二人ともこの家では上等な撫で手なのに、勉強というやつはその手を長いこと使えなくするらしい。
しばらく粘ってみたが、状況の変わる気配はなかった。大穴はぴょんと畳へ降り、そのまま戸口へ向かう。
「あ、行ってらっしゃい」
ミーシャの声を尻尾の一振りで受け流して、大穴は廊下へ出た。
廊下の突き当たり、小さなバルコニーから物干し台へ上がる。
白いシーツが数枚、真夏の日を浴びて干されていた。床板もすでに温まり始めているが、午前のうちはまだ肉球で歩ける熱さだ。これが昼を過ぎると、猫の足では渡れない煉獄になってしまう。
誰もいないはずのその場所に、先客がいた。
物干し台の欄干に浅く腰掛けて、足をぶらつかせている女。手入れが大変そうな大仰な髪型の金髪に煌びやかなドレス。すぐ横のシーツは風にはためいているのに、その裾を一度も掠めない。
レディ・ローマ。この店に住んでいて、この店の誰にも見えない精霊である。彼女が見えているのは今のところ大穴だけだった。
大穴は欄干の下まで歩き、ひょいとその隣へ跳び乗った。
「あら。どうしたの、貴方」
レディは足を揺らしたまま、視線は通りへ向けている。大穴も並んで座り、同じ方を見た。商店街の屋根が日を照り返し、通りを行く人の頭がぽつぽつと流れていく。かき氷と書かれた旗が店先で揺れているのが見えた。あれはおいしい。今度シラベにねだろう。
レディの手が、大穴の背中に載せられる。
重さはなく、毛の一本も動かない。それでも猫の皮膚より深いところ――精霊としての大穴の芯のあたりを、ゆっくりと梳いていく感覚があった。それが、誰にも触れられない女の撫で方だった。
「貴方、すっかり猫の姿が馴染んでいるのね」
手つきはそのままに、レディが言う。
「店の皆に抱かれて、撫でられて、ご飯までもらって。……いいわねえ。私なんて見られもしないのに」
語尾が少し尖っているが、責めている風ではない。大穴は応じず、目を閉じて感覚だけの撫でに身を任せた。応じたところで大穴の言葉は慰めにならないし、撫でられている最中に動くのは損である。
どれほどそうしていたか。日が高くなるにつれ、足元がじわじわと主張を強めてきた。毛皮の内側にも熱がこもり始めている。
大穴は目を開け、欄干から降りた。てててと出入り口の方へ歩いてから一度だけ振り向く。
「にゃあ」
「はいはい。行ってらっしゃい」
レディはこちらを見ないまま、ひらひらと手を振った。その手つきが存外に柔らかかったので、大穴は満足して屋内へ戻った。
日射で溜め込んだ熱は、思ったよりしつこく毛皮の下に居座っていた。
こういう時にすることは決めてある。大穴が次に向かったのは、風呂場だった。
以前の大穴なら猫の体のままでは一人で水浴びが出来なかった。蛇口というものは、前脚で叩いても踏んでも回らないのだ。誰かの入浴に潜り込むしかなかった。
だが今は違う。浴室の床の真ん中に座り、大穴は少しだけ力んだ。
黒い毛並みが解けるように長くなり、輪郭が伸び上がっていく。前脚が腕に、後脚が折り畳んだ膝になり、漆黒の肌の上へ同じ色の長い髪が流れ落ちた。胸元が膨張していき、重量に従い柔らかく垂れた曲線を描く。
数秒もしない内に、浴室の床で少女がぺたんと座っている形になった。頭の上の三角の耳とお尻の尻尾はそのままだったが大穴は気にしない。便利なものが残っているだけである。
一度あのカードを吐き出して人の体というものを改めて思い出してから、こういうことが出来るようになった。腹の中でカードは今も猫になれ、猫になれと囁き続けている。人の形を保つのは、その声を押し返し続ける作業だ。ひどく疲れるので、長くは持たない。用は手早く済ませるに限る。
大穴は座ったまま手を伸ばし、カランを捻った。シャワーヘッドから冷たい水が噴き出し、そこに頭を突っ込む。
「ぷぁ、ん」
冷たい。気持ちがいい。日射の熱を吸った頭のてっぺんから、水が熱を拐って流れ落ちていく。
真っ黒い肌に水の膜が張り、胸へ、腕へ、背中へ、行き渡らせるように浴びせていく。蒸れている気がする谷間を開き尻尾の先まで浸して、大穴は満足の息を吐いた。ついでに喉も渇いていたので、降ってくる水へ口を開けてしばらく飲む。
(そういえば)
冷えていく頭で、大穴はふと考えた。
今日の暑さの元は、日の光と熱だ。そして自分は大抵のものを食べられる。ならば光や熱も『食べる』ことは出来ないのだろうか。出来るなら、この先どれだけ日向を歩いても暑くならないのではないか。
我ながら良い思いつきに思えた。猫の頭では回らない知恵が、人に戻ったせいかよく巡る。
大穴は掌を上へ向けた。浴室の小窓から差す光が濡れた掌に小さな日だまりを作っている。その光ごと、掌の上の温度を口ではなく体で食べてみた。
ふわりとした
そしてその味わった痕跡を残すように、掌の上がふっと翳った。いつの間にか黒い塊が出来ている。米粒よりも小さいのに、周りの水滴や光の方がそちらへわずかに撓んで見える、妙な塊だった。
試しにそれを舐めてみる。別においしくはない。というより味がしないし、腹に入る感覚がない。むしろ舐めた先から消えて行っている気がする。
大穴は塊をぺろりと腹の中へ仕舞い、この思いつきを忘れることにした。食べても食べた気がしないものなんて興味は無い。
その時、脱衣所の向こうから足音が近づいてきた。
「おーい、誰だ? 風呂の水出しっぱなしにしてんのは」
シラベの声だった。返事を待たず、浴室の戸が開けられる。
「水道代だってタダじゃ……」
声が止まった。
床に座り込み、頭からシャワーを浴びている真っ黒な裸の少女と、戸口に立ったシラベの目が合う。大穴は水の下から、きょとんと相棒を見上げた。
シラベは止まっていた。表情が抜け落ち、思考がどこかへ出かけている顔だった。呼吸を三つ、四つ数えるほどの間、浴室には水音だけが響く。
やがてシラベは無言で戸を閉めた。
それとほとんど同時に、限界が来た。押し返し続けていた囁きが腹の底から膨れ上がり、大穴の輪郭が縮んでいく。
髪が毛並みへ、腕が前脚へ、胸は縮む。あっという間に、床には濡れそぼった黒猫が一匹、座っているだけになった。
音もなく遂げた変化が終わった頃、戸が再び動く。今度はおそるおそる、細く隙間を開けていった。
隙間から覗いたシラベは猫の大穴を見つけると、見開いていた目でしばらく見つめた。それから口を開きかけ、言葉を探すように視線を泳がせ、結局、閉じた。
「……暑いんなら、店の方で涼めよ」
どうにか絞り出したのはそれだけだった。棚からタオルを一枚引き抜いたシラベは浴室へ入ってカランを締めると、ずぶ濡れの大穴をくるんで抱き上げた。
「ったく。水浴びした後どうするつもりだったんだ。風邪引くぞ」
濡れた毛皮をごしごしと拭かれる。タオル越しの手つきはいつも通りに雑で、いつも通りにあたたかかった。
「うにゃあ」
大穴はご機嫌に鳴いて、タオルの動きに身をゆだねる。短い散歩の締めくくりには上等すぎる場所だった。